夢路を往く

文字数 6,667文字

今日もまた一日中教会にいた。最近はずっとそうだ。
何故?
父親のせい。
近頃の父は様子がおかしい。あまり家にいないし、帰ってこない日だってある。私たち姉弟を教会に預けて、一体何処で何をしているのだろう。
私たちより大切なことなのか。
シンプルな部屋。机の上に置かれたお菓子や、壁に貼られたあどけない絵は、部屋主の優しさと慈愛を感じさせる。
父の迎えを待ち絵本で暇を埋めていたエマ。目に映る絵と別に頭で考えてしまったそれが、どうしても脳を締め付ける。
「……トーシェさん」
椅子に座っていたトーシェさんがこちらを向く。
「どうしましたか、エマさん」
「父のことについてですが」
トーシェさんの顔が目に見えて強ばる。
聞きたいことは分かっているはずだ。
「……最近、お仕事が忙しいようですね。きっとそういう時期なんです、季節が巡ればまた元通りになりますよ」
そんなはずないんだ。それだったら、お父さんは私を見てあんな哀しそうに笑わない。
「父は……決して隠し事が得意じゃありません。嘘のひとつすらまともにつけない人です」
なんだか声が震えてしまう。なんてことないのに。
「最近、夢見がとても悪いようです。ましてや、うわ言を繰り返すばかり……。ある晩、父の寝室からはっきり聞こえてきたんです」
──死にたくない。
絞り出すその痛切な声は、世界を分かり始めた子どもの胸に酷く、酷く冷酷に突き刺さり、そして響いた。
大人は狡い。
何も教えてくれない。
苦しいのにひとりだけで抱え込む。
その癖それを、気づかれてないつもりでいるんでしょ?
何故か分からず溢れる涙。トーシェさんの優しくて温かいてのひらが頭の上に乗せられる。
見上げたその表情は、とても息苦しそうだった。
「……貴方のお父さんは、革命に参加しようとしています。自分がやらなければならないと、そう言っていました」
エマの双眸が大きく見開かれる。
「革命って……」
私たち家族を苦しめる、アレクシス政権への反旗。それを掌握する貴族への叛逆。
犯罪だ。
それが──私たちより大事だと言うのか。
そんなことが。
「トーシェいるか〜?」
玄関の方から聞こえる、間延びした声。
無性に腹が立った。
優しい父の顔。絵描き然とした服装。その胸ぐらを掴み、力任せに引き寄せる。
「あなたは──あなたは家族ではなく罪深い反抗を選んだ!そんな父親なんて要らない、二度と顔なんて見るもんか!」
困ったように眉を下げ、口元は持ち上げたまま、エマを見下ろすカルロッタ。
その目はまるで、わがままを言う子どもを見るようで。
「──何か言えよ!」
自然と握り込む力が強くなっていることに気づかず、エマは怒鳴る。
私が間違ってるような目で見るな。
しかし、見下ろす瞳の色は変わらず、カルロッタは哀しみを濃くして口を開く。
「ごめんな」
ばちん、と大きな音がした。頬が熱くなる。泣きそうな娘の顔が映る。どうにも出来なくて、また頬を緩めてしまう。
それをキッと睨みつけ、エマは踵を返して奥の物置へ走っていった。
──ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな!
