第五章

文字数 7,256文字

 木曜日、伊東昭裕は探偵助手から依頼人という本来の立場に戻った。
 ……そのはずだった。
 どうしてまた事務所奥のキッチンにて食材とにらめっこしているのかは、彼にもわからない。しかもお昼から。
「ぐむう、どうしろというのでしょう」
 呟く。昭裕は難問にぶち当たっていた。
 四畳半探偵事務所の冷蔵庫にはナスしかなかったのである。しかも一つだけ。
 悩みに悩み抜く。
 結局、使われた様子のほとんど無い中華鍋で薄切りにしたナスと干涸らびた唐辛子を軽く炒め、砂糖と料理酒(味醂は無かった)と醤油で味付けし、更に水溶き片栗粉でとろみをつけたものをご飯にかけてやった。
 ナス丼の完成である。
 ナスがのっているのだからそう呼んで差し支えないはずだ。そう自分に言い聞かせる。ちなみに昭裕自身はすでに昼食を済ませていた。事務所所長、跡切清子が完食しさえすれば問題ないのである。
 リアル不思議系でなおかつダメな人。それが今現在、昭裕が跡切に抱いている印象だ。
 昨晩、跡切がやったことについてはとりあえず聞かないことにした。筑紫明日飛も跡切清子も地球上の常識すべてをひっくり返すようなことができる。今はそれだけで十分だ。それに、詳細な説明を受けたとしてもおそらく理解できないだろう。
「いやはや、君の手料理は愛がこもっていておいしいよ」
 丼鉢はあっという間に空っぽになっていた。今回は応接室が食堂代わりだ。
「……たぶん憐憫ですけどね、こもってるの。ああ、そうだった――」
 昭裕はふと思い出す。昨晩のことについて、一つ尋ねることがあったのだ。
「これ、何でしょうか?」
 昭裕はポケットから出したものを応接室のテーブルの上に置いた。
 大きさは小指の爪ぐらいで、鏃のような形をした黒色の物体である。
「これ、どこで見つけたの?」
 テーブルを挟んで座る跡切は息を呑んでから、昭裕の顔をまじまじと見つめた。
「昨日、……あの扉の中から飛び出てきました。気付きませんでした?」
「……気付かなかった。ふむ、少年は目がいいんだね。悪いけどもらうよ、これ。こいつはアタシの落とし物なんだ」
 後半は断固とした口調だった。跡切はその鏃をすでにしっかりと手の内にしまい込んでいる。大切なものらしい。昭裕は所有権の放棄を決めた。
「いいですよ、別に。でも何ですか、それ?」
 芸術的価値も金銭的価値もなさそうな鏃もどきだったが、確かな存在感だけはあった。昭裕が拾ったのもそのためだ。
「ひとことで言えば、とある品の一部分。それ以上の説明がほしい場合は三日間ほど膝をつき合わせる必要があるけど。つきあう?」
「遠慮します」
 ひどくプライベートな話になりそうだった。昭裕は追求を止める。
「アタシに対する礼として、あの女が寄越したのかもね。住人を増やしてやったから」
「あの女って、筑紫さんが昔出会った人ですよね」
 思わず聞いてしまう。
「ええ、そうよ。あの扉の向こうに住んでるらしいわ。少年も名前ぐらいは知ってるかもね」
「俺がですか?」
 予想外の返答だった。はて、誰であろうか。
「知りたい?」「知りたいですね」
 好奇心に負ける。
「じゃ、ヒントあげよう。世の中を暗くするのが趣味みたい。ま、今はやってること違っちゃってるけど」
「えーと、不景気?」
「少年、ボケるねえ。もうギブアップかな。正解は『天照大神』さ」
「はあ……って、あの天照大神!? 岩戸に隠れて世界を真っ暗にしちゃった神様の」
 一瞬、時が止まったかと感じた。脳が理解を拒否したのだ。それほどに昭裕は驚愕した。
「うん、その天照大神。地球初のヒッキーだね。ま、百パーセント自称でしょうけどね。世の中、現に明るいし。なんか格好いいからそう言ってるだけじゃない? ただの詐欺師よ、えせゴッド」
「はあ」(状況、飛びすぎだ)
 昭裕は自分自身をむりやり納得させた。もう世の中訳が分からないことだらけである。
「さて、少年。同じ様な雨の夢ばかりを見てるのは変わらずかい?」
 話は唐突に本題に入った。
「はい。今日もそうでした」
 昭裕の声から自然と覇気がなくなった。
「夢とはいえ、毎夜雨に打たれるってのはやっぱりあんまり気分がよろしくないかな?」
 跡切は首をコキリと鳴らす。
「うーん。医者の領分、アタシの領分、どっちなんだろね? 少年はどっちだと思ってるの」
