第十一章

文字数 10,053文字

 午前五時。それが跡切と昭裕の妥協点だった。
 明日飛を跡切の裏技で家に送った後、昭裕はすぐに次の行動に移ることを主張した。けれど探偵は断固として首を縦に振らなかった。
「眠らなくてもいいから、少し体を休めなさい。アタシも休むから」
 下宿に戻った昭裕はベッドにもたれ掛かり、目をつむることなく時間が過ぎるのを待った。眠気は不思議と襲ってこない。丸一日以上寝たからではなく、気が張っているためだろうと昭裕は自己分析する。自他ともに関係する嫌な過去を知るのはもうこりごりだった。
 朋香はちらりちらりと昭裕の様子を窺いながらベッドで本を読んでいる。
 そして時が来た。
 四畳半探偵事務所にいるのは、昭裕、跡切、朋香の三人だ。
 三人が囲むテーブルの真ん中には、一本のシャープペンシルがあった。錆に侵されているが、原形はしっかりと留めている。
 本来なら地中で眠り続けていたはずの品だ。
「体調はどう? 少年」
「――大丈夫です」
 昭裕はステーキサンドを飲み込み終わってからそう答えた。少なくとも体力面はまだ大丈夫なはずだ。いずれは限界が来て、倒れるかもしれないが。
「ホントに? 熱があったり、お腹が痛かったりしてない? 目眩とかもない?」
「ないないない。零度、零度」
「それ、逝っちゃってるから。どれどれ」
 朋香が互いの額を合わせようとジャンプする。昭裕は慌てて避けた。
「なんで? どうして逃げるの!? 人が青春真っ盛りな構図でわざわざお熱を測ってあげようとしたのに」
「いや、今のはどう見てもヘッドバットだろ。頭突きだろ!?
「……てへっ」
「やる前に気づこうな」
「うん、元気なようだね」
 跡切が件のシャープペンシルを手に取ったのを皮切りに準備が始まる。
 テーブルとパイプ椅子が片付けられ、四畳半内に可能な限りのスペースが作られた。片付けの理由は、どれ程の規模の扉が展開されるか予想できないためだ。インコの時と違って、扉を長時間に渡って展開させる可能性があるため、人目のある野外は不可だった。また、昭裕は念のためトイレに行き、下から出せるものを可能な限り全部出した。スマートフォンや財布もはとこに預ける。他者の心の中で物品を紛失した場合、回収はまず不可能と跡切に言われたからだ。
「よし、準備完了だね。じゃあ、始めましょう」
 八年間行方不明だったシャープペンシルが跡切の手によって『ドアノブ』に差し込まれる。
 すぐに変化が生じた。
 シャープペンシルがクローム色の鍵に変化する。『ドアノブ』から扉のパーツが生まれ出て、空間を浸食してゆく。
 程なくして扉は完成した。
「引き戸にドアノブがついてるのって、けっこうシュールだわ」
 朋香が感想を漏らす。
「まぁ時々あることだ。気にしない気にしない」
 昭裕はその扉をしばし見つめてから口を開く。
「桜見台小学校の教室ドアと同じ形です。覚えがあります」
「少年が見た夢からして妥当なとこかな。よし鍵を回すよ。少年、心の準備は良い?」
「お願いします」
「あぁ、それとアタシの落とし物見つけたら現実に拾っておいてちょうだいな」
 探偵の言葉に昭裕は黙って頷いた。
 扉が開く。
 見えたのは闇だ。
 初めて肉眼で見る濃厚な闇。
(この先にあるのが――藤宮の心なんだ……)
 ひどく現実感のない、不可思議な景色だった。
 奥行きの深さが全く分からない。ひたすらに漆黒が広がっている。誰も何も出てこなかった。
 つまり、この場に踏みとどまっていても何も変わらない。何も起こせない。
 理解できたのはそれだけだ。
 ……ならば、進むしかない。
 けれど――、
「やっぱりわたしも一緒に行く!」
 はとこの両手が昭裕の右手をしっかりとくるむと、彼の足は止まってしまう。
(……トモ姉)
 当惑する。こういう時、どういう対処をすればよいのか。いまだ少年である昭裕には今ひとつ分からない。
 助け船を出してくれたのは、跡切だ。
「ダメよ」
 女探偵は冷たい声で朋香を責め立てる。
「さっき言ったよね、アタシや朋香くんはノイズにしかならないって。残留思念たちにすれば、アタシたち二人は未知の存在なの。付いて行っても、余計なトラブルが起きるだけ。あなたの望みは何なの? 少年の邪魔をすること? 少年を不幸にすること? そうじゃないでしょう」
「トモ姉」
 はとこの手を強引に振り払うことができず、昭裕は言葉だけで彼女を促した。
 それは相手に重荷を負わせる卑怯な行為となるのだが、昭裕は気づいていない。
「わかったわ」
 朋香の手から少しだけ力が抜ける。
「ちゃんと帰ってくるのよ。……そうしないとわたしにご飯奢れないんだから」
「ふえっ!?
