第2話
文字数 1,823文字
「お亡くなりになって、救急車も呼ばんかったら何してたんやと言われるから、一日一回は毎朝新聞持って、見に行くようにしてるねん」
そうして、不完全ながらも二人の別居は成立した模様だった。今思えば、そう仕向けたのは真紀の生存本能だったのだろう。
またしばらくして、
「今な、モリに料理を教えてるねん。わたしが先に死んだら困ってしまうやろ」
あっけらかんと真紀が言う。そんな死の仮定には何と応えてよいのか戸惑ってしまう。
「四歳若いんやから、普通に考えたら大丈夫やろ」
「そうか? でも七十七で死ぬ、死ぬ言うからそれまではと思って、自分のしたいこと何にもせんと我慢してきたのに大嘘やってん。ピンピンしてるねん。わたしが先やったら、モリは何にもできひんから困るやろ」
「まあ普通に考えたら、真紀さんのほうが長生きなのだから、あんまり考えんでいいんとちゃうの」
「そうか?」
真紀の声は納得していない。もっとも私のほうも、特に確証があるわけでもなく、真紀を宥め、その場を凌いでいるに過ぎなかった。
真紀は週三回、守男に自分で夕食を作るように促し、コーチしているのだという。食材も、コープの宅配を縁側まで届けてもらう手筈を整えた。朝昼はトーストで簡単に済ませたり、調理のほとんど要らないものを使ったりもできる。
真紀は四七五に赴いて食事を作り、守男といっしょに食べたり、あるいは作るだけ作って、自分は八五六で別に食事をとったりということも続けていた。が、徐々に守男の自炊の比率を増やし、別居を完成に近づけようと画策したようだ。
ところが、真紀が体を壊してしまった。
「——そうせんな、わたし先死んでしもうたら困るやろ」
「四歳若いねんから、普通に考えたら後やろ」
「順番で言うたらそうか? でもわたし小さいころから体弱かったからな」
それは初耳だった。
「え? 健康優良児で表彰された言うてたやん」
「でもな、肌とか弱くてすぐに赤うなってたからな」
電話のたびに繰り返される冗談口のような仮定にも、どこか深刻の影が差した。
真紀は机に手をついて、一度伸び上がるような所作を挟んでからオフィスチェアに腰を下ろした。起きているときは守男が多くの時間そこに座り、ユーチューブを見たり、メールを作ったりしている椅子である。窓から差す陽光に目を窄めたと見えたが、実際はパソコンの画面を窺ったのだろう。
「もう真っ白やろ」
真紀は頭頂に片手を載せた。
「でもこの奥のほうはな、黒いのがどんどん出てくるねん」
と真紀は一転柔らかな笑顔を見せた。「だから白いのを一日二十本抜くようにしてるねん」
「いや、髪は抜いたらあかんよ」
毛穴によくないというのが通説であるはずだ。しかし真紀は、
「ええねん。ここまで——」
と顎のあたりで指を横にし、「ここまで長くなったのはもうみんな白いねん。それはもう役目は終えた、頑張ったねえと言って抜いてあげるねん。そしたら奥の黒いのが伸びて来れるやろ」
「いや、やっぱり抜いたら毛穴に悪いで」
「そうか? でももう真っ白やろ。白いの抜いたらほら——」
と真紀は髪の束を捲り、「奥の黒いのが見えるようになるやろ」
「髪が薄うなってしまううやん。薄くなるのやったら、白いほうがずっとええんちゃうの?」
「わたし髪多過ぎるから大丈夫やわ」
もうどこまで行っても平行線だった。真紀が白髪をとても気にしていることはよくわかった。
「最近な」真紀が意を決したように切り出した。「ずっとこっちの四七五で寝てるねん。大丈夫やから、あっちで寝るって言うのだけど、モリはあかんと言うんよ」
真紀の通院に守男が付き添うことにしていて、バス停に近い四五七で待っていたが、真紀は忘れてしまったのか、時間になっても来なかった。それで、真紀も四五七で寝ることにしたと私は守男からは聞いていた。
「大声で怒鳴られると、頭の奥がこうキュッてなるねん」
真紀は顔をしかめ、「心が休まらへんわあ」
「ずっといっしょの部屋にいるわけではないんやろ?」
と私は当たり障りのなさそうなことを聞いた。
「あかんねん。何か気配があるねん」
守男について語りながら、真紀が何か禍々しい生霊でも見たような目をすることに私は少なからず驚いた。いささか大仰ではないのかという感想が浮かぶのも禁じ得なかった。しかしそれは、まさに切実かつ合理的な訴えであったのだと今はわかる。その訴えが私に響かないことに真紀がどれだけ絶望したかと考えると胸が痛む。
