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 未々が雪柾とつき合いはじめたのは、それから一ヶ月後のことだった。
 とても信じられないことだけれど、近づいてきたのは彼の方だった。
 期末試験がはじまった七月の雨の日、びしょ濡れになった彼が、未々の傘の中へいきなり飛び込んできたのだ。
「ちょっといい?」
 それまで一度も普通にしゃべったことがなかっただけに、未々はその気やすさにまず驚いていた。
「ゴメン、驚かせたかな?」
 未々はあわてて首をふった。
「おなじ方向だよね。だからゴメン、ちょっと入れてもらってもいいかな? 途中まででイイからさ」
 未々は歩き方がぎこちなくなっているのが自分でもわかった。
 あの日以来、Aクラスへ行くことを避けていただけに、よけいに気まずい思いがした。
「持とうか」雪柾は傘に手をかけながら言った。
 未々は言われるままに、おとなしく傘を渡した。
 頭が混乱していた。
 彼の目的はなんだろう。
 人前で恥をかかされたあの日の報復? 
 それとも本当に傘がなかったから? 
 だったら私でなくても・・・・。
 雪柾は「あ~あ」と声を出して、大きくため息をついた。
「朝の天気予報で午後から雨だって聞いてたのに、つい忘れてしまって。ゴメンね、ほんとに――」
 未々は笑顔を雪柾にむけたが、ちゃんとした笑顔になっているかどうか心配だった。
 ゆがんで醜い顔になってなければいいけど――。
「忘れっぽいんだ、オレ。前なんか、傘を忘れちゃいけないと思って、カバンの中にいれたんだけど、そのカバンを忘れちゃってね、ハハッ」
「そうなの?」未々も笑った。「とてもそんなふうには見えないけど」
「そう? どんなふうに見える?」
「いつもしっかりしているように見えてる」
「――それはイイことなのかな」
「どうかな」
 未々は背の高い彼が、自分に合わせて身体を不格好にかがめて歩いてくれているのがなんとなく嬉しかった。それに私の方に傘をよけいに傾けてくれている。こういうことができる人なんだ、というのが未々にとっては新しい発見だった。
「すくなくとも、人を緊張させるわね」と未々。
「しっかりしているように見えることが?」
「そう。現に、いまの私もスッゴく緊張してる」
「本当?」
 雪柾は笑って未々の顔をのぞきこんだ。そのとき歩道の段差につまづいて傘についていた雨のしずくが未々にかかってしまい、あわててズボンのポケットからきれいにアイロンがかけられた真っ白いハンカチをだして未々を拭いた。
「ゴメンゴメン、傘にいれてもらっているのに――。本当にゴメンね」
「いいよ、そんなに謝ってもらわなくても。どうせ、もうすぐ家だし」
「ゴメン。オレ、けっこうドジなんだ」
「それも見えないわね」
「そうかな」
「うん、見えない」
「それはイイことなのかな」
「場合によるかな」
「じゃ、いまの場合は?」
「悪くはないんじゃないかな」
「そう?」雪柾はうれしそうにほほ笑んだ。
 未々は想像していたよりもずっと気軽にしゃべってくる雪柾に驚いていたが、彼に対してなんら気兼ねなくしゃべることのできる自分にはもっと驚いていた。
 そう、この感じ――。
 ちょっと夢にみたこの雰囲気――。
 まるでずっと前から付き合っているようなこの感覚――。
 このリズム――。
 異性相手に、こんなしっくりした雰囲気なんてはじめてだった。
 これまでも男子とデートしたことは何度かあったが、これほどまでいい感じだったことは一度もなかった。ただの一度もだ。
 なかでも、中二の時に、私に告白してきた男子とのデートは最悪だった。はじめてのデートなのに友だちを連れてきたいというので、私もアリアについてきてもらってダブルデートになった。
 でも、私がどんな話題をふっても会話にならず、気を利かせてアリアが話かけても会話は続かず、最後には連れてきた男友だちとゲームの話題で盛り上がってしまい、それにアリアが怒ってデートを途中で切り上げてしまったのだ。
 なぜ告白してきたのか、なぜデートがしたかったのか、どうして初デートに男友だちを連れてきたのか、すべてが謎だったその男との関係も、そのデート一度きりで終わってしまったが、それ以来、たとえ告白されても慎重になったのは確かだ。
 中学生ならまだ仕方なかったのかもしれないが、彼らにとって主役は自分――。
 そこに私の存在はなかったし、私の存在を認めてくれていることもまったく感じなかったのだ。
 でも、彼はどう?
 少なくとも私にどう見られているのか気にしてる。
 私がどう感じているのか知りたがってる。
 未々は家が近づいてきたことを本気で残念に思った。
「なんなら、この傘、持ってって」
 雪柾の顔がパッと明るくなった。
「イイの?」
「いいよ、もちろん――」と未々は透明に白い水玉模様がついた傘を見上げた。「あっ、この傘じゃ変よね。ちょっと待ってて。いま別の傘もってくるから」
「いや、イイよ。これがイイ」
「これが?」
「うん。キミが構わないなら、だけど・・・・」
「私はいいけど・・・・。でも、本当にいいの?」
 雪柾は未々を見てコックリと肯いた。
 前髪から雨しずくがたれていた。
 未々はその時はじめて〝男〟というものを可愛い存在に感じた。