 昭裕はヘリウムガスを吸ったかのように奇妙な声を出した。はとこの論理展開に追いつけなかった所為だ。飛躍が凄まじすぎる。
「うん、アタシも頼むね」
 跡切からも追い打ちをかけられた。
「……いくら考えても俺のメリットが見当たらないんですが」
「何言ってるんだい。女の幸せは男の幸せに繋がってるんだよ」
「そ、そ。トモカお姉さんの幸せはアキくんの幸せなのよ」
「い、生き地獄ですか、ここは。なんつう不条理ワールドだ」
「そう、天国だと思うけど」
「ですよねー」
「あのねえ」
 昭裕は呆れ声を出すしかない。
「ふふ、よかった」
 すると唐突に朋香が微笑みを浮かべた。
「アキくんの手、ガチガチじゃなくなったわ」
「あっ」
 指摘された昭裕は、はとこの手を振り解き、手をグー、パー、グー、パーとさせる。確かに体から余計な力が抜けていた。
 跡切が言うには、今までにも他人の心に生身のまま踏み込み、そしてきちんと戻ってきた人間は何人もいるらしいが、それは安心材料には全くなっていなかった。だから緊張は解けなかった。それがこうもあっさりと解されている。
(まさか、だよな)
 昭裕の胸裏に一つの疑惑が浮上した。
 もし、もしもの話だが、この一連の流れが目前の二人の女性により最初から計画されていたとすれば、昭裕は見事なまでに踊らされていたことになってしまう。
 全てを見透かされているようで、空恐ろしかった。それに、己の未熟さが恥ずかしくもあった。
 この二人には敵わない、と昭裕は痛感する。
 そして、覚悟が決まった。
「行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
 昭裕は闇に突入した。

「……ない、なくなってる」
 昭裕は扉があったであろう場所、背後に顔を向けた。
 ヒトの心の内にやって来た。そんな感慨を抱く暇はなかった。
 扉を通り抜けた瞬間、何も見えなくなったのだ。
 視覚が駄目になったのではなく、周囲から光が無くなったのだと思いたいが自信はない。
 数歩、後退りしてみたが四畳半探偵事務所には戻れなかった。
 正直なところ、闇にひどく恐怖を覚えていた。夢の時とは比べものにならない。いくら覚悟を決めようと、怖いものはやはり怖いのだ。そんな当たり前のことを昭裕は再発見していた。
 体が闇に飲み込まれるような気がする。
 辛うじて理解できたのは、自分が十八歳のままであるということだ。
 声に変化はなく、べたべたと全身をさわってみても肉体は普段と同じように思われた。記憶も直近のものがちゃんとある。先ほど食べたのはステーキサンドで、現に口内に微かな味わいが残っている。付言すれば、はとこの手の感触もまだしっかりとある。……だから五官はきちんと機能しているはずだ。目はたぶん見えているはずだし、耳は現に自分の声を聞いている。頬をつねってみれば痛みもある。また、呼吸も不思議とできているし、前後左右は分からずとも歩くこともできている。
 自分は生身であの闇の中にいるはずだ。
 ――なのに雨を感じられなかった。
 雨音が聞こえなかった。手を前に差し出しても顔を上に向けても雫と接触できなかった。
 ――虚無。
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 自分が見ていた夢とはまた違う異質な場所……。
「んなはずねえ!」
 恐怖に打ち負かされぬように、わざと乱暴な口調で昭裕は己を鼓舞する。