そうして、不完全ながらも二人の別居は成立した模様だった。今思えば、そう仕向けたのは真紀の生存本能だったのだろう。
またしばらくして、
「今な、モリに料理を教えてるねん。わたしが先に死んだら困ってしまうやろ」
あっけらかんと真紀が言う。そんな死の仮定には何と応えてよいのか戸惑ってしまう。
「四歳若いんやから、普通に考えたら大丈夫やろ」
「そうか? でも七十七で死ぬ、死ぬ言うからそれまではと思って、自分のしたいこと何にもせんと我慢してきたのに大嘘やってん。ピンピンしてるねん。わたしが先やったら、モリは何にもできひんから困るやろ」
「まあ普通に考えたら、真紀さんのほうが長生きなのだから、あんまり考えんでいいんとちゃうの」
「そうか?」
真紀の声は納得していない。もっとも私のほうも、特に確証があるわけでもなく、真紀を宥め、その場を凌いでいるに過ぎなかった。
真紀は週三回、守男に自分で夕食を作るように促し、コーチしているのだという。食材も、コープの宅配を縁側まで届けてもらう手筈を整えた。朝昼はトーストで簡単に済ませたり、調理のほとんど要らないものを使ったりもできる。
真紀は四七五に赴いて食事を作り、守男といっしょに食べたり、あるいは作るだけ作って、自分は八五六で別に食事をとったりということも続けていた。が、徐々に守男の自炊の比率を増やし、別居を完成に近づけようと画策したようだ。
ところが、真紀が体を壊してしまった。
「——そうせんな、わたし先死んでしもうたら困るやろ」
「四歳若いねんから、普通に考えたら後やろ」
「順番で言うたらそうか? でもわたし小さいころから体弱かったからな」
それは初耳だった。
「え? 健康優良児で表彰された言うてたやん」
「でもな、肌とか弱くてすぐに赤うなってたからな」
電話のたびに繰り返される冗談口のような仮定にも、どこか深刻の影が差した。
真紀は机に手をついて、一度伸び上がるような所作を挟んでからオフィスチェアに腰を下ろした。起きているときは守男が多くの時間そこに座り、ユーチューブを見たり、メールを作ったりしている椅子である。窓から差す陽光に目を窄めたと見えたが、実際はパソコンの画面を窺ったのだろう。
「もう真っ白やろ」
真紀は頭頂に片手を載せた。
「でもこの奥のほうはな、黒いのがどんどん出てくるねん」
と真紀は一転柔らかな笑顔を見せた。「だから白いのを一日二十本抜くようにしてるねん」
「いや、髪は抜いたらあかんよ」
毛穴によくないというのが通説であるはずだ。しかし真紀は、
「ええねん。ここまで——」
と顎のあたりで指を横にし、「ここまで長くなったのはもうみんな白いねん。それはもう役目は終えた、頑張ったねえと言って抜いてあげるねん。そしたら奥の黒いのが伸びて来れるやろ」
「いや、やっぱり抜いたら毛穴に悪いで」
「そうか? でももう真っ白やろ。白いの抜いたらほら——」
と真紀は髪の束を捲り、「奥の黒いのが見えるようになるやろ」
「髪が薄うなってしまううやん。薄くなるのやったら、白いほうがずっとええんちゃうの?」
「わたし髪多過ぎるから大丈夫やわ」
もうどこまで行っても平行線だった。真紀が白髪をとても気にしていることはよくわかった。
「最近な」真紀が意を決したように切り出した。「ずっとこっちの四七五で寝てるねん。大丈夫やから、あっちで寝るって言うのだけど、モリはあかんと言うんよ」
真紀の通院に守男が付き添うことにしていて、バス停に近い四五七で待っていたが、真紀は忘れてしまったのか、時間になっても来なかった。それで、真紀も四五七で寝ることにしたと私は守男からは聞いていた。
「大声で怒鳴られると、頭の奥がこうキュッてなるねん」
真紀は顔をしかめ、「心が休まらへんわあ」
「ずっといっしょの部屋にいるわけではないんやろ?」
と私は当たり障りのなさそうなことを聞いた。
「あかんねん。何か気配があるねん」
守男について語りながら、真紀が何か禍々しい生霊でも見たような目をすることに私は少なからず驚いた。いささか大仰ではないのかという感想が浮かぶのも禁じ得なかった。しかしそれは、まさに切実かつ合理的な訴えであったのだと今はわかる。その訴えが私に響かないことに真紀がどれだけ絶望したかと考えると胸が痛む。