文字数 8,342文字

 十月十六日 水曜日
 沢木未々は、テーブルに並べられたベーコンとホウレン草のバター炒めを見て、昨日と同じなのを母さんに文句を言おうとしたとき、近所で女の子が行方不明になっていることを聞かされた。
「すぐ近くなのよ」母さんはミルクを入れたマグカップを電子レンジの中にいれてスタートボタンを押した。
「あっ、やめてって言ったでしょ、そのカップ。把手まですごく熱くなるんだから。それに――」
「あなたもよく行ってたでしょ、ほら、あの第二海浜公園」母さんは眉をひそめながら未々を見た。
「あそこで、まだ五つの女の子がいなくなったんですって」
「第二海浜公園? 新聞に載ってるの?」
 新聞を読んでいる父さんの方を見ても、反応はまったくなかった。いつもそうなのだ。泰然としている。
 すべてがわかっているような態度――。
 なにもかも見透かしているような言動――。
 最近、未々はその態度が気になってしかたなかった。小さい頃からずっと見てきた光景だが、最近それが嫌でいやでしかたなかった。
「テレビでもやってたのよ。いなくなってからもう二日も経ってるんですって」
「二日も?」
 未々は急いでテレビのチャンネルを変えてみたが、どのテレビ局も事件の報道は終わったか、あるいは行方不明になってからまだ二日

経っていなかったために、たいした事件とはいえないと判断されたのか、まったくやっていなかった。
「月曜日っていったら、ちょうどあなたが学校休んだ日よ。良かったわよねえ、ほんとに――。近所でこんなことが起こるなんて・・・・。あー怖いこわい」と母さんはなんども首をふってから未々を見た。
「あなたも気をつけるのよ」
 未々は返事もせずにもうひと回りチャンネルを変えてみたが、やはりどの局もやっていなかった。
「早く見つかるといいのにねぇ」
「知ってる子?」
 母さんは首をふった。
 父さんは新聞をきれいに折りたたんでテーブルに置き、スポーツ欄を見たまま四つ切りの分厚いパンをちぎって口の中に放り込んだ。
 十七歳の小娘が、まだ高校二年にしかならない子供が、父親より先に新聞を読むなんて十年早いと思っているのだ。もちろん今から十年経っても十年早いと思うに決まっている。
 父さんは私のことをまだ小学生だと、少なくともいまだに小学生以上ではなく、それ以下でもない、そう思っているのだ。かわいい小学生が理屈っぽい小学生になったと。こうるさい小学生になったと。いつからそうなんだ? いつからそうなってしまったんだ? そう思っているに決まっている。
 まあ、いい。どっちだっていい。知らない女の子の行方不明事件よりも、私は今、もっと大切で、ずっと重要な問題で頭がいっぱいなのだ。

 ――大川雪柾。

 交際をはじめてから三カ月ちょっとの彼。その彼が最近変わったという

が、未々の大きな悩みのタネだった。
 十七歳の沢木未々にとって、大川雪柾は完璧な男だった。少なくとも十七歳の女の子が夢想する男性像を、彼はとても理想的にこなしていた。
 未々は高校に入学した時から彼に目をつけていた。正直いって入学試験のときからその存在には気づいていた。
 一八十近い身長はひどく目立ったし、広い肩幅にのっかった小さな顔は、童顔ではあっても幼くはなく(小便臭くなく)、まわりの男子連中と同じ制服を着ていても、その姿はもぎたての野菜みたいに新鮮に見えた。
 笑顔もいい。もちろんファーストフードの店員みたいに、ビデオによって教育された一種類の笑顔ではなく、そのときのケースに応じた笑顔を絶妙に使い分けていた。ふと目が合ったときでも、気まずい思いをしないですむ笑顔を見せてくれるのは彼ぐらいのものだ。
 なかでも人になにかを頼まれたときに見せる

は最高だった。モテる男子とモテない男子との差は、この笑顔にかかっていると断言してもいい。
 この年頃の女子にとって、その笑顔は貴重だった。ほとんどの男子生徒は頼み込んでもあからさまに嫌な顔をするか、ズルして逃げるか、よくて文句をいいながら恩着せがましくしぶしぶ承知するかだったが、彼のように笑顔で気やすくひき受てくれる男子はめずらしかった。彼の場合、どこまでも寛大に許してくれそうな笑顔なのだ。
 といっても何もかもわかっているという父親みたいに達観した笑顔ではない。よくわからないけど、僕にできること