 何かあるはずだ。手掛かりを探し、懸命に周囲を見遣る。目を見開き、首を回し、体を回す。
 見ろ、見ろ、見ろ、見ろ、探せ、探せ、探せ、探せ。
 呪文のように自分のすべき行為を唱え続ける。
「あった!」
 発見したときには自然と叫んでいた。
 それは微かな光明。
 直感がその正体を導き出した。光は跡切の落とし物に違いない。
 昭裕は走り出した。
 他に見えるものがないため、光との相対距離はわからない。
 故に昭裕はいつの間にか黒い物体を握りしめていた。
 唐突に雨を感じられるようになる。
 闇に包まれているのは相変わらずだが、昭裕はホッと安堵の息を漏らした。
(跡切さんの落とし物のおかげなんだろな、やっぱり)
 悩みに答えてくれるものは当然ながら現れない。昭裕は確かな存在感を漂わせているそれを今度こそズボンのポケットに仕舞う。
 さて、と先ほどより少し落ち着いた気分で今の状況を確認し、分析する。
(雨音は聞こえないけど、確かに雨は降ってる。これは霧雨か。――移動してみても同じ。雨音がしないから、雨たちの種類は分からない。いや、待て。そもそも色んな種類の雨がほんとに降ってんのか。……夢の時と違いすぎやしないか。俺に何も伝えてこないじゃないか)
 百人の傘を持つ人間がこの場にいたとして、その内の九十九人はおそらく傘を使わない。そんな程度の雨が降っているだけだ。
「……そっか。俺、シカトされてんだ」
 昭裕は一足飛びに結論に達した。原因にも自ずとたどり着く。跡切とビオトープ内でした会話時の思考が役に立ったのかも知れない。
(いきなり八歳も年喰った同級生が現れたら、普通は誰か分かんないよな)
 実に単純明快な原因と結果だった。よって、困惑はしない。実際、跡切の立ててくれた計画に今のところ大きなズレは生じていなかった。後は昭裕次第なのだ。
 やらねばならないことは分かっている。
「おーい、みんなー」
 実行に移す。まずは呼びかけだ。
(なんかテレビでやってた往年のアイドルみたいだな)
 小っ恥ずかしい気分は声と一緒に吐き出してしまおう。旅の恥はかき捨て、と自分に言い聞かせる。
「桜見台小学校五年一組のみんな!」
 昭裕はそこまで言ってから、大きく息を吸った。
「集合!!
 状況に変化が生まれる。
 霧雨が突如止んだのだ。
 そして、闇の中に人影が次々と現れ始めた。
 ――黒い影。
 闇の中なのにその存在をはっきりと認識できる。これらが跡切の言う残留思念なのだろう。思いの外、たくさんの人影がいる。事故の犠牲者の一人一人が多くの残留思念を発生させたに違いない。
 凄惨で悔いの残る死。その証だ。
 昭裕は十重二十重に取り囲まれた。
 残留思念たちの輪郭は確かに人形であったが、表情どころかその性別も不明だ。やはり人間とは違うのか。
 けれど反応はあった。
「誰?」「お兄さん、誰ですか?」「どこのどいつ?」「お前誰だよ?」
 疑問符があちらこちらから湧き上がってくる。
 どの残留思念も彼を伊東昭裕として認識していない。
(だったら、こっちから教えるしかない)
「俺は、桜見台小学校五年一組出席番号三番の、伊東――」
 昭裕の自己紹介は途中で遮られた。
「嘘だ!」「デタラメ言うな」「嘘つきは泥棒の始まりなんだぞ」「だまされないんだから」「おっさん、アンタが小学生なわけないじゃん」
 黒い影たちが否定の言葉を投げつけてくる。
「――昭裕でした! 今は十八歳の大学生だけどな!!
