第3話 ひろみママ

文字数 2,798文字

翌日、残業を終えて帰宅すると、右隣にあるひろみママの部屋の前に若い男の子たち三人が集まっていた。皆、二十歳(はたち)前後の大学生風に見える。私が鍵を開け部屋に入ろうとした時、全員が注目しているのがわかったので、軽く会釈をした。ゲイバー関係の男の子たちなのだろうか。

真っ暗な部屋に帰るのは、いつもさみしい。白い猫ちゃんが可愛く出迎えてくれれば、また違うのかも知れない。気になって、そっとカーテンの隙間から向かいの家を覗いてみる。猫のいる窓は、いつも両側に開かれているレースのカーテンが、舞台の終了を告げる幕のように閉じられていた。もう夜も更けているので当然か。

翌朝、部屋着のまま郵便受けから郵便物を取り出していると、同じ目的で来たと思われるひろみママと出会った。気のせいか、少しやつれた感じに見える。
「ママ、昨夜若い男の子たちが来てたわね」
ママはなぜか、目を伏せて小さく息をついた。
「ああ、(てつ)たちのことね」
「哲…?」
「あたしの彼氏よ」
一瞬、耳を疑った。三人のうちの誰が『哲』なのかわからないが、いずれにしても彼氏と言うには年が離れ過ぎているように思える。表面上、「そう」とだけ軽く受けとめておいた。
「昨夜は店を臨時休業しちゃってね。それよりあんた、これから仕事でしょ? ここで、のんびりしちゃってていいの?」
「今日は夜勤で、午後からの出勤なの。ママ、なんだか元気ないわね。よかったら、話聞くわよ」
まだ時間に余裕があったし、謎を解きたいという気持ちもあった。私は、「じゃあ」と言うママの部屋に招かれた。

ママは朝食に、温かいトーストとコーヒーを用意してくれた。
「いつもはちみつとバターをたっぷりのせて、食べんの。昔は味噌汁とかしっかり和食作ってたんだけど、最近 億劫(おっくう)でね」
ママの部屋は同じワンルームだが、いつも清潔にきちんと整理されていて、感心する。ラグの上に置かれたクッションに座り、四角いテーブルを囲んで食事をした。
「彼氏と何かあったの?」
ママが牛乳を少し入れてくれたコーヒーを飲みながら、聞く。
「哲は、売り専ボーイをやっていた大学生だったの」
売り専ボーイとは、つまり男娼のことらしい。
「うちの店と同じ桜木町の、売り専バーでバイトしてたんだけどね。春に大学卒業するのを機に、もう辞めるって…」
「辞めても、付き合いを続ければいいじゃないの」
「ゲイの世界から離れて、新しく出来た彼女と付き合うって言うのよ」
私は黙って俯き、コーヒーを飲んだ。やっぱりどうも、彼氏ではないような気がする。

「あんたの考えていること、わかるわよ。そうよ。彼氏と思い込んでいるのはあたしだけで、あの子からしたらあたしはただの客で、行きつけの店のママで、中年太りの醜いオッサンよ」
私は、無言でトーストを(かじ)った。
「でもあたしにとっては、哲は夢であり、心の支えだった」
「もう二度と会えなくなる…ってわけではないんでしょう?」
「そうね。店には、これからも顔を見せに来てくれるとは思うわ。でも、彼女と一緒になんか来られてもね…。ねえ、あんた。突然だけど、一年で一番寂しい時って、どんな時?」
思わぬ問いかけに、私は戸惑った。
「あたしは、お正月。みんなが家族や恋人と過ごす正月の三が日が、一番孤独を感じるわ。客もろくに来ないから、店を営業するのもちょっとね。そんな寂しい三が日に、あたしはこの三年間、ずっと哲を買っていたの」
なんだか、わかる気がする。友達の少ない私も、正月に限らず連休は寂しいし退屈だ。
「三日間で、三十万以上は使っていたわ。でも、それでもいい。それでも、嬉しかったの。お金なんていい。若くて可愛くて大好きな彼と、一緒に初詣に行ったり、おせち料理食べたり、イチャイチャしたりさ。もちろんセックスも。それだけで、本当に幸せだった。この時間が永遠に続けばいい。そう思ってた」
ママは呟くように言ったかと思うと、くっ、と小さく呻き、前のめりに(うずくま)った。
「あたしね、やっぱり女に生まれたかった」
「ちょっとママ、泣かないでよ」
私は慌ててママの(そば)まで膝歩きし、丸くなった背中をさすった。
「女に生まれたからって、好きな男とお正月を一緒に過ごしたり、結婚出来るとは限らないのよ。私を見てればわかるでしょ」
ママは指で涙を(ぬぐ)いつつ上体をゆっくり起こし、
「そうね…ちょっと感傷的になって、おかしくなってるの。昨日も急に店を休んだものだから、哲が友達と様子を見に来てくれて。あたし、周りに心配ばかりかけて、ほんとダメよね」
自嘲(じちょう)的に言った。三人は、そういう事情で来ていたのか。

「若い頃は独りで自由に気楽に、自分のやりたいことだけやって生きるのが一番だと思ってた。いろんな男たちと、遊べるだけ遊んで。でも、還暦前になった今は、違う。やっぱり、好きな男と出来れば家庭を持ちたかったなあと思う」
還暦前なのか…。それにしても、どこかで聞いたような価値観だ。
「私の彼も、最近同じようなこと言ってたな。自分一人で、やりたいことやって生きるのが一番だって」
「見たわよ。この前来ていたあのいい男でしょ。そう。若いうちは、そう思いがちなのよね。特に男は、一人に縛られたくないもんだから。若いうちは、そんなに寂しさを感じないというか、理解出来ないしね。あの彼氏とは、うまくいってるの?」
「うまくいってるってわけじゃないわよ。三年目だし、いわゆる倦怠期(けんたいき)よ。仕事がハードだから、エッチなんて月に一回ラブホテルで二時間くらい。終わったら、さっさと帰っちゃうし。結婚も、したくないって言うし」
ママは安心したのか微笑んで、
「みんな似たようなもんなのかしらね。男も女も」
「そうよ。人生自分の思いどおりにいくほうが珍しいんじゃない。人生経験豊富なママのほうが、わかってるはずでしょ」
「そうね。しっかりしなきゃ、よね」
少し落ち着きを取り戻したようだった。

「あ」
ふと窓の外を見ると、ママの部屋からも窓辺の白い猫が見えた。
「ママ知ってる? お向かいの家の白猫ちゃん。いつもあの窓から優雅に外を眺めてるの。可愛いわよねえ」
「なんて名前なのかしらね。白いから、シロちゃん? ミイちゃん? 勝手に『哲』って名前つけてやろうかしら」
「じゃあ私も彼氏の名前、『雅』って名づけてやろうかしら」
ママと私は、初めて一緒に声を上げ明るく笑った。トーストも、たいらげた。

「猫になりたかったわね。何も悩まず、あんな立派な家でゆったり過ごす猫に」
私も、同じことを考えていた。
「ママ、娘が隣に住んでるんだから、寂しいなんて思わないでね」
「ハルちゃん…」
ママは感激したのか、『あんた』ではなく名前で呼んでくれた。
「また、おいしい手料理を食べさせて。お店のお客さんたちだって、みんなママの子供よ。お店を自分の家庭だと思って、これからもお仕事がんばって」
「ハルちゃん…ありがと」
部屋を出る私に、ママは泣き笑いの顔でそう言い、見送ってくれた。

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