第6話 幸せの白い猫

文字数 2,749文字

その日は猫とお喋りに時間をとられ、危うく遅刻するところだった。
雅とは院内の廊下や食堂で何度かすれ違ったが、向こうは目を合わせようともしない。交際していることは秘密にしていて、お互い誰にも知られたくないので仕方がないのだが。

夜、考えごとをしていたら眠れなくなったので、ベッドの中、スマホのアプリでポッドキャスト番組を聴いていた。芸能人や放送局のみならず、一般人でも配信出来るラジオ番組のようなものだ。その番組は最初は夫婦で配信していたのだが、最近では奥さん一人で寂しく配信している。更新頻度も年々減って、現在では年に一回ほど。人気番組で最初はリスナーも多かったが、さすがにほとんどいなくなったようだ。

その奥さんは若い頃脳出血で半身不随になり、車椅子生活を送っていた。リハビリも兼ねて番組配信を始めたようで、それが面白いと話題になり、私も時々聴いていた。しかし年数が経つにつれ、話の内容に違和感を覚えるようになった。明らかに病気が回復し、杖や車椅子なしでも日常生活が送れるようになっているのにもかかわらず、働こうともせず障害者年金と旦那さんの稼いだお金で優雅な暮らしを送っている。一人で年に何度も海外旅行に行ったり、好きなアイドルを追いかけあちこちのライブ会場へ出かけたり積極的に遊んでいた。そのわりに年金の更新時期には「体調が悪い」と訴え、わざと入院したりするような確信犯的 (ずる)さが垣間見られた。
おそらく本人に悪気はなく、他人にはわからない苦労があるのかも知れないが、妬み半分で「不正受給じゃないか」と厳しく批判したリスナーもいたようだ。リスナーが離れたのは、呆れられたり見下されたり顰蹙(ひんしゅく)を買ったりされたのかも知れない。

私が一番気になったのは、パートナーである旦那さんは一体どういうふうに思っているのか、ということだった。病気と配偶者に甘えて好き放題遊んでいるような奥さんでも、愛と思いやりの力で赦せるものなのか。夫婦というものは周りがなんと言おうとも、二人が良ければそれでいいものなのか。
雅だったら。私がもし奥さんと同じ立場になった場合、雅だったらどう思うだろうか。黙って容認して、愛と赦しを与え続けてくれるだろうか。
そういったことが気になってついつい聴いてしまうのだが、奥さんの話す独り言は、旦那さんが不在のせいか私には寂しく響いて聴こえた。

再び迎えた休日の午後、私は部屋着のワンピースを着て、パソコンで詩を書いていた。いまも窓から見える横になった猫をモデルに、『幸せの白い猫』というタイトルの詩を。
「メンヘラポエマー・ハルカ」
玄関から、聞き慣れた男の声がした。白いシャツにグレーのスラックスを穿いた雅だった。なんの連絡も前触れもなく、突然合鍵を使って入ってきたのだ。私は無視して、テーブルの上にあるパソコンから目を離さなかった。

雅は笑いながら息をつくと、勝手に私の背後にあるベッドの上に座った。
「怒んなよ。仕事が忙しくて、なかなか連絡が出来なかったんだよ。夜遅くまで残業続きでさ」
カタカタ、タイピングの音だけが部屋に響く。
「なあ」
雅は右手で私の顎を掴み、自分のほうに向き直させると、脇に両腕を通しベッドの上に抱き上げた。
「遙。会いたかった」
そう言って唇を近づけてくる雅に向かい、
「キャバクラ通いも、忙しかった?」
不意を打ち、試し半分に聞いてみた。雅の瞳は動揺したかのように揺れ動き、
「誰がそんなこと言ったんだよ。そんな暇なんてあるわけないだろ。本当に仕事が忙しいのは、おまえもよくわかっているはずだろ」
(まばた)きの多い表情と滑舌(かつぜつ)の悪さが、真実を物語っている気がした。
「もしそうだとしても、おまえに俺の生活をどうこう言って縛る権利なんてないだろ。俺の嫁ってわけでもないんだからさ。だから結婚っていやなんだよ」
私はベッドから降り、再びパソコンの前に戻ろうとした。
「遙!」
雅は、強い力で私の両肩を掴み、引き止めた。
「悪かったよ。欲求不満なんだよな。はっきり言えよ、したいんだろ? そう思って、今日急に時間がとれたから、ここに来てやったんだよ。一時間くらいだったら、別にいいよ」
見当違いなことを言う雅に、内心呆れる。そのままベッドの上に押し倒そうとする雅の手を振りほどき、姿勢を正し座り直した。

「私たち、しばらく会わないようにしましょう」

前を向き、目を見ずに言った。さすがに、「別れましょう」とまで言う勇気はなかった。雅は、黙っていた。ひと呼吸置いて顔を見ると、鳩が豆鉄砲(まめでっぽう)を食らった、とはこういうことかという表情をしていた。私がそんなことを言い出すとは、(つゆ)にも思っていなかったのだろう。
「先週もそれが言いたくて、会いに来てって言ったのか」
「ううん、そうじゃない。この前は、純粋に会って話がしたいと思っただけ。でも、あなたは連絡もくれず、会いにも来てくれなかった。一週間経った今日も、なんの連絡もなく突然現れた。私の都合なんて何も聞かずにね」
雅は苦笑した。
「都合って…どうせまたメンヘラな詩書いてるだけだろ」
雅の言う通りだった。私は、後ろを振り返り窓に目を遣った。
「見て。お向かいの猫ちゃん、今日も窓辺に佇んでる。あの猫をモデルに詩を書いてたの。幸せそうに見えるあの白い猫を」
雅は体をやや浮き上がらせ、私の体ごしに猫を覗き見ようとした。私は、何かを諦めたように息をついた。
「雅には雅の、白い猫がいるのよね。雅が探している猫は、きっと誰にも邪魔されない自分一人の自由な時間が欲しいのよ。でも私の知り合いで、若い頃そうやって生きてきた自分を、還暦前になって後悔している人もいるわ」
「誰のことだよ」
「誰のことだっていい。ただ、私の探している猫は、なんとなく雅とは違う猫だなあって思ったの。私は、私の白い猫を探しに行く。別々の方向に」

雅は何も言わず、ただ決意を秘めた私の顔をじっと見つめていた。私は初めて、雅に笑顔を見せた。
「また寝る前に、ポエム投稿サイトで私の詩を読んでよ。いま書いてる『幸せの白い猫』ってタイトルの詩を、これから投稿するから。「こいつメンヘラだなあ」って言いながら、笑ってそれを読んでよ」
ずっと無表情だった雅は、それから微かに笑みを返すと、右手を私の頭上に乗せ、髪をかき乱すように撫でまわした。そして、ゆっくり立ち上がった。
「ほんと、わけわかんねえ。まあ、仕方がないか。メンヘラポエマー・ハルカだから」
テーブルの上にそっと合鍵を置くと、俯きながら静かに歩き、部屋を出て行った。この後ろ姿を見るのは、今日が最期なのかも知れない。
それでもいい、と思った。

時が来たら、この部屋に探してきた白い猫を招き入れよう。今度こそ、するりと腕からすり抜けないように。

お向かいの家のきなこではなく、私だけの、白い猫を。




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