第5話 迷い猫

文字数 2,561文字

翌朝、ジャージ姿でゴミを出していると、後ろからポリ袋を手に持ったママが歩いて来た。

「ハルちゃん、おはよ」
ママは笑顔で挨拶した。名前で呼んでくれる時は、いつも機嫌のいい時だ。
「ママ、昨日男の子が訪ねて来なかった? 昼過ぎくらいに」
私は、気になっていたことを聞いてみた。
「ああ…(れん)のことね」
「蓮?」
「新しいペットよ」
私は、絶句した。ペット? 確か人間の男の子だった筈だけど。
「もうさ、あれからやっぱりペットロスに耐えられなくなっちゃってさ。よく眠れなくなっちゃったし…だから、新しいペットを買うことに決めたの。もう彼氏だなんて馬鹿なことは考えないわ。ペットよ、ペット。寂しさを紛らわしてくれる可愛い子犬ちゃん」
ママは、アパート横のゴミ収集場所にポリ袋を置きつつ言った。
「そう…」
いずれにしても、まあママがそれで元気になってくれるなら、良かった。釈然としないが、そう思うことにした。
「昨日ママの部屋と間違えて私の部屋に来たのよ」
「そうらしいわね。もう! あの子ったら、そそっかしい。哲の店とは別の店から遊びに来てくれることになったの。これからも顔を合わせることになると思うけど、よろしくね」
ママはそう言うと浮かれた足取りで歩き出し、
「あ! 昨日蓮と一緒に食べたクリームシチュー、作り過ぎて余っちゃったの。後で持っていくから、チンして食べなさい」
途中で足を止めると、振り返り言った。それからまた、鼻歌混じりに踊るような足取りで歩き出した。
その御機嫌な後ろ姿を、呆然(ぼうぜん)と見送る。ママはこれからもお正月の三が日、三十万以上支払って新しいペットの蓮くんと過ごすのだろうか。果たしてそれで満たされるのだろうか。

私は部屋に戻り、出勤するためグレーのジャケットスーツに着替えた。
玄関ドアを開けると、仰天した。
猫がいた。これまでずっと遠くから眺めているだけだった、お向かいの白い猫が横たわり目の前に座っていたのだ。おそらく散歩しているうち、ここに迷い込んでしまったのだろう。

「ネコちゃん」
私は震える声で言い、猫の目線に近づくよう(ひざまず)いた。
「ニャンちゃん…ミイちゃん…シロちゃん」
思いつくかぎりの名前で呼び、そうっと右手を伸ばす。
白い猫は、きょとんとした顔で私を見つめていた。
なんて、美しい猫なのだろう。輝くような真っ白い毛並み。同じく白く左右に伸びた細い白髭。左目は薄いエメラルドグリーン。右目はラピスラズリのような淡いブルー。目の色が左右で違うのは白猫に多く、虹彩異色症(こうさいいしょくしょう)と呼ばれるものだ。まるで輝く宝石のようで、見惚れて目が離せなくなる。小さな鼻は、桜色。首元に巻いた赤いリボンは蝶結びで前に結ばれ、結び目に小さな鈴がついていた。骨格が細く小柄に見えるので、きっと雌猫だろう。
「いい子ね」
驚いて逃げ出さないよう、私はやさしく囁き声で話しかける。

いい子ね。おいで、おいで。
私の許に来て。お願いだから。
私のところに、やって来て。

私を助けて。
私を癒して。

猫は一般に臆病と言われ素早く逃げ出すのが定説なのだろうが、この子は違った。人馴れしているのか、じっと私を見つめたまま堂々としている。
震える私の指は、やがて猫の頭上に辿り着いた。猫に触れられた時、大袈裟ではなく、喜びが全身に満ちたのを感じた。そのままゆっくりと右手を移動させ、背中を撫でる。あたたかくやさしい、ずっと触れていたいと思える柔らかい肌触り。
猫は可愛い声で小さく鳴いたかと思うと、もっと撫でてと言わんばかりに、右足を私の膝の上に乗せてきた。このまま、両手で抱き上げてしまいたい。私のものにして、奪ってしまいたい。ぎこちない動作で両手を差し出し試みようとした、その瞬間。

幸せの白い猫は、するりと私の腕から抜けて、すっと左回りに回転したかと思うと、儚くも去って行った。幸せな時間は、ほんのわずかだった。私は鈴の()と共に遠ざかってゆく白い猫を、しゃがんだまましばらく見送った。幸せが離れてゆくのを、ただぼうっと、虚しい目で眺めているしかなかった。

「きなこじゃない」
その時、帰ってゆく猫を目で追いながら、黒いキャップ帽を被った女性が向かって来るのが見えた。ママが住んでいる部屋の上階に住んでいる、シングルマザーだった。ボーダー柄のセーターに、白いパンツを穿いている。私は、何事もなかったふりをして、立ち上がった。
「きなこって言うの? あの猫」
シングルマザーとは何度も話したことがあったので、気軽に聞いてみた。意外に、和風で庶民的な名前なんだ。もっと北欧風の、おしゃれな名前かと思った。
「そう。お向かいのメス猫でしょ。何回かあの家にお邪魔したことがあるから、わかるの。人懐っこいわよ、あの猫。ここのアパートまで来るなんて珍しいわね」
一気に、夢の世界から現実に引き戻された気分になった。

「そういえばさ、昨日あなたのところにも来なかった? 大森さん」
大森さんとは、新興宗教の女性信者のことだった。私は、溜息をついた。
「来たわ。新聞購読してくださいって。前にも断ったはずなのに」
「あたしのところにも来たのよ。「新聞購読してください」なら、まだいいわよ。あたしなんて、「入信してください」よ。はっきり、そうお願いしてくんのよ。いや、って何度も言ってんのに。「友達が出来るから。仲間が出来るから」って。信者の友達なんて誰も望んでいないってのに。さみしい女、って勝手に思われてんのよ。そう見える人を、狙ってくるらしいわよ」
なるほど。だから私も狙われる、ってわけか。実際、彼氏から相手にされていないさみしい女だし。
「困るわよねえ。ああいう人たちって、どうして価値観の押しつけをしているってことが、わからないのかしら」
私も、確かに無神経というか鈍感に思える時がある。本人たちは無論、そういうつもりではないんだろうけれど。
「とにかく、相手にしないことね。関わると面倒ってことよ」
「そうね。そういえば聞いた? ここのアパート、大家がペット可物件にしてくれるらしいわよ」
「本当?」
私が入居した時は、確かペット不可物件だった。
「まだ検討中の段階で、決まったら管理会社が貼り紙をして知らせてくれるらしいわ。まあうちは、ペットなんて飼う余裕到底ないんだけどね。大きいペットがいるから」
シングルマザーは、そう言って(ほが)らかに笑った。

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