 その日以来、雨が降っていてもいなくても、雪柾と一緒に下校するようになった。
 そして一週間もしないうちに、彼は朝も迎えにきてくれるようになった。
 当然のことながらふたりの仲はすぐに噂となり、未々は小野アリアのところへますます行かなくなってしまった。
 いま彼女に会うと、言いわけがましくなってしまう自分が嫌だった。
 負い目を感じてしまうことも納得いかなかったし、第一、それでは雪柾に悪いような気がした。
 なぜ私が負い目を感じなければならないのだろう。
 アリアなら母親よりもずっと強い口調で警告するだろうし、すみやかに別れることを強要するかもしれない。
 私が折れないとわかると、雪柾に直訴することだって考えられる。
 そういう子なのだ。
 いったい彼が何をしたっていうの? 
 アリアにむかって罵声(ばせい)でも浴びせたの? 
 生涯ゆるせないような恥でもかかせたの? 
 単におかしな臭いを

というだけで嫌っているのだ。
 むしろ未々は、アリアの方こそ反省をうながしたい気分だった。
 おかしな思いに(とら)われて、決めつける行為を正して欲しかった。
 すくなくとも雪柾に関してだけは――。
 彼に関してだけは、心から存在を認めて欲しかった。
 いずれにしろ、いま未々が雪柾との交際を深めることは、アリアとの決別を意味していた。

 アリアの件を別にすれば、それからは夢のような日々がつづいた。
 彼女にとってまさしくそれは夢だった。
 雪柾は未々の夢を、かねてから想い描いていた彼女のささやかなわがままを、いとも簡単に叶えてくれたのだ。
 毎日校門にもたれて私を待っていてくれる夢(人目にさらされる場所で、私を待っていることを誰もがわかっているのにそうしてくれる、それも大切な条件の内だ)。
 図書館へ行くのもそうだ。一緒に勉強しながら、わからないところをやさしく教えてくれる夢。
 それも実現してくれた。
 それにいちばん困難が予想された夢――。
 公園のベンチに坐ってなにもしゃべらず、もちろんそれはちっとも重荷でない沈黙が大前提だが、小鳥に(その時は丸々太った鳩がたくさん集まってきてしまったが)エサを放り投げる夢。
 それも難なく演じてくれたし、未々が二人分の弁当をつくり、電車に乗って高原へちょっとしたピクニックへ行く夢も叶えられた。
 いまでは彼の汗も、吐く息さえも、丸ごと拾って食べたいような気分だった。
 そんな気分になったのは初めてだった。愛だの恋だのといった言葉でくくってしまいたくないぐらい、彼のことが大好きだった。
 私にとって彼は理想的な男。そして完璧な男。誰よりも、誰よりも――。

