第二章
文字数 12,185文字
「アキくん、アキくん、アキくん、アキくん!」
眠りから覚めた昭裕が最初に目にしたのは、はとこの顔だった。こちらを覗き込んでいる。目が潤んでいた。心配げな表情をし、昭裕の肩を懸命に揺すっていた。
「――……?」
――なんでいるの? そう言いたかったが、舌がうまく回らない。声が出せない。
昭裕は下宿先であるワンルームマンションの、ベッドの中にいた。
「……良かった。起きた。心配した……、すっごく心配した」
唐突に朋香がぽろぽろと涙を落とし出す。胸をグーになった手でポカポカと叩かれる。
「ぉ、ぉ」
ようやくかすれた声が出る。昭裕は動揺していた。あの毒舌家のはとこがどうして泣いているのか。その理由が分からない。自分はただ寝ていただけだ。ベッドの上で一人あたふたとするが、
「ぅっ!」
強烈な尿意がすべての思考と感情を焦りに変換した。
(やばっ、漏れる!)
昭裕は急ぎトイレへとベッドから立ち上がった。……そのつもりだった。
(わっ、わっ、わっ)
視点が安定しない。揺れている。足がもつれているのだ。ひどく体が重い。倒れそうになったところをはとこが慌てて支えてくれる。
「ゎ、ぅ、ぃ」
「いぃか、ら! ちゃ、んっ!、とぉ! 立ってぇ」
朋香の細い腕がぷるぷると震えていた。
なんとか粗相することなく、昭裕は近くて遠くにあった楽園にたどり着く。いつもは立ちスタイルだが、今回は便座に腰掛けて小さい方の処理をする。身体のバランスを上手くとれないためだ。思わず見入ってしまうほどに濃い色の尿が出た。量は意外に少なかった。
(大丈夫かな、俺)
昭裕は自身の肉体に少し不安を覚えた。ゆっくりと便座から立つ。バランス感覚は戻ったようだが、口の中はカラカラだ。舌が良く動かないのも道理至極である。洗面台で何度もうがいをし、最後には水道水をそのまま飲んでしまう。普段はしない行為によって、ようやく口内がいつもの感じに近づく。
「お財布、貸してちょうだいな」
部屋に戻った途端、朋香がそう告げてくる。
「アキくん、ぜったいお腹ペコペコのはずだから、買い物に行ってきてあげる」
その指摘に昭裕は腹を押さえる。
「当たり、かも」
腹がひどく薄い。意識すると猛烈に空腹感がわいてきた。
「――でしょ」
財布を受け取った朋香がドアチェーンを外し、鍵を開け、外に出て行く。
「ふぅー」
昭裕はフローリングに座り込んで、ベッドに背中を預けた。色々と考えねばいけない気もするが、思考に費やす気力と体力が残っていない。
「ただいまー。外は地獄の暑さです。ビバ、クーラー。ここは天国ね」
はとこはすぐに戻ってきた。かなり汗をかいている。
壁掛け時計の針は十一時を回っている。室内は空調がそれなりに機能しており、暑くも寒くもないが、外の世界は夏真っ盛りのはずだ。
「あー、重かった」
朋香が持つビニール袋はパンパンにふくらんでいた。
「どんだけ買ってきましたか?」
げんなりしながら問う。
「三千円ぐらいかな~。だって、わたしも食べるもの」
平然と言われてしまう。
「この食いしん坊め」
袋からプリンやヨーグルト、カップラーメンに電子レンジで調理できるスパゲティ、それにサンドイッチがでてくる。手間暇かけずに食べられるものばかりだ。飲み物はスポーツ飲料。
自炊派の昭裕だが、今は非常にありがたい品々である。どれもこれも二つずつあるのは問題だけど……。
それらは瞬く間に二人の胃袋の中に消えた。ちなみにカップラーメンを昭裕は食さなかったが、不思議と無くなっていた。謎である。
「さて、アキくん」
食べ終わると朋香がひどく真剣な顔をし、視線を向けてくる。
「わたしの質問にしっかりと正確に答えてね。ベッドに入ったのはいつのこと?」
「えっ、金曜日の夜だけど……」
昭裕はたじろぐ。幼い頃からの顔見知りとはいえ、こうまではっきりと見つめられると緊張してしまう。
「じゃあ、今はいつ?」
「……えーと、いつでしょうね」
昭裕は答えられない。普通に考えれば、土曜日の午前なのだろうが、それではあのひどい倦怠感と空腹は何なのだろう。説明がつかない。
「やっぱり、わからないんだ」
そう言いながら、朋香は袋から新聞を取り出した。新聞は大学の図書館で閲覧できるので、昭裕は購読していない。朋香がテレビ欄をズイッと突きつけてくる。
「見て。今日は何年何月の何曜日!?」
「……ウソだろ」
愕然とした。目をこすってみても、新聞の日付は変わらない。昭裕は自分が二日以上眠り続けていたことをようやく知った。
「わかったよね。いまはもう月曜日のお昼なの。ほんとっーに心配したのよ。スマホに連絡入れても反応ないし。……だから、お腹が空いちゃって仕方なかったわ」
後半部は小声だった。
「あぁ、マナーモードにしたままだ」
講義が終わった後、解除するのを忘れていたのだ。しかもズボンのポケットに入れっぱなしである。スマートフォンがあれば十分なので、昭裕の下宿に固定電話は置かれていない。
「もう、しっかりしてよ」
「う、うん。あ、あれ?」
腹が満ち、思考力が回復してきた昭裕はけっこう重要なことに今更気づく。
「どうかしたの?」
朋香がちょこんと首を傾げて、昭裕の顔をまじまじと見る。
「いや、あの。トモ姉、どうやって部屋に入ってきたのさ? 合い鍵なんか持ってないよね」
「そうよ。持ってないわよ。だって、アキくん。くれないじゃないの、合い鍵。わたしたち、はとこ同士なのに」
「当たり前だろ。トモ姉に合い鍵なんて渡したら、あっという間に部屋が本だらけになっちゃうでしょーが」
文芸部員たちの武勇伝(もちろん悪い方だ)は色々と耳に届いている。用心に越したことはない。
「むうぅ」
朋香の頬がふくらむ。
「そんなこと……あるけど、ないもん」
「どっちだよ。それより、どうやって入ったんだよ、ほんとに」
「うふふ。実はわたくしは怪盗トモカなのですよ。狙った獲物は逃がさないわ」
朋香は腰に手を当てて、平均未満の胸を反らしてみせる。
「ほほう。面白いことを仰りますね。縄跳びができなくて泣いてた人が怪盗ですと?」
相手の態度に少々向かっ腹を立てた昭裕はそう口答えしてみる。どこまで立ち向かえるか、これも人生の試練の一つかもしれない。
対する朋香は不敵に笑ってみせる。
「へえ、懐かしいお話をするのね。――あの頃のアキくんはわたしのお布団によく地図を描いてたわよねぇ」
主に背筋が冷たくなってしまう戦争が始まった。今の口撃は昭裕が小学生になるより前の話だ。当然、現在ではない。だが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「むう、たしか逆上がりもできなかったはず」
「アキくんは、夏休みの肝試しでずっとわたしにべったりだったわ。お姉ちゃん、ボク怖いよ怖いよーって」
「あ、えー。た、たしか、トモ姉は海で溺れかけたはず。しかもまだ足がつく深さで」
「そうそう。アキくんはナマコを踏んづけて泣いてたわ。ヤツの体液が顔にかかったのよね。初めて顔射された気分はどうだった?」
何てことない顔をして、朋香はデリカシーの欠片もない言葉を放出した。
「そんなところにまで知識の触手を伸ばしてんじゃねーよ。うっぷ」
声高に言い返した直後、軽い吐き気が込み上げてくる。十年は前の話だが、いまだに気持ち悪くなるトラウマだ。故に昭裕は未だにナマコを食べられない。胃袋に入ったばかりの食材の脱走を辛うじて防ぎ、ぜーぜーと喘ぐ。
「着替えが足らなくなって、わたしのワンピースを着たりもしたよね。可愛かったわぁ、とってもとっても良く似合ってた」
朋香はうっとりと回想している。
「……もう勘弁してくれませんか」
昭裕はついに折れた。敗北だ。まあ、勝てる気は最初からしていなかったが。
「うふふふ、大勝利~。まあ、尋常じゃない方法で侵入したとだけ言っておきましょうか。それ以上は秘密よ。では早速、決着が付いたところで大学に行きましょう」
「……えーと、なんで? どうして? 世はすでに夏休みですよ」
「どうして、じゃないわよ」
朋香ははっきりと呆れ顔をしていた。
「どう考えてもアキくん変じゃないの。さっきだって結構長く体を揺すってたのよ。浅く息はしてたけど、もう救急車を呼ぼうかと思ってたぐらいなの! だから早急に大学の保健センターで診てもらいましょう。今日は平日だし、開いてるわ」
「……そんなに変かな?」
「変です。アキくんはとっても変人さんです。はい、立って立って」
朋香は昭裕を彼の腕を抱きしめるようにして引っ張った。
「変人はトモ姉――」
ギュウウウ。
「ごめんなさい。失言でした。忘れてください」
何事かが起こった後、昭裕は謝罪した。脇腹が痛い。
「わかればよろしい」
朋香は鷹揚に頷いた。
「下宿生活一年目だしね、慣れない暮らしに色々と疲れがたまってたんでしょう。それが夏休みが始まるという気の緩みで一気に出たのだと思いますよ」
あっさりと診察は終わった。
「……先生、お薬とかは?」
「必要ないですね。彼、とくに異常ないもの。脈拍、正常。体温、正常。舌の色も問題なし。触診でも特には何も感じられず、と」
朋香の言葉に大学の保健センターの医師はそう断言した。
「ま、夏休みだからって、あまりだらけた生活をしないことだね。はい、帰っていいですよ」
「ありがとうございました」「失礼します」
追い出されるように二人は診察室から退出する。
「ぜったい藪医者だわ」
いきなり朋香が毒づき始める。
「わわっ、ストップ! トモ姉、お口チャック」
昭裕は朋香の口を掌で慌てて塞いだ。ドキドキしながら周囲を見渡す。幸い、他に人影はない。よし、急いで脱出だ。
昭裕は保健センターの外へ急いではとこを引っ張り出した。
「ぷはぁ、なんで、どうしてよ!? アキくんがこんなに変で変で変なのに異常なしだなんて、ぜぇっーたいヘボでうすらとんかちなヤブ医者に決まってるわ。それにこっちの話を丸っきり信じてない感じだったじゃない。さぁ、次の病院に行くわよ。アキくん」
解放された朋香が息をするのも惜しいという感じに捲し立て始める。
「そこまでしなくてもいいってば」
少し大げさじゃないかと、昭裕ははとこを静めようとするが、
「するよっ。なんだって!」
逆効果だったようだ。朋香の声が怒気を含んでいた。逃がさないとばかりに昭裕はシャツを両手で引っ張られた。こちらを見上げてくるその視線はかなり強烈だ。
「ねえ。アキくんは、アキくんは、アキくんは自分の体、心配じゃないの!? わたしは今すっごく心配してるんだよ、アキくんのこと」
朋香の瞳がまた潤んでいた。
「えっ、いや、そのっ、あの」
昭裕は困惑し、動揺し、視線をそらした。そのまま鼻頭をかく。……泣かれても困る。すごく困る。対処法がわからない。昔はどうしていただろうか?
「――なるほどね。アキくん、なにかわたしに隠し事してるんだ」
しばしの沈黙の後、いきなり断言された。
「鼻かいてる。それアキくんの、話をごまかそうとするときの癖じゃない。わたし、知ってるよ」
「あー、うん」
その癖のことは分かっていた。昔、母に指摘されていた。けれど癖であるため、修正はできていない。
昭裕は観念した。正直にすべて言ってしまおうと口を開く。
「ごめん、トモ姉。正解だよ。でも、言ったらよけいに心配かけると思ったんだ」
「馬鹿。わたしに遠慮なんかしないでちょうだい」
爪先立ちした朋香が昭裕の頭を優しく撫でた。幼い頃、その行為を嬉しく感じていたことを昭裕は唐突に思い出した。
少し照れくさかった。
「夢を見るんだ」
「夢?」
二人は大学構内のベンチに座っていた。木陰が少し暑さを和らげてくれている。昭裕は缶ジュース、朋香は棒アイスを手にしていた。資金源はむろん昭裕だ。
「うん。毎日、同じ夢をね。見るんだ。見てしまう。夢の中ではいつも雨が降ってる」
昭裕は話し始めた。朋香は一言も口を挟まずに聞き入っている。話の途中で溶けたアイスが地面に落下するが、彼女は気にもしない。
「どうかな?」
話し終えた昭裕はおそるおそる尋ねた。
二日以上眠り続けたことと夢とに因果関係があるのか、昭裕自身にもよく分かっていない。
けれども朋香は頷いてくれた。
「うん、関係ありだと思う。だってアキくんは――」
言葉は途中で消失したが、はとこが言わんとしたことは予想できた。あの時、親族の中でいの一番に電話をかけてきたのは朋香だ。
「アイスもう一回買ってくる。ここで待ってて」
昭裕はベンチから立ち上がった。初めて朋香に行う、自発的なおごりだ。
『ただいま』
帰還の挨拶は音声カットの唇だけの動きとなった。
朋香がスマートフォンで話をしていたのだ。それからすぐに電話は終わったので、会話の中身は推察できない。
「ほい」
ご馳走を差し出してやる。
「わぁ、チョコパフェだぁ」
朋香は幼子のように顔を輝かせ、一心不乱に食べ始めた。
「ごちそうさまぁ」
瞬く間に終了する。
「はい、ティッシュ。口元拭いて」
「サンキューベリーマッチです」
化粧気がまったくない顔に生クリームとチョコレートがついている。
あまりに無邪気すぎる光景に、他人事ながら昭裕は不安になった。この人はいまだにアメ玉一つで誘拐されるのではなかろうか。
「なあ。トモ姉は将来なにすんのさ? 大学三年の夏って、もう就職のこと考え始めてるんじゃないの、普通は。インターンシップとかしないのか?」
「フフン、アキくん。わたしの将来設計はすでにばっちりなのです。司書になるのですよ、司書に。お姉さんをなめちゃいけません。講義はちゃんと受けてますし、司書資格は問題なしです」
「だけど、図書館とかに勤務したかったら自治体の採用試験とか受けないとだめだろ?」
「うぅ、頑張るもん。理数系は平凡な出来だけど、暗記は得意なんだから。でも、院にも残りたいかも。まだ部室の本、全部読めてないのよね。困ったわ。あー、でもエリート編集者になって、新人発掘とかもいいわねえ」
ハァー。昭裕はやるせなくなり、ため息をついた。
(そもそも司書の求人って、非常勤が多いんじゃなかったっけ)
たぶん、他の三年生はより現実的な考えを持っているにちがいない。なにせこの国の人生という名のレールは復線し難い構造になっている。就職活動をもし失敗すれば、いきなりの崖っぷち人生となってしまうのだ。
「なによぅ、そのため息は。もう、今はわたしのことはどうでもいいの。問題はアキくんの方です。だから、明日空けといてね」
「明日は夕方から家庭教師のバイトなんだけど」
今のところ火曜日と木曜日の夕方に勉強を教えることになっている。
「大丈夫。たぶん夕方には終わってるわ。明日、朝九時に駅で会いましょ。ちゃんと起きるのよ。モーニングコールはするけど、目覚まし時計もしっかりセットしとくこと」
「また病院?」
さっきの電話はそれだったのかと昭裕は一人合点し観念したが、
「違いますよーだ」
あっさりと否定される。
「頭文字は一緒だけど、ドクターじゃないわ。まっ、大船に乗った気になってなさい」
朋香はニヤリと笑った。本人曰く、それは不敵な笑みとのことだった。
酷い大雨が小降りになった。同時に暗闇にわずかな亀裂が生じる。
それは奇跡的なひととき。
かすかな光の中で少年は一つの光景を見た。
小雨の降る中、人々がバスに乗り込んでいる。
乗客はみんな楽しそうだ。
だから、彼も乗り込もうとする。
しかし、できなかった。
バスの扉が閉じられ、乗車を拒否されたのだ。
少年は一人残される。
乗客は誰もそのことに気づいていない、――わけではないようだ。
例外がいた。
気づいている者が一人存在していた。車内から少年に視線を向けている。
女性だ。その表情はよく分からない。
やがてバスが発車の合図にクラクションを鳴らす。濃い霧の中にバスが消えてゆく。
――あのバスは一体どこへ行くのだろう。
少年は佇んだままバスを見送った。
昭裕は目覚まし時計のベルで起床した。すぐにテレビをつける。
『今日は七月××日、火曜日です。テレビの前の皆さん、おはようございます』
司会を務めるアナウンサーが朝の挨拶をしていた。
火曜日という単語を耳にし、昭裕はほっとため息をつく。曜日は飛んでいない。きちんと起きられたのだ。安心したところでスマートフォンが鳴った。朋香からだ。
「もしもし、起きてるよ」
「うんうん、よかったぁ。おはよう、アキくん。なら一緒に朝ご飯食べよ」
ガチャリ。玄関のドアが唐突に開いた。昭裕がぎょっとしていると、ドアの隙間から朋香の顔が出現する。
「トモカお姉さんの登場でーす。イェイ」
にこやかにVサインをしてくる。
「別に登場しなくていいです」
昭裕は昨日はとこに合い鍵を渡したのを思い出す。念のためよ、という理由を押しつけられて、接収されたのだ。ドアチェーンをかけるのも禁止されていた。
「はい、おみやげー」
朋香は本を数冊小脇に抱えていた。
「ほらほら。石川啄木全集でありますぞ」
「いらないです。駅で待ち合わせじゃなかったの。というか、まだ七時です。朝っぱらから強襲しないでいただきたい」
「だって、お腹空いたんだもの。もうパンの耳は飽きちゃったのよぉ。ほらよく言うでしょう。人はパンのみにて生くるにあらずって」
「ならケーキでも食っときなさい」
「ダメ。欲しがりません勝つまでは、よ」
「何と戦っておいでで?」
「んもう、アキくんのいけず。お姉さんは白米がいいのです。ねえ、お茶漬けでいいですから」
昭裕は深く深くため息をついた。
結局、ホカホカ白米とお味噌汁、それにアジの干物が朋香に用意される。
彼女はそれらを本当においしそうに完食した。
「じゃ、行こっか」
「ここだよ」
朋香がピッと指さしたのは、小さく素朴な外見をした建物だった。一応二階建てのようだが、あまりの小ささから逆に目立ってしまっている。そんな建物だ。
地理的には、駅から徒歩二十分ほどの位置にあり、昭裕の下宿からはそう離れていない。もっとも昭裕はその存在を知らなかった。
故に――、
「ここ、なんだ」
半ば呆然としながら、その建物に掲げられている看板を見つめることとなった。
『四畳半探偵事務所』
横書きでそう書かれている。嫌な意味でインパクト大だ。下方には宣伝文句もあった。
読んでみる。
『こちらは四畳半探偵事務所でございます。主な業務は次の通りです。
不倫調査、申し訳ありませんが当方では承りません。ドロドロしたものは嫌いです。
素行調査、申し訳ありませんが当方では承りません。ストーカーにはなりたくありませんので、悪しからず。
不思議な事件。大好物です。どんどんやって来てください。摩訶不思議、大歓迎。』
……よし、帰ろう。
「ねえ、トモ姉。俺、帰っていいかな? いいよね? いいはずだよね? では、アディオスぅぅぅ」
そう陳述し、回れ右する。これは怪しさ大爆発ではなかろうか。
「ダメに決まってるでしょ」「あう」
抵抗虚しく、昭裕は首根っこを捕らえられた。
「大丈夫、大丈夫。不安なのは最初だけだから、お姉さんを信用しなさいな。ごめんくださーい。トギさん、来ましたよー」
ノックもせず(というか呼び鈴が見あたらないのだ)遠慮無くドアを開けた朋香に昭裕はズルズルと連行される。
「お邪魔します」観念しつつ入室するが人の姿はない。
へえ、と昭裕は小さく声を上げる。目前の景色にちょっと感心してしまったのだ。
名は体を表す。その空間は確かに四畳半だった。
今現在、立っている場がすでに応接室であり、その広さはなるほど四畳半なのだ。部屋の奥へとつながる境界部分には藍色ののれんが掛けられている。おそらくスペースの問題で扉を取り付けられないのだ。建物の大きさからして、この四畳半が一階部分のメイン空間となるのだろう。加えて、室内にあるテーブルや椅子も見るからに安っぽく他人事ながらもの悲しさを覚える。けれど推理小説に出てくる名探偵が愛用するような安楽椅子などを置いてしまえば場所塞ぎになるのは確実だ。部屋の隅では扇風機が『ワシも年じゃのう』というような感じに回っている。カクカクしていた。エアコンはかなり懸命に探したが、昭裕には見つけられなかった。隠し金庫にでもしまってあるのかもしれない。生温いプラス数度の空気が体を包み込んでくる。暑くて、蒸す。
一言で片付ければ、貧乏くさい部屋だった。空虚である。
「すぐ降りるわね」
上から声がした。
トン、ギシ、トン、ギシ、トン、ギシと階段が悲痛な感じに鳴いた後、細面の若い女性が現れる。
おそらく二十代だろう。長身でスレンダーで、癖のない長い髪を無造作に結んでいた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します、トギさん。ごめんなさい、急に予定を入れてしまって」
朋香の謝罪に女は左手をひらひらとさせる。
「いやいや、いいよいいよ。どうせ暇だし、お客さんは大歓迎だ。ささ、二人とも座ってちょうだい」
(暇なんだ、つまりは需要のない探偵事務所?)
人当たりの良さそうな態度に昭裕は安堵しつつも早速不安になった。
丸いパイプ椅子に座った二人の前にガラスコップが置かれる。
中身は透明な液体だ。泡は見えない。昭裕は一口だけ飲んでみた。
(……ぬるっ!!)
