第4話

文字数 1,790文字

 それにしても、四七五にいると頭がキュッとしぼむような気がするという真紀の訴えは気懸りだった。真紀は夏に一度、もの忘れ外来に赴き、認知症であるというよりは、加齢に伴う自然な症状であろうといった、あまりすっきりとはしない診断を受けていた。頭の奥がキュッとなるなどと言われると、もの忘れのような症状もそれが原因でないのかと疑ってしまう。つまり、守男が何かにつけ怒鳴りつけるものだから、真紀にもの忘れのような症状が現れ、進行しているのではないかと私には感ぜられた。
 守男には、周囲が思いもよらないところで突然声を荒げる傾向があった。相手が対等の立場であれば応酬するのかもしれないが、関係が非対称であれば、あるいは相手が必要を感じないか、諦めれば話はそこで終わりになる。
 私が中学生のとき、食卓でデビッド・ボウイの話が出た。
「ああ、あのスーツを着てる人だよね」
 と私が何気なく言うと、守男が、
「デビッド・ボウイもスーツを着ない日があるだろう、毎日スーツなわけがあるか」
 と突然声を荒げた。からかい口調ではなく、文字通りの叱責である。私の見識のなさに我慢がならない様子だった。私は呆気にとられた。
 なるほど私のコメントは、直前に見た雑誌の写真に引きずられたもので、筋が通っているとはいえない。しかし、叱責の必要はあるだろうか。所詮は未熟な中学生の戯言である。穏やかに指摘するか、いっそのこと聞き流すことはできないものか。
 真紀がそのときどんな顔をしたかは見なかったが、きっと居心地は悪かっただろう。場の空気が一気に冷めてしまった。
 真紀とスカイプで話しているときに、駐在さんが画面に割り込んできたこともあった。チャイムが鳴ったのであろう。守男が玄関先で誰かの応対をしたようだった。しばらくして、
「今、ちょうどスカイプしているところだから、どうぞ確かめてください」
 そんな守男の急き立てるような、どこか投げ遣りな声に押されて、駐在さんが画面に姿を現した。
 駐在さんが私の前に座ったとき、まず始めたのは訪問の経緯についてのおどおど、びくびくしながらのしどろもどろの説明だった。玄関先で守男に相当押し立てられたのだとしか見えなかった。おそらく——、
「一体何をしに来たのだ、監視なのか」
「いや、ですからですね……」
「何の権利があって監視するのだ、基本的人権の侵害じゃないか」
「いや、そうではなくてですね……」
 といった遣り取りが果てなく続くかのように駐在さんには思われた。そんなところではないだろうか。
 そうして、緊急連絡先を聞いておきたいという話が駐在さんから出たところで、
「それほど言うのなら、今ちょうどスカイプで話しているところだから、どうぞ確認すればいい」
 守男としては、興奮もあり、憤りにまかせてそんな捨て台詞にも似た言葉を吐いたのではないか。やましいことは何もないのだから証明してやる、と啖呵を切る気持にもなっていただろう。
 そんな流れに飲み込まれて、駐在さんが家にまで上がってきたわけだ。
 問題なのは、市民は平常時、公僕に対して強い物言いもできるが、逆はできないということだ。ならば市民は敢えて、相手が話しやすい雰囲気を作るべきではないか。大声で、好戦的に市民が話せば、公僕は同じように返すことは許されないわけだから、結果、言いたかったことの半分も言えずに引き下がるということにもなりかねない。すると市民は、受けられたはずのサービスを受けられないかもしれないではないか。守男がそうなっても自業自得だが——いやむしろ、彼には狙ってそうしている節もあるが、それで真紀にまでサービスが届かないのはまずいだろう。
 いずれにせよ、真紀に頭がキュッとしぼむような気がするといわせるような状況を、放っておくわけにはいかなかった。私はデビッド・ボウイのスーツや、しどろもどろの駐在さんの話をして、大声で怒鳴るのを止すよう守男に提案した。すると守男は、
「よくない男だ。そのとき何か別のことを考えていて苛立っていたのかもしれない。そんな男の言動が真紀や藍一郎だけでなく友人等他者を傷つけてきたのだと思う」と認めた。私は期待したが、
「反省するには時すでに遅しで、もう何もかもすべて手遅れだ」
 そう守男は続けた。要するに改善するのは億劫であるのだろう。いやそもそも、自分が間違っているとは微塵も思っていない。
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