水色の蝶

文字数 4,345文字

春色の澄んだ空だった。鳥のさえずりも心地よく、爽やかな風が頬を掠めていく。幼い身体には少し大きなスケッチブックを抱え、小さな指で切り取る風景を探す。
目を刺す光は青い。今日は良い日だ、少し遠くまで行ってみよう。
来たのは丘。開けたその一部は森へと繋がっている。そこは高い木が多く、位置の関係で陽が入ることは少ないため、人の出入りがほとんど無い。しかしその分、自然が生き生きと存在し、その場所から出てこない動物もいるらしい。
なんだか怖くて、今まで入ったことは無い。でも今日はいつもしないことをしたい気分だった。ちょっと竦んだ足を踏み出して、木々の見下ろす視線を感じながら入っていく。すっと光が消え薄暗くなったが、木漏れ日は美しく照らしつける。
なんだ、そんなに怖くはないじゃないか。
ふと、眼前を小鳥が横切った。カナリア色のキャンバスに白い絵の具を垂らしたような羽根。陽を受けキラキラと輝いている。目が離せなくなった。小鳥は低い場所をゆらりゆらりと不安定に飛び続ける。
足の向くまま追いかけていると、随分進んでしまったらしく、とある大きな木の前にいた。小鳥はそれをひらりと回り、大木の割れ目の前で可愛らしい声をひとつ、高く舞い上がった。木々の間を縫って小さな青い空へ吸い込まれていく。キラリと光る羽根は綺麗だった。
逃げられてしまった。少し不満げに、仕方なく周りに目を向ける。大樹の割れ目で視線が止まった。子どもひとりならゆうに通れそうな穴。外から見れば、どうやら空洞のようだった。しかし、中は変に影っていてよく見えない。探検みたいでなんだかワクワクする。スケッチブックを先に入れ、手をつき、そろりそろりと身体を入れる。
中は思っていたよりも広く、木は完全な虚で天井が高い。暗闇の中にあるさらに深い影が、ここに何かがあることを伝える。目を凝らして近づいてみると、地面にある何かにつまずいた。なんだなんだと膝をつき落ちてるものを見ていると、日が傾いたのか、差し込んだ光で中が照らされる。床に敷かれたカラフルなシート。壁沿いに並べられたぬいぐるみ。散らばったクレヨン、描きかけの絵。その中心で丸まって寝ているのは、女の子。緩やかにウェーブのかかった金髪が照らされ、柔らかく輝いている。頬には涙のあとがくっきりとある。微動だにせず、寝息すら聞こえない。
死んでるのか……?と怖くなりながら顔を覗き込もうとすると、クレヨンが手にあたり鈍い音が鳴る。バッ、と少女が上半身を起こす。
ふたつの青い瞳が交錯する。
きらりと光る青藍に、刹那、時が止まるのを感じる。
「うわ!生きてる!」
薄い木の壁の中、まだ高い少年の声が響く。
少女の青い瞳はまだぼんやりとした様子で、突然の異邦者をじっと見つめる。
半分寝ている眼をくるりと丸くし、少し掠れた声を漏らす。
「だ、だれ……?」
「えっ、えっと……」
気まずそうに少年は目を逸らす。
「寝てるとこ邪魔してごめんな……俺はその、なんにも見てないから……」
「ま、待って!」
「うお!」
後ずさりながら逃げ出そうとする少年の服の裾を少女は掴む。
「あ、あの、ここのこと、内緒にして……誰にも言わないで」
苦いものを食んだようなその顔に、少年は困惑する。
「わ、わかった…誰にも言わなければいいんだな?」
少女は安堵したように俯き、こくりと頷く。
「うん……内緒。わたしがここにいるのも、内緒にして」
「お、おう」
真剣な表情に飲まれながらも、喉に引っかかっていた疑問をぽそりと投げかける。
「なあ、お前なんでここにいるんだ?母さんとか父さんと一緒じゃないのか?……もしかして迷子?」
少女は引いていた裾を離し、ぺたりと地に座り込んだ。
「迷子じゃない。わたしは自分でここにいるの」
スカートの裾を固く握りしめる少女に、少年は素直な気持ちを口にした。
「……寂しくないのか?」
少女は更に首を落として沈黙し、固く結んだ口を、重たげに開いて言った。
「家にいる方が寂しいから、いいの」
「へぇ……」
その言葉は少年の心に引っかかりを残した。
家の何が寂しいというのだろう。
首を傾げつつ、分からないのだから良いか、と少年はぐるりと部屋の中を見渡して言う。
「なあ、この秘密基地の中のものってお前の?クレヨンとか本とか」
「うん、全部わたしの」
「これ全部お前のかぁ!すごいなぁ!」
いつもひとりで絵を描き過ごしていた少年の目には、そこはまるで宝箱のように、秘密基地のように素敵に映った。
「なあ、明日またここに来ていいか?約束は守るからさ」
「い、いいよ」
反射的にそう答えたものの、自分だけの領域が侵されることに不安を感じるような声色だった。
それに応えたのは、屈託のない素直で真っ直ぐな声。
「ありがとうな!お前優しいなぁ」
「そ、そんなことないよ……」
「そうかなあ、俺お前のこと一目見て、いい奴だなって思ったぞ!」
「……ありがとう」
少し頬を赤らめ、少女ははにかんだ微笑みを見せる。
仄暗い色しか見せなかった少女の、柔らかな表情に、少年は一瞬目を奪われる。
「笑うと可愛いな、お前。なんつーか……笑顔のほうがよく似合ってるