第八章

文字数 13,062文字

 心地よく思える雨だった。
 ずっとここにいたい。動かず、何もせず、ただ雨に打たれていたい。闇の中、彼はそんな気持ちになっていた。意識がどんどん拡散し、希薄してゆくが食い止めようとも思わなかった。
 だが、唐突に痛みを感じた。とたんに意識が緊縮し、その濃度を増した。
 まだ心許ない段階であったが、思考力が蘇る。
「巻き込んでごめんなさい」
 そして、彼は誰かの声を聞いた。幼さをしっかりと残した声だ。姿は見えない。
「そんなつもりじゃなかったの。……でも、嬉しいの。……でも、違う。だからダメ。耳を澄まして、外の声を聞いてください」
 幼い声はそれきり黙り込んだ。彼はその声に従うことにする。
 聞こう。そう考え、耳を澄ます。
「――起きなさい、起きなさい、起きなさい」「――起きて、起きて、起きて」
 やがて雨音を縫って空からやって来る二つの呼びかけに気付く。語りかけてくる内容は同じだが、含まれている感情は異なっていた。
 義務と懇願だ。
 彼の意識は浮上し始めた。

「えーい、まだるっこいわね。少年、とっとと起きなさい」
「い、痛ェ……」
「あ、起きた」
 目を開けた昭裕は二人の女性に見下ろされていた。
「少年、気分はどう?」
「大丈夫? アキくん」
「熱いほっぺがジンジン来てます。顔面強制スリム化計画?」
 跡切と朋香の問いかけに昭裕はそう状態を述べて、その身を起こした。
「そっか。なら問題なしね」「そうですね」
「どうしてそうなりますか、まったく。容赦ない平手はどちら様で?」
「アタシだよ」跡切が挙手する。
「なかなか少年が起きないものでね、じれったくなったのさ」
「わたしは今回は無罪だよ。というか、ここまで押っ取り刀で駆けつけたんだから逆に感謝してほしいぐらいね。ご飯ー、ご飯ー」
「……怒るのも呆れるのも疲れるのに変わりはないんで、もういいです。ところで俺はどうしてこんなところでさらし者になってるんでしょうか?」
 昭裕はいつの間にか四畳半探偵事務所の二階にいた。身体の下には敷布がある。
「藤宮婦人の車を降りた後、少年はすぐにぶっ倒れたのよ。覚えてない?」
「はあ……」昭裕は考え込む。「確かに一瞬すごく眠いと感じたような。それに駅に着いた後の記憶がきれいさっぱりない……です。なんでだ?」
「そりゃあ寝てたからね。ま、ごくごく短時間だけど」
 壁の時計は午後三時を示す直前だった。
「寝てた。じゃあ、跡切さんが俺をここまで運んできたんですか?」
「そだよ、ご名答」
「ううん? ずいぶん早いですね」
 探偵の返事に昭裕は疑問を感じた。早すぎる到着だと思う。藤宮夫人の車を降りたときには午後二時を間違いなく過ぎていた。そこから電車に揺られること一時間強、そして事務所に到達するために更に二十分。どんなにスムーズに帰ったとしても午後三時半は絶対過ぎていなければならない。しかも昭裕は眠りっぱなしの木偶の坊だったのだ。
「ちょっとした裏技を使ったの。ま、機会があれば見せてあげるよ」
「左様でしたか。ともかく、ありがとうございます」
 如何なる手段であっても、苦労をかけたのは事実であるため昭裕は頭を下げた。
 しかし、跡切は渋い顔になる。
「いやいやいや。礼は言わないで。少年が倒れた原因はアタシの判断ミスなんだから」
「どういうことです?」
「うん、簡潔に述べるとね、少年にかかっていた呪いが藤宮理美との二回目の邂逅でより強化されちゃったみたいなんだ。夢を見させるために強制的に眠らせる程にね。つまり、少年を彼女に会わせたこと自体が失敗だったわけ。雨の夢を見る原因は彼女にあったんだ」
「……俺、まだ夢の中ですかね。呪いなんて物騒な言葉が今聞こえましたが……」
