6 氷の世界

文字数 4,262文字

 この下り坂を降りたところの向かって左側に大きな沼があります。そこは亀沼と呼ばれています。大正橋と高台になっている新堀村との間に沼が広がっているのです。北上川は蛇行していて、大雨が降ると、水が溢れ出します。当時は汲み取り便所ですから、そんな時には排泄物がチコちゃんの家の傍まで流れてくることもあります。北上川の流れが変わったためにできたのが亀沼です。
 冬になって気温が下がると、この亀沼の表面に氷が張ります。その冰が厚くなった頃合いを見計らって、駅前の冰屋がやって来ます。冰をリンゴの段ボール大に切り出し、町や村の子どもたちにそれを店まで運ばせます。子どもを使えば、安く済むからです。たいていは男の子ですが、女の子も時々います。兄ちゃんがよくやっていて駄賃は1円です。子どもたちは縄で縛った冰をずるずると引きずって、店まで運びます。子どもたちの小遣い銭稼ぎの一つです。冰屋はそれを引き屑で包んで保管し、暑くなったら売るのです。
 亀沼は子どもたちにとって格好の遊び場です。兄ちゃんたちがよく野球をやっています。ただ、ここには牧草地が広がっていて、照井のじいさんが牛や馬を連れてきています。野球に家畜が驚いてはいけませんから、兄ちゃんたちを見つけると追いかけまわします。すると、兄ちゃんたちは堰を越えて逃げます。照井のじいさんには越えられないからです。
 亀沼の草むらをかき分けると、ボリが生えています。これはナラタケの地元の呼び名です。キノコ汁にすると、たまらなくおいしいのです。チコちゃんは発見したら、家に持って帰ります。キノコ狩りも亀沼の楽しみなのです。
 『きのこ図鑑』は「ナラタケ」について次のように節女しています。

特徴
ナラタケはカサの直径が1~15cmで色は淡褐色~茶褐色。カサの表面の外側には条線が見られ、形は幼菌時は中央がやや高い饅頭型、成長すると開いていき最終的には平らになります。また、湿気のある環境では表面にヌメリがでます。
ヒダは柄に垂生しており、全体的にやや離れてヒダが並んでいます。色は最初はやや濁った白色で帯褐色になり、やがて濃い色のシミが見られるようになります。
ナラタケの柄は長さが2~12cmとやや長く、表面には褐色の条線がでています。上部には淡い黄色をしたツバがあり、柄の太さは上部から下部まで殆ど同じか根元に近づくほど太くなっているかのどちらかです。基部は上部より濃い色をしています。
肉は表面の色とは違い、全体的に白色で少し渋みがありますが味は良く、匂いは特にありません。
ナラタケは枯れている樹木だけでなく、生きている樹木の根に寄生して樹木を枯れさせる事もあるので一部では害菌とされています。
この特徴から食用として栽培するにはデメリットが多く、人口栽培は行われていません。
近年、ナラタケは数種類に分類される事になり、以前はキシメジ科のキノコとして紹介されていましたが現在のナラタケは細分化が進み「タマバリタケ科」に分類されています。
ナラタケは生の状態では壊れやすいキノコなのですが煮ると肉がしっかりとして強度が上がるという特徴があります。

食べ方
汁物など。
ナラタケは生で食べると中毒症状を起こす事があると言われています。また、煮るなどして火を通した場合でも消化が悪いとされていて沢山食べるのとお腹を壊す事があるので食べ過ぎには注意した方がよいでしょう。
しかし、ナラタケは良い出汁のでる美味しいキノコとして知られており、汁物やうどんなどの具材としては人気のあるキノコです。
コレラタケという毒キノコに似ている為、食用にする場合は十分な注意が必要です。

 ボリは菌が川や沢沿いに流されて繁殖することがあります。亀沼にボリガ生えているのはおそらくそのためでしょう。
 残念ながら、楽しいことばかりではありません。ある時、チコちゃんがお人形さんを背負って亀沼に一人で遊びに来たことがあります。亀沼には湧水を利用した井戸があります。それはコンクリート製の丸井戸で、直径が1メートルもない小さなものです。チコちゃんは井戸の中の水にお人形さんを背負った自分の姿がどう映るのか見てみたくなります。お人形さんをおんぶしていることが嬉しくて仕方がないのです。そこで身を乗り出して井戸の中をのぞこうとします。すると、その瞬間、お人形さんを背負っていたため、バランスを崩して身体が井戸に突っこんでしまいます。けれども、そのお人形さんが縁に引っ掛かり、何とか落ちずにすみます。ところが、井伏鱒二の『山椒魚』の山椒魚のように、身動きが取れません。足をバタバタさせているところを照井のじいさんが発見して、チコちゃんは助けられています。

 山椒魚は悲しんだ。
 彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかへて外に出ることができなかつたのである。今は最早、彼にとつては永遠の棲家である岩屋は、出入口のところがそんなに狭かつた。そして、ほの暗かつた。・・・
(井伏鱒二『山椒魚』)

