「うまくできない」時は、とことんダメ(二)――ピッピには母親が必要?!
文字数 3,375文字
今回見ていきたいのは、この“世界一つよい”はずの女の子が最もみじめに敗北するエピソードです。
そして、この敗北は、もし彼女に母親がいたら避けられたはずだと、わたしには思われるのです。
例えば、『若草物語』※1のマーチ夫人のようなおかあさんがいてくれたら――。
『若草物語』第一部の第7章に、四女のエイミーがディヴィス先生から、かなり屈辱的(彼女にとっては)な体罰を受けるシーンがあります。
体罰の時間が終わると、エイミーはそのまま荷物も持たずに家に帰ってしまいます。その後で、「すごい形相をしたジョーが現れ」、先生はすっかりたじたじになってしまうのですが、ポイントはおかあさんであるマーチ夫人の次のような台詞です。
あ、もしかしたら知らない方がいるかもしれないので、念のために言っておきますが、ジョーというのは四姉妹の次女で、いつも男の子みたいにふるまう、かっこいい女の子です(作者オルコット自身がモデル!)。
「そうね、あなたは学校に行かなくてもようござんす。その代わり、ベスといっしょに毎晩少しずつ勉強してくださいよ」その晩、マーチ夫人はこう言った。「お母さまは体刑というものには賛成できません。ことに女の子の場合はね。それにディヴィス先生のお授業ぶりも感心しないし、あなたのお友だちも、あまりあなたのためにならないように思うのよ。だから他の学校に移すにしても、一応お父さまのご意見をうかがってからにしようと思います」
ここで言う“学校”とは、実際には私塾のようなものなので、現代的な教育制度における初等教育機関とは異なるのですが、マーチ夫人があっさり、「もう学校に行かなくていい」というところで、わたしはつい、にやにやしてしまいます。
ご存知の方も多いと思うのですが、このマーチ夫人、いつもキリスト教精神に基づいて行動する、過剰なまでに道徳的な(同時にかなり説教くさい)人物なのですから!
まあ、マーチ夫人のやり方が絶対的に正しかったかどうかは知りません。ディヴィス先生ときちんと話し合うことも必要だったような気が、わたしはします。でも、マーチ夫人の「もうあんな学校やめちゃいなさい!」発言が、体罰の屈辱に震えていたエイミーを、一瞬で救ってくれたのは事実なのです。
ピッピには、四姉妹にとってのマーチ夫人ような、無条件でピッピの味方になり、肯定し、守ってくれる存在が、実は何よりも必要だったのだと思います。
問題のエピソードは第9章「ピッピ、コーヒーの会によばれる」です。
トミーとアンニカのおかあさんであるセッテルグレーン夫人は、“ほかのおくさんたち”をよんで、コーヒーの会を開くことにします。その場に、ピッピも呼ぶことにします。理由は――
そうしておけば、ふたりの子にじゃまされずに、コーヒーの会がやれるというものだわ……
と考えたからです。なるほど、大人の考えそうなことですね!
トミーとアンニカがそのことを伝えに、ごたごた荘へやってきました。雨の日で、ピッピはなぜか傘を差して花に水をやっていました(!)
ピッピはこの招待に、かわいそうなくらい興奮します。
「コーヒーの会に、……わたしが!」
ピッピはおおごえでいって、とてもそわそわしてしまい、バラの木にかけるはずの水を、トミーにかけはじめました。
「まあ、どうなることかしら? わたし、そわそわしちまう! ちゃんとぎょうぎよくできなかったら、どうしよう?」
ピッピはその怪力によって、誰にも束縛されず、自由奔放にふるまう印象がありますが、実際は違います。ピッピはいつだって、「ちゃんとぎょうぎよく」、「うまくやりたい」と思っているのです。
それなのに「うまくできない」ことがあるのは、彼女の先天的な問題ももちろんありますけれど、身近にちゃんとした模倣対象がないことも非常に大きいのです。
さて、コーヒーの会の当日になりました。
きょうはとくべつなおよばれなので、ピッピは髪を編まないでおきました。ですから、赤い髪の毛が、ライオンのたてがみみたいに、顔のまわりにたれさがっていました。口は、赤いクレヨンで、まっかにぬってあるし、まゆげもまっ黒くぬってあるので、どうもかみつきそうな顔にみえました。爪も、赤いクレヨンで、ぬりたててありましたし、靴には、大きい緑色のリボンがつけてありました。
「きょうの会で、いちばんきれいなのは、まず、わたしだわね。」
ピッピは、まんぞくそうにつぶやいて、ドアのベルをおしました。
この描写、どうですか。笑っちゃいますか?