正体はまったく冷えていない、室温イコールの水だった。
これをおいしく飲めるのは昨日の昭裕ぐらいだろう。はとこはコップに触れてさえいない。端的に言えば、不味い。
女も席に着く。二人と同じくパイプ椅子だ。向かい合った。
「さて、自己紹介といきましょうか。アタシはトギリサヤコ。ここの所長をやってるわ。ちなみに漢字で書くとあのようになります」
女探偵が自分の背後の壁を指さした。
『跡切 清子』と書かれた色紙が額縁に入れられていた。随分と色褪せている。
「はあ」
昭裕は曖昧に頷いた。探偵のくせに世間ずれしてないように感じられるのは気のせいだろうか。名刺もくれていない。
「で、君が朋香くんのはとこの――」
「伊東昭裕、K大の一年です」
ぴっと姿勢を正す。
「うん、そうだった。伊東君、アキくんだったね」
こちらの個人情報は伝達済みのようだ。
自己紹介が終わると、話はすぐに本題に入った。
――仕事熱心ではあるみたいだな。
そんな感想を抱きながら、昭裕は自分の現状を女探偵に説明する。
「ふむ。毎晩同じような雨の夢を見ると。んでもって、今度はその夢を見続けながら二日以上眠り続けたと。ふふん、ふんふん、なるほどねー。うん、だいたいの事情はわかりました。……で、不躾に聞くけどさ、病院には行ったの?」
「はい、大学のですけど一応は」
「診断はなんて?」
「初めての下宿生活で疲れが出たんだろう、とのことでした」
「うん、一理あるかもね。アタシの所に来ようと思ったのはどうして? ここは心療内科でもなんでもないわよ」
「いや、俺は……」
探偵の質問に昭裕は口ごもる。もっともな疑問かもしれない。そもそも、ここに来たのは自分の意志ではないのだ。話の腰を折らないためにか、先ほどから黙り込んでしまっているはとこに昭裕は視線で助けを求めた。
朋香が軽く頷き、口を開く。
「トギさんのところが適任だと判断したのはわたしです。アキくん、彼は――」
そこで言葉を切り、昭裕に目を向ける。
「ここまで来てて今更だけど、一応確認しとくね。いいかな、話しても?」
「いいよ、トモ姉にまかせます」
昭裕は会話の権利をはとこに丸投げした。そうせざるを得なかった。おそらく自分では最後まで説明しきれない。
「うん、まかされました」
朋香は優しくはとこに微笑んでから、探偵に向き直った。真剣な顔つきだ。
「ふむ、なにやら深刻そうだ。じゃあ話してくれるかな、朋香くん」
女探偵も朋香に視線を向ける。
「はい、トギさん」
朋香は深呼吸を一つしてから淀みなく話し始めた。
「彼、昭裕が小学五年生の時です。夏休みに学年全員でキャンプに行く行事がありました。もっとも夏風邪を引いていた昭裕は不参加でしたが。そのキャンプは一泊二日で行われ、二日目現地では雨が降っていました。昭裕のクラスのバスが事故に遭ったのは、その帰りのことです。……十数名の死者を出した大きな事故でした。――これがトギさんの所に彼を連れてこようと思った根拠です」
「ああ、あったねぇ。ワイドショーで一時期よく流れてたから、アタシも覚えてるよ。雨中での悲惨な事故ってね。でも、それがトラウマになったとかだとますますアタシの出る幕じゃないよね?」
朋香に向けていた視線をチラッと一瞬だけ昭裕に移してから、女探偵がそう弁を述べた。
「いいえ!!」
一秒も間を置かず、相手の否定的な見解に朋香が反駁していた。大きな声だ。背筋がピンッと伸びている。
「確かに事故の後、アキくんは車に乗れなくなったり、うなされて夜中に飛び起きたりしてました。でも、今のアキくんはバスにも一人で乗れるし、夜中に飛び起きたりもしません。トラウマはすでに無視しても良い事項になっていると思います。そうだよねっ、アキくん! イエス・オア・ノー?」
「う、うんっ。そうです。イエスです」
テンションの上がりきった朋香にすごい勢いで同意を求められ、昭裕は慌てて首を上下に振った。
「――というわけなんです、トギさん!! これでどうでしょうか!? もちろん、雨というキーワードから事故と夢とに何らかの関連性があるんじゃないかとはわたしも思っています。だけど、どこか奇妙さがありませんか?」
朋香がにじり寄ると、女探偵は左手中指でテーブルをコツコツと叩き始めた。考え事をする時の癖だろうか。単調な音が室内を支配する。
「うん」
しばらくして音が止んだ。声が復活する。
「伊東君、一つ質問だよ。その奇妙な夢を見始めたのはいつからかな? やっぱり小学生から?」
「いえ、今年の、六月の……半ばぐらいです」
「おや思いの外、最近だ。なにか心当たりはあるかい?」
跡切が眉をくいっと上げた。
「ありません」
昭裕は即答する。あったらこんな所に来ていない。昭裕に分かるのは、自分が過去に係わった大きなトラブルといえば、その事故しかないということだ。
「そっか。うん、よし。分かったよ。朋香くんの頼みだし、とりあえず依頼は受けましょう。依頼内容は事故と眠りとの関連性をちょっとばかり斜めな方面から調べるってことでいいよね。もちろん、単なる身体的もしくは精神的問題だとわかったら、その時点で終了させてもらうという条件付きだけどね。で、依頼料だけど――」
(うわっ、すぱっと金の話に来たなあ)
昭裕の心に緊張が走った。探偵業の相場など知らないが、ものすごく高いイメージがある。昭裕は再びはとこに助けを求めた。朋香は素知らぬ顔をし、グラスに口をつけていた。……不味いだろうに。目を全く以て合わしてこない。
昭裕はハッと気づく。
(もしかして精算が凄惨!? ……く、くだらねえ。お、落ち着け、自分)
あまりにくだらないおやじギャグを思いついてしまったことで、昭裕は赤面しそうになる。耳が熱い。けれど、金の問題が切実なのは確かだ。
「あ、あの。料金って――」
思い切って料金について尋ねようとしたところで着信メロディーが狭い室内に響き渡る。悪の枢軸は昭裕のスマートフォンだった。
「こらっ!」
朋香が怒ってくる。
「ごっ、ごめん」
今度はマナーモードにするのを忘れていたのだ。
昭裕は電話番号を確認する。家庭教師を頼まれている家からだ。
「いいわよ、別に。ここで話せば? 静かにしとくから」
「すみません」
昭裕は跡切に頭を下げ、急ぎ電話に出た。部屋の隅で二人に背を向け、しゃがんで話をする。四畳半という狭い空間故、あまり意味も効果もないが、遠慮気味に話しているという演出はできているのではなかろうか。
「アキくん、浮かぬ顔になってるよ。どうかした? よくない報せ?」
電話を切り、席に戻ると朋香がそう指摘してくる。
「うん、ちょっとね。今週の家庭教師、取りやめになった」
目敏いなあ、と思いつつ、昭裕はそう返答する。
「中止? 何かトラブル?」
「うん。里奈ちゃん、俺が家庭教師してる子だけどね。外出中に顔を鳥に引っ掻かれて怪我をしたっていうんだよ。それで急遽中止になった」
「鳥に!?」
昭裕の説明にいち早く反応したのは女探偵だった。
「ええ、そういってました。どんな鳥でしょうね。顔だし、女の子だし、跡が残らなければ良いんですけど」
「人を襲うなんて。カラスかな?」
「さあ? 種類までは聞いてないよ」
「ふむ。――ということは、少年。君、今週は暇なんだね」
値踏みするかのような視線を昭裕に放射した後に、探偵が問うてくる。
「はい、そうなりますね。不本意ですけど」
「だったら、アタシの仕事を手伝わない? それで依頼料はチャラにしてあげるってことで。どうだろう、少年? 破格だよ」
思わぬ話に昭裕は朋香と顔を見合わせた。はとこはうんうんと頷いている。これはラッキーよ、といったところか。流れに身を任せるしかなさそうだ。
「じゃあ、その条件でお願いします」
昭裕は頭を下げる。依頼人から奉公人へと格下げが決まった瞬間だった。
「こちらこそよろしくね、新米助手くん」
女探偵はにこやかに手を差し出してきた。
眠りから覚めた昭裕が最初に目にしたのは、はとこの顔だった。こちらを覗き込んでいる。目が潤んでいた。心配げな表情をし、昭裕の肩を懸命に揺すっていた。
「――……?」
――なんでいるの? そう言いたかったが、舌がうまく回らない。声が出せない。
昭裕は下宿先であるワンルームマンションの、ベッドの中にいた。
「……良かった。起きた。心配した……、すっごく心配した」
唐突に朋香がぽろぽろと涙を落とし出す。胸をグーになった手でポカポカと叩かれる。
「ぉ、ぉ」
ようやくかすれた声が出る。昭裕は動揺していた。あの毒舌家のはとこがどうして泣いているのか。その理由が分からない。自分はただ寝ていただけだ。ベッドの上で一人あたふたとするが、
「ぅっ!」
強烈な尿意がすべての思考と感情を焦りに変換した。
(やばっ、漏れる!)