 けれども、冰の季節になると、もう遊べません。そこで子どもたちは下駄スケートを始めます。下駄スケートは田んぼや道路など凝っていればどこでもできます。自動車が道路を走ることなどあまりなく、荷物を惹く馬が通るくらいです。
 その馬を見つけると、下駄スケートの子どもたちは背後から近寄ります。そっとバグに手をかけ引っ張ってもらい、ジェットスキーの気分を味わうのです。チコちゃんの兄ちゃんが得意で、仲間内から一目置かれています。もちろん、すぐに「こりゃ!」と馬子に叱られてしまいます。けれども、子どもたちはこりることなく、次の機会にまたチャレンジするのです。
 下駄スケートは下駄から歯を取り外し、縦にブレードをつけたスケート靴です。下駄ですから、かかとが十分に固定されていません。スラップスケート靴の先駆けと考えるのはこじつけですが、軽くヒールアップしながら滑ります。
 規約などありませんから、標準はなく、地域や経済力によって形が異なります。ゆとりのある家庭の子どもの下駄スケートはブレードが長かったり、デザインがハイカラだったりします。もちろん、子どもたちが自分で作るわけではありません。下駄屋のハンドメードです。
 スケートが冰を滑る原理は、実は、まだよくわかっていません。一般的にはジョン・ジョリーの圧力融解説が信じられています。スケート靴のブレードの下の冰に圧力が加わり、融点が下がって水がわずかに溶けます。その水が薄い膜となってブレードと氷の間の摩擦力を小さくして滑りやすくさせます。ブレードが通過すれば、圧力がなくなるので、水はまた凍るというわけです。しかし、この1886年の説は今では否定されています。人間の体重程度では氷が溶けるほどの融点の低下が認められないからです。
 それに代わり、1939年にフランク・フィリップ・バウデンが摩擦融解説を提示します。ブレードが動くと、冰との間に摩擦が生じます。その熱によって接触面の氷がわずかに溶け、それが潤滑の機能を果たします。ブレードが通過した後は、温度が下がり、その水が再び凍るというわけです。けれども、靴を履いて冰の上に立っているだけで、滑ってしまいます。スケートが滑る理由の説明としては十分ではありません。
 スケート云々以前にそもそも冰は滑りやすいものです。これには固体の溶解が関連しています。溶解は固体表面で生じる平衡現象です。固体の表面の分子は内部のそれよりも不安定で、動き回っています。これを冰の場合で考えると、表面の分子は不安定ですから、凍結温度より低くても、水のような層を作れるのです。
 この表面融解の理論の発端は19世紀半ばに遡ります。1850年にマイケル・ファラデーが二つの冰の塊を密着させて圧迫すると、接触面が凍ってくっついてしまう現象を発見します。冰の表面の水が空気に触れないと固形化することから、なぜ冰が滑りやすいのかが説明されるのも面白い話です。
 しかし、結局のところ、いまだにスケートの滑る原理は未解明のままです。現段階では、この三つの説が証明されたわけでもなく、とりあえず組み合わせて理解しているというのが実情です。
 幼い頃、チコちゃんは、竹スケートで滑っています。兄ちゃんは下駄スケートですが、チコちゃんは小さいからです。竹スケートは竹の下駄スケートです。チコチャンたちは「竹がっぱ」と呼んでいます。
 太い竹を下駄の長さに切り、それを縦に割ります。その竹の外側、つまり凸面の方に鼻緒をつけます。ブレードはついていません。ミニスキーの先祖みたいなものですから、竹スキーと呼ぶこともあります。
 これは桶屋で作ってもらいます。当時は笊や籠、桶、樽など竹製の日用品の需要がありましたので、竹細工の職人が村や町にいるのです。ブレードがなくても滑りやすいように、接面の部分が磨かれてあります。ただし、鼻緒は自分で用意します。わらの子もいますが、チコちゃんは母ちゃんのつけてくれた本物の鼻緒です。これだと足あたりがいいので、うまく滑れます。
 大きくなったら、竹がっぱから下駄スケートに出世します。チコちゃんも高学年の今は下駄スケートです。さらに、大きくなると、靴のスケートに出世します。これはスケート靴ではありません。靴にブレードをつけたものです。けれども、この靴のスケートは男の子だけのものです。チコちゃんには閉ざされています。スケートの履物の世界にもジェンダーの問題があるのです。

窓の外ではリンゴ売り
声をからしてリンゴ売り
きっと誰かがふざけて
リンゴ売りのまねをしているだけなんだろう
僕のテレビは寒さで画期的な色になり
とても醜いあの娘をグッと魅力的な娘にしてすぐ消えた
今年の寒さは記録的なもの こごえてしまうよ
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ
軽い嘘でもいいから今日は一日はりつめた気持でいたい
小指が僕にからんで動きがとれなくなれば
みんな笑ってくれるし 僕もそんなに悪い気はしないはずだよ
流れてゆくのは時間だけなのか 涙だけなのか
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界

人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
だけどできない理由はやっぱりただ自分が恐いだけなんだな
そのやさしさを秘かに胸にいだいてる人は
いつかノーベル賞でももらうつもりでガンバッてるんじゃないのか
ふるえているのは寒さのせいだろ 恐いんじゃないネ
毎日 吹雪 吹雪 氷の世界
(井上陽水『氷の世界』)

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