わたしは、泣きそうになりました。
ピッピは、怪力を除けば、ごくふつうの感覚を持った女の子です。「きれい」になりたいし、また、そう言って誉めてほしいのです。
もしおかあさんがいたら、ピッピは、可愛くおめかしさせてもらえたに違いありません。
アンニカはそんなピッピを見て眼を丸くして、「ピッピ、素敵!」と叫んだかもしれません。トミーはちょっとまぶしそうな顔をしたかもしれません。
ピッピはきっと、ちょっぴりおすましの様子で、コーヒーの会を楽しんだことでしょう。
でも、おかあさんのいないピッピは――
ライオンのたてがみみたいな髪をして、自分の顔に赤や黒のクレヨンを塗りたくるしかなかったのです。そして靴には緑のリボン!
セッテルグレーン夫人は、上品なおくさんたちと、コーヒーを飲みながら、上品におしゃべりしていました。
すると――
「気 を つ け !」
耳もやぶけるようなさけび声が、玄関のホールからひびいたとおもうと、つぎの瞬間には、ピッピ・ナガクツシタが、しきいのところに立っていました。ピッピのさけび声は、すごく大きくて、それにだしぬけだったので、夫人たちは、いすからとびあがりました。
どうしてピッピは、またこんな変なことをしでかしたのでしょうか? この後で、ピッピ自身が説明しています。
「つまりねえ、わたしは、とてもおじ気づいてたの。だから、号令でもかけなかったら、わたしは、ホールに立ったまんまで、ここにはいる勇気がでなかったとおもうわ。」
かわいそうなピッピ!
世界一つよい女の子であるはずのピッピは、ホールから動けないほど、緊張しきっていたのです!
案の定と言うべきか、この後も、ピッピは空気を読まない(読めない)、突拍子のない行動や無 様 な失敗を連発します。例えば、“さとうを盛った鉢”をとろうとして全部床にぶちまけてしまったり、ケーキをだいなしにしたり、もうめちゃくちゃです。もちろん、「夫人たちは、とてもきつい顔をして、ピッピをにらみました」。
セッテルグレーン夫人はついに“かんにんぶくろの緒”が切れます。そして、ピッピにこんな残酷な言葉を叩きつけるのです。
「あなたは、もうこの家にきてはいけません。」と、セッテルグレーン夫人はいいました。「あんまりおぎょうぎがわるいから。」
出版社は『ピッピ』を、底抜けに愉快で痛快なお話であるように宣伝します。でも、それは本当にこの物語の本質を伝えているのでしょうか。セッテルグレーン夫人の言葉を聞いて、ピッピはどうしたでしょう? おまわりさんを撃退したように、“大力アドルフ”に勝ったように、火事の中から子どもを救い出したように、華々しく、愉快で痛快な活躍を見せるのでしょうか。
ピッピは、びっくりして夫人をながめていましたが、しだいにその目には、なみだがいっぱいにたまりました。
「なるほど、そうなのね。かんがえれば、じぶんでもわかったはずなんだわ。」と、ピッピはいいました。「わたしは、おぎょうぎよくなんて、できないんだわ! やってみたって、なんにもならない。ぜったいにおぼえられっこないんだわ。やっぱり、わたし、海にいたほうがよかった。」
そういうと、ピッピは、ひざをまげて、セッテルグレーン夫人におじぎをし、トミーとアンニカに「さよなら」をいって、ゆっくり、階段をくだっていきました。
『ピッピ』は、愉快で痛快な物語と言うよりは、むしろ胸を抉られるほど悲しく、切ない物語です。
「やっぱり、わたし、海にいたほうがよかった。」
ピッピを抱きしめて一緒に泣きたくなるのは、きっとわたしだけではないはずです。
※1 吉田勝江訳・L・M・オルコット『若草物語』、角川文庫、1986年。
そして、この敗北は、もし彼女に母親がいたら避けられたはずだと、わたしには思われるのです。
例えば、『若草物語』※1のマーチ夫人のようなおかあさんがいてくれたら――。
『若草物語』第一部の第7章に、四女のエイミーがディヴィス先生から、かなり屈辱的(彼女にとっては)な体罰を受けるシーンがあります。