「いいや、君は起きてるよ。ここは現実だ。確かにアタシはそう言った。呪い、ってね、英語で言えば、カース。まあ、ネットのリンクみたいなものと言い換えても問題ないけど」
「えーと、長文でわかりやすくお願いできますか」
 理解が状況に追いつかない。昭裕は跡切の様子を窺った。探偵は至ってまじめな顔をしていた。
「無論だ。少年にはしっかりと理解してもらわないといけないし、長々と説明してあげよう。では、……そうだね。まずここから行こうか。車の中での藤宮夫人の言葉を覚えてるよね? 少年が藤宮理美に以前病院で会っているんじゃないかってセリフ」
「はい、俺が山田さんの見舞いに行った話ですね」
「そう、それだ。嫌みや妬みから放たれた言葉だったとしても、それは的を射ていたの。少年は六月時点ですでに藤宮理美に会っていた。記憶に残っていなくてもね。少年はそこで彼女から一回目の呪いをかけられた。山田とやらのお見舞いに行ってから以降じゃない、雨の夢を見始めたのは? 違う。違わないよね」
 断定口調の問いかけだった。
「……確かに時系列的には一致してます。その通りですよ。けど、呪いだなんて非現実的過ぎじゃ――」
「ほんとにそう思える? 少年、君は付喪神という非現実を見たばかりじゃないか。なのに呪いは否定するのかい」
「……わかりました。受け入れます」
 昭裕は同意するしかない。あれほど希有な体験はまだ他にない。
「で、話は戻るけど。その呪いが今日再びあの娘に出会ったことで更に強化されちゃったわけ。道ばたでいきなり卒倒して寝ちゃうぐらいにね。理由は件の夢をより多く見させることにあるんでしょう。……これは想像だけど、最悪、少年もいずれ藤宮理美と同じような状態になるかもしれない」
「……同じって」呟く昭裕の背筋がぞっとなった。
 あれはとてもじゃないが人間としての尊厳を保っている状態ではなかった。同情はしても、立場を変わってやろうとはとても思えない。
「これからはさっきみたいに突然眠気に襲われることが度々あるはず。努々油断せず、常に気を張っていること。いいわね?」
 忠告した跡切が昭裕の左胸を指し示した。指示を心に叩き込んでおけ。そういうことだろう。
「……ああ、はい。頑張ります」
 昭裕はもちろん忠告を受け入れた。だが、実行できる自信は正直ない。一日中気を張って生きるなど逆に疲れて倒れてしまいそうだ。
「ねえ、トギさん。質問」
 黙りこんでいた朋香が唐突に手を挙げた。
「その子がいなくなったら、アキくんにかかってる呪いは解けますか?」
 冷たい声色だった。
(トモ姉!?)最悪な事態を想像してしまい、昭裕は咄嗟に声を出せなかった。
「あの子を殺すのはまずいだろうねえ」
 跡切は卓袱台に頬杖をつき、平然と昭裕の想像したことを口にする。
「その案で少年の問題が解決する可能性は否定できないけど、もっとまずいことが起きるかもよ。朋香くん、よく落ち着いて考えてみよう」
「はい」
「本人に会っていないあなたには想像しにくいだろうけど、藤宮理美が生き人形もしくはロボットみたいな状況になっているのは理解してるよね」
「ええ、きちんと分かってるつもりですよ」
「だったらさ、少年に呪いをかけた彼女をそんな風にした原因はそもそも何だろうね?」
「えっ!?」平坦だった朋香の声に少しだけ感情が入った。
「……そういえば、分かりませんね。どうしてでしょうか?」
「少年、藤宮理美はどんな女の子だった? すごく綺麗であること以外の特徴は」
「へ、へえ。美人なんだ」
「――そうですね。勉強もスポーツも秀でていて、特にリーダーシップ力がすごかったです。クラスの中心的存在ですね。彼女を中心にして、俺のクラスは動いてました」
「ふ、ふーん」
