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文字数 3,168文字
1996年10月14日 月曜日
すっきりと晴れわたった十月のその日、まだ五つになったばかりの高村亜美は、不意にオシッコがしたくてたまらないのに気づいた。家の近くの公園の砂場で、王子さまを迎えるお城づくりに夢中になってしまったためだ。
さっきまで一緒にお城をつくっていた四つ上の姉は、友だちを見つけるとすぐに飛んでいって、いまはブランコに立ち乗りになって遊んでいる。友だちとクツを遠くへ投げ飛ばすのに夢中になっている姉の姿が亜美のところからも見えた。
彼女に(遊びに夢中になっている時はとくに)おトイレに行きたいなんて言うと、ひどく機嫌をそこねるに決まってる。いつまでたっても一人で行けないのね、とお姉さんぶってブツブツ文句を言うに決まってる。まだぁー、ウンチしてんじゃないのぉ? と外から大きな声で急 かすに決まってる。そしてカギが壊れたドアをドンドンと蹴るのだ。
夕暮れ時の公園は、先日死んだおばあちゃんの遺体を連想させるので、亜美はあまり好きじゃなかった。
じっと天井を見つめつづける半開きになったおばあちゃんの瞳。乾燥して小さなシワがよったあの暗い瞳。亜美はそれを見てビックリした。瞳にシワがよるなんて・・・・。
大好きだったおばあちゃんがおばあちゃんでなくなっていく――。
おばあちゃんは?
ねえ、ママ。おばあちゃんはどこ?
どこへ行っちゃったの?
ねえ、ママ――。
夕暮れ時の公園は、あのときの感覚に似ていた。
大好きな公園が大好きな公園でなくなっていくこの感じ。心にポッカリと穴があいたようなこの感覚――。
心なしか急に風も冷たくなってきたような気がする。
友だちのカオルちゃんもヒサちゃんも、今日は来ていなかった。途中でおなじスミレ組のエイジ君が来たけれど、彼は亜美をみても見向きもせず、砂場に足を一歩もふみ入れてこなかった。
ブランコとすべり台とジャングルジム。
男の子はみんなそうだ。少しもジッとしていない。動いてスリルのあるものなら何だっていいと思っている。騒々しい。だから大っ嫌い。
それに先生が見ていないとろくに手を洗わないのも信じられない。それでおやつを食べるのだ。不潔で乱暴でいつも威張ってて。男の子なんてみんなこの世からいなくなればいいのに――。
オシッコがとても家までもちそうにないので、亜美は公園の隅にある公衆便所まで急いだ。公園の中でも一番嫌いな場所だ。
暗くてジメっとしてて、いつもいやな臭いがたちこめている。
男の子たちと同じようにこの世からなくなって欲しいもののひとつだけれど、今はなくなって欲しくなかった。緊急に必要としていた。
だが亜美は、公衆便所まであと三メートルといったところで走るのをやめた。もうそこでもいやな臭いが漂っていた。
内部が見えないように、つい立てがわりに造られた壁の向こう側の蛍光灯が、咳をしているみたいに不規則に明滅している。パッと暗くなったり、パッ、パッと明るくなったりをくり返している。それも女子便所だけで、男子便所の方は――蛍光灯管の両端がドブ水につけたみたいに黒くなってはいたけれど――明滅してはいなかった。とにかく点いてはいた。
亜美はそれを見ただけでもチビってしまいそうだった。一瞬にしろ、真っ暗になるのだ。夕暮れ時にしても、あの狭い囲いのなかで真っ暗になってしまうのだ。
怖い――。
・・・・でも、したい。
亜美はその場で足踏みしたまま考えた。漏らさない程度に小さな手で腰の骨をトントンと叩いた。
怖い、したい、怖い、したい、怖い、したい――。
やっぱりお姉ちゃんに来てもらおうか・・・・。