「わかりませんよ、そんなこと」
「おう、即答だねえ。そうだ。筑紫さんみたいにぱっとなにか確たるものを見せられない? 瞬間移動とか、当たり馬券の予知とか。そしたらさ、一気にアタシの領分だよ」
 跡切は両手を横に大きく広げた。
「できませんから。そもそも当たり馬券の予知って。もろに私情入ってますよね?」
「うふふ、いいわよ競馬は。最高に燃える! 宝くじと違って税金がかかるのが欠点だけど。……まあ、冗談はともかく――」
 跡切は咳払いを一つしてから、話を続ける。
「少年は、夢の中でひたすらじっとしてるわけよね。陰々滅々としながら」
「……だいたいそんな感じですが、夢の内容を全て完璧に覚えてるわけじゃないですし、そのときの精神状態のことまで言及されても返答に困ります」
「けどさ、基本はネクラ少年なんでしょ! 間違いないよね! 引き籠もり状態だよね! ドリーミング・ニートだよね!」
 昭裕のこめかみがピクリと動く。
「あの、笑顔で人を罵倒しないでくれます? 少なくとも俺はニートじゃないです。学生です。それなりに勉強してますから」
「だったらさ、歩いてみなさいよ」
 跡切は机上にて左手をトットコトットコと動かして見せた。
「歩く?」
「そう、歩くの。夢の中を。大人しく座ってても、どうせ不快だったり痛い目にあったりしてるわけでしょう。そんな状況で何もしないってのはマゾよ。マゾヒストだわ。やーい、マゾ、マゾ、オカマゾぉ。あっ、オカマゾは女装趣味のマゾヒストって意味の造語ね」
 オカマーゾマゾと口ずさみながら、跡切が阿波踊りっぽいものを座ったままで始めた。あからさまに愚弄されているのだ。さすがに昭裕も堪忍袋の緒が切れる。勢いよく立ち上がり、跡切を指さす。
「だぁ、もう。やればいいんでしょ、やれば! やりますよ。だから、変な造語作らんでください」
 やっと踊りが止まる。
「うん。ようやくやる気が出たね。朋香くんが言ってたよ。少年は自分の問題に関してはひどく怠惰でのろまで愚図だって。だからね、発破をちょっとかけてみたのさ」
 昭裕の体から怒気が抜けた。パイプ椅子に崩れるように座ってしまう。自分の周りにはたくましく生きる女性しかいないのか。
「……怠惰でのろまで愚図、か。ひどい言い種だ……」
 昭裕は軽く笑った。もちろん朋香への怒りはない。はとこが自分を心配してくれていることは重々承知だ。
「あぁ、うん。そこらへんはうろ覚え。実際はもっと色々言ってたからねえ。覚えきれなかったよ。あれだけ罵詈雑言を並べられるというのは一種の才能だねえ」
「……」本当に心配されているのだろうか。
「ま、犬も歩けば棒に当たるってやつよ。少年も歩けば新しい発見をするかもよ。さあさあ頑張って寝てくれたまえ」
「……はいはい。夜になったら頑張って寝てみますよ」
「あら午睡もいいものよ。シエスタよ、シエスタ」
「スペイン語で言っても一緒ですから。……夜でいいです、夜で」
 たぶん必要なこととはいえ、貴重な夏休みを昼寝三昧で終わらせたくはなかった。学生だけの特権である長い夏休みは今年を入れてもあと四回しかない。
「だったら出かけましょうか」
「どこへです?」
「うーん、どこにしようかしら。そうだ、少年の下宿はネット使える? パソコンある?」
「まだないです。今年中には買うつもりですけどね。ネット関係はスマホか大学の情報処理室で今のところ済ましてます」
「じゃ、大学に行きましょう。ちょっと調べたいことがあるの」
「別にいいですけど」
 どうせ文芸部にあのデカ物を返さねばならない。けれど不思議に思う。
「事務所にパソコンはないので?」
「ないわよ。さほど必要としないもの。今はいるけどね」
「……そんなもんですか」
 確かにパソコンの姿はないが、現代に生きる探偵ならば必須アイテムではなかろうか。
 昭裕の怪訝な顔に対して、跡切が説明を始める。
「もちろん宣伝用ホームページくらいはアタシも持ってるわ。昔ネカフェにこもって作ったのがね。こう見えてもパソコン操作は得意なのよ。昔、家電量販店の展示品をいじり倒したから。でもね、探偵業務自体にはネット環境なんてさほど要らないものよ。ネットに流れてる情報ってのはみんなが労せずして手に入れられる情報じゃない。ウチではやってないけどさ、不倫調査も人捜しも、基本は足よ足。人海戦術なの。機械なんてのは携帯があれば十分ね、カメラも付いてるし。それにアタシの所は報告書も手書きなの。滅多に書かないけどさ」
