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文字数 2,471文字
高村亜美の失踪が判明してからしばらくの間、報道協定によって事件の一般公開は控 えられた。身代金を目的とした誘拐事件だった場合の配慮だ。
それとは別に、亜美が行方不明になった第二海浜公園周辺の捜索は、その日のうちに実施された。
じっさいその時点でいちばん懸念されたのは事故だった。
それは交通事故かもしれないし、公園の周囲にある十センチ幅の排水溝にはさまって出られなくなっているのかもしれない。どこかのくぼみにスッポリとはまり込んでいることも考えられた。
そこで公園周囲の探索と、道路についたタイヤのスリップ跡、血痕、周辺住民への聞き込みなどが入念に行われたが、その時はまだ多くの人が、亜美はひょっこり帰ってくるような気がしていた。服は泥だらけでひどく泣き疲れているかもしれないが、不意にどこかで発見されるような気がしていた。
以前にも五歳の男の子が、行方不明になった場所から五キロも離れた場所で発見されたことがあったのだ。その時も行方不明になってから六時間も経過していたのでひどく心配されたが、周囲の心配をよそに、発見された本人はどこにも怪我もなくケロッとしていて、泣きじゃくる両親に抱かれたときにはじめて泣いたぐらいだった。
だから今回の場合も心配はされるが、またどこかで元気にしているんじゃないかと思われていた。
亜美の自宅では、父親の高村浩司、母親の恵子がまんじりともせずに自宅の電話機をにらみつけていた。
もう少しラクな姿勢で、というガス会社の検査員みたいな格好をした大石警部の声にもまったく耳を傾けなかった。コトリとも鳴らない電話機にしびれを切らせて受話器を取ろうとする浩司の手を、大石警部が何度止めたかしれない。
高村浩司は、松田と橋本という私服の警察官によって自宅の電話機に取りつけられたコードが、本当に外部と繋がっているのかどうか心配でならなかった。
この町のどこかで電信柱に昇って配線工事をしている男が、たったいま電話線で首を吊ってしまって不通になったかもしれないし、どこかの馬鹿な若者が、スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れずに、電柱をなぎ倒してしまったかもしれないではないか!
電話機が外部と繋がっているのは大きなカセットリールデッキについている赤いランプで確認できるといわれても(これですよ、これ、と大石警部は大きな機械についている赤いランプを指差してわざわざ教えてくれた)、それすら壊れているかもしれない。今日に限って、なんてよくあることなのだ。不祥事の時の常套文句だ。
高村浩司は気がきでなかった。誰も見ていなければ、そして亜美が目の前にさえいれば、電話機にまるごと喰らいついてぶち壊してやりたいという、どうにも抑えがたい衝動にかられていた。
一方、高村恵子は、亜美の姉、里美があわてて家に走り込んできた光景をなんども思い返していた。
「ママッ! 亜美帰ってる?」
すべてはそこから始まったのだ。こんな気狂いじみた、とうてい現実とは思えない騒動が、すべてそこから始まったのだ。
でもこの夢のような現実の中で、以外と冷静な自分に驚いていた。
ワイドショーなんかで、テレビカメラに向かって行方不明になったわが子に泣きながら呼びかける親の心情はどんなものだろうと心を痛めたものだったが、想像していたよりも冷静な自分に戸惑ってさえいた。
大石警部に渡す亜美の写真は、いま自分がいちばん気に入っているものをあえて探して渡したり(今年の夏、家族で海水浴に行ったときに撮った『ハマグリの地獄焼き』のすすけた貝殻をつまんで嬉しそうに笑っている亜美の顔のアップの写真)、いつのまにか増えてきた私服の警察官にお茶を出そうとしたのもそうだ。けっして気が動転していたわけじゃない。みんな亜美のためにわざわざ集まってくれているのだ。それにあの松田っていう太った警察官が、電話機にカセットリールデッキのコードを取りつけるのにてこずってしまって、汗だくになりながら格闘してくれていたのだ。せめてお茶ぐらい出さなくちゃ――。
もちろんそれは大石警部に止められた。落ち着いて、奥さん。いつ、なんどき・・・・。
いつ、なんどき、なに? なにがあるっていうの? 亜美の身に何かあったっていうの?