「うん。リーダーシップがあるってことは、人心を掴むのが上手いってことだ。つまり、見方を変えれば、人の思考や想いを的確に知れる人物ってことだ。――そんな子の周りでさ、人死にがたくさん出たらどうなるだろう?」
 昭裕は息を呑んだ。まさかと思う。
「付け加えると、藤宮理美だけが無傷だった。他の人間は少なくとも重傷を負っているというのにね。奇跡という言葉で片付けても良いけど、アタシは違和感を覚えたよ。これは想像だけど、自分の身を犠牲にしてまでも彼女を守った男の子とかがいたんじゃないかな。朋香くんが保管してたサイトのキャッシュ。アレの最後の方に書いてあったけど、彼女は事故の後、桜見台小学校を去っている。少年と同じようにね。引っ越し先は今日行ったあの家だ。でも不思議だと思わないかい? 彼女はあんな状態なんだ。とてもじゃないが学校には通えない。すでに学校と距離を置く状況にあったんだ。でも、去らねばいけなかった。それはアタシが想像したような事実が露呈し、彼女を庇って死んだ子の保護者から責められるのを藤宮家が恐れたから。そう考えれば、辻褄が合う。堂々巡りな感じだけど、これがアタシの想像に対する根拠だよ」
「くそっ。藤宮はやっぱり事故のせいであんな風になったんだ……。それで心を無くしちまったんだ」
 壮絶な体験によってもたらされたPTSDにより意思を喪失し、ただ命令に従うロボットのようになってしまった。跡切の言葉から昭裕は藤宮理美の状態をそう推測した。やるせない気分になり、そのまま俯いてしまう。けれど――、
「つっ!」
 額に衝撃を受け、すぐに顔を上げねばならなかった。跡切にデコピンされたのだ。
「少年。意気消沈してるとこ悪いけど、その解答では赤点だね。不可だよ。少年も冷静になってよく考えてみてよ。心を無くした人間が君を呪おうなんて考えるかな?」
「じゃ、じゃあ。藤宮は――」
 昭裕は跡切の問いかけに対し即座に『ノー』を選択した。そうできたことを素直に嬉しく思う。
「うん。藤宮理美は心を無くしてはいない。ただね、心が現実まで上がってこられないんだ」
「じゃあ、どうすればいいんです――」昭裕は勇んで質問する。
「……ちょ、ちょっと、アキくん、ダメだってばダメ」
 朋香が二人の会話に乱入してくる。
「人の心配してる場合じゃないよ。状況、ちゃんと分かってる? 自分のことをもっと考え――」
「ていっ」
「い、痛い」
 外部からの圧力により、朋香の頬がその動きを止める。頬を突かれたのだ。
「ふっふっふ。今の意見も赤点だよ、朋香くん」
 迎撃に使った人差し指をそのまま左右に振りながら、跡切は微笑む。
「助かる人間は多い方が良いだろう」

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「ええ、それは重々承知しています、って違うでしょうがトモ姉」
 あと一時間ほどで日付が変わるというのに、朋香は昭裕の下宿にいた。しかも二人ともベッドの上に座り、向かい合っている。
「なんでハタチの女が十八の男と同衾するなんてことを平気で了承するかな?」
「あっ、さっそく新しく覚えた言葉使ってるぅ」
「んなこたぁ、どうでもいいんだよ!」
 事の始まりは事務所で跡切が放った一言だった。
「あなたたち、今夜から徹底的に同衾しなさい」
「どーきん?」
 その意味を知らなかった昭裕は事務所にあった国語辞典を引き、見事に動揺した。
『男女が一緒に寝ること』
 そう記述してあった。
「昨晩もやったんだから、できるわよね。朋香くんは疲れるだろうけど頑張ってね」
 跡切があっけらかんと言う。
「はーい」と朋香が明るく返す。
「な、な、なっ!? 何言ってんですか! アンタは!!
