第2章 小説の達人

文字数 1,924文字

第2章 小説の達人
 この志賀直哉は、日本近代文学史において、「小説の神様」と呼ばれている。しかし、近代が「神の死」を背景にしているとすれば、これは明らかに背理である。近代を理解しないで、文学を書いてきた証だ。「私の考えでは、人生は愚女神の戯れにすぎないということ以外の意味は、そこにないと思いますね。……『愚かな者は月のように変わり、賢い者は太陽のように変わることがない』……要するに、人間は愚であって、『賢者』の名は神のみのものだという意味でしょう。月は人間の本性を表わしており、あらゆる光の根源である太陽は、神を表わしているからです」(エラスムス『愚神礼讃』)。

 西洋ではヘンリー・ジェイムズが文学における「小説の達人(The Master)」と呼ばれている。彼の作品は心理主義小説であり、モダニズム文学の先駆でもある。彼がそう呼ばれる理由を理解するには、近代小説がいかに近代の理念に基づいているかを知る必要がある。

 前近代の政治の目的は徳の実践である。ところが、欧州で宗教戦争が勃発、各勢力は自身の道徳の正しさに基づいて殺し合いを繰り返す。そこで、17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を平和の実現へ変更する。平和でなければ、よい生き方もできない。これが近代の理論的始まりである。

 ホッブズは、そのため、政治を公、信仰を私の領域にあり、相互に干渉してはならないと政教分離を主張する。共同体が認める規範に従うのではなく、個人が価値観を自由に選択できる。政治は道徳と別なのだから、それに依拠して戦争など起こらない。この政教分離は公私の区別へと拡張する。

 ホッブズは自説を展開する際、自然状態と社会契約を想定する。これは近代が前近代と断絶した人為的社会だという意味である。文学者を含め少なからずの日本の知識人は社会契約の有無を論拠に西洋と日本の違いを主張するが、それは西洋にも現実にはない。近代社会の人為性を理解していないだけである。そういう知識人は、耳度島のごとく、近代に関する基礎的理論を体系的に承知しないまま、近代を批判したり、西洋と違う日本の独自性を主張したりする。近代は理論によって基礎づけられている。それを理解した上で、近代の事象を論じるべきだ。

 ホッブズを踏まえて、ジョン・ロックはこの個人が集まって社会を形成すると説く。この社会の近代人は自由で平等、自立した個人である。こうした社会がうまく機能するために、政府が必要となる。前近代は共同体が個人より先にある。義務の対価として権利が個人に共同体から賦与されている。しかし、近代は個人主義である。政府が社会のために働くとして個人はその権利の一部を信託する。政府は権利の対価として個人や社会に義務を負う。

 近代の徴税はこのジョン・ロックの思想に基づく課税協賛説を論拠にしている。前近代と違い、近代は権力が税を人々から取り立てているのではない。政府の活動に社会が協賛して納税するとしている。もちろん、実際には政府は人々に納税をビむとしている。しかし、課税協賛説が根拠であるから、納税者は税の使い道が適切であるかどうかを政府に問いただすことができる。近代の仕組みはこのように理論によって基礎づけられている。近代を批判するためには、それを十分に理解していなければならない。

 前近代では、共同体の規範に即した生き方をすることが幸福である。けれども、近代は故人に価値観お選択が委ねられている。一見バラバラのようであるが、いずれの価値観も幸福を目指すことに違いはない。それは満足として同じなのだから、計算することができる。社会全体として幸福の総量が増え、不幸の総量が減ることが望ましい。政府はこれが実現するように働くことで社会のためになる。これがジェレミー・ベンサムの言う「最大多数の最大幸福」である。

 近代小説はこうした近代社会を舞台にして、近代人を登場人物にする。この近代人は等身大の人物である。こういった凡人が文学作品の主人公たり得るのは、その内面にドラマがあるからだ。価値観の選択が個人に委ねられている以上、内面は人それぞれである。そこにドラマがあり、同じく近代人である読者も感情移入する。

 ヘンリー・ジェイムズの小説は事件や出来事が特に目立って怒らない。けれども、主人公をめぐる心理描写に溢れ、内面のドラマが展開されている。それは近代小説の理論に忠実な作品である。しかも、彼は肝心の場面を描かない。出来事がピークを迎えそうになると、小津安二郎のように、その前で書き進めることをやめる。以後のことは読者の想像力に任せている。こうした創作術により、彼は「ザ・マスター」と評されている。
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