 夏休みに入ると、よく海水浴場へ行った。
 雪柾が望んだからだ。
 でも一度も泳がなかった。
 いつも三件ある海の家のどこかに入って、人が溢れかえった海を眺めながらジュースばかり飲んでいた。
「ねえ、泳がないの?」
 未々は水っぽくなったジンジャーエールのストローを噛みながら訊いた。
 彼女自身泳ぎが得意ではなかったのでちっとも泳ぎたくはなかったが、彼が泳ぐ姿は見たかった。
 雪柾はにが笑いしながらテーブルの砂を手ではらい、コーラの入ったグラスをおいた。
「泳ぐのうまくないんだ」
「でも、海水浴に誘ったのはあなたよ」
「海に来たかっただけで、泳ぎに誘ったわけじゃない」
「じゃこれは何?」と、雪柾の海水パンツを指して首をかしげた。
「ジーパンでいるより気持ちいいだろ? それとも泳ぎたい?」
 未々はあわてて首をふった。
 溺れているように見えるぶざまな姿を、彼には絶対見られたくはなかった。死にそうな顔して泳ぐその顔だけは――。
 この夏、彼女ははじめて水着を自分で選んで買った。
 本当のところは、思いきって可愛いフリルのついたピンクのセパレートにしたかったが、結局は厚い生地のグレイのワンピースタイプになった。
 いつもそうだ。
 結局は落ちつくところに落ちついてしまう。
 冒険ができない。
 したいけどできない。
 でも来年はきっと――。
 高三の夏は、もっと大胆に、ちっとも高校生らしくない水着に冒険してみるつもりだった。
「好きなんだ、こうしているのが――。スッゴク、気持ち良くない?」
「そりゃ気持ちいいけど・・・・」
「こうして未々とふたりで潮のかおりを嗅ぎながら――」と雪柾はコーラをひとくち飲んだ。
「これがビールだったらもっと恰好もつくんだろうけど、でも、いまスッゴク幸せだなーって実感しない?」
 意外な彼の言葉に、未々は心が震えるほど嬉しかった。
 彼女にとって、彼からそう言われるのが一番のしあわせだった。彼がそう感じてくれていることが、心底うれしかった。彼の泳ぐ姿を見るよりも数百倍いい!
 未々は幼い頃から夢見ていた『十七の夏』に、すばらしい想い出がつくられていくのを実感していた。
 透きとおるように薄い記憶の花びらが、音もなく私の中にふり積もっていく気がする。
 肌を刺すような強い陽射し、波の音、甘い潮の薫り、しあわせそうな家族の喧騒、そしてやわらかな風に流される彼のサラサラした髪、ストローを口にふくんだ横顔、そのふくらんだ頬。
 私にとって、すべて光り輝く記憶の花びらだ。
 薄く、破れやすく、すぐに吹き飛ばされてしまいそうな花びらの集まり。
 ラーメンの汁がこぼれたままのテーブルも、砂だらけのほつれたゴザも、かき氷の布看板が風に揺れている様子も、すべて大切な記憶の花びらなのだ。
 どれも薄い花びらの一片にしか過ぎないが、すべてかけがえのないもの――。
 取り替えることができない大切なもの――。
 未々は改めて〝今〟という時間を、一見ひどく退屈に思えるこの時を、心から大切にしようと思った。
 おそらく生涯においてかけがえのない時間を、いま過ごしているのだ。もう二度と経験できないぐらい素晴らしい時を、最高に素敵な時間を――。
 やがて年老いたときに、今みたいな心地よい潮騒に耳を傾けながら、何時間でも記憶の花びらをめくるのだ。
 これは十歳の時、十五の時、そしてこれは十七の時のもの、というように――。
 その思いつきは彼女にとって、とても魅力的だった。
 それだったら、どれだけでも素敵な花びらで、心の中を満たしたい気分だった。
 できることなら、その歳その歳にふり積もった記憶の花びらで、一面輝いてて欲しい。
 いつふり返ってみても、最高の輝きをもって、ずっと遠くまで見渡せるようであって欲しい。
 未々は今までになくやさしい気持ちで、ぼんやりと海を眺める雪柾の横顔を見守るようになっていた。
 結局、彼はその後も身体を海水に浸すことは一度もなかったが、未々はちっとも不満ではなくなった。どんなことでも、すべてかけがえのない想い出になっていくのがわかっていたからだ。
 その夏の間中、未々は自分の中にふり積もっていく花びらのかすかな音を聴くために、ずっと耳を澄ませていた。
 
