11 約束の地

文字数 3,341文字

 製材所の脇の佐藤自転車店のところに、十字路があります。右に曲がると、高橋さんの家があります。その隣がチコちゃんの家です。この住宅はチコちゃんが小4の時に建てられたものです。畑だった土地の道に面していない方の半分を父ちゃんが購入し、そこに家を新築します。畑の残った部分も父ちゃんが後から買うことになっていたのですが、製作所に勤めていた高橋さんがその地主から売ってもらうことになります。高橋さんが地主と親しかったからです。それにより、チコちゃんの家に行くには、高橋さんの敷地を通過しなければならなくなっています。
 実は、ここのカーブは曲者です。L字ではなく、緩いV字の形状をしています。この十字路はX字路の方が正確です。荷台が重いですから、車体を傾けすぎると、ひっくり返る危険性があります。また、速度が十分下がっていないと、曲がりきれず、正面の鈴木さんの家に突っ込んでしまいます。速度を落としすぎず、車体は残して、上体だけを曲がる方向に軽く傾けなければなりません。先の自転車方程式が示す通りです。
 チコちゃんは足の回転を緩め、軽くブレーキをかけます。そうしたら、右手に力を入れます。塩梅を確かめながら、上体を右に倒します。カーブを抜けたら、すぐにペダルを強くこぎ、速度を上げなければなりません。チコちゃんは知っています。そうしないと、車体がそのまま倒れてしまう危険性があるからです。

 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。
 突っ立っている私を見た踊子がすぐに自分の座布団をはずして、裏返しにそばに置いた。
 「ええ・・・・。」とだけ言って、私はその上に腰をおろした。坂道を走った息切れと驚きとで、「ありがとう。」という言葉が喉にひっかかって出なかったのだ。
 踊子とま近に向かい合ったので、私はあわてて袂から煙草を取り出した。踊子がまだ連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた。やっぱり私は黙っていた。
(川端康成『伊豆の踊子』)

 チコちゃんは高橋さんの家の角を曲がります。ここまでくれば、停車しても転倒してももう問題になりません。チコちゃんは何なく曲がります。
 到着です。停車も転倒もしていません。いつも通り、苦しみながらも、炭のおつかいミッションは成功です。台所にいる母ちゃんに報告しなければなりません。

「あらゆる芸術は理解されないから苦しんだのよ」。
(リリィ・カルメン『カルメン故郷に帰る』)

 けれども、目の前にあるべきはずのものがありません。
 「あれ?家がねえ…」
 そこは更地で、ところどころに丈の短い雑草が生えているだけです。
 「なして?」
 チコちゃんは約束の地へ渡って行くどころか、目に見えることもありません。
 実は、チコちゃんの家はもうありません。2014年に取り壊されています。空家になっていたからです。父ちゃんは1985年、母ちゃんは2007年にそれぞれ亡くなっています。家だけではありません。工藤商店もきく藏さんも製材所も佐藤自転車店ももうないのです。亀沼は亀沼公園になっています。

鳥が鳴いて 川が流れて
野山は今 花が咲き乱れ
汽車はゆくよ 煙はいて
トンネル越えれば 竹中だ

こんな楽しい夢のような こんな素敵なところは
もう今はない もう今はない もう今はない
今はない ひとりきり

太鼓が響き 御輿がくり出し
いよいよ待ちに待ったお祭りだ

親戚が集まり 酒を呑んで
今年は豊年だ

こんな楽しい夢のような こんな素敵なところは
もう今はない もう今はない もう今はない
今はない ひとりきり

こんな楽しい夢のような こんな素敵なところは
もう今はない もう今はない もう今はない
今はない ひとりきり
(南こうせつ『ひとりきり』)

 チコちゃんももうお祖母ちゃんです。あまきの親戚と結婚して岩手県北上市で暮らしています。孫もいます。母ちゃんは、晩年、北上の施設で過ごし、チコちゃんが介護をしています。
 チコちゃんは旅客機の客室乗務員になろうとしましたが、「容姿端麗・高身長」の条件に阻まれています。前者はクリアしたけれど、後者が難しかったとチコちゃんは今でも信じています。香川京子が落ちるはずがないからです。チコちゃんは地方公務員を定年まで勤め上げ、その後も非正規の仕事についています。でも、靴のサイズは22cmで、やっぱり9文半には届きません。

 「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」。
(マルセル・プルースト)

 「お祖母ちゃん、お父さんが言ってたんだけど、子どもの頃、『チコちゃん』って呼ばれてたの?」
 「そうだよ。お祖母ちゃんは『チコちゃん』って呼ばれてたの、子どもの頃ね。香川京子に似てたんだけど、背が低かったから。昔からの知り合いとか妹たちは今でも『チコちゃん』って呼んでるけどね。そうそう、今こそ全ての日本国民に問いたいわけじゃないけど、昔、お祖母ちゃんがあんたがたと同じ頃、ちょうど今くらいの季節かな~、あんたがたのひいお祖母ちゃんに頼まれてね~、炭のおつかいさ行かされたもんだった…」
〈了〉
参照文献
石鳥谷町、『石鳥谷町史』下、石鳥谷町、1981年
岩手県、『岩手県町村合併誌』、岩手県総務部地方課、1957年
黒澤明、『蝦蟇の油』、岩波現代文庫、2001年
三陸河北新報社、『北上川物語』、河北新報社、2000年
スポーツグラフィック・ナンバー、『豪球列伝』、文春文庫ビジュアル版、1986年
ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ、『千のプラトー』上下、宇野邦一他訳、河出文庫、2010年
花田春兆、『日本の障害者─その文化史的側面』、中央法規出版、1997年

岩手県、「各種データ旧松尾鉱山」、2015年6月29日更新
http://www.pref.iwate.jp/kankyou/hozen/mizushigen/19190/003140.html
きのこ図鑑、「ナラタケ」
https://kinoco-zukan.net/naratake.php
厚生労働省江戸川庁舎、「流行性耳下腺炎(ムンプス、おたふくかぜ)」、IDWR 2003年第35号掲載
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/529-mumps.html
自転車文化センター、「昭和35〜36年頃 三角乗り」
http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100120
社団法人耳鼻咽喉学会、「耳と聞こえQ&A 」
http://www.jibika.or.jp/citizens/handbook/mimi7.html

青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/
一関市
https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/
岩手県
http://www.pref.iwate.jp/
経済産業省
https://www.meti.go.jp/
国土交通省
http://www.mlit.go.jp/
紫波町
https://www.town.shiwa.iwate.jp/
総務省
http://www.soumu.go.jp/
農林水産省
http://www.maff.go.jp/
花巻市
https://www.city.hanamaki.iwate.jp/

DVD『ENCARTA総合大百科2004』、マイクロソフト社、2004年
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