第4話 豊穣祭

文字数 2,393文字

「ちょっとキエロの球根を買ってくるわね。」
 少し肌寒くなってきたが、市場はすぐそこだからと言って薄手のコートだけを羽織って出て行った。
 庭をキエロの花でいっぱいにしたいらしい。香りが好きだから。
 キエロ自体は、家の周りにはないが、少し集落を離れれば野生でたくさん生えている。野生の株を取ってきたら?と提案したのだが、仲良しの花屋から買って、球根から育てるのだと言う。根や花には毒があるというが、白い小さな釣鐘のような花をいくつもつける、可愛らしい花だ。
「そう、好きにしたらいいよ。この庭はお前の庭でもあるんだからな。」

 そんなやりとりをして球根を買いに行った婚約者だが、そのまま帰ってくることはなかった。


 ダン!ダダッ!ダダダダダッ!

 けたたましく鳴る万雷の音でヨエルは目を覚ました。
 豊穣祭の始まりを告げる昼花火である。
「しばらく見てなかった夢だったな。」
 ヨエルはゆっくりと起き上がり、ベッド傍の窓から外を見た。
 庭には婚約者が帰ってきた時に喜ばせてやろうと植えたキエロの花が一面に咲いている。その向こうでは、祭の準備に追われ忙しなく動く者や、会場であるイルマリへ向かおうとする家族連れなど、村はいつもにも増して賑やかで活気に溢れていた。
 ヨエルは昨晩のことを思い返していた。
 昨晩のことが夢でないなら、今日はあの泉の精霊のお祭りなのだ。
 今日は仕事は休みだが……毎年特に興味もなかったが、初めて豊穣祭に行ってみようか。もしかしたら祭のどこかであいつが出てきて、昨晩のような舞を踊るのかもしれない。ラーシュも行くと言っていたが、あいつが見たらどんな反応をするだろうな。

 豊穣祭は皆それぞれの作ったもの――作物や反物などを、イルマリにある精霊アンテイディーネ像に供える。そしてそれを焼き、天と精霊への豊穣の願いとするのだ。
 ヨエルは身支度と簡素な朝食を済ませると、庭のキエロの花を一本腰袋に取り、家を出た。
 しかし意識してかせずか、イルマリとは反対の方へ歩いていた。

 ――

「……なぁ、昨日言った通り、今日はお前さんの祭が行われてるぞ。まぁ向こうにいるんだろうから聞こえねえと思うがな。」
 ヨエルはヘルミの泉にいた。
 昨晩のあの妖しさすらあった泉には、それが嘘のように、爽やかに吹き抜ける風と、穏やかな静寂。時折小鳥がチチチと鳴いて上を見上げてみれば、泉の上だけ開けた空には雲一つない。もしかすると昨晩の出来事も全て夢だったのかもしれない。
 村の酒場のように活気に溢れた場所も嫌いではないし、むしろあの雑な空間を好んで通っていたが、ある意味何もないこのヘルミの泉にはなぜか不思議と心が安らぐのだった。村人、いや国中の人々が、今はイルマリの豊穣祭に夢中だ。ここを訪れる者など、自分以外にはいない。少なくとも今だけは自分だけのものになったようにヨエルには思えた。
 安心感からか、ぽつぽつと独り言を言い始めるヨエル。

「今朝、久しぶりに夢を見たんだ。俺の婚約者、マリアンナが球根を買いに行った時の夢。あいつ、俺の家の庭をキエロでいっぱいにするって言ってさ……三つ年下なんだが、可愛いとこあるだろ。でも……そのまま帰ってきてないんだ。いや、帰って来なかった。完了形にすると諦めたみたいで嫌だからずっと言わないようにしていたんだが、もう七年も経つんだ。」
 サー……と風の音がするだけの泉。
 ヨエルは水面を見つめながら独り言を続けた。
「おかしいと思って、その日の夜にはあちこち探し回ったんだ。マリアンナは若いが、黙っていなくなってしまうような人間ではない。次の日もその次の日も、俺は探し回った。」
 熱くなる目頭に気付かないフリをしながら、努めて冷静に、淡々と話す。
「村の誰も、マリアンナのことは見ていないって言うんだ。どこを探しても、誰に聞いても、手掛かりの一つもない。何週間か何ヶ月か、俺は廃人のように、堕ちるとこまで堕ちた。村のやつらは俺を憐れんでか、俺を()()()()()()()()と思う。マリアンナの両親は俺のせいだと毎日泣きながら俺を罵倒して、やがてこの村にいることすら苦痛になったのかどっかの街へ引っ越していった。責められて当然だと思ってる。俺は最愛の婚約者を守れなかったんだ。」
 もはやヨエルの目からは涙が溢れていたが、ぐっと親指でそれを拭った。
「それで、いつまでも廃人では生きていけねえから、配送の仕事を始めた。配送なら国中どこでも行ける。マリアンナを探しながら。」
 ヨエルは自分の腕を見つめた。願わくば、もっと早くにマリアンナが見つかっていれば、こんなに太い腕になることもなかったのに。おかげで今は腕に子供が二、三人ぶら下がっても平気なくらいには、筋力がついている。今のこの腕ならマリアンナを少しは守れるのだろうか。今ふたたび目の前にマリアンナが現れてくれたなら、力強く腕の中へ引き入れ、抱きしめ、あらゆる悪意から君を守りたい。口づけをして、もう二度と離さないと神の御前で君に誓おう。
「……ふう。俺は何をやってるんだろうな。すまんね精霊さん。お前さんの美しい泉に似合わない話をしちまったよ。」
 ヨエルは立ち上がった。
 ふと、腰袋にキエロが入っていることを思い出した。
 少し考えて、ヨエルは袋からその一輪のキエロを取り出すと、その場に丁寧に植え始めた。
「水の巫女……お前さんも、誰かを探しているんだよな。たった一人で。これは豊穣の願いじゃないからな。」
 アンテイディーネがいつから水の巫女とやらを探しているのか知らないし、水の巫女が何なのかもよく分からないが、こんな村のはずれにいてはきっと自分と同じように孤独なこともあるだろう。少しでも寂しさが薄れると良い、そう思った。
 植え終わると、ヨエルはじゃあなと言ってその場を後にした。

 泉のふちに、一輪のキエロがやわらかな光を浴びて、風に揺れていた。
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登場人物紹介

ヨエル

『ゲニウスの器』第1部の主人公。

ラーシュ

腐れ縁。大食い大男。

アンテイディーネ

水と豊穣を司る精霊。ヘルミの泉に現れるという。

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