変わらない笑顔の中に、父の意志を見た。不屈の意志を。
何があっても、何を言っても決して潰える事の無い意志。
それはきっと、私たちでも駄目なのだ。
家族だから、分かる。
ズルズルと扉に背を預け、冷たい床に座り込む。
どうしようもなく嗚咽が抑えられなくて、声も涙も枯れるまで泣いた。
「……はは、嫌われちゃったかなぁ」
娘の背を見送り、苦しそうな表情のまま作り笑いを浮かべつつ、茶化すようにカルロッタは言う。
その顔を見て、トーシェは苦々しく口元を歪めた。
──気持ちは分かる。僕だって死んで欲しくない。
「あの子たちのことはどうするつもりですか」
「そうだなぁ、これが終わったらゆっくり考えるよ」
能天気に間延びした声。まるで生きて帰ることが当たり前だとでも言うようだ。
「……カルロッタさん」
顔がトーシェに向けられる。
「あの子たちは、貴方がいなければ駄目なんです。……貴方でなければ」
「あぁ」
カルロッタは目を細めて、答えた。分かっているのか、いないのか。
「最悪の可能性を考えた上で、それでもやるのですか」
「そうだ。俺がやらなきゃいけないんだよ。──誰でもいいのかも知れない。でも、俺はやる」
きらりと、カルロッタの瞳が蒼く輝いたように見えた。
「エマにああ言われちまったし、落ち着くまでここには来ないよ。エマを頼む」
「本気ですか」
エマのあの言葉は、きっと一時の感情に任せたものだ。だから、そんなふうに従う必要など……。
「約束は守らなきゃな」
帰るよ、と笑って見せたその顔は、トーシェが今まで見たどんな笑顔よりも痛々しかった。
カルロッタが生命の赤さを知った頃合──革命より半年前のことだった。

───いよいよだ。
明日、俺の革命が起こる。俺だけの革命。
筆を置き、キャンバスの前で深く長く息をつく。
すぐ側に置かれたメモには、カルロッタのターゲット──エルドラドが、とある商人の屋敷で対談をすると書いてある。開始時間は午前十時。手に入れた情報、練りに練った計画を一から洗い直す。──きっと大丈夫だ。
明日に備えて布団に入ろうと思った時、ふと一本のパレットナイフが目に入った。何となしに手に取り、くるくると弄ぶ。そして、そのすぐ近くに隠すように置いてあったナイフを入れ替えに持つ。握ると柄は冷たく、刀身はそれよりも冷ややかに光る。
細く長く、息を吐く。目に見えるほど跳ねる鼓動を無理やり押さえつけるように。
徐ろに、刃先を左胸に向けてみる。
ここに、心臓がある。
誰だって。
簡単なんだ。
それが分かればいい。今はそれだけで。
ナイフを丁寧に置き、ごろりとベッドに四肢を投げ出す。しばらく天井を見つめ、重い息と共に瞼を下ろす。
二、三ヶ月前、幼馴染の顔に未来を見た。
酷い未来だった。
それは無であり、消失であり、死であった。
アンナが死ぬ。
それを変えられるのは自分だけ。
使命と意志。
責任。
取り留めの無くなってきた思考を止め、カルロッタは独りごちる。
「良い夢みられるかな」
海に沈むように、意識は深くへ落ちていった。

来たる翌朝。快晴とはいえずとも晴れていた。何となく、成功するような気がした。
午前五時、奮い立つ仲間を送り出す。
しばらくの間、息を潜めるように壁に背を預け座り込んでいた。商談開始は十時、時計をちらりと見やり目を瞑り、意識を集中させる。かち、かちという針の音だけが身体に染みていくようだった。
静かに瞼があがる。覗いた瞳に宿る決意は、鋭く先を見据えていた。
いつの間にか随分時間が経っていたらしい。そろそろ動き出す頃だ。
動乱する街を鬨の声と叫び声が飛び交う。カルロッタは日陰に隠れながら、件の屋敷へ向かった。
「誰だ」
「絵描きだ。主人に呼ばれたもんでね」
人懐っこい朗らかな笑顔と、脚についている絵筆が示す絵描き然とした様相に、玄関の警備員は疑うことなくカルロッタを通す。ありがとう、なんて頭を軽く下げて、悠々と屋敷の中へと侵入した。
何度も何度も確認して刷り込んだ地図を頭に広げ、さも潔白であるかのように堂々と廊下を歩く。
屋敷の中でも一際大きな部屋。その扉の前で、カルロッタは止まる。筆は外して、周りに誰もいないことを確認したあと、セーターの中からナイフを取り出した。それを右手に構え、扉に手を伸ばす。
触れる、や、否や。カルロッタの目に、四方から針に串刺しにされる自分が映った。
──扉か。しかし、わかっていれば避けられる罠だ。
勢いよく開け、躊躇い無く踏み込む。こちらに背を向け、仁王立ちをするターゲットが見えた。そこに至るまでの距離は数歩。何の変哲もない道のり、しかし蒼く輝くカルロッタの瞳には、床にまで仕掛けられた罠が映る。くるり、とターゲットが身体を返しこちらを向く。空を掻くように腕を振れば、他方から鋭い針が飛んでくる。
──知ってたさ!