「夢の中でアタシの落とし物を見つけるためには、誘導が必要でしょう。アレを手にしないと少年は意識をはっきりと保てないみたいだし。あっ、もしかして、Sの字のことを考えちゃってた? それともセの字のこと考えてたかな? ん、ん、ん」
「こ、このセクハラ探偵め」
 毒づくことが昭裕にできる精一杯の抵抗だった。
「じゃ、アキくん。寝なさい。お姉さんがしっかりと見守っといて、ア、ゲ、ル」
 朋香が持参した枕を抱いて、にっこりと笑う。
「寝れるか!」
 昭裕は自分の枕を殴る。前夜は途中からの乱入だったので気づかないまま眠れていたが、今晩は最初からだ。このシチュエーションで素直に眠りに入れる十代男子は異常だと昭裕は思う。たとえ相手がはとこであってもだ。
『でも、はとこだし、従姉以上に普通に結婚できるじゃん』
(黙っててくれ、ロリペード・大友)
 突然脳裏に現れ、悪魔の囁きを始める友を粛正していた昭裕は不意を突かれる。
「もうじれったいわね。とりあえず横になりなさいな」
「はうっ!」朋香に抱きつかれたのだ。そのまま二人してベッドに倒れ込んでしまう。
(……柔らかくて、熱い)
 それがはとこの感触だった。
 暑苦しい季節なのに、その熱っぽさを不快だとは思えなかった。むしろ心地よい。もっと知りたいと昭裕は朋香の背に手を回そうとして、辛うじて動きを止める。
(トモ姉は俺のこと、どう思ってるんだろう?)
 今、昭裕がその気になれば朋香をどうとでもできるに違いない。
 昭裕が踏み留まっていられるのは、自身の状況に対する危機感に加え、朋香の気持ちがいまいち分からないためだ。
(弟みたいなものなのかな、それとも)
 そこまで考えたところで歌声が聞こえてくる。
「ねんねんころりよ おころりよ」
 子守り歌だ。
(なんだ、そうなのか)昭裕は一人納得する。
 やがて昭裕は寝息を立て始めた。
「寝ちゃったんだ、アキくん」
 朋香が呟く。その表情は寂しく悔しそうだ。
「本当はこんな歌、歌いたくなかったんだよ。バカ、鈍感、意気地無し、間抜け」
 小声での罵詈雑言はしばらく続いた。

「ゲットして復活っと」
 普段より一オクターブほど高い声がした。肉体がまた子供に戻っているのだ。昭裕は夢の中で再び跡切の落とし物を拾っていた。昨日拾ったものと同じものだろう。夢の中、ジャージのポケットに入れたはずのそれは、またもや真っ暗闇の空間に落ちていた。
「俺の知らない現実と接点があるモノを夢の中で探せばいいんだよな」
 体は幼いが思考力だけはしっかりと回復している。昭裕は手段を得るための方法を復唱した。
 跡切曰く、手段と対を成す目的は、『夢から夢に入るんじゃなくて。現実から夢に入ること』だった。正直、女探偵の目論みを全くイメージできていないが、今はやれることをやっていくしかない。
 どこに向かおうか、と昭裕は耳を澄ます。
『歩け~、歩くのだ~』という寝ぼけた声はすっぱりと無視し、指向性を持った雨音を聞き分けてゆく。
「こっちにしよう」
 選んだ先では、小雨が降っていた。トクントクンと独特な音を立てている。成果を出す必要性から、今回は歓喜の雨を選択肢に入れるべきではないだろう。
 昭裕が歩き出そうとすると、前回と同じ現象が起った。
 あっという間に小雨に包囲されていた。
 腕を差し出すと、指先に雨が当たる。
 冷たい雨だ。
 昭裕は深呼吸してから、足を前に進めた。体が雨に包まれる。
「変だ。弱くなってる」
 異常に気づいたのは、歩き始めしばらく経ってからだ。
 トクン。トク、ン。ト、クン。ト、ク、ン。
 歩くに連れて雨がその存在感を増しているのは前回と同様だが、その独特な雨音はどんどん間隔を開け始めていた。
 雨足は一定のままなのに、である。
 現実の感覚では理解できない現象だ。
「ともかく進もう」
 不安感が昭裕を足早にさせた。
 やがて小雨が降るエリアを通り抜け、彼はまたもや誰かの五感を拝借した。
 ――けれど、何も見えなかった。
 嗅覚と触覚がその原因をすぐに教えてくれる。ツーンとした臭いが鼻を突き、べったりとしたものが顔を覆っていた。
(……血だ)
「痛い、痛いよ」「腕、腕、オレの腕」
 悲鳴が聞こえてくる。
 昭裕は耳を塞ごうとしたが、体の主はその手をぴくりとも動かさない。悲鳴の背後に雨音がかすかに聞こえてくる。
(俺は事故の夢にいるんだ)
 見えなくてもわかった。聴覚が事故の情報を次々と伝達してくる。
「嘘、嘘、嘘。こんなの嘘よ。みんなしっかりしてよぉ」
(あれは藤宮の声だ!)