昭裕は急ぎトイレへとベッドから立ち上がった。……そのつもりだった。
(わっ、わっ、わっ)
視点が安定しない。揺れている。足がもつれているのだ。ひどく体が重い。倒れそうになったところをはとこが慌てて支えてくれる。
「ゎ、ぅ、ぃ」
「いぃか、ら! ちゃ、んっ!、とぉ! 立ってぇ」
朋香の細い腕がぷるぷると震えていた。
なんとか粗相することなく、昭裕は近くて遠くにあった楽園にたどり着く。いつもは立ちスタイルだが、今回は便座に腰掛けて小さい方の処理をする。身体のバランスを上手くとれないためだ。思わず見入ってしまうほどに濃い色の尿が出た。量は意外に少なかった。
(大丈夫かな、俺)
昭裕は自身の肉体に少し不安を覚えた。ゆっくりと便座から立つ。バランス感覚は戻ったようだが、口の中はカラカラだ。舌が良く動かないのも道理至極である。洗面台で何度もうがいをし、最後には水道水をそのまま飲んでしまう。普段はしない行為によって、ようやく口内がいつもの感じに近づく。
「お財布、貸してちょうだいな」
部屋に戻った途端、朋香がそう告げてくる。
「アキくん、ぜったいお腹ペコペコのはずだから、買い物に行ってきてあげる」
その指摘に昭裕は腹を押さえる。
「当たり、かも」
腹がひどく薄い。意識すると猛烈に空腹感がわいてきた。
「――でしょ」
財布を受け取った朋香がドアチェーンを外し、鍵を開け、外に出て行く。
「ふぅー」
昭裕はフローリングに座り込んで、ベッドに背中を預けた。色々と考えねばいけない気もするが、思考に費やす気力と体力が残っていない。
「ただいまー。外は地獄の暑さです。ビバ、クーラー。ここは天国ね」
はとこはすぐに戻ってきた。かなり汗をかいている。
壁掛け時計の針は十一時を回っている。室内は空調がそれなりに機能しており、暑くも寒くもないが、外の世界は夏真っ盛りのはずだ。
「あー、重かった」
朋香が持つビニール袋はパンパンにふくらんでいた。
「どんだけ買ってきましたか?」
げんなりしながら問う。
「三千円ぐらいかな~。だって、わたしも食べるもの」
平然と言われてしまう。
「この食いしん坊め」
袋からプリンやヨーグルト、カップラーメンに電子レンジで調理できるスパゲティ、それにサンドイッチがでてくる。手間暇かけずに食べられるものばかりだ。飲み物はスポーツ飲料。
自炊派の昭裕だが、今は非常にありがたい品々である。どれもこれも二つずつあるのは問題だけど……。
それらは瞬く間に二人の胃袋の中に消えた。ちなみにカップラーメンを昭裕は食さなかったが、不思議と無くなっていた。謎である。
「さて、アキくん」
食べ終わると朋香がひどく真剣な顔をし、視線を向けてくる。
「わたしの質問にしっかりと正確に答えてね。ベッドに入ったのはいつのこと?」
「えっ、金曜日の夜だけど……」
昭裕はたじろぐ。幼い頃からの顔見知りとはいえ、こうまではっきりと見つめられると緊張してしまう。
「じゃあ、今はいつ?」
「……えーと、いつでしょうね」
昭裕は答えられない。普通に考えれば、土曜日の午前なのだろうが、それではあのひどい倦怠感と空腹は何なのだろう。説明がつかない。
「やっぱり、わからないんだ」
そう言いながら、朋香は袋から新聞を取り出した。新聞は大学の図書館で閲覧できるので、昭裕は購読していない。朋香がテレビ欄をズイッと突きつけてくる。
「見て。今日は何年何月の何曜日!?」
「……ウソだろ」
愕然とした。目をこすってみても、新聞の日付は変わらない。昭裕は自分が二日以上眠り続けていたことをようやく知った。
「わかったよね。いまはもう月曜日のお昼なの。ほんとっーに心配したのよ。スマホに連絡入れても反応ないし。……だから、お腹が空いちゃって仕方なかったわ」
後半部は小声だった。
「あぁ、マナーモードにしたままだ」
講義が終わった後、解除するのを忘れていたのだ。しかもズボンのポケットに入れっぱなしである。スマートフォンがあれば十分なので、昭裕の下宿に固定電話は置かれていない。
「もう、しっかりしてよ」
「う、うん。あ、あれ?」
腹が満ち、思考力が回復してきた昭裕はけっこう重要なことに今更気づく。
「どうかしたの?」
朋香がちょこんと首を傾げて、昭裕の顔をまじまじと見る。
「いや、あの。トモ姉、どうやって部屋に入ってきたのさ? 合い鍵なんか持ってないよね」
「そうよ。持ってないわよ。だって、アキくん。くれないじゃないの、合い鍵。わたしたち、はとこ同士なのに」
「当たり前だろ。トモ姉に合い鍵なんて渡したら、あっという間に部屋が本だらけになっちゃうでしょーが」
文芸部員たちの武勇伝(もちろん悪い方だ)は色々と耳に届いている。用心に越したことはない。
「むうぅ」
朋香の頬がふくらむ。
「そんなこと……あるけど、ないもん」
「どっちだよ。それより、どうやって入ったんだよ、ほんとに」
「うふふ。実はわたくしは怪盗トモカなのですよ。狙った獲物は逃がさないわ」
朋香は腰に手を当てて、平均未満の胸を反らしてみせる。
「ほほう。面白いことを仰りますね。縄跳びができなくて泣いてた人が怪盗ですと?」
相手の態度に少々向かっ腹を立てた昭裕はそう口答えしてみる。どこまで立ち向かえるか、これも人生の試練の一つかもしれない。
対する朋香は不敵に笑ってみせる。
「へえ、懐かしいお話をするのね。――あの頃のアキくんはわたしのお布団によく地図を描いてたわよねぇ」
主に背筋が冷たくなってしまう戦争が始まった。今の口撃は昭裕が小学生になるより前の話だ。当然、現在ではない。だが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「むう、たしか逆上がりもできなかったはず」
「アキくんは、夏休みの肝試しでずっとわたしにべったりだったわ。お姉ちゃん、ボク怖いよ怖いよーって」
「あ、えー。た、たしか、トモ姉は海で溺れかけたはず。しかもまだ足がつく深さで」
「そうそう。アキくんはナマコを踏んづけて泣いてたわ。ヤツの体液が顔にかかったのよね。初めて顔射された気分はどうだった?」
何てことない顔をして、朋香はデリカシーの欠片もない言葉を放出した。
「そんなところにまで知識の触手を伸ばしてんじゃねーよ。うっぷ」
声高に言い返した直後、軽い吐き気が込み上げてくる。十年は前の話だが、いまだに気持ち悪くなるトラウマだ。故に昭裕は未だにナマコを食べられない。胃袋に入ったばかりの食材の脱走を辛うじて防ぎ、ぜーぜーと喘ぐ。
「着替えが足らなくなって、わたしのワンピースを着たりもしたよね。可愛かったわぁ、とってもとっても良く似合ってた」
朋香はうっとりと回想している。
「……もう勘弁してくれませんか」
