文字数 6,701文字

 雪柾と未々は同じ海市高校の特進クラスだったが、入学当初から雪柾が特進のAクラス、未々がBクラスと別れていた。それは三年間変わらない。両クラスとも成績に差はなかったので、男女を分けた上で、受験順位の奇数偶数で分けられたのだともっぱらの噂だった。
 他には普通科が七クラス、商業科が一クラスの一学年十クラスで構成されている。
 地方にありがちな公立高校に行けなかった生徒の受け皿的な役割だった私立の海市高校は、当然ながら中学で落ちこぼれた生徒ばかりだったので、世間では侮蔑のニュアンスを込めて〈イチコウ〉と呼ばれていた。
 そんな〈イチコウ〉では、学費免除や控除でいれた特進クラスの生徒を、ひとりでも多く有名な国公立大学へ進学させるという、昔ながらの方針にしがみついていた。そうすることで学校のイメージアップにつながると考えてのことだ。
 確かにそれで海市高校の

という認識は生まれはしたものの、海市高校のイメージアップには少しもつながらなかった。あいかわらず世間では〈イチコウ〉と卑下した呼び方をしていたし、おそらくそれはこれからも不変だ。
 一日でも早く、そういった他校に右ならえの学力至上主義を捨て、べつの、海市高校なりの存在価値を見いだすべきだと力説する体育教師の荒木先生がいたが、彼の意見はつまるところ学力至上主義がインターハイ至上主義に変わっただけに過ぎなかったので、その意見に右ならえをする教師はひとりもいなかった。
 もっと根本的な、現在の教育システムにこそ問題があると苦言を呈する倫理・社会の教師、西尾先生もいたが、だからといって具体的な案があるわけでもなく、その話は遅々としてなにも進まなかった。
 じっさいのところ、特進クラスでは、教師がそういった話を、それも授業の中ですることに、反発を感じる生徒がほとんどだった。
 だれも海市高校の存在価値になんて興味なかったし、この高校三年間以外に海市高校とかかわりをもちたいと思う生徒すら皆無だった。できるなら自分の経歴から抹消したい、そう願っている生徒たちばかりなのだ。
「どこの高校?」
「海市高校です」
 ――一瞬の間。そして、ふうんといって人の(ひたい)に〈イチコウ〉というレッテルを貼りつける。たまに先生の名前を言って、まだいるの? と親しげに訊いてくる人もいたが、レッテルを貼ることにはかわらない。そういった苦い経験してきた生徒たちばかりなのだ。
 だからといって「海市高校の特進クラスです」と応えても、たいした効果は期待できない。特進クラスの優秀さが、世間ではまったくといっていいいほど認知されていなかったからだ。
 だから、彼らにとっては「海市高校」というセリフを吐くこと自体、すでに耐えがたいものだったのだ。
 この世でいちばん忌まわしいセリフ――。
 唾棄(だき)すべき言葉――。
 それは特進クラスにはいってきた生徒のほとんどがもっている、何らかの

によるものだ。
 公立高校の受験日に体調をくずして、本来の力が発揮できなかった怨み――。
 極度の緊張で、公立高校受験日の二日前から一睡もできなくなってしまった怨み――。
 受験日の五日前に父親の自動車のドアに右手のひと差し指と中指がはさまれ、それぞれの指の第二関節を骨折して満足に字も書けなくなってしまった怨み――。
「海市高校」と口にしたとき、その怨みがまざまざと蘇ってくる。
 思いだしたくない忌まわしい記憶。
 ぶつけどころのない自己嫌悪。
 けっして肯定したくない敗北感。
 生まれてはじめての挫折感。
 中学で自分よりずっと成績の悪かった奴らが志望校に合格したのを祝福した屈辱も忘れはしない。
 そんな奴らの余裕をもった同情。
 信じられない! と絶句しながらも、心の中では人の不運を笑っていたのだ。
 彼らにとってそんな奴らに復讐する手段は、よりハイレベルな大学に進学するしかなかった。そこでようやく笑えるのだ。
 〈怪我の功名〉とか〈災い転じて〉とか、笑いながらようやく話すことができるのだ。
 そのために、その怨みのために、彼らは毎日七限ある授業にも耐えることができたのだし、月二回あった土曜日の休みに、特進クラスだけ開かれている補習授業にも、休まず出席してこれたのだ。