「ねえ、宮野君。返事をしてよ! ……どうして、私を助けたの。ねえ、どうして、どうして! わからない。わからない。みんなみんな、生きて、生き返ってよぉぉぉ!! 死なないで、死なないで、死なないで、死ぬな、死ぬな、死ぬなぁ――」
 藤宮理美の絶叫が聞こえてくる。
(跡切さん、色々と正解みたいです)
『あの子はみんなを生かそうという想いから、逆に死者の思念の残滓に囚われてしまったんだと思う。怪奇系の物語なんかに良く出てくる残留思念という代物にね。つまり、藤宮理美の心は死者たちの思いの残り滓に阻まれて、現実に上がって来れなくなってしまっている。それがアタシの見解よ。君を呪ったのは、SOS、救難信号のつもりじゃないかな』
 それが跡切の弁だった。
「会いたい、会いたいよ」
 また誰かの声が聞こえてくる。
「――くん、伊東くん、会いたい。会いたい。会いたいよ。プール一緒に行きたい」
 その声は昭裕をひどく求めていた。
(俺を呼んでる)
 返事をしようにも体はやはり動かない。今いる体は他人のものであるし、昭裕はここにはいなかった。これは他人が過去に体験した出来事なのだ。
「でも、だめだ。わたしの足、ボロボロだ。これじゃバタ足もできないや。でも会いたいなぁ……」
 好意と絶望に満ちた声はそれきり聞こえなくなった。
(くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ)
 昭裕は諦めることなく体を動かそうとするが、次第に周囲の音さえもどんどん聞こえなくなってゆく。悲鳴も嘆きも何もかもが消えてゆく。
 昭裕は、独りぼっちになっていた。

「ほんとに大丈夫? アキくん」
 子犬がじゃれつくかのように朋香は昭裕にくっついていた。
「大丈夫だって。トモ姉は心配しすぎ」
「でもでも、顔色真っ青だったんだよ。死人みたいだった」
「……大丈夫だから。俺、ちょっと跡切さんのところに行ってくるから。トモ姉は寝といてよ。快適なんでしょ、俺の部屋」
 はとこを室内に押し込んで、昭裕は玄関のドアを閉めた。外に出て、ベランダからこちらを見送るはとこの姿が視界から消えると、昭裕はようやくため息をついた。
 実際は空元気だ。ひどい寝不足でもある。
「強烈すぎるよ」昭裕は独りごちた。
 現実には聞いていないのに、クラスメートたちの悲鳴や嘆きが耳にこびりついている。
 ひどく汗をかく昭裕を心配し、朋香が揺り起こしてくれたのは眠りに落ちて二時間も経ってない頃だ。その後は目を見開き、朝がくるのをひたすら待っていた。
 昭裕は一人の少女の名前を呟く。
 胸がぎすぎすと痛んだ。
「跡切さん。いますか?」
 朋香に倣い、昭裕は返事を待つことなく四畳半探偵事務所のドアを開けた。
 一階に跡切の姿はない。もちろん客の姿もない。
 不用心だなと一瞬思ったが、高価なものはまったくないのだから問題ないのだろう。
「跡切さーん」もう一度呼ぶ。
「いるよー。勝手に上がってきてちょうだい」声だけが二階から下りてきた。
「いらっしゃい。適当に座って」
 二階では跡切がむしゃむしゃと果物らしきものを食べていた。形は瓢箪型だ。
「失礼しますね。何ですか、それ?」
 昭裕は卓袱台を挟み、探偵と向かい合わせになる位置で胡座をかいた。
「収穫物。○☆△□だよ」
「は?」まったく聞き取れなかった。
「……もう一個あるけど、もしかして食べる?」
「毒々しいので遠慮しときます」
「あら。おいしいのに」その瓢箪はレインボーカラーをしていた。
「ごちそうさま。で、成果はあった?」
 ティッシュ・ペーパーで口元を拭いながら、跡切が聞いてくる。
「あると言えばあります」
「奥歯に物が挟まってるねー。愚痴りたい心境だったりする?」
「……ビンゴです」
「じゃ、話しちゃいなさい。守秘義務は守るよ」
 昭裕は昨晩の夢のことを包み隠さず話す。一人で抱えるのは正直辛かった。だからと言って、朋香には話せない。あんな夢を見たと知ったら、こちら以上に悩むに決まっている。
「うーん。過激な告白だねえ。いやこの場合は独白になるのかな」
 話を聞き終えた跡切は天井を見上げ、「熱いねー、若いねー、厳しいねー」と呟く。
「ひとつ聞きたいんですけど」
 昭裕は居住まいを正した。昨日聞きそびれたことがあるのだ。