・・・・、という献身的な笑顔。その笑顔で行動をおこしてくれる。それが肝心だった。
 女子にモテたいならまずその笑顔を身につけるべきだ、と未々はまわりの男子連中に教えてやりたいぐらいだった。
 勉強だってつねに学年の五番以内。一番は開校以来の秀才と教師も一目置くほどの関川明男、二番は鼻持ちならない高井久恵に譲っていたが、雪柾が五番以下になることは一度もなかった。
 まだ彼との交際がはじまる前に、まわりまわって雪柾がとった物理のノートをみせてもらったことがあったが、一七八・三の大柄な背丈に似合わず、几帳面な文字が中罫線幅のノートにビッシリと書かれているのをみて、頭のキレる人はノートのとり方まで違うと感嘆したものだった。
 とても同じ教師の授業をうけたとは思えなかった。
 彼の頭の中にはそこに書かれているものすべてが入っているような気がした。
 そういうことを不思議に思わせない男なのだ。
 おまけに親がどこかの大学教授ということもあって、校内でもトップクラスの人気者だった。

 そんな彼が〈最近変わった〉という噂の内容は、どれもたいしたものではなかった。
 英語の教師にあてられた時、とんでもないページを、それもスラスラと音読する彼。
 廊下を歩いているときも人にぶつかってばかりいる彼。
 もちろんそんなときは素直に謝るのだけれど、ちゃんと相手を見て謝っていない、誰もいない空間に向かって頭を下げているようにみえる彼。
 いつも、何をやっている時でもうわの空で、まるで頭の中でいつも知恵の輪をいじっているみたいと噂されている彼。
 すべて今までの彼にはなかったことだ。
 雪柾と未々が交際しているのは誰もが知っていたので、その〈雪柾が変わった〉という噂は遠くで聞こえる潮騒のようなものだったが、あなたのことを思って忠告するという女子が五人も来た。五人もだ。
 以前なら、そんな忠告はすべて大きなお世話だと突っぱねていただろうが、彼女自身も〈雪柾が変わった〉と思い始めていることが一番の悩みのタネだった。
 近々彼に確認してみよう、と未々は考えていた。

 その日の朝も、いつものようにきっかり七時五十分に玄関のチャイムが鳴った。
 ていねいに、いくぶん緊張しながら一度だけもったいつけて鳴らす。
 ピン・・・・ポーン――。
 それが大川雪柾の鳴らし方だ。
 そして玄関で出迎えた未々には、いつも初夏の朝みたいにすがすがしい笑顔を、後ろについてきた母親には「おはようございます」とはっきりした明るい声で礼儀正しく頭を下げた。
 未々は高校生ながらいつもきちんとした彼の態度が頼もしくもあり、好感をもっていたが、以前、母さんにやんわりと注意されたことがあった。
 夏休み前に髪をショートにした母親に向かって、「スッキリして見違えました!」と素直に褒めた雪柾が気にいらないらしかった。じっさいそのとき横にいた未々は、あとでそのことを指摘されたときに逆に喰ってかかった。
「なぜいけないの?」未々は自分の学習机の上に学生カバンを乱暴において母さんをみた。
「だって母さん、ほんとにスッキリしたんだし、ほんとに若く見えるんだよ? それを感じたまま言ってどこがいけないの?」
「感じたまま言っちゃいけないっていうんじゃないのよ」母さんは未々の視線を避けるようにして、倒れた学生カバンを見ていた。
「感じたままひとを褒めることって大切よ、それは。でもね、普通それをサラッと口にできるものじゃないと思うんだけど・・・・」
「女ったらしみたいってこと?」
 母さんは未々をみた。とくに口を見ていた。