お漏らしすると、ママはひどく怒るに決まってる。おねしょをした時だってモノサシで五回もおしりをぶつのだ。
あれほど念を押したのにママを起こさなかった罰、パシッ。
寝る前にオレンジジュースを欲しがった罰、パシッ。
ママの仕事を増やした罰、パシッ。
ふとんを汚した罰、パシッ。
そして最後におねしょをした罰、パシッ。
きっとお漏らしの方がもっと多いに決まってる。亜美はそれを考えただけでも泣きたくなった。
どうしよう。家まで走って帰ると三分とかからない距離だけれど、とても間に合いそうにない。ううん、もう絶対もたない。すでに下腹部が痛いし、身体もまっすぐにできないほどなのだ。十歩も走れない。歩くこともできないかもしれない。
亜美は公衆便所にむかってゆっくりと歩きはじめた。
股の間にバレーボールを挟んでいるようなひどいガニ股で、片時も公衆便所から目を離さずに、明滅する蛍光灯をにらみつけていた。
ひとりで便所に行っちゃいけないって、ママにあれほどクドく言われてたのに――。
でも、お姉ちゃんは男の子みたいな遊びに夢中になってるし、来るとい言ってたカオルちゃんが来なかったんだし・・・・。
公衆便所の入口まで来てみると、もうそこから一歩も動けなくなってしまった。
ひとりであの狭くて臭くて汚ない囲いの中へ入っていくなんて想像もできない。
誰も外で待っていてくれない便所に入るなんて考えられない。
亜美は心臓がドキドキしていた。口から心臓が飛びでてくるんじゃないかと思えるぐらい、鼓動が耳のすぐ近くで聞こえた。そんな感覚はじめてだ。こんなところ、絶対入りたくないっ! でも・・・・。
亜美は公衆便所の裏手に目を向けてみた。
そこは彼女の背より高い潅木 に囲まれていて、そのすぐ向こう側は道路だった。しかも灌木の葉が細かいので、何をしていても道路側からは見られる心配はない。
あそこだったら、あの狭くて臭くて汚い空間よりはマシかも知れない、と亜美は思った。
少なくとも逃げ場がある。お化けがでてきても、すぐに道路に出ちゃえばいいのだ。
ぬめっとした生温かい舌がおしりを撫でてきたら、おもいっきり叫んでやればいいのだ。
そうすれば、向かいの家の人がきっと助けてくれる。お姉ちゃんにだって聞こえるはずだ。
亜美はもう一度だけ公衆便所の裏手と、暗い女子便所を見比べてから、お姉ちゃんを見た。
姉はブランコから下りて、片足でケンケンをしながら自分のクツを取りにいくところだった。一度も亜美の方を見てくれない。自分の遊びに夢中になっていた。なんでもすぐムキになる姉なのだ。
彼女はあきらめてひとりで便所の裏手に入りこみ、すぐにパンツを脱いで枯れ葉の上に放尿をはじめた。
これでもうママに怒られないですむという安堵と、恐怖を早く終わらせたい思いに夢中になり過ぎてしまって、亜美は背後からしのびよる気配にまったく気づかなかった。
枯葉によって変な流れ方をする尿からクツを守るのに意識を集中していたために、背後の人影が枯葉を踏む音にもまったく気づかなかった。亜美自身、尿から逃れるためにしゃがんだまま場所を移動したりして、けっこう大きな音をたてていたのだ。
やがて放尿が終わってあわててパンツを引き上げたとき、彼女は後ろをふり向いた。何かに気づいたわけではなかったが、何かを感じたのは確かだった。
巨大な舌で背中を撫でられるような重くて湿った空気――。
黒い雲が被いかぶさってくるような暗い気配――。
悲しいことに、亜美の五年と二カ月の生涯の中で最期に記憶したものは、ママのやさしい笑顔でもなく、パパとママとお姉ちゃんが病院のベッドで寝ている自分の顔を心配そうにのぞき込んでいる姿でもなかった。
真っ黒な足が二本、目の前に立っている光景と、知らないオジさんが私を見下ろしている姿だった。