昭裕はついに折れた。敗北だ。まあ、勝てる気は最初からしていなかったが。
「うふふふ、大勝利~。まあ、尋常じゃない方法で侵入したとだけ言っておきましょうか。それ以上は秘密よ。では早速、決着が付いたところで大学に行きましょう」
「……えーと、なんで? どうして? 世はすでに夏休みですよ」
「どうして、じゃないわよ」
朋香ははっきりと呆れ顔をしていた。
「どう考えてもアキくん変じゃないの。さっきだって結構長く体を揺すってたのよ。浅く息はしてたけど、もう救急車を呼ぼうかと思ってたぐらいなの! だから早急に大学の保健センターで診てもらいましょう。今日は平日だし、開いてるわ」
「……そんなに変かな?」
「変です。アキくんはとっても変人さんです。はい、立って立って」
朋香は昭裕を彼の腕を抱きしめるようにして引っ張った。
「変人はトモ姉――」
ギュウウウ。
「ごめんなさい。失言でした。忘れてください」
何事かが起こった後、昭裕は謝罪した。脇腹が痛い。
「わかればよろしい」
朋香は鷹揚に頷いた。
「下宿生活一年目だしね、慣れない暮らしに色々と疲れがたまってたんでしょう。それが夏休みが始まるという気の緩みで一気に出たのだと思いますよ」
あっさりと診察は終わった。
「……先生、お薬とかは?」
「必要ないですね。彼、とくに異常ないもの。脈拍、正常。体温、正常。舌の色も問題なし。触診でも特には何も感じられず、と」
朋香の言葉に大学の保健センターの医師はそう断言した。
「ま、夏休みだからって、あまりだらけた生活をしないことだね。はい、帰っていいですよ」
「ありがとうございました」「失礼します」
追い出されるように二人は診察室から退出する。
「ぜったい藪医者だわ」
いきなり朋香が毒づき始める。
「わわっ、ストップ! トモ姉、お口チャック」
昭裕は朋香の口を掌で慌てて塞いだ。ドキドキしながら周囲を見渡す。幸い、他に人影はない。よし、急いで脱出だ。
昭裕は保健センターの外へ急いではとこを引っ張り出した。
「ぷはぁ、なんで、どうしてよ!? アキくんがこんなに変で変で変なのに異常なしだなんて、ぜぇっーたいヘボでうすらとんかちなヤブ医者に決まってるわ。それにこっちの話を丸っきり信じてない感じだったじゃない。さぁ、次の病院に行くわよ。アキくん」
解放された朋香が息をするのも惜しいという感じに捲し立て始める。
「そこまでしなくてもいいってば」
少し大げさじゃないかと、昭裕ははとこを静めようとするが、
「するよっ。なんだって!」
逆効果だったようだ。朋香の声が怒気を含んでいた。逃がさないとばかりに昭裕はシャツを両手で引っ張られた。こちらを見上げてくるその視線はかなり強烈だ。
「ねえ。アキくんは、アキくんは、アキくんは自分の体、心配じゃないの!? わたしは今すっごく心配してるんだよ、アキくんのこと」
朋香の瞳がまた潤んでいた。
「えっ、いや、そのっ、あの」
昭裕は困惑し、動揺し、視線をそらした。そのまま鼻頭をかく。……泣かれても困る。すごく困る。対処法がわからない。昔はどうしていただろうか?
「――なるほどね。アキくん、なにかわたしに隠し事してるんだ」
しばしの沈黙の後、いきなり断言された。
「鼻かいてる。それアキくんの、話をごまかそうとするときの癖じゃない。わたし、知ってるよ」
「あー、うん」
その癖のことは分かっていた。昔、母に指摘されていた。けれど癖であるため、修正はできていない。
昭裕は観念した。正直にすべて言ってしまおうと口を開く。
「ごめん、トモ姉。正解だよ。でも、言ったらよけいに心配かけると思ったんだ」
「馬鹿。わたしに遠慮なんかしないでちょうだい」
爪先立ちした朋香が昭裕の頭を優しく撫でた。幼い頃、その行為を嬉しく感じていたことを昭裕は唐突に思い出した。
少し照れくさかった。
「夢を見るんだ」
「夢?」
二人は大学構内のベンチに座っていた。木陰が少し暑さを和らげてくれている。昭裕は缶ジュース、朋香は棒アイスを手にしていた。資金源はむろん昭裕だ。
「うん。毎日、同じ夢をね。見るんだ。見てしまう。夢の中ではいつも雨が降ってる」
昭裕は話し始めた。朋香は一言も口を挟まずに聞き入っている。話の途中で溶けたアイスが地面に落下するが、彼女は気にもしない。
「どうかな?」
話し終えた昭裕はおそるおそる尋ねた。
二日以上眠り続けたことと夢とに因果関係があるのか、昭裕自身にもよく分かっていない。
けれども朋香は頷いてくれた。
「うん、関係ありだと思う。だってアキくんは――」
言葉は途中で消失したが、はとこが言わんとしたことは予想できた。あの時、親族の中でいの一番に電話をかけてきたのは朋香だ。
「アイスもう一回買ってくる。ここで待ってて」
昭裕はベンチから立ち上がった。初めて朋香に行う、自発的なおごりだ。
『ただいま』
帰還の挨拶は音声カットの唇だけの動きとなった。
朋香がスマートフォンで話をしていたのだ。それからすぐに電話は終わったので、会話の中身は推察できない。
「ほい」
ご馳走を差し出してやる。
「わぁ、チョコパフェだぁ」
朋香は幼子のように顔を輝かせ、一心不乱に食べ始めた。
「ごちそうさまぁ」
瞬く間に終了する。
「はい、ティッシュ。口元拭いて」
「サンキューベリーマッチです」
化粧気がまったくない顔に生クリームとチョコレートがついている。
あまりに無邪気すぎる光景に、他人事ながら昭裕は不安になった。この人はいまだにアメ玉一つで誘拐されるのではなかろうか。
「なあ。トモ姉は将来なにすんのさ? 大学三年の夏って、もう就職のこと考え始めてるんじゃないの、普通は。インターンシップとかしないのか?」
「フフン、アキくん。わたしの将来設計はすでにばっちりなのです。司書になるのですよ、司書に。お姉さんをなめちゃいけません。講義はちゃんと受けてますし、司書資格は問題なしです」
「だけど、図書館とかに勤務したかったら自治体の採用試験とか受けないとだめだろ?」
「うぅ、頑張るもん。理数系は平凡な出来だけど、暗記は得意なんだから。でも、院にも残りたいかも。まだ部室の本、全部読めてないのよね。困ったわ。あー、でもエリート編集者になって、新人発掘とかもいいわねえ」
ハァー。昭裕はやるせなくなり、ため息をついた。
(そもそも司書の求人って、非常勤が多いんじゃなかったっけ)
たぶん、他の三年生はより現実的な考えを持っているにちがいない。なにせこの国の人生という名のレールは復線し難い構造になっている。就職活動をもし失敗すれば、いきなりの崖っぷち人生となってしまうのだ。
「なによぅ、そのため息は。もう、今はわたしのことはどうでもいいの。問題はアキくんの方です。だから、明日空けといてね」