 やがて夏も終わり、九月もあっという間に過ぎてもう十月――。
 そして今日(十月十六日水曜日)、久しぶりに小野アリアが、一限と二限の休み時間に未々のところへきた。
 彼女に会うのはじつに三ヵ月ぶりだった。未々にとっては夢の三ヵ月間――。アリアにとっては・・・・。それは考えたくもなかった。
 べつに避けているわけではなかったけれど、ぐらいの気持ちで未々は彼女を避けていた。いつも頭の片隅では彼女の存在を感じていた。
 おそらくこの三ヵ月間、アリアは私の行動をじっと見ていただろうと思った。目立たないところで静観していたに決まっている。黙殺するようなアリアではなかったし、遠慮することもない子なのだ。
 その猶予期間が三ヵ月。
 ついにその日がきたのだ。
 非難するに決まってる。
 氷のように冷たい忠告を浴びせかけにきたに決まってる。
 未々は彼女がしゃべりだす前から警戒していた。敵対視していたと言ってもいい。
「元気そうね」アリアは笑顔のまま、未々の前のイスにまたがった。フレアースカートが膝の上までまくれ上がったが、彼女はまったく気にしていなかった。
 未々はアリアをちらっと見ただけですぐに目を伏せた。
「元気ないの?」
「元気よ。見たとおりだわ」
 アリアは快活に笑った。それがまた未々の(しゃく)にさわった。
「女の子がいなくなったの知ってる?」とアリア。
「知ってる」未々は興味なさそうに言った。じっさい、知らない女の子のことだったので、本当に興味なかった。
「なんかスッゴク胸騒ぎするんだ」
「そう?」
「なんか、とんでもなく良くないことが起こりそうな気がする」
 未々はチラッとアリアを見ただけで、なにも返事はしなかった。
 以前なら、興味をもったフリして、ちょっと大げさに反応してあげたこともあったが、いまはとてもそんな気分じゃなかった。すぐにでも自分のクラスにもどって欲しかった。
「うまくいってる?」
「なにが」未々はアリアを睨んだ。「なんのことを言ってるの?」
「なにもかも」
「まあね」
「それは良かった」
「なんなの? なにか用?」
「いやにトンガッてるね」とアリアが笑う。
「そうでもないけど」
「そう? じゃ、戻るけど・・・・」
「――けど、なによ」
 未々はアリアの視線を正面から見返した。
 アリアは一度立ってスカートのシワをきちんと直し、横向きにすわり直した。
「あなたが誰とつき合っても自由だけど、本当に気をつけてね。彼、ますますヒドくなってる」
「どこが?」
「どこがって、うまく言えないけど、恐くなるぐらい、変化してる」
 未々は笑った。あなたは変わらないのね、と言ってやりたかった。
「わかったわ。

気をつけます」とじゅうぶんを強調して言ってから、未々はアリアに顔をぐっと近づけた。
「で、いまの彼はどんなにおい?」
「どんなにおいって・・・・」アリアにしてはめずらしくすこし言いよどんでいたが、やがて未々の目をじっと見返しながらゆっくりといった。
「肉がドロドロに腐って、液状化した臭い」
「強烈~っ!」未々はおおげさに身体を後ろにそらせて目をクルリと回して笑った。
「変な病気に感染しないように、わたしも気をつけなくっちゃ」
「本気よ」
「そうなの?」
「本気で心配してるんだよ」
「ありがとう。心からお礼を言わせていただきます!」と頭を下げた。
 アリアはまだなにか言い足りなさそうだったが、未々が数学の教科書に目を落としたまま相手にしなくなったので、釈然としないまま自分のクラスへ戻っていった。
 
 最初、アリアが言うことなんてまったく気にしていなかったのに、時間が経つにつれて、彼女の言葉が心のどこかでひっかかっているのがわかった。
 たしかに、彼はすこし変わってしまったような気がする。
 はっきりとしたものではなかったが、いままで見てきた彼とは違うもの。
 それはもっと強く感知しようとして息を深く吸ってしまうとよけいにわからなくなってしまうぐらいのもの。
 でも一度それを感じてしまうと、いままでの夢のような雪柾との生活が、すべて違った色彩を帯びてしまうような気がして、未々は認めたくなかった。軽快な身のこなしも、心から信頼してしまう笑みも、彼自身のものではなく虚像のような、どこか無理をしているような・・・・。
 いま未々を一番悩ませているのは、

だった。
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  • プロローグ 高村亜美

  • 第一章 沢木未々

  • 第二章 大川雪柾

  • 第三章 小野アリア

  • 第四章 大川珠美

  • 第五章 再び、小野アリア

  • エピローグ 高村恵子

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