7 母と子の絆

文字数 3,274文字

 ある時、母ちゃんが満面の笑顔でチコちゃんにこう言います。
 「ちづこ、いがったな!配給切符で、当たって、長靴と交感して来た!9文半だども、なあに、すぐに大きくなるがら」。
 チコちゃんは今まで自分用の長靴なんて持っていません。それは黒のゴム長で、かかともろくになく、デザイン性はまったくありません。けれども、母ちゃんの喜ぶ顔を見て配給切符が当たることは大変なんだなとチコちゃんは思います。
 1938年、泥沼化する日中戦争を遂行するため、政府は国内生産を軍需中心にする目的により、切符制の経済統制を実施します。同年3月の綿糸を皮切りに、品目が拡大されていきます。また、日米開戦を前にした1941年4月には米の配給制も始まります。さらに、戦争の長期化と不作によりコメが不足、イモや大豆などが代用食として配給されています。この制度は、深刻なモノ不足を背景に、戦後も続きます。配給制は1947年から随時撤廃され、56年の「もはや戦後ではない」の戦後復興終了を迎えた頃に事実上終わります。
 切符制は配給制の一つです。切符制は、言わば、点数制です。1人当たり年間に買える点数があらかじめ決められ、それが切符通帳になっています。衣料品などの日用品に品目に応じて点数がつけられています。購入すると、その点数分だけ切符が切り取られます。点数がなくなったら、その年は終わりです。米の配給制と違い、特定品目の1人当たりの年間分配量をあらかじめ割り振っているわけではありません。
 ただし、欲しい品物の欠品も頻繁です。それがたまたまあった時には幸運を感じるものです。母ちゃんが「当たった」と言ったのは、それを意味しています。
 ジャイアント馬場の「16文キック」で知られる「文」は靴の長さの単位です。これは1文銭銅貨に由来します。中国の改元通宝以来、日本の銅銭は直径が8分、すなわち0.8寸です。1寸がおよそ3cmですから、1文は約2.4cmになります。9文半は、現在の靴のサイズで言うと、23cmです。当時の女性の標準的な靴のサイズは9文3分、通称「九三」で、今の22cmに当たります。ちなみに、16文ですと、およそ38.5cmです。
 前近代の東アジアでは女性は小さい足が望ましいとされています。中国の纏足が好例です。これには儒教道徳が影響しています。足が小さければ、活発に活動できません。家にいて良妻賢母でいられるというわけです。もっとも、井原西鶴の『好色一代女』でも女性が「八文三分」と形容されています。
 冬になると、長靴だけでは足が冷たすぎます。そこで、母ちゃんが靴と靴下の間に南蛮を入れてくれます。南蛮は唐辛子のことで、チコちゃんの地域ではそう呼びます。唐辛子の成分カプサイシンのおかげで足の裏からポカポカして暖かいのです。
 また、首筋が冷えないように、母ちゃんはニンニクを包んだガーゼや手ぬぐいを首に巻いてくれます。ニンニクには硫黄が含まれています。それが末梢神血管を拡張させ血行をよくし、体を温かくしてくれるのです。
 皮をむいたニンニクを少しほぐした真綿にくるみます。それをガーゼか手ぬぐいの上に置いてくるくると包みます。その布を喉元に当たるように首に巻くのです。ロシアのニンニク・ネックレスと同じ発想です。
 さらに、チコちゃんは指先やかかとがひび割れしやすい質です。ひび割れないように、手やかかとに母ちゃんがラードを塗ってくれます。
 現金収入が乏しいので、この辺りの農家の間には貨幣経済が必ずしも浸透していません。父ちゃんが牛や馬を診療しても、お代が現金ではなく、米や小麦、大豆などモノということがほとんどです。
 米はそのまま家庭で食べます。それ以外の農産品はおカネの代りに使用します。麦ならそれを製麺工場に持って行き、うどんやラーメンなどにしてもらいます。診療費ですから、量が多いので、一度に受け取りません。分割にして毎回使う分だけ渡すてもらいます。その際、麦の一部を手数料として支払いに当てます。大豆も同様です。豆腐屋に持って行き、豆腐や納豆などにしてもらい、分割にして受け取ります。豆の一部は手数料になります。
 他方、肉は現金でないと買えません。とは言っても、手持ちが少ないですから、少量しか買えません。その代わり、脂身を多めにもらいます。今で言うと、牛肉を買う時に、牛脂をサービスしてもらうことがありますが、それと同じです。脂身を切り、それを小皿の上に置いて戸棚の中に入れておきます。これをハンドクリーム代わりに使うのです。ラードの融点は摂氏27~40度です。それは健康な人間の体温の範囲ですので、ハンドクリームとして利用できます。

No I would not give you false hope
On this strange and mournful day
But the mother and child reunion
Is only a motion away

Oh, little darling of mine
I can't for the life of me
Remember a sadder day
I know they say let it be
But it just don't work out that way
And the course of a lifetime runs
Over and over again

No I would not give you false hope
On this strange and mournful day
But the mother and child reunion
Is only a motion away

Oh, little darling of mine
I just can't believe it's so
Though it seems strange to say
I never been laid so low
In such a mysterious way
And the course of a lifetime runs
Over and over again

But I would not give you false hope
On this strange and mournful day
When the mother and child reunion
Is only a motion away

Oh the mother and child reunion is only a motion away...
On the mother and child reunion is only a moment away...
(Paul Simon “Mother And Child Reunion”)

 下り坂で速度を思いきり上げたら、上り坂を一気に行きます。「これがら上りだ」。チコちゃんは両手でハンドルをぎゅっと強く握ります。上体を前に倒し、つま先に力を入れてペダルをこぎます。「ヨイショ、ヨイショ」。チコちゃんは歯を食いしばってこぎますが、自転車の速度は徐々に落ちていき、車体も少しふらつき始めます。河西三省アナの実況中継の声がチコちゃんにはは聞こえています。

ターンしました。ただいま、ターンしました。わずかにリード。前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ。あと40、あと40。前畑リード、前畑リード。ゲネンガーも出ております。ほんのわずか、ほんのわずか。前畑わずかにリード、前畑がんばれ、がんばれ。あと25。わずかにリード、わずかにリード。前畑がんばれ、がんばれ前畑。ゲネンガーが出ております。危ない、がんばれ、がんばれ、がんばれ、前畑リード、前畑リード、前畑リードしております。前畑がんばれ、前畑がんばれ。リード、リード、あと5メートル。前畑リード、リード、リード、勝った、勝った、勝った、前畑勝った。前畑勝ちました!前畑勝ちました!前畑優勝です。前畑優勝です…

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