「明日は夕方から家庭教師のバイトなんだけど」
今のところ火曜日と木曜日の夕方に勉強を教えることになっている。
「大丈夫。たぶん夕方には終わってるわ。明日、朝九時に駅で会いましょ。ちゃんと起きるのよ。モーニングコールはするけど、目覚まし時計もしっかりセットしとくこと」
「また病院?」
さっきの電話はそれだったのかと昭裕は一人合点し観念したが、
「違いますよーだ」
あっさりと否定される。
「頭文字は一緒だけど、ドクターじゃないわ。まっ、大船に乗った気になってなさい」
朋香はニヤリと笑った。本人曰く、それは不敵な笑みとのことだった。
酷い大雨が小降りになった。同時に暗闇にわずかな亀裂が生じる。
それは奇跡的なひととき。
かすかな光の中で少年は一つの光景を見た。
小雨の降る中、人々がバスに乗り込んでいる。
乗客はみんな楽しそうだ。
だから、彼も乗り込もうとする。
しかし、できなかった。
バスの扉が閉じられ、乗車を拒否されたのだ。
少年は一人残される。
乗客は誰もそのことに気づいていない、――わけではないようだ。
例外がいた。
気づいている者が一人存在していた。車内から少年に視線を向けている。
女性だ。その表情はよく分からない。
やがてバスが発車の合図にクラクションを鳴らす。濃い霧の中にバスが消えてゆく。
――あのバスは一体どこへ行くのだろう。
少年は佇んだままバスを見送った。
昭裕は目覚まし時計のベルで起床した。すぐにテレビをつける。
『今日は七月××日、火曜日です。テレビの前の皆さん、おはようございます』
司会を務めるアナウンサーが朝の挨拶をしていた。
火曜日という単語を耳にし、昭裕はほっとため息をつく。曜日は飛んでいない。きちんと起きられたのだ。安心したところでスマートフォンが鳴った。朋香からだ。
「もしもし、起きてるよ」
「うんうん、よかったぁ。おはよう、アキくん。なら一緒に朝ご飯食べよ」
ガチャリ。玄関のドアが唐突に開いた。昭裕がぎょっとしていると、ドアの隙間から朋香の顔が出現する。
「トモカお姉さんの登場でーす。イェイ」
にこやかにVサインをしてくる。
「別に登場しなくていいです」
昭裕は昨日はとこに合い鍵を渡したのを思い出す。念のためよ、という理由を押しつけられて、接収されたのだ。ドアチェーンをかけるのも禁止されていた。
「はい、おみやげー」
朋香は本を数冊小脇に抱えていた。
「ほらほら。石川啄木全集でありますぞ」
「いらないです。駅で待ち合わせじゃなかったの。というか、まだ七時です。朝っぱらから強襲しないでいただきたい」
「だって、お腹空いたんだもの。もうパンの耳は飽きちゃったのよぉ。ほらよく言うでしょう。人はパンのみにて生くるにあらずって」
「ならケーキでも食っときなさい」
「ダメ。欲しがりません勝つまでは、よ」
「何と戦っておいでで?」
「んもう、アキくんのいけず。お姉さんは白米がいいのです。ねえ、お茶漬けでいいですから」
昭裕は深く深くため息をついた。
結局、ホカホカ白米とお味噌汁、それにアジの干物が朋香に用意される。
彼女はそれらを本当においしそうに完食した。
「じゃ、行こっか」
「ここだよ」
朋香がピッと指さしたのは、小さく素朴な外見をした建物だった。一応二階建てのようだが、あまりの小ささから逆に目立ってしまっている。そんな建物だ。
地理的には、駅から徒歩二十分ほどの位置にあり、昭裕の下宿からはそう離れていない。もっとも昭裕はその存在を知らなかった。
故に――、
「ここ、なんだ」
半ば呆然としながら、その建物に掲げられている看板を見つめることとなった。
『四畳半探偵事務所』
横書きでそう書かれている。嫌な意味でインパクト大だ。下方には宣伝文句もあった。
読んでみる。
『こちらは四畳半探偵事務所でございます。主な業務は次の通りです。
不倫調査、申し訳ありませんが当方では承りません。ドロドロしたものは嫌いです。
素行調査、申し訳ありませんが当方では承りません。ストーカーにはなりたくありませんので、悪しからず。
不思議な事件。大好物です。どんどんやって来てください。摩訶不思議、大歓迎。』
……よし、帰ろう。
「ねえ、トモ姉。俺、帰っていいかな? いいよね? いいはずだよね? では、アディオスぅぅぅ」
そう陳述し、回れ右する。これは怪しさ大爆発ではなかろうか。
「ダメに決まってるでしょ」「あう」
抵抗虚しく、昭裕は首根っこを捕らえられた。
「大丈夫、大丈夫。不安なのは最初だけだから、お姉さんを信用しなさいな。ごめんくださーい。トギさん、来ましたよー」
ノックもせず(というか呼び鈴が見あたらないのだ)遠慮無くドアを開けた朋香に昭裕はズルズルと連行される。
「お邪魔します」観念しつつ入室するが人の姿はない。
へえ、と昭裕は小さく声を上げる。目前の景色にちょっと感心してしまったのだ。
名は体を表す。その空間は確かに四畳半だった。
今現在、立っている場がすでに応接室であり、その広さはなるほど四畳半なのだ。部屋の奥へとつながる境界部分には藍色ののれんが掛けられている。おそらくスペースの問題で扉を取り付けられないのだ。建物の大きさからして、この四畳半が一階部分のメイン空間となるのだろう。加えて、室内にあるテーブルや椅子も見るからに安っぽく他人事ながらもの悲しさを覚える。けれど推理小説に出てくる名探偵が愛用するような安楽椅子などを置いてしまえば場所塞ぎになるのは確実だ。部屋の隅では扇風機が『ワシも年じゃのう』というような感じに回っている。カクカクしていた。エアコンはかなり懸命に探したが、昭裕には見つけられなかった。隠し金庫にでもしまってあるのかもしれない。生温いプラス数度の空気が体を包み込んでくる。暑くて、蒸す。
一言で片付ければ、貧乏くさい部屋だった。空虚である。
「すぐ降りるわね」
上から声がした。
トン、ギシ、トン、ギシ、トン、ギシと階段が悲痛な感じに鳴いた後、細面の若い女性が現れる。
おそらく二十代だろう。長身でスレンダーで、癖のない長い髪を無造作に結んでいた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します、トギさん。ごめんなさい、急に予定を入れてしまって」
朋香の謝罪に女は左手をひらひらとさせる。
「いやいや、いいよいいよ。どうせ暇だし、お客さんは大歓迎だ。ささ、二人とも座ってちょうだい」
(暇なんだ、つまりは需要のない探偵事務所?)
人当たりの良さそうな態度に昭裕は安堵しつつも早速不安になった。
丸いパイプ椅子に座った二人の前にガラスコップが置かれる。
中身は透明な液体だ。泡は見えない。昭裕は一口だけ飲んでみた。
(……ぬるっ!!)