「はいな。少年は依頼人なんだから、遠慮はいらないよ。一つと言わず、三つ四つと聞いてくれたまえ」跡切がなぜか胸を張る。
「遠慮はしてませんけど一つです。跡切さんの言う残留思念って、今現在のことを考えたり思ったりできますか?」
「んー。無理だね。電子データみたいなものだもの。念のため言っておくと、みんなが夢想する幽霊や魂みたいなものではないよ。現実世界で人に会って、喜んだり、悲しんだり、怒ったりはしない。そんな便利なものでは決して無い。強い感情の発露で生まれて物に宿ったりするけど、普通はすぐに消えてしまうもの。今回は人の心を保存場所にしているから未だに存在できてやっかいなことになってるけど、これから先どんな風になろうとか、どんなことをやりたいとかを考えたりはしない。そういうものよ」
「でも、俺。今の俺に呼びかけてくる声を聞きました」昭裕は食い下がった。
「本当に? いつの話? どの夢の中で?」
「駅前でぶっ倒れたときです。巻き込んでごめんなさいって。俺を憐れんでるみたいでした。それと『外の声を聞いて』とも言ってました。残留思念に思考力が無いのなら、こんなことはとても言えないのではないでしょうか」
「う、うーん……」跡切がうなり声を出す。
「巻き込むっていうのは、俺が同じ夢を見るようになったことですよね。……それにあの声は間違いなくアイツでした」
「アイツって……誰? どなた?」
「跡切さんの言う『過激な告白』少女です」
 それは歓喜の雨に存在した縄跳び少女でもある。どうして少女があの時図書館の裏にいたのか今の昭裕にははっきりとわかる。
「……むぅー、確かにしっくりはするねえ」
 跡切は頭をかくと一枚のレポート用紙を卓袱台に置いた。
 そこには、伊東昭裕と藤宮理美の現状が非常にシンプルに示されている。昨日、説明に用いるために跡切が書いたものだ。昭裕はその時のやり取りを回顧し始めた。

「この丸がヒトの心と思ってちょうだい」
 レポート用紙を半分ほど使い、跡切はフリーハンドで大きく円を描いた。次いでその中に喜、怒、哀、楽と書く。
「この内部から色々な想いが生まれ出てくるわけ。もちろん実際は脳をはじめとする肉体との関係もあるからこんな単純ではないけど、今はそう考えて。ここまではいい?」
 昭裕と朋香が頷くのを見てから、跡切は解説を続ける。
「でも、藤宮理美の場合はこうなってる」
 円の中に小さな円が次々と描かれ、やがて内部すべてを埋め尽くした。
「この小さな円一つ一つが死んだ子供達の残留思念よ」
「ぎゅうぎゅうの満員電車みたい」
 朋香が感想を述べる。
「そうね、その例えは近いかも。藤宮理美の心は、満員電車の乗客と同じく身動きがとれず、外に現実に出られなくなってる。でも、彼女は頑張った」
 レポート用紙の残りスペースにまた大きく円が描かれ、二つの大きな円の間に線が引かれる。円と円がつながった。
「こっちの円は少年の心」
 新しく描かれた円が指差される。
「そしてこの線が呪いという名の……SOS。いや今はリンクと言った方がいいね。この線を通じて、少年は藤宮理美の心を占拠している残留思念の影響を受けているんだ。それが雨の夢を見る原因なんでしょう。で、藤宮家を来訪してしまったためにこの線がより太くなり、より影響を受けるようになった」
 線が太く塗り直された。
「ここまでが現状だよ。OKかな?」
「イエスです」「はい」
「うん、よろしい。じゃ、現状打破に移ろうか。まず、朋香くんの案。藤宮理美を殺すことだけど、これは却下だね」
「跡切さん、トモ姉は一言も殺すなんて言ってませんが」
 昭裕は一応フォローしてみる。
「別にいいよ、アキくん。思ったのは事実だもの。でも、どうして却下です?」
「線が太く、つまり、つながりが強くなってるんだよ。今、宿主がいなくなるような事態が起ればすべての残留思念が少年の心に引っ越してくるかもしれない。それは最悪な事態だよね。藤宮理美は死に、朋香くんは殺人罪で捕まり、少年は生き人形となる。アタシは犯罪教唆になるのかな。この案は軽挙妄動が具現化したようなものだ。アタシたちはなるべく穏便に藤宮理美の心を残留思念から解放しなくちゃならない」
「うぅ、反省します」
 朋香が小さくなる。昭裕はホッとし、少しだけ笑った。

 ダメ。
 叫び声がどこからか聞こえてきた。次いで衝撃に襲われる。
 パチン!!