体罰の時間が終わると、エイミーはそのまま荷物も持たずに家に帰ってしまいます。その後で、「すごい形相をしたジョーが現れ」、先生はすっかりたじたじになってしまうのですが、ポイントはおかあさんであるマーチ夫人の次のような台詞です。
あ、もしかしたら知らない方がいるかもしれないので、念のために言っておきますが、ジョーというのは四姉妹の次女で、いつも男の子みたいにふるまう、かっこいい女の子です(作者オルコット自身がモデル!)。
「そうね、あなたは学校に行かなくてもようござんす。その代わり、ベスといっしょに毎晩少しずつ勉強してくださいよ」その晩、マーチ夫人はこう言った。「お母さまは体刑というものには賛成できません。ことに女の子の場合はね。それにディヴィス先生のお授業ぶりも感心しないし、あなたのお友だちも、あまりあなたのためにならないように思うのよ。だから他の学校に移すにしても、一応お父さまのご意見をうかがってからにしようと思います」
ここで言う“学校”とは、実際には私塾のようなものなので、現代的な教育制度における初等教育機関とは異なるのですが、マーチ夫人があっさり、「もう学校に行かなくていい」というところで、わたしはつい、にやにやしてしまいます。
ご存知の方も多いと思うのですが、このマーチ夫人、いつもキリスト教精神に基づいて行動する、過剰なまでに道徳的な(同時にかなり説教くさい)人物なのですから!
まあ、マーチ夫人のやり方が絶対的に正しかったかどうかは知りません。ディヴィス先生ときちんと話し合うことも必要だったような気が、わたしはします。でも、マーチ夫人の「もうあんな学校やめちゃいなさい!」発言が、体罰の屈辱に震えていたエイミーを、一瞬で救ってくれたのは事実なのです。
ピッピには、四姉妹にとってのマーチ夫人ような、無条件でピッピの味方になり、肯定し、守ってくれる存在が、実は何よりも必要だったのだと思います。
問題のエピソードは第9章「ピッピ、コーヒーの会によばれる」です。
トミーとアンニカのおかあさんであるセッテルグレーン夫人は、“ほかのおくさんたち”をよんで、コーヒーの会を開くことにします。その場に、ピッピも呼ぶことにします。理由は――
そうしておけば、ふたりの子にじゃまされずに、コーヒーの会がやれるというものだわ……
と考えたからです。なるほど、大人の考えそうなことですね!
トミーとアンニカがそのことを伝えに、ごたごた荘へやってきました。雨の日で、ピッピはなぜか傘を差して花に水をやっていました(!)
ピッピはこの招待に、かわいそうなくらい興奮します。
「コーヒーの会に、……わたしが!」
ピッピはおおごえでいって、とてもそわそわしてしまい、バラの木にかけるはずの水を、トミーにかけはじめました。
「まあ、どうなることかしら? わたし、そわそわしちまう! ちゃんとぎょうぎよくできなかったら、どうしよう?」
ピッピはその怪力によって、誰にも束縛されず、自由奔放にふるまう印象がありますが、実際は違います。ピッピはいつだって、「ちゃんとぎょうぎよく」、「うまくやりたい」と思っているのです。
それなのに「うまくできない」ことがあるのは、彼女の先天的な問題ももちろんありますけれど、身近にちゃんとした模倣対象がないことも非常に大きいのです。
さて、コーヒーの会の当日になりました。
きょうはとくべつなおよばれなので、ピッピは髪を編まないでおきました。ですから、赤い髪の毛が、ライオンのたてがみみたいに、顔のまわりにたれさがっていました。口は、赤いクレヨンで、まっかにぬってあるし、まゆげもまっ黒くぬってあるので、どうもかみつきそうな顔にみえました。爪も、赤いクレヨンで、ぬりたててありましたし、靴には、大きい緑色のリボンがつけてありました。
「きょうの会で、いちばんきれいなのは、まず、わたしだわね。」
ピッピは、まんぞくそうにつぶやいて、ドアのベルをおしました。
この描写、どうですか。笑っちゃいますか?
