第2話 結婚願望

文字数 1,300文字

雅は後期研修医、つまり専攻医(せんこうい)だった。いまは消化器内科で忙しく働いている。仕事の合間を縫って、こうやってアパートに会いに来てくれるのだ。こんな生活が、もう三年近くも続いている。

雅はベランダ沿いに置かれた一人掛けソファーに座り、マグカップに入ったコーヒーを飲んだ。狭いワンルームなので、一人用の椅子しか置くことが出来ない。
「何、またあのネコちゃん見てたの」
雅も、向かいの猫に気づいたようだった。
「優雅な猫よね。あんな立派なお宅に住んで。いいもの食べて、きっと優雅ないい暮らししてるんでしょうね」
「俺は、まだまだ優雅な生活には程遠いし、出来ないけどな」
私の羨望(せんぼう)を感じ取ったのか、打ち消すように雅は言った。
「金なら、そこそこあるんだけどね。この糞忙しい中、結婚とか子供とか家とか、仕事以外のことは何も考えられない。そんな余裕なんて、全くないよ」
まるで、私に言い聞かせているようだった。私も雅も、今年で三十一歳になる。世間的には所帯を持ってもいい年齢なのだろうが、雅には付き合い始めた時から結婚願望はないようだ。

「昔は、結婚して子供を産んで家を持って…が当たり前の世界だったんだろうがさ。これからは、一生独りで生きていく時代が来るんだと思う。いまもそうなりつつあるけど、みんなもう自分一人の生活で精一杯だよ。無理して結婚したりすると、すぐに離婚したり、お互い共働きで余裕がなくて、家事や育児の押し付け合いして喧嘩になったり、ろくなことにならない」
雅は当初から、こんな価値観に縛られているようだった。私はベッドに座り、肩まで伸びた髪をヘアゴムで束ねつつ、聞き流すふりをしていた。
でも、確かに雅の言う通り私も仕事をこなすのに手一杯で、結婚して家庭を持つことには不安がある。特に男性より女性にかかる負担は、多大なものがあると思う。同僚である薬剤師の四十代女性が、
「朝四時に起きて、子供のお弁当作りでしょ。それから掃除、洗濯、朝食の用意、旦那と三人の子供を送り出してから慌てて身支度して、出勤。退勤したらスーパーで買い物して帰って、急いで夕食の用意。子供たちの面倒を見て、自分の時間なんて寝る前ほんの三十分もあればいいほうよ。更年期の症状も出てきて疲れやすくなったし、親も年を取ってきて、面倒を見ることが多くなった。親の介護まで出来るかどうか、ほんと不安だわあ」
そう笑ってぼやいているのを聞いて、内心ぞっとしたものだ。はたして体力に自信がない私に、同じ生活が出来るのかどうか。趣味の詩をゆったり書く自分の時間が作れなくなる。工夫次第なのだろうが、そんな気がする。

「それより、こんなふうにお互い会える時、会いたい時に会って、楽しく過ごすほうが、どんなにいいかと思うんだよ。男と女なんて、もともと別の生き物なんだから距離を置いて付き合うくらいが、ちょうどいいんだって。お互い自由な立場で楽しく自分の時間を満喫して、やりたいことやってさ」
雅はマグカップを目の前の小さなテーブルに置くと、腕時計を見た。
「やべえ、もうこんな時間。外来に行かねえと。遙、また今度ゆっくりな」
軽く右頬にキスをすると、慌ただしく私の部屋を出て行った。

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