というセリフを吐いた未々の口元を見ていた。
「そうは決めつけないけど――。まだ高校生でしょ、なのに・・・・」
「場慣れしてるってこと?」
 母親はため息をついてこめかみを押さえた。
「そうね・・・・」
「バカにしてる」
「そうかしら」
「そうだよ。母さんの時代とは違うの。いまじゃ自然なの。だれでも言ってるよ、そんなこと」
「・・・・そうかしら」
「そうなの!」
「まあ、いいわ。せいぜい気をつけなさいね」そう言い残して部屋から出ていこうとした母親の背中に向かって、未々はいじわるく訊いた。
「気をつけなさいって、なにをなの?」
「なにもかもよ」
「なにもかもって?」
「それはあなたが考えることでしょ」
「だったらほっといてよっ!」未々は乱暴に歩いてわざと大きな音がでるようにドアをきつく閉めた。
 雪柾との交際がはじまってから、家の中の空気がすっかり変わってしまったような気がする。
 これまでとなにも変わっていないはずなのに、動くたびにミシミシと音がするような、窮屈(きゅうくつ)な空気を身体で感じる。
 いままではそれほど実感していなかったが、両親は三歳のこどもを掌握(しょうあく)するのとおなじ感覚で、十七歳になった私を束縛しようとしているのだ。
 それも、当然の権利のように――。
 〈子を心配する親〉ということで、すべてが許されるみたいに――。
 十月になった今でも、母親は雪柾を警戒している。『スッキリして見違えました』と言った彼にこだわっている。プラスチックみたいに人見知りしない彼に、反感をもっているのだ。
 人見知りをしない彼の態度にではなく、その育ち。
 人見知りをしない快活な青年は、愛情薄く育ったものときめつけている。とくに母親の愛情が欠けていると思い込んでいるのだ。
 どうせステーキ肉にブラックペッパーを振るような感覚で、青少年の心理学がおりこまれた〈青少年の子をもつ親のあり方〉みたいなハウツー本の受け売りに決まってる。
 未々は母さんの意見にはまったく耳をかさなかった。
 何をいわれても、母親のそんな態度は、雪柾の一面だけを見て、過大に批判しているようにしか見えなかった。

 最近、母さんは話の最中でも私の胸をじっと見ていることがある。
 まるで性行為の進行具合によって、胸のふくらみが変化するとでも思っているように――。
 胸についた雪柾の手の痕跡をみつけだそうとしているみたいに――。
 父さんもそうだ。私が雪柾とつき合いはじめてからいつも機嫌が悪い。でも、理由はわかっている。まだ高校生の私が、異性と付き合うのは

と考えているからに決まっているのだ。
 父さんは昔からそうだ。まず第一に世間体を気にする。
 母さんがずっと専業主婦をしているのも、母親が外で働いていると世間体が悪いから――。
 母さんが学生時代の女友だちと旅行に行けないのもそう――。
 私がダンスを習いたいと訴えても聞く耳を持たないし、家族旅行もせいぜい一泊で、それも近場だ。なぜなら、贅沢な旅行は世間体が良くないから――。
 地方銀行の支店長になった今は、それに拍車がかかっているような気がする。
 ふとした時に感じる父さんの疎外するような視線は何?
 まったくの他人を見るような感覚は何?
 そんなものすべて、女子高生の恋愛は世間体が許さないからなの?
 

ってなに?
 もうなにもかもウンザリだった。

 いまの生活は、まるで壊れかけた自転車のようだ、と未々は感じていた。
 軽快に気分良く走っていても、ちょっとしたことですぐにチェーンが外れてしまう、そんな生活に似ている。
 もちろんチェーンを外しにくる魔の手は、父さんと母さんだ。意味もなくつっかかってくるし、ちょっとしたことで、楽しいはずの夕食が台無しになってしまう。
 だから彼女は、雪柾が毎朝迎えにきてくれることを中止にはしなかった。
 あえて心待ちにしている感じを、すこし大げさに演じてもいた。いつも父さんが気にしている〈世間体〉をあざ笑うかのように――。
 それがいまの彼女の叫びであり、無言の抗議であり、十七になるまでまったくなかったちょっとした反抗期だった。
 両親は雪柾の存在がそのちょっとした反抗期の引き金になったと考えているが、それは間違っている。引き金はあくまでも父さんと母さんだ。
 自分たちにもそういう時期があったはずなのに、なぜ理解してくれないのだろう。
 なぜ忘れてしまうのだろう。
 昔、結婚に大反対されたからといって、祖父の葬式にもでなかったのは誰?
 いまだに祖母を一人暮らしさせているのは誰? 
 ひどいリューマチで寝たきりのために、在宅介護支援センターから派遣されてくるホームヘルパーに、週二回しかお風呂にいれてもらえない祖母をほったらかしにしておくのは誰? 
 一回でも祖母のあのぐちゅぐちゅして一生治りそうにない床ずれの絆創膏を貼りかえてあげたことがあるの? 
 おばあちゃん、泣いてたのに。泣いて淋しさを訴えていたのに、
「じゃ、そろそろ帰りますから」って私の手を引いたのは誰?
 私は忘れない。けっして忘れはしない。