 昭裕は対抗し、声を一層張り上げる。
「大学生?」「アッキー?」「なんで年喰ってんの?」
 少しだけ反応が変わった。人影の何割かがざわついた。
 生者と死者を天秤にかけてはならない。
 跡切の弁に責任をなすりつけ、昭裕はここぞとばかりに叫ぶ。
「違う! 俺の姿が当たり前なんだ! 五年一組のみんなはキャンプに行っただろ、夏に。……俺が風邪で休んだやつだ。その帰りにみんなは事故に遭った。五年一組の児童の内、十五名が命を落とした大事故だ。……し、死んだのは誰だと思う? ここにいるお前らだ……、お前らなんだよ。お前らはもう生きてないんだ。小学五年生の夏はとっくの昔に、八年前にもう終わってる。生き残った奴らは中学どころか高校も卒業して、それぞれ違う道を歩いてる。俺も、伊東昭裕も今は大学生なんだぜ。しかも下宿で一人暮らしだ。お前らには考えられないことだろ。だから、だから藤宮理美を縛り付けるな。藤宮のことが好きなら、これ以上生きてる彼女を苦しめるなよ! 藤宮に今を生きさせてやれ!」
 昭裕は『死』という言葉を八年ぶりに口にした。ずっといえなかった言葉だ。
「……」
 人影からの反論はなかった。
 あぁ。あぁー。
 代わりに細い悲鳴が響いてくる。人影たちがむせび泣くような音を発している。
 悲しみ、苦痛、悔しさ、生きていたかったという気持ち。
 様々な固まってしまった想いを悲鳴は含んでいた。
 それらは寄り合い、つむじ風となった。昭裕に向かってくる。目をぎゅっと閉じ、倒されまいと彼は歯を食いしばる。
 やがて風は止んだ。
 そっと目を開けると、深い闇が薄闇に変わっていた。
 人影の大半が消滅していた。
(ごめん。みんな、ごめん)
 昭裕は詫びた。詫びるしかなかった。
 消えていったのは、事故の恐怖から生まれた残留思念だろう。彼らは昭裕の提示した現実に耐えられず、存在できなくなったのだ。
『許容範囲を超えた情報を与えれば、残留思念は自壊する』
 跡切はそう言っていた。
 昭裕は残酷にそれを実行したのだ。彼らを壊したのだ。
(あとはあいつらだ)
 昭裕はきっと顔を上げる。もう逃げてはいられないし、逃げられない。そういう局面に既に入り込んでいる。
 薄闇の中にちらほらと人影が見えた。
 残りは、事故以前の強く心に刻まれた出来事をきっかけとして生まれた残留思念たちに相違ない。夢の中で五感を共有した連中だ。
「コバちゃん」
 周囲を見遣りながら、友だった者の名を呼ぶと、一つの人影が揺らいだ。
 ただの影だったそれにうっすらではあるものの表情が浮かび上がってくる。
(あれが、コバちゃん……の残留思念)
 旧友の顔を見分けるのに八年のブランクはまったく関係なかった。
(もっと近くで話したい)
 昭裕は懐かしさを相手に抱いた。
 そうして昭裕は旧友の残留思念に向かうが、相手はこちらが一歩進むと同じ距離だけ後ずさってゆく。
(夢の時と同じで、俺に来て欲しくないのか? 話をしたくないのか? 俺に責められるって思ってるのか?)
 自身が鈍感で愚かなだけかもしれないが、旧友がどうしてあんな事をしたのか昭裕には思い当たる節がない。
 近づくのを諦めて、その場で口を開く。
「なあ、コバちゃん。――どうして俺のシャーペン盗ったんだ? しかもビオトープなんかに隠して。訳わかんねえぞ!」
 そこまで言い終えてしばし待つが、返事はなかった。謝罪の言葉など一欠片もない。
 相手はじっと突っ立っているだけだが――、
(でも、つらそうな顔してるじゃないか)
 昭裕にはそう見えて仕方なかった。だから言葉を続ける。
「――ってホントなら怒鳴るとこなんだろうけど、今回は許す。怒らない。だから、そんなしょぼくれた顔すんなって。一緒に笑おうぜ」
 昭裕は人影に笑顔を見せた。
 実際、謝罪の言葉など要らないのだ。欲しくもなかった。確かに嫌な出来事だが、八年も昔のことである。たとえコバちゃんに全責任があるとしても、何年にも渡ってただひたすら罪の意識に苛まれ続けるというのは残酷すぎる罰だと思う。
 それが本人ではなく、残留思念であってもだ。もう罰は必要ない。だから、安心させてやりたかった。それ故に浮かべた笑顔だ。
 空間がまた少し明るくなる。