すると、その知らないオジさんの大きな手が、大きくて冷たくてツルツルした手が自分の首に・・・・。
亜美は叫び声を上げることもできずに、ましてや道路に飛び出すこともできずに、急速に記憶が薄れていった。
すっきりと晴れわたった十月のその日、まだ五つになったばかりの高村亜美は、不意にオシッコがしたくてたまらないのに気づいた。家の近くの公園の砂場で、王子さまを迎えるお城づくりに夢中になってしまったためだ。
さっきまで一緒にお城をつくっていた四つ上の姉は、友だちを見つけるとすぐに飛んでいって、いまはブランコに立ち乗りになって遊んでいる。友だちとクツを遠くへ投げ飛ばすのに夢中になっている姉の姿が亜美のところからも見えた。
彼女に(遊びに夢中になっている時はとくに)おトイレに行きたいなんて言うと、ひどく機嫌をそこねるに決まってる。いつまでたっても一人で行けないのね、とお姉さんぶってブツブツ文句を言うに決まってる。まだぁー、ウンチしてんじゃないのぉ? と外から大きな声で
夕暮れ時の公園は、先日死んだおばあちゃんの遺体を連想させるので、亜美はあまり好きじゃなかった。
じっと天井を見つめつづける半開きになったおばあちゃんの瞳。乾燥して小さなシワがよったあの暗い瞳。亜美はそれを見てビックリした。瞳にシワがよるなんて・・・・。
大好きだったおばあちゃんがおばあちゃんでなくなっていく――。
おばあちゃんは?
ねえ、ママ。おばあちゃんはどこ?
どこへ行っちゃったの?
ねえ、ママ――。
夕暮れ時の公園は、あのときの感覚に似ていた。
大好きな公園が大好きな公園でなくなっていくこの感じ。心にポッカリと穴があいたようなこの感覚――。
心なしか急に風も冷たくなってきたような気がする。
友だちのカオルちゃんもヒサちゃんも、今日は来ていなかった。途中でおなじスミレ組のエイジ君が来たけれど、彼は亜美をみても見向きもせず、砂場に足を一歩もふみ入れてこなかった。
ブランコとすべり台とジャングルジム。
男の子はみんなそうだ。少しもジッとしていない。動いてスリルのあるものなら何だっていいと思っている。騒々しい。だから大っ嫌い。
それに先生が見ていないとろくに手を洗わないのも信じられない。それでおやつを食べるのだ。不潔で乱暴でいつも威張ってて。男の子なんてみんなこの世からいなくなればいいのに――。
オシッコがとても家までもちそうにないので、亜美は公園の隅にある公衆便所まで急いだ。公園の中でも一番嫌いな場所だ。
暗くてジメっとしてて、いつもいやな臭いがたちこめている。
男の子たちと同じようにこの世からなくなって欲しいもののひとつだけれど、今はなくなって欲しくなかった。緊急に必要としていた。
だが亜美は、公衆便所まであと三メートルといったところで走るのをやめた。もうそこでもいやな臭いが漂っていた。
内部が見えないように、つい立てがわりに造られた壁の向こう側の蛍光灯が、咳をしているみたいに不規則に明滅している。パッと暗くなったり、パッ、パッと明るくなったりをくり返している。それも女子便所だけで、男子便所の方は――蛍光灯管の両端がドブ水につけたみたいに黒くなってはいたけれど――明滅してはいなかった。とにかく点いてはいた。
亜美はそれを見ただけでもチビってしまいそうだった。一瞬にしろ、真っ暗になるのだ。夕暮れ時にしても、あの狭い囲いのなかで真っ暗になってしまうのだ。
怖い――。
・・・・でも、したい。
亜美はその場で足踏みしたまま考えた。漏らさない程度に小さな手で腰の骨をトントンと叩いた。
怖い、したい、怖い、したい、怖い、したい――。
やっぱりお姉ちゃんに来てもらおうか・・・・。
お漏らしすると、ママはひどく怒るに決まってる。おねしょをした時だってモノサシで五回もおしりをぶつのだ。