「仕事が少ないからですね」
 思わず口が滑ってしまう。なにせ冷蔵庫にナス一つだ。
「失敬だねえ、少年」
 跡切は苦笑してから真顔になった。
「依頼人が望まない、もしくは必要としないからに決まってるじゃないか」
「あぁ、すいません。……確かにそうですね」
 昭裕はすぐに頷いた。跡切の言葉がすとんと胸に落ちたからだ。
 筑紫明日飛は結末の現場に立っていた。
 文字になど残さなくとも彼女は昨晩見た情景を一生忘れないことだろう。
(俺はどうなんだろうか)
 ――もし雨の夢がPTSD等に起因するものでないならば、自分も結末の現場を見ることになるのだろうか。
 昭裕は考え込んだ。
「……にゃにすんですかぁ」
 気付いたときには跡切の両手に頬を挟まれていた。表情筋が外部から強制的に歪められている。ひょっとこである。
「いやね、一人でシリアス顔してるからずるいなぁーと。所長をさしおいてさ。はい、考えるよりまず行動。大学に向けて出発進行よ!」
 解放され、昭裕の顔が元に戻る。
「俺、一応依頼人ですよ。跡切さん」
「うん、すっかり忘れてたよ。もう覚えられないかも」

「うわー、偉そうね。生意気だわ。パソコンがこんなにあるなんて」
 跡切は情報処理室に入るなりそう言い放つ。
「変なことで感心しないでください。部外者ってばれたら知らんぷりしますからね」
 昭裕は小声で忠告する。
 室内にはおよそ八十台のパソコンが整列していた。ちらほらと学生の姿がある。夏季休暇前ならば、もう少し利用者がいただろう。
「さてと」
 跡切はほかの学生から離れた席に座り、マウスを動かした。暗転していた画面が鮮やかなブルーになる。情報処理室の責任者の趣味なのか、少しクラシカルな画面だ。
「うっ。IDとパスワードがいるのね」
「当たり前です」
 昭裕は跡切の横から手を伸ばし、自分のIDとパスワードを入力した。
「跡切さんみたいなのが横行したら問題ですからね」
「アタシ褒められた?」
「安心してください。確実に褒めてないです」
「……男の子って、好きな女の子の悪口を言ったりするわよね?」
「どこに『女の子』がいるんです?」
「くう、いじわるだわ」
 跡切は小さく地団太を踏んだ。
「もういいわ。元助手くん、君がやんなさい」
 跡切は昭裕に席を譲った。
「それで何を調べるんです?」
 ブラウザを立ち上げながら昭裕は尋ねる。
「桜見台小学校、事故、キャンプ。このキーワードで」
「――わかりました」
 返事をするのには時間が要った。
 いつかはやらねばならぬこと。その時がついに来てしまったのだ。
「出たわね。適当に拾っていきましょうか」
 検索結果の第一ページ目のほとんどが昭裕の過去に関係している事柄だった。
 一呼吸置いてから、その一つをクリックする。
 最初に開いたのは、新聞社の過去記事を載せた個人ページだ。
『小学生多数死亡 キャンプ帰りに』
 見出しが躍っている。
 昭裕は記事を読み通した。初めて接する事故の概要。
 目を背け続けた事実がそこにあった。
 ――死者十六名、重傷者十四名の大惨事。
 運転手の突発的な病死を発端に、不幸に不幸が積み重なってしまった事故だった。
 個人情報保護のためか、誰がどの程度怪我を負ったのかまではわからない。ただ、乗車していた教師二名(担任と副担任)は重傷であったようだ。情報は思ったよりも少なかった。けれど、一つだけわかることがあった。
「……一人足りません」
「どういうこと?」
「……俺のクラスの児童数は二十九でした」
 昭裕を引き、教師二名とバスの運転手を足すのだから、乗員は三十一名でなければならない。十六足す十四は、三十。一人足りないのだ。
 次の検索結果を急ぎクリックする。最初の記事と同じようなことしか書かれていない。どんどんクリックしていくが新しい情報は得られない。
「ええい、くそっ」
 昭裕は誰へともなく罵り、汗ばんだ手をズボンに何度もこすりつけた。
「――アキくん、……始めたんだね」
 その時、聞き慣れた声がした。朋香がいつのまにか昭裕の背後に立っていた。
「トギさん、報告です。明日飛ちゃん、無事家に帰り着いたそうです」
「ええ、ありがと――」
「トモ姉。トモ姉は知ってる? 一人足らないんだ」