 玄関で見送っている母親の姿が見えなくなったところで、未々は雪柾の手をにぎった。
 肉厚で大きくて頼もしい手。どんなスポーツも時間のムダだといって毛嫌いしている彼の、少しもガサガサしていない健康的な手。
 その手をにぎると緊張する彼がおかしかった。
 人前で手をつないでいるカップルは未々もあまり好きではなかったが、海市高校の生徒だけでなく、他校の制服を着た生徒を見ただけでもあわてて手を放し、急に頭がかゆくなったしぐさをする雪柾がおかしかった。
 なぜか彼の嫌がることをしてみたくなるのだ。
 怒らない程度にいじめてみたくなるのだ。
 そういうことのくり返しで、長い棒で湖の深さを確かめるように、彼のやさしさの深さを、目で見ることのできない寛大さを推しはかっている。少しずつ、少しずつ――。
 幸いなことに、彼の底はまだ見えていなかった。

 彼が未々の手を離す地点はだいたい決まっていた。
 海市高校の校門前を走る国道の、角に信用金庫とガソリンスタンドがある信号の手前。そこにくれば間違いなく手を放す。熱いものに触れたようにあわてて放す。
 きょうはどこを掻くのだろう。
 頭? 
 それとも首すじ? 
 それとも奇をてらってローファーを脱いで小石をとる真似でもするのかな・・・・。
 未々は雪柾に見えないように、うつむいて笑いをこらえた。
 以前、手を放すために、道路のまん中で急に大きな背伸びをはじめたのを思いだしたからだ。彼にとっては、手をつないでいることよりも、その方がおかしくないらしい。
 しかし、その日の雪柾は手を放さなかった。
 海市高校の集団が、横断歩道の手前で信号が変わるのを待っているのを見ても、手を放さなかった。手をつなぐ行為に関しては、なによりも周囲の目を気にする彼がぼうっとしている。いま未々と手をつないでいることを完全に忘れているみたいだった。
 じっと前をみて、すこし恐い顔をして歩いている。
 ――こんなことはじめてだ。
 未々は不安になった。
 昨夜、徹夜でもしたのだろうか――。
 彼の生活をまったく知らない彼女は、昨夜、雪柾がどうしていたのかまったく想像もつかなかった。彼がどういう夜を過ごしているかなんて、これまで考えたこともなかったのだ。
 時計をみるたびに、今どうしているかとか、その日の彼との会話やしぐさを擦り切れるぐらいに何度も思い返したりすることはあっても、見たこともない彼の生活を具体的に想像してみたことは一度もなかった。
 ――いったい私は、彼のなにを知っているというのだろう・・・・。
「ねえ」未々は合図をおくるように、手を二回強くにぎった。不安を追い払うように声も三倍明るくした。
「なに?」雪柾は未々を見た。未々が笑顔のままなにも応えなかったので、腰をかがめて彼女の顔をのぞきこんだ。
「どうしたの?」
「えっ? ――えっと、・・・・今日はなんの日だか知ってる?」
「今日?」
 雪柾は眉間にシワをよせた。本気で考えている。とっさに考えた適当な質問だったが、これまでの十月十六日に何があったのかを本気で考えている。
 ――もう手をつなぐことを気にしないことにしたのだろうか・・・・。
「十月十六日は――、藤原鎌足が死んだ日、六六九年。でも、あれはいまの暦じゃ十一月十四日だよね」
 雪柾は未々を見て笑った。
 未々はよくわからなかったので、あいまいにほほ笑んでいた。
「他には――、マリー・アントワネットが処刑された日、一七九三年」
 未々はみずから手を放して雪柾をみた。彼はまだほかの逝去者を考えているようだ。手をつないでいたことも、それを放したこともまったく意識していないようだった。
 ――からかっているのだろうか。
 雪柾は未々をみた。そしてニヤリと笑った。
「じゃ、ないよね。ボクたちのことで?」
 もともとなにも考えていなかった未々は、上目づかいで彼をにらんだまま黙っていた。
 雪柾はひと差し指を眉間にあてた。記憶をたどるときの彼のクセだが、それが驚くほどよく憶えているのだ。彼の記憶力の良さは底無しだった。