正体はまったく冷えていない、室温イコールの水だった。
これをおいしく飲めるのは昨日の昭裕ぐらいだろう。はとこはコップに触れてさえいない。端的に言えば、不味い。
女も席に着く。二人と同じくパイプ椅子だ。向かい合った。
「さて、自己紹介といきましょうか。アタシはトギリサヤコ。ここの所長をやってるわ。ちなみに漢字で書くとあのようになります」
女探偵が自分の背後の壁を指さした。
『跡切 清子』と書かれた色紙が額縁に入れられていた。随分と色褪せている。
「はあ」
昭裕は曖昧に頷いた。探偵のくせに世間ずれしてないように感じられるのは気のせいだろうか。名刺もくれていない。
「で、君が朋香くんのはとこの――」
「伊東昭裕、K大の一年です」
ぴっと姿勢を正す。
「うん、そうだった。伊東君、アキくんだったね」
こちらの個人情報は伝達済みのようだ。
自己紹介が終わると、話はすぐに本題に入った。
――仕事熱心ではあるみたいだな。
そんな感想を抱きながら、昭裕は自分の現状を女探偵に説明する。
「ふむ。毎晩同じような雨の夢を見ると。んでもって、今度はその夢を見続けながら二日以上眠り続けたと。ふふん、ふんふん、なるほどねー。うん、だいたいの事情はわかりました。……で、不躾に聞くけどさ、病院には行ったの?」
「はい、大学のですけど一応は」
「診断はなんて?」
「初めての下宿生活で疲れが出たんだろう、とのことでした」
「うん、一理あるかもね。アタシの所に来ようと思ったのはどうして? ここは心療内科でもなんでもないわよ」
「いや、俺は……」
探偵の質問に昭裕は口ごもる。もっともな疑問かもしれない。そもそも、ここに来たのは自分の意志ではないのだ。話の腰を折らないためにか、先ほどから黙り込んでしまっているはとこに昭裕は視線で助けを求めた。
朋香が軽く頷き、口を開く。
「トギさんのところが適任だと判断したのはわたしです。アキくん、彼は――」
そこで言葉を切り、昭裕に目を向ける。
「ここまで来てて今更だけど、一応確認しとくね。いいかな、話しても?」
「いいよ、トモ姉にまかせます」
昭裕は会話の権利をはとこに丸投げした。そうせざるを得なかった。おそらく自分では最後まで説明しきれない。
「うん、まかされました」
朋香は優しくはとこに微笑んでから、探偵に向き直った。真剣な顔つきだ。
「ふむ、なにやら深刻そうだ。じゃあ話してくれるかな、朋香くん」
女探偵も朋香に視線を向ける。
「はい、トギさん」
朋香は深呼吸を一つしてから淀みなく話し始めた。
「彼、昭裕が小学五年生の時です。夏休みに学年全員でキャンプに行く行事がありました。もっとも夏風邪を引いていた昭裕は不参加でしたが。そのキャンプは一泊二日で行われ、二日目現地では雨が降っていました。昭裕のクラスのバスが事故に遭ったのは、その帰りのことです。……十数名の死者を出した大きな事故でした。――これがトギさんの所に彼を連れてこようと思った根拠です」
「ああ、あったねぇ。ワイドショーで一時期よく流れてたから、アタシも覚えてるよ。雨中での悲惨な事故ってね。でも、それがトラウマになったとかだとますますアタシの出る幕じゃないよね?」
朋香に向けていた視線をチラッと一瞬だけ昭裕に移してから、女探偵がそう弁を述べた。
「いいえ!!」
一秒も間を置かず、相手の否定的な見解に朋香が反駁していた。大きな声だ。背筋がピンッと伸びている。
「確かに事故の後、アキくんは車に乗れなくなったり、うなされて夜中に飛び起きたりしてました。でも、今のアキくんはバスにも一人で乗れるし、夜中に飛び起きたりもしません。トラウマはすでに無視しても良い事項になっていると思います。そうだよねっ、アキくん! イエス・オア・ノー?」
「う、うんっ。そうです。イエスです」
テンションの上がりきった朋香にすごい勢いで同意を求められ、昭裕は慌てて首を上下に振った。
「――というわけなんです、トギさん!! これでどうでしょうか!? もちろん、雨というキーワードから事故と夢とに何らかの関連性があるんじゃないかとはわたしも思っています。だけど、どこか奇妙さがありませんか?」
朋香がにじり寄ると、女探偵は左手中指でテーブルをコツコツと叩き始めた。考え事をする時の癖だろうか。単調な音が室内を支配する。
「うん」
しばらくして音が止んだ。声が復活する。
「伊東君、一つ質問だよ。その奇妙な夢を見始めたのはいつからかな? やっぱり小学生から?」
「いえ、今年の、六月の……半ばぐらいです」
「おや思いの外、最近だ。なにか心当たりはあるかい?」
跡切が眉をくいっと上げた。
「ありません」
昭裕は即答する。あったらこんな所に来ていない。昭裕に分かるのは、自分が過去に係わった大きなトラブルといえば、その事故しかないということだ。
「そっか。うん、よし。分かったよ。朋香くんの頼みだし、とりあえず依頼は受けましょう。依頼内容は事故と眠りとの関連性をちょっとばかり斜めな方面から調べるってことでいいよね。もちろん、単なる身体的もしくは精神的問題だとわかったら、その時点で終了させてもらうという条件付きだけどね。で、依頼料だけど――」
(うわっ、すぱっと金の話に来たなあ)
昭裕の心に緊張が走った。探偵業の相場など知らないが、ものすごく高いイメージがある。昭裕は再びはとこに助けを求めた。朋香は素知らぬ顔をし、グラスに口をつけていた。……不味いだろうに。目を全く以て合わしてこない。
昭裕はハッと気づく。
(もしかして精算が凄惨!? ……く、くだらねえ。お、落ち着け、自分)
あまりにくだらないおやじギャグを思いついてしまったことで、昭裕は赤面しそうになる。耳が熱い。けれど、金の問題が切実なのは確かだ。
「あ、あの。料金って――」
思い切って料金について尋ねようとしたところで着信メロディーが狭い室内に響き渡る。悪の枢軸は昭裕のスマートフォンだった。
「こらっ!」
朋香が怒ってくる。
「ごっ、ごめん」
今度はマナーモードにするのを忘れていたのだ。
昭裕は電話番号を確認する。家庭教師を頼まれている家からだ。
「いいわよ、別に。ここで話せば? 静かにしとくから」
「すみません」
昭裕は跡切に頭を下げ、急ぎ電話に出た。部屋の隅で二人に背を向け、しゃがんで話をする。四畳半という狭い空間故、あまり意味も効果もないが、遠慮気味に話しているという演出はできているのではなかろうか。
「アキくん、浮かぬ顔になってるよ。どうかした? よくない報せ?」
電話を切り、席に戻ると朋香がそう指摘してくる。
「うん、ちょっとね。今週の家庭教師、取りやめになった」
目敏いなあ、と思いつつ、昭裕はそう返答する。
「中止? 何かトラブル?」
「うん。里奈ちゃん、俺が家庭教師してる子だけどね。外出中に顔を鳥に引っ掻かれて怪我をしたっていうんだよ。それで急遽中止になった」
「鳥に!?」
昭裕の説明にいち早く反応したのは女探偵だった。
「ええ、そういってました。どんな鳥でしょうね。顔だし、女の子だし、跡が残らなければ良いんですけど」
「人を襲うなんて。カラスかな?」
「さあ? 種類までは聞いてないよ」
「ふむ。――ということは、少年。君、今週は暇なんだね」
値踏みするかのような視線を昭裕に放射した後に、探偵が問うてくる。
「はい、そうなりますね。不本意ですけど」
「だったら、アタシの仕事を手伝わない? それで依頼料はチャラにしてあげるってことで。どうだろう、少年? 破格だよ」
思わぬ話に昭裕は朋香と顔を見合わせた。はとこはうんうんと頷いている。これはラッキーよ、といったところか。流れに身を任せるしかなさそうだ。
「じゃあ、その条件でお願いします」
昭裕は頭を下げる。依頼人から奉公人へと格下げが決まった瞬間だった。
「こちらこそよろしくね、新米助手くん」
女探偵はにこやかに手を差し出してきた。