 沢木未々の怨みは子宮内膜症によるひどい生理痛にあった。
 いつもひどい生理痛に苦しむ彼女が、恥ずかしいのを我慢して産婦人科でピルをもらって生理日を遅らせようとしたにもかかわらず、よりによって受験日の前日に生理がきてしまった怨み――。
 痛み止めの薬で下腹部の激痛はどうにか治まったものの、試験中眠くて眠くてどうしようもなかった怨み――。
 彼女はそのぶつけどころのない〝怨み〟を、自分の子宮に向けた。こぶしで下腹部を痛めつけることでどうにか発散していた。それを少しずつながらも溶解させてくれたのは、小野アリアの存在だった。
 未々は入学当初から予習をする気にならない古文とか物理の前の休み時間になると、よくAクラスへいった。アリアのところだ。おなじ中学から海市高校へ進学してきた生徒は何人かいたが、特進クラスへ入ったのは小野アリアしかいなかった。
 そんなアリアの〈怨み〉は、公立高校の受験日当日に問題があったのではなく、その制服にあった。
 セーラー服にエンジ色のリボンという、中学から代わり映えのしないその公立高校の制服が許せないと言うのだ。
 安易な発想で、センスの欠けらもない。そんな制服で高校三年間を過ごすなんて信じられない、と彼女は中三のはじめから未々に訴えていた。
 その点、海市高校の制服は、近辺にある高校とは明らかに違っていて、プリーツスカートになった紺のワンピースに白のブラウス、エンジのクロスタイ、そして冬場はそのワンピースの上に紺のショートジャケットを羽織るようになっていた。それに憧れたわけではなかったが、高校といえば甘ったるいチェック柄スカートの制服が多いなかで、その柄も何もないシンプルな制服はまだ許せるらしかった。
 未々よりも成績がよかった彼女は完全に公立高校の合格圏内にいたが、彼女は受験前から海市高校への入学を予告していた。
 そして彼女はおとなしく公立高校の試験をうけ、おおかたの予想を裏切ってみごとに落ち、念願の海市高校の制服を着ることになったのだ。
 だが、彼女の〝怨み〟はそこからはじまった。
 彼女たちが海市高校に入学した年からその公立高校で制服が廃止になり、私服になったのだ。
 以前からそんな噂は聞いていたが、毎年そんな噂がもちあがると一笑に付した中三担任の、いつもなにかとポカが多いアルツハイマー佐藤が許せない! と彼女はいまでも激しく(うら)んでいた。中学教師ならそれぐらいの情報を的確につかんでおけ! ということらしかった。
 それに、周囲の人々の『海市高校』とわかったときの侮蔑感が想像していたよりもずっと強く、それは校名を名乗らずともその一種独特な制服だけですぐにバレてしまったので、彼女は入学早々海市高校の制服を選んだことを激しく後悔していた。
 未々は、海市高校の制服を着たアリアの不服そうな顔を見て涙がでるほど笑い、それでずいぶんと自分の〝怨み〟も大きく軽減されたのを今でも覚えている。
 