 人影が一つ消えていた。
「またな、コバちゃん」
 昭裕は呟いた。
 ――うん、また遊ぼうぜ。
 そんな言葉が返ってきた気がした。
 コバちゃんの残留思念が消滅した後も昭裕はクラスメートの名を呼び、語りかけ続けた。
 話題はもちろん夢の中で共有した出来事についてだ。
 時に同情し、時に褒め、時に指摘し、時に激励し、時に慰める。
 昭裕はそんなことを繰り返した。
 正直、自分の言葉が正しいのか間違っているのか丸っきり分かっていない。
 しどろもどろになったりしながらも、無我夢中になって話しただけだ。
 そして、いつしか周囲は真昼のような明るさになっていた。
 人影の姿がなくなっている。
 ただ宙に球体が一つ浮いていた。それはまるで光り輝く黒真珠のようだ。
「――」
 昭裕は少女の名をそっと口にした。
「えへへ、ついに呼ばれちゃった♪」
 嬉しげな声が空間に響いた。
 黒真珠がパッと拡散する。形を変えつつ再び収縮し、それは少女の姿を取った。
『コバちゃん』たちとはまるで異なっている。
 はっきりとした存在感があり、どう見ても生身の人間に思える。
 小学五年生の『少女』が十八歳の昭裕の前に立っていた。
「こんにちは、伊東くん」
 少女は能動的に話しかけてくる。
「ね、ちょっと一緒に歩こ」
 トットットッといきなり小走りに駆け出されたので、昭裕は慌てて横に付く。クスッと笑ってから、少女が歩調を緩める。
 並んで歩く。
「二人きりで歩くなんて……、デ、デートみたいだね。この後どうしよっか?」
 自分から誘ったのにもかかわらず、少女の顔が紅葉のように赤かった。手をもじもじとさせている。
 昭裕は思わず周囲を窺った。
 人影はみんな消え、光が闇に替わって空間を満たしている。
 確認できたのは、それだけだった。
 ここにはファストフード店も映画館も図書館も水族館も有りはしない。
 それどころか太陽や雲、土や緑さえも存在しない、だだっ広いだけの空間なのだ。
 目に映るは、傍らにいる存在だけ。
「……」「……」
 あまりに難易度が高いデートであった。微妙な空気が二人の間に流れそうになる。
 それを辛うじて阻止したのは、少女の方だった。
「あ、そうだ!」
 少女は柏手を打つように掌を合わせた。その姿がほんの一瞬だけ揺らぐ。
「えへへ、ちょっと見ててね」
 少女はいつの間にか、縄跳びのロープを手にしていた。
 ピョコピョコとバックステップし、昭裕から少し離れると少女はロープを回し始めた。
 昭裕は少女のジャンプを自然と数え始めていた。
 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十、三十一、三十二、三十三、三十四、三十五、三十六、三十七、三十八、三十九、四十、四十一、四十二、四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八、四十九、五十、五十一、五十二、五十三、五十四、五十五、五十六、五十七、五十八、五十九、ろくじゅ――。
 六十回目にして少女の細い足首がロープに引っかかるが、
「わ! わたし、すごい。新記録が出たよ」
 少女は無邪気に喜びの声を上げ、
「ちょっとは成長できたかなあ」
 眩しいものを見るようなまなざしで昭裕を見上げる。
「伊東くん、背が高くなったね。背伸びしても、もう並べないや」
 爪先立ちになった少女の身体がゆらゆらと揺れる。少女と昭裕との身長差は三十センチほどあった。
 八年前の昭裕がもしここにいれば、二人の目線はほぼ同じ高さだったろう。
「えと、えとね」
 少女の笑顔が突然曇る。
「お、怒ってるよね? 巻き込んじゃったこと」
 怖々と聞いてくる。
 昭裕は首を横に振った。怒る権利は自分にはない。その権利を行使するに相応しい人物は他の誰かだ。
「良かったぁ」
 少女はホッと息をつくと、再度、背伸びをした。ウーンと声を出している。先程より頑張っているようだがそれでも昭裕との身長差は埋まらない。
「だめだぁ」
 背伸びを止め、少女は軽く唇を噛んだ。
「伊東くんはすごいなあ」
 そして、夢の中で昭裕が聞いた言葉を少女は繰り返した。
 ――?