「……なぜに頬を張られたんでしょう?」
 昭裕の顔のすぐ傍で、跡切の右手がパーになっていた。
「努々油断せず、だったよね。今、眠りかけてたよ」
「まさか。目、開けてましたよ」
 昭裕は頬をさする。自分は昨日のお浚いをしていたはずだ。
「目を開けたまま寝てたんでしょ。起きてたら、あの程度の平手打ち避けられてる。引っ張り込まれたら第二の藤宮理美になっちゃうわよ。おそらくだけどね」
「……以後、気をつけます」
 さすがに起床手段が毎度毎度物理攻撃というのはいただけない。
「それで何がしっくりするんですか?」
 復習を止めて質問する。
「呪いと少年との関係が、だよ。昨日のアタシの説明、実はこじつけがある」
 跡切がトントンとレポート用紙に描かれた線をペンで叩く。
 昨日の会話を反芻し、昭裕は一つの単語を拾い出した。
「もしかしてSOSですか?」
 明確な根拠は無い。昨日跡切が少し言い淀んでいたからそう発想しただけだ。はっきり言えば、山勘である。
「うん、ご名答」正解だった。「朋香くんが言ってたよね、満員電車みたいって。それを前提に想像してみてよ。もしも、少年が小学生ぐらいの身長でさ、満員電車のド真ん中に立っていたとしたら、外の様子は見えるかい?」
「無理ですね」即答する。
「そう無理だ。藤宮理美は視覚的にとらえられる位置に少年がいたとしても君に助けを求めようとはしない。できない。思えないんだ。母親との、感情の交わっていないやりとりを見た君ならわかるはずだ。同様に普通に生活している君を羨み、憎んだりすることもないだろう。だいたいSOSを出したいのなら、八年も待たずにずっと傍にいてくれている母親にでもすればいい」
 筋は通っているが、新たな疑問も発生する。
「じゃあ、俺に呪いをかけたのは藤宮じゃないってことですか?」
「いや、それは彼女だと思うよ。正確に言うと、彼女の力だけどね。少年の話から察するに、藤宮理美の人心を掌握する力はかなりのものみたいだ。たぶん呪術に類する才を持っていたんじゃないかな。残留思念を取り込んでしまったのも、そこに原因がありそうだね。あっ、呪術ってわかるかい?」
「だいたいのイメージはありますよ。ええっと、シャーマンにドルイド、あとは陰陽師とかですよね」
「ほう、詳しいじゃないの」
「ええ、まあ。詳しいかも知れません」
 昭裕は苦笑いを浮かべた。
「説明が省けて助かるよ。もしかして、朋香くん経由で得た知識?」
「……お察しの通りです。トモ姉に押し付けられた種々雑多な本から知りました」
 それは昭裕が中学生の頃の話だ。伊東家には定期的に荷物が届いていた。送り主は朋香で、受取人は昭裕。そして、その中身は大抵、一枚の便箋と数十冊の本だった。こちらの年頃を考えてか、ライトノベルの類も多く含まれていた。結果、昭裕はその手の知識を否応なく吸収していた。ちなみに便箋には『きちんと最後まで楽しく読んでね。捨てちゃ駄目だよ』みたいなことが書かれていた。……今にしてみれば、あの行為の本意は励ましではなく、書庫として利用することにあったのかもしれない。もしそうならば、即座に送り返すべきだった。段ボール箱が堆く積まれた実家の自室の現状は昭裕をげんなりとさせる。
 ハァ~。気持ちを落ち着けるため、大きく息を吐いた。動悸と息切れの薬にはまだ頼りたくない。
 一方の跡切は一人苦悩する青少年を見つめニヤニヤ笑いを浮かべていた。
「悔恨は終わった?」
「……はい」
「なら、話を戻そうか」
 区切りをつけるためか、探偵はいきなり無表情とも言える真剣な顔つきになった。そこに感情の揺らぎは見られない。