わたしは、泣きそうになりました。
ピッピは、怪力を除けば、ごくふつうの感覚を持った女の子です。「きれい」になりたいし、また、そう言って誉めてほしいのです。
もしおかあさんがいたら、ピッピは、可愛くおめかしさせてもらえたに違いありません。
アンニカはそんなピッピを見て眼を丸くして、「ピッピ、素敵!」と叫んだかもしれません。トミーはちょっとまぶしそうな顔をしたかもしれません。
ピッピはきっと、ちょっぴりおすましの様子で、コーヒーの会を楽しんだことでしょう。
でも、おかあさんのいないピッピは――
ライオンのたてがみみたいな髪をして、自分の顔に赤や黒のクレヨンを塗りたくるしかなかったのです。そして靴には緑のリボン!
セッテルグレーン夫人は、上品なおくさんたちと、コーヒーを飲みながら、上品におしゃべりしていました。
すると――
「気 を つ け !」
耳もやぶけるようなさけび声が、玄関のホールからひびいたとおもうと、つぎの瞬間には、ピッピ・ナガクツシタが、しきいのところに立っていました。ピッピのさけび声は、すごく大きくて、それにだしぬけだったので、夫人たちは、いすからとびあがりました。
どうしてピッピは、またこんな変なことをしでかしたのでしょうか? この後で、ピッピ自身が説明しています。
「つまりねえ、わたしは、とてもおじ気づいてたの。だから、号令でもかけなかったら、わたしは、ホールに立ったまんまで、ここにはいる勇気がでなかったとおもうわ。」
かわいそうなピッピ!
世界一つよい女の子であるはずのピッピは、ホールから動けないほど、緊張しきっていたのです!
案の定と言うべきか、この後も、ピッピは空気を読まない(読めない)、突拍子のない行動や
セッテルグレーン夫人はついに“かんにんぶくろの緒”が切れます。そして、ピッピにこんな残酷な言葉を叩きつけるのです。
「あなたは、もうこの家にきてはいけません。」と、セッテルグレーン夫人はいいました。「あんまりおぎょうぎがわるいから。」
出版社は『ピッピ』を、底抜けに愉快で痛快なお話であるように宣伝します。でも、それは本当にこの物語の本質を伝えているのでしょうか。セッテルグレーン夫人の言葉を聞いて、ピッピはどうしたでしょう? おまわりさんを撃退したように、“大力アドルフ”に勝ったように、火事の中から子どもを救い出したように、華々しく、愉快で痛快な活躍を見せるのでしょうか。
ピッピは、びっくりして夫人をながめていましたが、しだいにその目には、なみだがいっぱいにたまりました。
「なるほど、そうなのね。かんがえれば、じぶんでもわかったはずなんだわ。」と、ピッピはいいました。「わたしは、おぎょうぎよくなんて、できないんだわ! やってみたって、なんにもならない。ぜったいにおぼえられっこないんだわ。やっぱり、わたし、海にいたほうがよかった。」
そういうと、ピッピは、ひざをまげて、セッテルグレーン夫人におじぎをし、トミーとアンニカに「さよなら」をいって、ゆっくり、階段をくだっていきました。
『ピッピ』は、愉快で痛快な物語と言うよりは、むしろ胸を抉られるほど悲しく、切ない物語です。
「やっぱり、わたし、海にいたほうがよかった。」
ピッピを抱きしめて一緒に泣きたくなるのは、きっとわたしだけではないはずです。
※1 吉田勝江訳・L・M・オルコット『若草物語』、角川文庫、1986年。