 それほど強く想いつめているわけではなかったが、未々がAクラスへいく目的に、〈大川雪柾に会える〉ことも正直いってあった。
 アリアが彼のことを嫌っていたのは知っていたが、未々は入学式のときからずっと彼の存在が気になっていたのだ。
 その思いは誰にも悟られないように気をつけていた。
 雪柾にはとくに――。
 そしてアリアにも――。
 彼にも聞こえるようにワザとらしく大きな声でしゃべったり、ムダに明るく笑ったりしないように意識していたし、横を向いていても視線は感じるものだから、なるべく見ないように心がけてもいた。彼の近くにいるだけで、その存在を肌で感じるだけで、満足するように自分に言い聞かせていたのだ。そんなちょっとした楽しみでも、自分の〈怨み〉が軽減されていくのがわかった。
 雪柾は廊下側に坐るアリアのななめ前の席だったが、そこに坐っていることはめったになかった。いつも窓側の席に坐っている畑本誠二としゃべっているか、窓から外をぼんやり眺めているかしていた。
「ヤツ、いま何を見てるかわかる?」
 〝ヤツ〟とは雪柾のことだ。アリアは最初から彼のことをそう呼んでいた。
 いまも雪柾を見ながら気味悪そうに訊いてきたので、未々もゆっくり顔をむけて雪柾をみた。そこに雪柾がいたことに今はじめて気づいたみたいに――。
 大川雪柾は畑本誠二の机にもたれて、ぼんやりと外を眺めていた。まわりに誠二の姿は見えなかった。
 未々は陽光のまぶしさに目を細めながら首をふった。
「火葬場よ。それも、火葬場の煙突からでてるけむり。ヤツはいつもあれを見てるの」
 たしかに緑におおわれた小高い山の中腹に建てられた火葬場からは、濃い灰色のけむりがゆっくりと真上に昇っていた。
「火葬場でたくさんけむりが上がっているときは誰でもあまり見ないようにするものだけど、ヤツはそういう時はとくに熱心なのよ。授業中でも目をそらさないの。気味悪いと思わない?」
 未々は肯いた。でも、まったく気にはならなかった。この世でいちばん感慨深いけむり、だと彼女も思っていた。
 未々もそのけむりを見るたびに、三年前に亡くなった祖父のことを思い出したりするのだ。きっと彼も、あのけむりを見て、近親者を亡くしたときの感慨にふけっているに違いない。アリアは近年近親者を亡くしたことがないから、そのことがよく理解できなくて、そんな彼の行為が気味悪く見えるのだろう。
「ヤツにはねぇ、なにかが欠落しているの」とアリアは左手の中指でこめかみを押さえながら考えていた。
「欠落?」未々は驚いてアリアを見た。「あのけむりを見ていることが?」
「そう。彼にはなにかが欠けてる気がするんだよねー。なんだろう。・・・・道徳心? 背徳感? 罪悪感?」とアリア。そう言いながらもなんども首をひねっていた。
「なんかピッタリくることばが見つからないけど、なにかが欠落しているのは確かね。それもとても大切ななにかが・・・・」
「そうかしら・・・・」未々は雪柾を見た。そしてまたアリアを見た。「とてもそうは見えないけど・・・・」
 アリアは未々のことばを聞いてはいなかった。ずっとその〈なにか〉を考えているようだった。
「それに、変なにおいがする。いままで嗅いだことがあるような、ないような・・・・。なんだかなー。入学したときから、ずっと気になってるんだよねー」とアリア。

 かねてからアリアは、特定の人に、

と言っていた。
 それは体臭のような直接的なにおいではなく、彼女しか感得できない独特な感覚だった。
 たとえば、見た感じはやさしそうな倫理・社会の西尾先生は〈冷酷で独善的なにおい〉。
 見た感じは品があって生徒たちの印象も悪くはない生物の田山先生は、〈いつも十円玉を舐めてるみたいにお金に汚いにおい〉。
 生徒に対してでも、ちょっとしたことで謝ってばかりいる頭の低い古典の中谷先生は〈いつも人を見下している傲慢なにおい〉とか――。
 どれだけ人の良さそうな仮面をかぶっていても、その人の本質は生涯変わらない、とアリア。
 彼女にはその人たちが〈(みにく)い本質が服を着ているようにしか見えない〉ようで、じっさい古典の中谷先生にやさしく声をかけられても、「私は気を許したことは一度もない!」と言い切るほどだった。
 もちろん未々は信じてはいなかった。

 二年生になった六月のある日、二週間後に開催される体育大会のクラスの実行委員長として、大川雪柾が小野アリアのところまできたことがあった。クラスから四人選ばれるリレー選手として、彼女に出場を要請するためだ。
 つねづね

