第5章 マイナスのストローク

文字数 1,978文字

第5章 マイナスのストローク
 父子の対立が和解に至る過程を少し詳しく見てみよう。理由は記述されていないが、そのメカニズムは読み取ることができよう。

 主人公は、『和解』において、次のような想像上の祖父の進言を通じて父と和解を決意する。

 特別の場合の他は墓の前ではお辞儀をしない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じた頃のある理屈からきた習慣だったが、墓の前で只ぶらぶら歩いているうちに、他の場所ではとうていそれ程は出来ない近さと明瞭さで、その墓の下の人が自分の心理に蘇って来る。
 自分は祖父の墓の前を少時く歩いていた。その内祖父が自分の心理に蘇って来た。その祖父に対して自分には「今日祖母に会いに行きたいと思うが」という相談するような気持が浮んだ。「会いに行ったらよかろう」と直ぐその祖父が答えた。自分の想像が祖父にそう答えさしたと云うにしては余りに明らかに、余りに自然に、直ぐそれが浮んだ。それは夢の中で出会う人のように客観性を持っていて、自分には如何にも生きていた時の祖父らしかった。自分は祖父のその簡単な言葉の裡に年寄った祖母に対する祖父の愛撫をさえ感じたような気がした。そしてその時自分の心は不快から明らかに父を非難していたにもかかわらず同じ自分の心に蘇っている祖父には少しも父を非難する調子はなかった。

 『和解』によると、父と子の対立から和解に至る過程は次のようなものである。主人公は、以前から対立していた父と最初の子の死に対する処遇をめぐってさらに関係が悪化する。だが、二番目の子が生まれ、彼女に祖母の名前をつけたころから、父親と和解する。父と和解するのは、子に祖母の名前をつけたことによって、自身が父の前の世代へと戻ったからである。これにより主人公の世界か父は追放される。祖母が自分の子供であるならば、父は存在しない。そうなれば、自分を「不快」にする対象が消失するのだから、対立もなくなり、「昭和的気分」が訪れる。対立解消の理由は『和解』に記されていないが、この後の『暗夜行路』の父親否認──主人公が母と祖父の子の設定──を手がかりにすると、こういった認知的操作がこの事態をもたらしたと思われる。

 こうした設定は『老人』にも認められる。老人の子どもは、実は、妻と他の男との間に生まれものであり、彼の家庭は「偽り」である。この老人はり自分が死んだ後に残される家庭を思い描くことによって家庭の偽りを解消する。今に拘れば確かに「偽り」であるが、老人が死を迎えたときこの家庭は真の家庭となる。誰かがこの世界から消えれば、丸く収まるというわけだ。「老年の自立というものは、社会人から自由人への離陸。(略)老人として若者に向けてできる唯一のことは、老いのはなやぎによって、加齢への夢を与えることだと思う」(森毅『老人の自然』)。

 『或る朝』において、祖母が主人公を「あまのじゃく」となじる。志賀の「不快」は、父への反抗は「愛情表現」であると『或る男・その姉の死』で述べられているように、むしろ好きなものに対して強く発せられると考えられる。それは志賀の殺意が直接的に父に向かうことがないこと、すなわち作一度も父殺しを書いていないことから明らかである。殺されるのはつねに自分の家族ではなく、主人公の従属者たち、すなわち『濁った頭』の駆け落ちした女中であり、『剃刀』の客である。「不快」そのものが、逆に、志賀に現実感を与えている。『暗夜行路』の前身で、父に抵抗して自分自身の気持ちを貫徹するという話だった『時任謙作』が放棄されたのは、主人公が父に対して貫徹する積極的な何ものを持っていないということを意味している。志賀はあたかも対立することが目的であるかのように父に反発する。彼の「不快」は典型的なマイナスのストロークである。自分の存在が認められていないと感じられて「不快」になり、相手の関心を引こうと否定的な行動をとる。志賀には自分の存在が確かではない。だから、マイナスのストロークを執拗に続けて確認している。無視されるくらいなら顰蹙を買うことを選ぶというわけだ。

 なお、マイナスのストロークへの対処は幼児を始め子どもの教育における課題である。否定的ストロークは子どもが大人の関心を引くためにも行うとされ、その際、それを注意すると、狙い通りとして繰り返すことになってしまう。望ましい対処法はその行為には触れず、別の点で評価することである。授業中に突然立ち歩きを始める児童がいたら、「ちょうどよかった、このプリントをみんなに配ってください」や「この問題が解けたの?よくできたね。じゃあ、次の問題もやってみようか」といった具合の対応をとる。そうすると、思惑が外れるので、マイナスのストロークをしないようになる。悪名は無名に勝るとしても、美名には負ける。
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