「さて、藤宮理美はある種の才を持っている。けれど自らの意思ではその力を使わない。使いたいと思ったのは他の誰かということになる。さあ、少年。ここまで言えば、もう君は理解してしまったはずだ」
「はい、わかります。しっかりと」
 昭裕の脳裏に一人の少女が浮かび上がる。
「信じがたいけど新種と呼べるほどに力強い残留思念なんだろうね。残留思念は一人の人間から複数発生できるから、ひょっとすると複数の残留思念が融合したものかもしれない。人格を模倣できるほどに複雑に組み合わさった複合思念だ。チューリングテストなんて余裕でパスできるほどのね。そして他の思念たちが現実との接点など持たないまま、ただひたすらに藤宮理美の心に居座っていたのに対し、『過激な告白』少女の思念は常に少年を捜し続けてたんだ。だから、藤宮の力を使い、呪いをかけようと、少年とのつながりを持とうとしたんだよ。二回もかけてきたのは、まあ若気の至りってやつかしら。単純に抑制できてないだけかもしれないけどね。うん、こんなとこかな。以上で解説終わり。いやはや我ながら、長く喋ったわ。昨日も今日も」
「――お茶ありますよ」
「おお、気が利くね。さすが元助手だ」
 昭裕がペットボトルのお茶を差し出すと、跡切が相好を崩す。
「いえいえ。外、暑かったですから。ついでですよ、ついで」
 昭裕はそう言いながら窓のある方に顔を向け、そして静かにため息をついた。
 今更ながら自分を取り巻く状況に困惑する。
(俺がやってることは正しいんだろうか……)
 確かに突発的な眠気に襲われるという今の事態は歓迎すべきものではないし、藤宮理美の意識や感情が戻れば良いとは当然思っている。
(でも、あいつらは藤宮の心を拠り所にしなければ生きていられないんだ……)
 藤宮理美の心を残留思念から解放すれば、波及的に昭裕の夢見の症状もなくなるのだろう。けれど裏を返せば、それは残留思念たちの消失を意味するのだ。想い出を無かったことにするのとは次元が違う。単純でひどく残酷なオルタナティブが昭裕を待ち構えていた。
 ボボーン!
「い、今は絶対に寝てませんでしたよ!」
 ペットボトルが昭裕の陰鬱な気分を破砕する。
「まさかとは思いますけど趣味で攻撃していません?」
「あっはっは、さすがにそれはないね。今の一撃は君に活を入れたんだ」
 あっさりと否定された。
「悩んでるようだけど、それは禁忌だよ。やっちゃいけないことだ。生者と死者を天秤にかけるなんてことはね」
 読まれていた。ついでに軽く睨まれもした。跡切は更に追い打ちをかけてくる。
「『過激な告白』少女の残留思念が本当に意思らしきものを持ってるのならさ、『巻き込んでごめんなさい』というセリフは後悔から出たものじゃないかな?」
「そう……ですね」
 否定はできない。したくなかった。
 巻き込んでごめんなさい。
 その言葉が憐憫ではなく、後悔から出たという結果は昭裕にとってショックなものであったが、それでも認めるしかない。
 せめて感情だけでも存在していると信じたかった。

「やれやれ、なんとか乗せられたかな」
 昭裕が帰ると、跡切は床に大の字になった。薄汚れた天井が見える。
「アタシの説得にしては、上出来だね」
 笑みを浮かべ、一人ウンウンと頷く。
「少年には頑張ってもらわないと。それにしても儚いねえ」
 外では蝉がやかましく鳴いていた。
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