第12話

文字数 2,473文字

 その日の夜、真紀の浮腫んだ足と、どす黒く変色した部分が蘇って眠れなかった。やはり、救急搬送後、治療を開始した時点がポイントだったのではないか。そこで守男が延命を拒否していれば、真紀はもう休めていた。
 手術をお願いしますといいながら、守男には諦めてしまっているところがあった。手術後の説明で意識が戻らないのなら、なし崩し的に引き伸ばすのはよくないので、決断しなければならない、と守男は言った。だが意識は戻っていた。それ以上状態がよくならなければ、ということなのだろう。だがそれならば、しゃべることもできないような状態で、さらに手術を受けることに意味はあるのか。どうせ一週間後に決断するというなら、手術など受けずに今眠らせてあげるべきではなかったのか。
 入院の際には、一週間をめどに連絡します、と言われていたらしい。守男はそのとき、意識がポイントになるという話をしたらしい。だが、今振り返ってよくわかるが、守男は、意識がポイントになるとさえ伝えておけば医師のほうから、戻らないのでここまでにしましょうと勧めてくれるものだと考えていたのではないか。
 だが、意識がないわけではないという意味で意識は戻っていた。守男が言いたかったのは、たとえば意識が体と連動して、手足を動かすことができないのなら、という意味なのだろうが、その状態にあるからといって医師が安楽死を勧めることはない。
 連絡を受けた守男は意識が戻ったのだろうと喜んだ。それは彼にとっては、意識と体が連動して、手足を動かすことができるということだ。そして、一般的な入院道具である着替えなどを私に持たせ、病院に向かったのだ。
 手術に同意した途端に会合は終わりを迎えた。守男は私に入院道具を渡すように言うが、いうまでもなく、まだそんなものが要る状態ではない。

 麻酔科医は手術の際の麻酔について説明を始めようとしたが、遮るように守男が切り出した。
「意識が戻っていないというと、どういう状態なのでしょうか? その状態で、手術を受けるということは、痛いのでしょうか?」
 次々にまくしたてる守男を麻酔科医は持て余している。実は意識は戻っていないわけではないが、それを説明し理解してもらうのは容易ではない。手術の際の痛みについては麻酔の効果と合わせ、説明してくれたが、ほかは彼が答えられるものではない。
「ぼくらは救急科の指示で麻酔をするだけなので、分からないんですよ。もしあれだったら、救急科で聞いていただければよいと思いますよ」
「聞いてよいんですか?」
「ええ、受付でいつでも言っていただければ、医師から回答があると思います」
 答えが聞きたかった私はしばらく黙っていたが、ようやく守男を押しとどめた。「これはここではなくて、あっちの先生に聞かないと」と守男が作ったメモを奪い取った。
 その日はオムツを補充することになっていたので、麻酔科を出た私たちは救急科の受付に向かった。
「いま看護師が降りてきますから」
 しばらく待っていると、看護師が降りてきてくれた。「一日に何枚使うのかお聞きし忘れたので」と、私は二パックのオムツを示した。
「あ、三四枚一日に使っていますね}
「そんなにでしたか」
「ええ、何度か替えなければならないので」
 と看護師は両手でオムツを替えるしぐさをする。
「これでよろしいでしょうか」
 と私は尋ねた。
 看護師はうなずき、「使わなくなったほうを持ち帰っていただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
 私はうなずく。
 当初預けていたオムツはパンツ式のものであり、足に傷がある真紀には、テープ式がふさわしいらしい。それで今日、テープ式を持ってきた。
 またしばらく待っていると、同じ看護師がほとんど未使用のパンツ式を持って戻ってきた。用を終え、戻ろうとする彼女を守男は捕まえ、
「どうなんでしょか、意識は戻っているんでしょうか。我々には何もわからないわけなんですよ」
 守男は左耳に補聴器を、右耳に集音器のイヤホンを着けているが、それでも聞こえづらいらしく、発声は自然と大声になる。実際は知らないが、その姿はひどく取り乱しているようにも、憤っているようにも映る。
「看護師として言えるのは、腕で払ったり、患部を触るとやはり嫌がるように顔を背けたり、そういう反応はあるということなんです」
「そうなんですか、反応があるんですか」
 守男の声がまた大きくなったように感じられた。「それで、われわれはそういうことが何もわからないものですから、こういうメモも持ってきてですね」
 と守男は看護士にメモを差し出す。「手術の時は痛いのか、酷じゃないのか。手術はどこでやるのか、我々は立ち会えるのか、そういうことを確認したいわけなんです」
 正対する看護師はまくしたてる守男にも毅然とした表情を崩さない。さっとメモに目を通し、
「お聞きになりたいのは、ここにあることですか。では医師から説明できるかどうか、確認してきます」
 再び上に上がり、戻ってきた看護師は、彼女が装着している透明のゴーグルがそう見せているのかもしれないが、やはり毅然とした表情は崩さずに、「では医師の〇〇から説明させていただきますので、もうしばらくここでお待ちください」
 看護師は守男にメモを返そうとしたが、
「われわれにはまったくわからんわけですよ、こういうことが」となおも守男は看護師の手に残ったままのメモを指して質問しようとする。
 守男の暴挙も何か答えを得る一手になるのではないかという計算から黙っていた私は、
「いま先生が来てくれるそうだから」
 とようやく止めに入った。

 センターを出る際、私は前向きな気持ちになっていた。もう無理なのではないか、もう無理なのではないかという疑念があるために、それを無理ならば無理とはっきりと確認したいのだ。可能性があるという話を聞くだけで、すっかり安心に傾いてしまう。戸口を出るとき、感染棟の扉がちょうど開いていて、先ほどの看護師の姿が見えた。彼女がこちらをそれとなくうかがう表情が、どこか心配そうに映ったのは気のせいだろうか。
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