高村恵子は、みんなが騒げば騒ぐほど、亜美がひょっこり帰ってきた時に申し訳ないような気がしてならなかった。普通にしていれば亜美は帰ってくるに決まっているのだ。いつものようにしていれば、ひょっこり玄関に現れて、ママーッ! って叫びながら私の胸の中に飛び込んでくるに決まっているのだ。
なにもそんなに騒ぐことなんてないのに・・・・。
やはり警察に連絡すると言い張った夫を、もっと強引に止めた方が良かったかしら――。
しかし、亜美は帰ってこなかった。夜遅くなってもなんら確かな情報はなく、自宅の電話機はコトリとも鳴らなかった。
ついに堪えられなくなった高村浩司が、大石警部の静止も聞かずに家を飛び出していったのは夜の九時過ぎだ。
こんな日がいままでにあっただろうか、と高村恵子は考えていた。一日に電話が一度も鳴らないなんて・・・・。
なぜ?
どうして私の家族がこんな目にあわなければならないの?
私たちがなにか悪いことをしたっていうの?
気がつけば道に落ちてるゴミだって拾っているし、燃えないゴミだってちゃんと分けてるのに――。
高村亜美の本格的な捜索が始まったのは、翌朝火曜日の九時過ぎからだった。
捜索は県警捜査一課、所轄の警察署、それに紺色の防災服を着た地元の消防団員などが大幅に増員され、道路は明るい陽射しの中でアスファルトの表面を這いつくばるようにして念入りに探索された。亜美が消えた砂場の中も、髪の毛一本見逃さないように徹底的に調べられた。
しかし、狂気はすでにはじまっていた。誰にも気づかれない場所で、誰にも気づかれないうちに、予想もしなかった狂気がすでにはじまっていた。
静かに、
おだやかに、
ゆっくりと――。
干涸 らびた骨が踊りだすまで――。
それとは別に、亜美が行方不明になった第二海浜公園周辺の捜索は、その日のうちに実施された。
じっさいその時点でいちばん懸念されたのは事故だった。
それは交通事故かもしれないし、公園の周囲にある十センチ幅の排水溝にはさまって出られなくなっているのかもしれない。どこかのくぼみにスッポリとはまり込んでいることも考えられた。
そこで公園周囲の探索と、道路についたタイヤのスリップ跡、血痕、周辺住民への聞き込みなどが入念に行われたが、その時はまだ多くの人が、亜美はひょっこり帰ってくるような気がしていた。服は泥だらけでひどく泣き疲れているかもしれないが、不意にどこかで発見されるような気がしていた。
以前にも五歳の男の子が、行方不明になった場所から五キロも離れた場所で発見されたことがあったのだ。その時も行方不明になってから六時間も経過していたのでひどく心配されたが、周囲の心配をよそに、発見された本人はどこにも怪我もなくケロッとしていて、泣きじゃくる両親に抱かれたときにはじめて泣いたぐらいだった。
だから今回の場合も心配はされるが、またどこかで元気にしているんじゃないかと思われていた。
亜美の自宅では、父親の高村浩司、母親の恵子がまんじりともせずに自宅の電話機をにらみつけていた。
もう少しラクな姿勢で、というガス会社の検査員みたいな格好をした大石警部の声にもまったく耳を傾けなかった。コトリとも鳴らない電話機にしびれを切らせて受話器を取ろうとする浩司の手を、大石警部が何度止めたかしれない。
高村浩司は、松田と橋本という私服の警察官によって自宅の電話機に取りつけられたコードが、本当に外部と繋がっているのかどうか心配でならなかった。
この町のどこかで電信柱に昇って配線工事をしている男が、たったいま電話線で首を吊ってしまって不通になったかもしれないし、どこかの馬鹿な若者が、スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れずに、電柱をなぎ倒してしまったかもしれないではないか!