 ユニオン英和辞典なら単語がのっているページ数まで憶えている。
『heave』は何ページ? 六一〇。
『resist』は? 一一二三。といった具合に――。
 もっとも、学年トップの関川明男はブリタニカ百科事典をすべて暗記しているともっぱらの噂だったが――。
「去年の十月十六日なら、キミは気分が悪いといって午前中に早退したよね。だからボクたちのクラスに一度も顔を見せなくて、接点はなかったはずだけど?」
 未々はまじまじと雪柾の顔をみつめた。
「本当なの? それ」
「本当だよ」雪柾はまじめに応えた。「ウソじゃない」
「じゃ、去年の九月四日は?」
 雪柾は眉間をこすりだした。信号待ちをしている海市高校の女生徒のおしりを凝視して、しきりに眉間をこすっていた。
 その横にいた女子生徒が雪柾に気づいてあわてて友だちに耳うちすると、おしりを凝視されていた女の子がサッとふり向き、口に手をあてて憧れに満ちた小さな声をあげた。
 それでも雪柾はその子のおしりを凝視したまま眉間をこすっていた。
「二学期が始まって最初の月曜日――。服装検査の日だね」
 雪柾は遠くの文字を読み取るように目を細めながら言った。
 未々はドキドキしていた。
 彼は憶えているのだろうか。
 海市高校に入学してから初めて彼に触れたあの日のことを――。
 廊下ですれ違うときに、ワザと彼の手に自分の手をぶつけたあの一瞬のできごとを――。
 すぐに謝ると、少しだけふり向いて小さく頭を下げた彼の姿が、いまでも頭の中にこびりついている。
 ――あのとき触れた肌の温もりも忘れてはいない。
 そんなささやかな接触を、私のささやかな記念日を、彼は憶えているのだろうか――。
 雪柾は眉間からひと差し指をはなして自信ありげにニヤリと笑った。そして未々の手の甲に自分の手の甲をサッと(こす)らせた。
 未々はもう一度彼をまじまじとみつめた。
 すぐには声がでなかった。
 そんなことまで憶えているのだ!
 まだ交際を始めていない時期のことまで――。
 憧れていた男性がそこまで憶えていてくれたというのは嬉しいものなのだろうか。
 その頃から私のことを気にかけてくれていたのね! と首にすがりついて狂喜するものなのだろうか。
 正直言って未々の思いは恐怖に近かった。
 得体の知れない(パワー)に対する恐れ――。
 額にぶつかってきたハエさえも覚えていそうな彼の記憶力に対する(おび)え――。
 前にいた女の子がふたりそろって未々をジッとみていた。
「完敗だわ」未々は頬をふくらませて息を強く吐き出した。「記憶のジュークボックスみたいね、まったく――」
 雪柾はきれいな歯並びをみせてうれしそうに笑った。
 信号が変わって歩きはじめても、前にいる二人は未々から目を離さなかった。
 これまでにも何人の女子生徒に値踏みされてきたことだろう。
 おそらくこれからも――。
 未々はいささかウンザリしはじめていた。
「で、きょうは何の日なんだい?」
 彼女は背伸びして雪柾の耳に口をあてた。
「ナイショ!」
 彼に右腕の上腕部をつかまれて、未々は身体をよじって笑った。そこは苦手な部分なのだ。彼女の大きな笑い声に、雪柾はあわてて手を放した。その隙に未々は逃げた。
 もちろん、彼は追ってはこなかった。
 まわりの視線を気にするいつもの彼にもどったのだ。
 未々はあまり深く考えないことにした。
 とにかく今は――。
 何もない今は――。
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  • プロローグ 高村亜美

  • 第一章 沢木未々

  • 第二章 大川雪柾

  • 第三章 小野アリア

  • 第四章 大川珠美

  • 第五章 再び、小野アリア

  • エピローグ 高村恵子

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