第1話 猫のいる風景

文字数 1,840文字

幸せはいつも、手のひらから滑り落ちるものだった。
(つか)んだと思ったら、いつの間にか指のあいだからこぼれ落ちてしまっている。

ぽろぽろ。ぱらぱら。

二十代の頃、婚約寸前で別れを告げられたことがあった。趣味の詩が評価され雑誌に掲載されたと思ったら、その雑誌が廃刊になった。

「あんたってさあ、いかにも幸薄(さちうす)そうな顔してるわよねえ」
アパートで隣に住んでいる、ひろみママは言った。ひろみママは桜木町(さくらぎちょう)でゲイバーのママをしている。口は悪いが、面倒見がよく情の厚い男性だ。
「でも、あんたみたいな女ってノンケ男から見ると守ってあげたいって思われるみたい。男の保護本能をくすぐる、っていうの? あら、いいわね。そう考えると、羨ましいったらありゃしない」

ママは、独身のゲイだった。年齢は、はっきり聞いたことないけど五十代半ばくらい。私のこと、娘みたいって言ってくれる。私もママのこと、ママって呼ぶ。
「あんた痩せてんだからさ、ちゃんとご飯食べなきゃ駄目よ。このロールキャベツ作り過ぎちゃったからさ。後でチンして食べなさい」
そう言ってよく手作りの料理を密閉容器に入れ手渡してくれたりする。ママのお店に行ったこともあるけど、ママは店でもきちんと小料理を作り、客に安く提供していた。
私はママの言う通り幸薄そう、いや、実際薄いのかも知れない。内向的な性格で、(はかな)げでおとなしそう、ってよく言われる。友達もほとんどいない。詩を書くのが趣味で、最近はポエム投稿サイトによく詩を投稿している。大概(たいがい)無視されるか批判されるか、だけど。内面に溜まった思いを、活字で体の外に出すだけでも楽になれる。私の孤独のぶんだけ、どんどん作品は増えていった。

私たちの住んでいるのは鉄骨二階建ての賃貸アパート。築二十年のわりに新しく見え悪くはないのだが、南側に同じ二階建ての立派な戸建てが建っているため見劣りする。その住宅は築年数は経っているものの北欧風のお洒落な外観で、広さは二百平米以上あるだろうか。二階に住むシングルマザーが中に入ったことがあるらしく、
(まき)ストーブがあった!」
と教えてくれた。確かに屋根の左後方に長方形の煙突が立っている。幼い男の子が一人いる若い夫婦世帯と親世帯が住んでいるようで、若い主婦とシングルマザーはママ友の関係らしい。部屋が六つもあり、すべてインテリア雑誌の北欧特集みたいな内装だったと言っていた。
そしてその家には、いつも白い格子状の窓辺にきれいな白猫がいた。

休日の午後、窓からぼんやり外を眺めていた。するといつもどおり、お向かいの邸宅の窓辺に猫が佇んでいる姿が見えた。硝子窓の奥に並べられた鉢植えの花と同じく、飾りとして置かれているふうに見える。しなやかで美しいフォルム。高貴な品格を漂わせる純白の毛並み。好奇心なのか狩猟本能なのか、硝子の内側から熱心に外を見つめている。猫と目が合ったかと思った瞬間、
「メンヘラポエマー・ハルカ」
背後から、聞き慣れた男の声がした。(まさ)だった。
「ちょっと、その呼び方やめてって言ってるでしょ?」
振り返りながら、怒った口調で言った。しかも独自のメロディーをつけて、歌うように言ってくるのだ。
「メンヘラポエマー・ハルカちゃん。俺はこのニックネーム、気に入ってるんだけどな。部屋に入っても気がつかないから、また熱心にポエムでも書いてるんじゃないかと思ったよ」

私は近くの大学病院で、派遣の薬剤師として働いている。始めた頃、新人研修医として勤めていたのが雅だった。
「おまえの書いたポエム、夜寝る前についつい投稿サイトで読んじゃうんだよな。で、読むたび「こいつメンヘラだなあ」って笑っちゃうわけ。それでいつの間にかぐっすり寝落ちしている」
なんだよ、それ。
「だったら、なんでそんな笑えるメンヘラポエマーなんかと付き合ってるのよ」
そう突っ込むと雅はにやにや笑うのをやめ、照れるように目線を逸らした。
「それは、まあ…出会った頃、可愛かったから。研修医のあいだで、「薬剤部に可愛い子がいる」って話題になってたんだよ。イケイケイケメンの俺としては、声をかけずにはいられなかった、ってわけ」
なんだよ、イケイケイケメンって。
「ほら、俺って実はシャイだからさ。キャーキャー騒ぐような賑やかな女って、どっか苦手で。(はるか)はしっとり系ってか癒し系ってか、守ってあげたくなるっていうかさ。まあ、いわゆるタイプなんだよ。ああ、俺なんでこんな真面目に答えてるんだろ。ねえ、いいからコーヒーでも()れて。これからまたすぐに出勤なんだ」

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