あれほど念を押したのにママを起こさなかった罰、パシッ。
寝る前にオレンジジュースを欲しがった罰、パシッ。
ママの仕事を増やした罰、パシッ。
ふとんを汚した罰、パシッ。
そして最後におねしょをした罰、パシッ。
きっとお漏らしの方がもっと多いに決まってる。亜美はそれを考えただけでも泣きたくなった。
どうしよう。家まで走って帰ると三分とかからない距離だけれど、とても間に合いそうにない。ううん、もう絶対もたない。すでに下腹部が痛いし、身体もまっすぐにできないほどなのだ。十歩も走れない。歩くこともできないかもしれない。
亜美は公衆便所にむかってゆっくりと歩きはじめた。
股の間にバレーボールを挟んでいるようなひどいガニ股で、片時も公衆便所から目を離さずに、明滅する蛍光灯をにらみつけていた。
ひとりで便所に行っちゃいけないって、ママにあれほどクドく言われてたのに――。
でも、お姉ちゃんは男の子みたいな遊びに夢中になってるし、来るとい言ってたカオルちゃんが来なかったんだし・・・・。
公衆便所の入口まで来てみると、もうそこから一歩も動けなくなってしまった。
ひとりであの狭くて臭くて汚ない囲いの中へ入っていくなんて想像もできない。
誰も外で待っていてくれない便所に入るなんて考えられない。
亜美は心臓がドキドキしていた。口から心臓が飛びでてくるんじゃないかと思えるぐらい、鼓動が耳のすぐ近くで聞こえた。そんな感覚はじめてだ。こんなところ、絶対入りたくないっ! でも・・・・。
亜美は公衆便所の裏手に目を向けてみた。
そこは彼女の背より高い
あそこだったら、あの狭くて臭くて汚い空間よりはマシかも知れない、と亜美は思った。
少なくとも逃げ場がある。お化けがでてきても、すぐに道路に出ちゃえばいいのだ。
ぬめっとした生温かい舌がおしりを撫でてきたら、おもいっきり叫んでやればいいのだ。
そうすれば、向かいの家の人がきっと助けてくれる。お姉ちゃんにだって聞こえるはずだ。
亜美はもう一度だけ公衆便所の裏手と、暗い女子便所を見比べてから、お姉ちゃんを見た。
姉はブランコから下りて、片足でケンケンをしながら自分のクツを取りにいくところだった。一度も亜美の方を見てくれない。自分の遊びに夢中になっていた。なんでもすぐムキになる姉なのだ。
彼女はあきらめてひとりで便所の裏手に入りこみ、すぐにパンツを脱いで枯れ葉の上に放尿をはじめた。
これでもうママに怒られないですむという安堵と、恐怖を早く終わらせたい思いに夢中になり過ぎてしまって、亜美は背後からしのびよる気配にまったく気づかなかった。
枯葉によって変な流れ方をする尿からクツを守るのに意識を集中していたために、背後の人影が枯葉を踏む音にもまったく気づかなかった。亜美自身、尿から逃れるためにしゃがんだまま場所を移動したりして、けっこう大きな音をたてていたのだ。
やがて放尿が終わってあわててパンツを引き上げたとき、彼女は後ろをふり向いた。何かに気づいたわけではなかったが、何かを感じたのは確かだった。
巨大な舌で背中を撫でられるような重くて湿った空気――。
黒い雲が被いかぶさってくるような暗い気配――。
悲しいことに、亜美の五年と二カ月の生涯の中で最期に記憶したものは、ママのやさしい笑顔でもなく、パパとママとお姉ちゃんが病院のベッドで寝ている自分の顔を心配そうにのぞき込んでいる姿でもなかった。
真っ黒な足が二本、目の前に立っている光景と、知らないオジさんが私を見下ろしている姿だった。
すると、その知らないオジさんの大きな手が、大きくて冷たくてツルツルした手が自分の首に・・・・。
亜美は叫び声を上げることもできずに、ましてや道路に飛び出すこともできずに、急速に記憶が薄れていった。