電話機が外部と繋がっているのは大きなカセットリールデッキについている赤いランプで確認できるといわれても(これですよ、これ、と大石警部は大きな機械についている赤いランプを指差してわざわざ教えてくれた)、それすら壊れているかもしれない。今日に限って、なんてよくあることなのだ。不祥事の時の常套文句だ。
高村浩司は気がきでなかった。誰も見ていなければ、そして亜美が目の前にさえいれば、電話機にまるごと喰らいついてぶち壊してやりたいという、どうにも抑えがたい衝動にかられていた。
一方、高村恵子は、亜美の姉、里美があわてて家に走り込んできた光景をなんども思い返していた。
「ママッ! 亜美帰ってる?」
すべてはそこから始まったのだ。こんな気狂いじみた、とうてい現実とは思えない騒動が、すべてそこから始まったのだ。
でもこの夢のような現実の中で、以外と冷静な自分に驚いていた。
ワイドショーなんかで、テレビカメラに向かって行方不明になったわが子に泣きながら呼びかける親の心情はどんなものだろうと心を痛めたものだったが、想像していたよりも冷静な自分に戸惑ってさえいた。
大石警部に渡す亜美の写真は、いま自分がいちばん気に入っているものをあえて探して渡したり(今年の夏、家族で海水浴に行ったときに撮った『ハマグリの地獄焼き』のすすけた貝殻をつまんで嬉しそうに笑っている亜美の顔のアップの写真)、いつのまにか増えてきた私服の警察官にお茶を出そうとしたのもそうだ。けっして気が動転していたわけじゃない。みんな亜美のためにわざわざ集まってくれているのだ。それにあの松田っていう太った警察官が、電話機にカセットリールデッキのコードを取りつけるのにてこずってしまって、汗だくになりながら格闘してくれていたのだ。せめてお茶ぐらい出さなくちゃ――。
もちろんそれは大石警部に止められた。落ち着いて、奥さん。いつ、なんどき・・・・。
いつ、なんどき、なに? なにがあるっていうの? 亜美の身に何かあったっていうの?
高村恵子は、みんなが騒げば騒ぐほど、亜美がひょっこり帰ってきた時に申し訳ないような気がしてならなかった。普通にしていれば亜美は帰ってくるに決まっているのだ。いつものようにしていれば、ひょっこり玄関に現れて、ママーッ! って叫びながら私の胸の中に飛び込んでくるに決まっているのだ。
なにもそんなに騒ぐことなんてないのに・・・・。
やはり警察に連絡すると言い張った夫を、もっと強引に止めた方が良かったかしら――。
しかし、亜美は帰ってこなかった。夜遅くなってもなんら確かな情報はなく、自宅の電話機はコトリとも鳴らなかった。
ついに堪えられなくなった高村浩司が、大石警部の静止も聞かずに家を飛び出していったのは夜の九時過ぎだ。
こんな日がいままでにあっただろうか、と高村恵子は考えていた。一日に電話が一度も鳴らないなんて・・・・。
なぜ?
どうして私の家族がこんな目にあわなければならないの?
私たちがなにか悪いことをしたっていうの?
気がつけば道に落ちてるゴミだって拾っているし、燃えないゴミだってちゃんと分けてるのに――。
高村亜美の本格的な捜索が始まったのは、翌朝火曜日の九時過ぎからだった。
捜索は県警捜査一課、所轄の警察署、それに紺色の防災服を着た地元の消防団員などが大幅に増員され、道路は明るい陽射しの中でアスファルトの表面を這いつくばるようにして念入りに探索された。亜美が消えた砂場の中も、髪の毛一本見逃さないように徹底的に調べられた。
しかし、狂気はすでにはじまっていた。誰にも気づかれない場所で、誰にも気づかれないうちに、予想もしなかった狂気がすでにはじまっていた。
静かに、
おだやかに、
ゆっくりと――。