思い切り、ナイフを投げた。
宙を舞うナイフ。意表を突いた行動に、ターゲットの動きが一瞬止まる。その隙を狙って、床に張られた罠を、飛び交う針を避けながら、一歩一歩確かに、慎重に、そして敏捷に距離を縮めていく。
ズキリ、と目の奥が痛む。
アイオマティアによる未来視。人の身を超えた力は代償を伴う。だが、これがないと俺は……これがあるから俺は──!
──射程距離!
ダンと音を鳴らして踏み込み、姿勢は低く、そして、最短で──!
いつの間に出したか、もう一本のナイフで、カルロッタはターゲットの心臓を刺す。勢いと想いを乗せた刃は深く沈み、赤い血がつうと伝う。
勝った。
──これで、これでやっと……。
シュン、と眼前を突然針が通る。ギリギリで躱し、カルロッタは跳んで距離を取る。
「どうして……」
確かに左胸に刺さったはずだ。あとは倒れるだけだろう、なのに。
どうして立っている?
一瞬止まる思考。ターゲットの腕がまた振るわれる。四方から迫るたくさんの針。ハッと意識を戻し、魔法による防御壁を辛うじて張り、弾く。しかしそれで終わるはずも無く、こちらの苦心を読んだように次から次へと針の群が放たれる。突かれ、割られ、その度にまた張り直す脆く儚い壁。元々人に教えて貰った魔法であり、穴のない完璧な壁ではなかった。後ろから押されるような衝撃、背中から伝わる鋭い痛み。流れる血の温もり。足元に力が入らなくなり、ぐらりと視界が揺らぎ、前のめりに倒れ込む。
地面の近づく視野の端に、ゆっくりとこちらに足を進めるターゲットが見えた。
「……残念、あと一歩足らなかったなぁ」
もうその姿は見えない。視界いっぱいに映るのは暗い床。
「さぁ、いくつか聞きたいことがある。答えるなら命は助けてやろう」
──何を聞かれるのだろう。こういう時と言ったら、仲間は誰だとか、そういう事だろうか。仲間──革命の仲間。俺は──支えられてここにいる。
ひとりじゃない。
「…。……、……」
「なんだ?聞こえるように言え」
バチリ、と部屋中に雷光が閃く。驚いたターゲットは後ろに跳んで距離を取り、警戒したように構える。カルロッタはゆらりと立ち上がり、黒く濁った左眼から血を流しながら、それでもキッと睨みつける。
まだ終わらない。
背中に刺さった針を引き抜けば、神経を細く痺れさせるような痛みと、温かい液体が背を伝った。今にも落ちそうな足を無理やり立たせ、眩暈を振り払うように大きく咆哮をあげる。カルロッタは大きく横に薙ぐように腕を振るった。その軌跡は夕日色の斬撃となり、鮮やかな輝きを残しターゲットに向かい飛んで行った。先の雷光に眼の白んだターゲットは、カルロッタの攻撃をすんでのところで躱す。斬撃はその後ろにある窓をガラスを華やかに散らした。舞う破片に意識を向け、ターゲットは半身になる。崩れた体勢の隙を逃すはずもなく、カルロッタは声を絞り詠唱を続け、手刀を振るいながら距離を詰める。それを後ろに後ろにターゲットは避ける。
進む歩調、つま先で、からりと何かが音を立てた。ナイフだ。それをカルロッタが拾うと同時、ターゲットが姿を変えた。
否──変装を解いた。
流れるみどりの黒髪。すらりと伸びた四肢。鋭く射抜く黄金色の美しい瞳を持つ──女性。
どきりと心臓が鳴って、カルロッタの時が止まる。思考は一歩も進まない。倒れてしまいそうな真っ黒な絶望、全ての破綻の音。
俺が刺したのは──誰だ?