といって毛嫌いしていた彼女の前に、いま雪柾が立っていた。そしてアリアの机に両手をつき、こころもち顔を寄せるようにして小声で話しかけている。
 未々は廊下側に顔を向け、そこの窓に映るふたりの姿を、『なにも起こらないで・・・・』と祈る思いで見守っていた。
 なに事もありませんように――。
 このままなに事もなく――。
「もうちょっと離れてくれない?」
 ずっと未々に顔を向けたまま返事もしなかったアリアが、顔をしかめて言った。
 大川雪柾はビックリしていた。
 それを聞いたクラスメイトもみんなおしゃべりをやめてふたりに注目していた。
 もちろん未々も、息を吸うのも忘れるぐらい驚いていた。
 そういうセリフを面とむかって言うなんて信じられなかった。それも雪柾に向かってだ。
 誰もが耳を疑っているような感じだった。
「・・・・ゴメン。あまり大きな声で話すことでもないと思ってさ――」とアリアの机から両手を放した大川雪柾は、それでもすぐに笑顔にもどっていた。
「くさいのよ」アリアは顔をしかめながら言った。「変な臭いがする」
 一瞬雪柾の笑顔が凍ったように見えた。でも、すぐに笑い飛ばした。爽やかで、それほど大きくない声で、だれも傷つけないように軽く笑い飛ばした。
 未々は傷ついていた。彼の代わりに泣きたくなっていた。
「わかった。ゴメン、謝るよ。――で、リレーの件。お願いできるかな?」
 アリアは応えなかった。顔をしかめたまま、なんの臭いなのか考えているようだった。
 周囲の同情が大川雪柾に集まっているのはあきらかだった。
 アリアの鼻が歪んでんじゃないの? と非難する空気が急速に膨らみはじめていた。
「いいかな?」彼はもう一度確認するように小さな声で訊いた。
「――そう。なにか腐った臭いよ」と、アリアは顔を歪めて未々に言った。
 未々は顔をふせた。
 席を立とうとも思ったが、そうすると

もっと傷つけてしまいそうな気がして動けなかった。
「なにか動物が腐った臭いよ」そう言うと、アリアは雪柾を見上げた。「どういうこと?」
 雪柾は笑わなかった。顔は笑顔のままだったが、笑ってはいなかった。強烈な耳鳴りが頭のなかで鳴り響いているような顔をしていた。
「おいっ!」と叫びながら、畑本誠二がこちらに向かってきた。
 彼はひどく痩せていて、カマキリみたいに攻撃的な男だったが、じっさい特進クラスをふたつあわせても、先生に反抗的な態度をとるのは彼ぐらいのものだった。そういう時の彼は、いまにも教師を殺しかねない目でにらむ。
 そんな彼に対して、アリアは呼ばれても顔を向けなかったし、雪柾もふり向かなかったので、誠二は雪柾の肩を軽く叩いてからアリアをみた。
「だれも好きでこんなことやってんじゃねーんだよ」誠一は抑えた声でいった。
「小野だけじゃない。二十三ある競技に対して、ひとつひとつ誰かの名前を埋めていかなくちゃなんねーんだ。わかるだろ? なのに、いちいち臭いとか、変な臭いがするとか言われちゃ、どう思うよ」
 アリアは未々を見たまま平然としていた。
「どう思うよ」と誠二はもう一度言った。すこし怒気をふくめていたが、まだ殺しかねない目にはなっていなかった。
 クラス中が緊張していた。痛いぐらいに空気が張り詰めていた。
「いや、いいんだ」雪柾は歪んだ笑顔を誠二にむけた。「――大丈夫だから」
 そこでチャイムが鳴っていちばん救われた気分になったのは未々だった。
 彼女は腕時計をみて――ゴメン、わたし隣のクラスだからさ、すぐに戻らなくっちゃ、という雰囲気をこめてあわてて立ち上がった。
 しかし誠二が未々の肩に手をおいてもう一度坐らせた。
「おまえはどう思うよ」
 一瞬にして未々の息が止まった。いきなりドロドロした沼の中に引きずりこまれたような気がした。
「小野の言いぐさ、どう思うんだ? ヒドいと思わないのか?」
 誠二は怒気をふくんだ目を未々にむけた。
 声がでなかった。胃が急激にキリキリと痛んだ。
 未々はアリアを見た。アリアは平然としていた。まるで高原へピクニックにでもきているような涼し気な顔だった。
 アリアは未々の手をぽんぽんと叩いて、「もう戻らないと」とやさしく言った。
 未々は肯いて立ち上がった。
「おいっ!」
「うっさいわねー」怒気を込めてアリアが(さえぎ)った。「彼女には関係ないでしょう。どう思う、どう思うって、嫌な臭いがするって正直にいっただけじゃないの。アンタは感じないの?」
 つかみかかろうとした誠二を止めたのは雪柾だ。
 しかし未々が見ていたのはそこまでだった。彼女は逃げるように自分のクラスへ戻っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
  • プロローグ 高村亜美

  • 第一章 沢木未々

  • 第二章 大川雪柾

  • 第三章 小野アリア

  • 第四章 大川珠美

  • 第五章 再び、小野アリア

  • エピローグ 高村恵子

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み