 昭裕は立ち上がり、二人のやりとりに割り込んだ。朋香の肩をきつく押さえ、脈絡のない問いかけをする。
 幸い、はとこはその問いの意味するところを正確にくみ取ってくれていた。
「うん、わたしはアキくんの知りたいことを教えてあげられると思う。だから、席替わって? それとちょっと痛い」
「……ごめん」
 昭裕の体からおもむろに力が抜け、腕がだらんとなる。
 朋香がURLを打ち込む。
 その先にあったのは、彼女が開設しているホームページだった。パスワードを入れなければ閲覧できないようにされていた。
 朋香の左右から跡切と昭裕が液晶ディスプレーを覗き込む。
「これは?」と跡切が問う。
「とある掲示板サイトのキャッシュです。アキくんがいつか事故のことを知りたいと思う日が来るかと思って。自分のサイトに残しておいたんです」
 そこには事故の状況や生徒及び教師の氏名などが書かれていた。乱暴でつたない表現や重複した内容などもあったが、先ほどまで昭裕が見ていた記事よりはるかに事細かだ。
 そして、ページの一部に名前が羅列されている箇所があった。記載数は三十一。ただし、先頭は運転手としか書き込まれておらず、後ろに×印がついている。
 同様に後ろに×印がつけられている名前は更に十五あった。
「書き込みのほとんどは事故の二日後に集中してるわね。全部、事実かしら?」
 跡切が朋香に尋ねる。
「わたしにはわかりません。わかるのは――」
 女性陣二人は昭裕の見解を静かに待つしかなかった。
 数分が過ぎる。
「……ウソじゃない、と思う」
 少し堅物だった担任の名前。対照的に優しかった副担任の名前。友人だった者の名前。まだあまり話したことのなかったクラスメートの名前。
 昭裕の記憶に刻み込まれている名とモニタの中の氏名は一致していた。
 昭裕はなおもサイトのキャッシュを読み続けていたが、不意にその視線が止まる。
『奇跡だぜ! グレート!! ふじみやりみ、無傷だってよ』
『さとみ、だっての。おまえ低学年からやり直し決定』
『あいつが生きてりゃ、文句ねえな。何も問題はなし』
『オマエ、それは言い過ぎだろ』
 品性は感じられなかったが、重要な書き込みがそこにあった。
「藤宮、理美」
 昭裕はポツリと呟く。
 五年一組の中心にいつもいた、リーダー格の女の子だ。
 可愛いという形容よりも綺麗という言葉が似合う子で、運動もできてかつ頭も良かった。
 彼女とあまり喋ったことのない昭裕だったが、それでも彼女の影響を受けていた。そんな存在だった。
「なるほど。数が合わない原因になってたのはその子ね」
「ですね」
 おそらく今までに何度も目を通してきていたのだろう。朋香は跡切の言葉に即座に同意してみせた。
「うん、悩みが一つ解決したね。けど問題はここからだ、少年。辛いかもしれないけれど、ちょっと質問させてちょうだい。生き残ったクラスメートの中に、心身に何か怪我以外の異常を生じさせてしまったような人を知ってるかい? 少年みたいにさ」
 低く抑えられていながらもしっかりと聞き取れる声で跡切が問う。
「……」昭裕は黙り込んだ。代わりに朋香が返答する。
「アキくんは事故後、程なく転校したんです。わたしが住んでた地域の小学校へ。その方が精神的に良いだろうってことで。マスコミも学校にたくさん押し寄せてましたし。なので、小学校を卒業するまではわたしの家にいたんです。中学からはおじさまおばさまの家に戻りましたけどね――」
「それと俺、中学の時はものすごく内にこもってたから、誰かと話をしたような記憶がほとんどありません」
「つまり事故に触れるような話題をしたことがないんだね」
「……すみません」
「いや謝らなくていいよ」
 跡切が昭裕の背中をパンパンと叩く。元気づけてくれているのだろうが、どこかオヤジ臭い仕種だ。
「ま、生き残りの名前がわかっただけでも収穫だわ。ネットもたまには役に立つね。ところでこれプリントアウトできる?」
「できますよー」
 朋香がマウスを操作する。
「んじゃ、ちょっと普通の探偵らしく調べ物してくる。少年はしっかり寝てちょうだいな。レッツスリープだ。ヤングマン」
「……」「……」
「な、なにかな。その古く傷んだ家具を見るような目は」
 印刷終了後、跡切は二人を残し情報処理室から足早に去っていった。
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