自分の胸に針が刺さったのを見た。軽い衝撃にも耐えられず、身体は肩から無抵抗に倒れ込む。床に縫い止めるように、急所を外し次々と針が刺さっていく。
「……まだ立ち上がるのかしら?」
動けない。動く気力も残っていない。腕が上がらない。
──だからって、止まっては……。
また詠唱をしようとして、相手が女性であることを思い出す。甘いと笑われそうな、どうしようもない性分だ。
でも、諦めない。
まだ変えられるはず。
「あら、流石に無理かしら。結局はただの根性無しだったのね。もしかして死んじゃったの?もう少し骨があると思ってたのだけれど」
「……生きてるさ」
ぼたぼたと、言葉と息と血が吐き出される。
「それは良かった。えぇ……聞きたいことがあるの。貴方はひとりでここへ来たの?」
「さぁ……どうだろうな?」
「無駄口を叩く余裕があったのね。驚きだわ」
女性がカルロッタの横腹を思い切り蹴飛ばす。苦しそうな嗚咽が洩れた。腹を抱え込むほどの力も残っておらず、ただ身をよじる。
「これは平和なお喋りじゃないの。そんなことも分からないなんて、可哀想な頭ね」
「はは……厳しいな」
咳き込みながらも、カルロッタは軽口を続ける。鉛のような腕をかくが、流れ出た水面を乱すだけだ。
暗殺に失敗したのなら、少しでもいい、何をされても、未来を変えなければ。
ずきりずきりと痛む腹に力を込めて、いつもの声色を取り繕う。
せめて、出来ることを。
「質問を変えてあげる。協力者はいるの?」
「いないさ、俺ひとりだ」
「それにしては動きが良かったわね。無鉄砲で無計画な、浅はかなど素人とは思えないけれど」
「まぁ、俺の才能ってやつさ」
「あらそうなの。計画から情報収集まで?とっても優秀ね。暗殺なんて最高に無駄で無意味でくだらないことを思いついた以外は」
ふい、と女性は床に転がってしまった絵筆に目を向ける。
「貴方、絵描きなのよね。私ずっと絵描きさんに聞きたかったことがあるのよ」
優美に歩き、黒く汚れてしまったそれを拾い上げる。
「絵描きの商売道具って、色彩を発想する頭なのかしら。それともそれを映し出す手?」
不意に。自然な動作で、女性はカルロッタの右の手の甲を思い切り踏みつけた。勢いの乗った重い衝撃、ぱきりという軽い音。コンマ数秒遅れて電流のような痛みが走る。息苦しさなど忘れたように、カルロッタは絶叫する。
「やっぱり手だったの。ふふ、残念。粉々に砕けてちゃ、もう絵は描けないわね?」
反対の手も必要かしら、と悶絶するカルロッタを嘲るように女性は言う。
「可哀想な反抗者。貴方はこんなにも苦しんでいるのに、誰も助けに来てくれないのね。お仲間はとっても薄情だわ。それとも怖がって出てこられないのかしら」
尚も閉口するカルロッタ。女性はそれを見てまた腹を蹴り飛ばし、カルロッタを仰向けにする。
胸からは鋭い針の先端が見えている。
「こんなに頑張ったのに……あぁ、なんて残酷なのかしらね。相手は影武者、狙いも外れ、助けは来ない。返り討ちに合って貴方はここで死ぬ」
その針先に足がかけられる。
「ひとつの成果も得られず、情報さえ伝えられず、挙句には命まで無くす」
徐に体重が乗せられ、針は沈んでいく。
ビクリと背が跳ねた。
「なんて無意味な死」
女性は思い切り足を下ろした。
心臓にまで達したらしく、針先から鮮烈な赤が散る。カルロッタの口は溢れんばかりに満たされる。
「骨の髄から同情してあげる」
目の焦点の合わなくなったカルロッタを冷ややかに見下ろし、ようやく女性は足を戻す。
止まらない出血、動かなくなる時も近いだろう。女性にも、カルロッタにも、それは痛いほど分かっていた。
「お別れのキスは必要かしら?」
「…遠慮するよ」
掠れ声。吐息混じり、吐血混じり。
もう終わりか。
やっと。
遂に。
望んでや──いないさ。
バチリ、と部屋中に雷光が煌めいた。瞬間白く染まる視界、反射的に女性は構えたが、その一瞬で逃げる気力などカルロッタには無い。
くだらない足掻きだと、女性は内心一蹴した。
「ごめんなぁ……」
カルロッタの目が、静かに閉じられた。

特異な目を持って生まれ、父親の背を見て画家を目指し、母の腕から優しさを学び、数々の出会いと、別れとを繰り返し、そして幼い頃からの夢を叶えた、ひとりの男。忘れられない人も、忘れたい辛さもあった。けれど、それ以上に守らなければならなかったものがあった。誰よりも優しく、強く、誰よりも弱かった。誰かの支えになった。誰もに支えられて生きた。そして、自分自身の自由を謳う為に、意志を遂行する為に、その命を散らした。
革命の裏で終幕を迎えたひとりの画家。
その生涯最後の作品の翔く行方は、今はまだ誰も知らない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み