第2話 ヘルミの泉

文字数 1,103文字

「まだこんな時間か。」
 酒場の方からは賑やかな声が聞こえてくるし、周りの家からも煙と共に、晩飯だろういい匂いが漂ってくる。
 ヨエルの自宅も酒場から遠くない。といっても、村自体がそれほど大きくはないので端から端まで歩いても2時間くらいだ。村の中心に酒場はあり、囲むように村人たちの家はそこ一帯に集中している。ヨエルの家も酒場からすぐ北のところなので、西の商業都市イルマリで仕事を終えた後、村の中心の酒場で食事をし、そのまますぐ北の自宅へ帰るというルートができている。
「東へ行けば、ヘルミの泉か……。」
 ただの気まぐれだったが、足は自然と東へ向かっていた。ラーシュの暴食に胸焼けがしたのかもしれない。今日は夜風も気持ちいい、少し歩いてから帰ろう。

 しばらく歩いて、村の端の小さな森に入っていった。辺りはすっかり暗くなっている。
「たしかこの森だったと思うが。」
 幼少の頃両親に連れられてこの森で遊んだ時のことをおぼろげながら思い出す。ふと見上げると、木々の隙間から無数の星々が覗いていた。もう両親ともこの世にいないが、きっとあの辺りの星のどれかだろう。星たちは、地上に残してきた者たちのために瞬いているのだ……。
 ……いやいや何をかっこつけたことを、と自分でツッコミながら、ヨエルは森の奥へ進んでいく。灯りを持っていなかったので歩きづらいが一応道らしきものはあるし、月と星々の光がヨエルを導いてくれた。

…………

 ーー微かに水の音がした。泉は近そうだ。
 ヘルミの泉に普段村人が来ることはない。生活のための水はみな村を縦断するように流れているアイノア川を利用するので、ヘルミの泉の水を使うのはラーシュが言っていたような狩人か、あるいは旅人か、野生の動物くらいなものだろう。
 道なりに進んでいると突然視界が開け、目の前に円形の美しい小さな泉が現れた。

「たしかに、精霊さんがお出ましになってもおかしくない雰囲気だな。」
 ヨエルは泉のふちに腰を下ろした。泉の周りはひらけていて小さな草や苔が生えているだけだから、旅人にとっても動物たちにとってもここは休息にはもってこいの場所だろう。月光がちょうど泉の中心に差し込んでいて、深いコバルトブルーの水面がチラチラと輝いている。こんな夜も悪くない。名をつけられるほど美しい泉、ヘルミの泉に間違いなかった。

 どれくらいそうしていただろう。輝く水面の波紋を眺めていたが、ふと、風の強さの割に波紋が深く、多い気がした。

ふっと見上げると、いつからいたのだろう!
泉の中心で水が女の姿を成して、ゆったりと回っている。……舞を踊っている?

ヨエルは驚きのあまり声も出ず、目の前の光景に息をのんだ。
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登場人物紹介

ヨエル

『ゲニウスの器』第1部の主人公。

ラーシュ

腐れ縁。大食い大男。

アンテイディーネ

水と豊穣を司る精霊。ヘルミの泉に現れるという。

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