 昭裕はまたしても少女の言葉の意味するところを捉えられない。  
「ほんとにすごいよ、こんなところまで来ちゃうんだから。――やっぱり、藤宮さんのために来たんだよね?」
 少女は昭裕の顔をじっと見つめながら問うてくる。
「……」昭裕は答えに窮した。
 対照的に少女は饒舌になってゆく。
「藤宮さん、綺麗だもんね。クラスの女子、みんなの憧れだった。性格も良いし、勉強もできて、運動もできる。家もお金持ちみたいだし、あんな人を大和撫子って言うのかな。男子は全員、藤宮さんのことを一回は好きになってた。でしょ?」
 揶揄するように少女は尋ねてくる。
「……」昭裕はまたも言葉を発せられない。
 ――けれど、違うのだ。
 少女は勘違いしている。
 昭裕が答えられない理由に藤宮理美は入っていない。
 死者、先行きをなくした者。その残留思念が過去から投げつけてくる恋心。
 昭裕はその想いに解を示すべきかどうか、その是非自体について悩んでいた。
 好きや嫌いの段階の話ではない。
 素質、容姿、そして性別さえも悩みの前提に入っていない。
 ――死者、その近似値である残留思念に未来へしか進めない生者の想いを受け渡して良いものか? どれほど言葉を吟味しようと、それは虚ろなものにしかならないのではないか?
 悩みの根底にあるのは、そうした疑問だった。
 つまるところ、伊東昭裕は恋に対して臆病なのだ。
 少女は喋り続ける。
「いいなあ、藤宮さん。わたしもあの人みたいになりたかったなぁ。そしたらさ、絶対伊東くんもオッケーくれてたと思うんだ」
 ――?????
「プールのこと」
 少女が短く説明してくる。
「あの時の伊東くん、ホントにひどかった」少女は頬を膨らませた。
「わたしが下を向いてる間に黙っていなくなっちゃうんだもん。走って逃げるなんてヒドいよ」
「あっ」
 記憶がまざまざと蘇った。
(そうだ。あの時の俺は――)
 少女にそこまで言わせてしまってから、昭裕はようやく悟る。
「ごめん」
 自然と言葉が出た。
 真っ直ぐに少女と向き合い、言葉を続ける。
「照れくさかったんだ。それで逃げた。あんなシチュ初めてだったし。……その、ごめん、謝るよ」
「そうだったんだ」
 少女は目をパチパチとさせた。
「でも、やっぱりひどいなあ」
 コロコロと笑う。
 そして――、
「じゃ、そろそろわたしが消えちゃう番だね」
 笑顔のまま、昭裕にそう告げる。
「えっ!?
 昭裕は惚けた。何のことだ? 何を言っている?
「うん、わたしももう消えちゃうみたい。ほら、周りがどんどん輝きだしてるでしょ。藤宮さんがあとちょっとで復活する証だよ。――お別れだね、伊東くん。バイバイ」
 少女が小さく手を振る。そしてホワイトアウトが始まった。
「――!」
 昭裕は慌てて少女の名を呼んだ。あらん限りの声で叫ぶ。それができることの全てだった。腕も伸ばしたけれど、何にも触れられなかった。
 視界が白一色に染まってゆく。
「プール、一緒に行きたかったなあ」
 光圧が昭裕を吹き飛ばした。

「ここ、……事故の現場だ」
 昭裕は確信を持って、そう呟いた。
 山の中を走る二車線の道路。気づいたときには、そこに立っていた。
 昭裕は周囲を見渡した。誰もいない。車が一台やって来たので急いで道路の端に寄る。
 運転手が昭裕を訝しげな視線でチラリと見た。こんな山奥に一人立っているのだ。不思議がるのも無理はない。
 夢でしか来たことがなかった場所を昭裕は訪れていた。
 小さな石碑が視界に入る。慰霊碑だ。
 近づき、昭裕はその前でしゃがみ込んだ。
「みんな、ここで死んじまったんだな」
 その事実を口にした途端、視界が歪む。
 昭裕は十五名のクラスメートのことを思い起こす。自然と目を瞑っていた。
 ここが昭裕の、結末の現場だった。
「――よしっ。帰ろう」
 目元を手の甲でぬぐい、大きく、とっても大きく深呼吸をしてから、昭裕は日常に意識を切り替える。
 そして、愕然とした。
「……どうやって帰るんだ、俺? スマホもないから連絡の仕様も無いぞ」
 四畳半探偵事務所への帰還には多大なる労力と時間を要した。
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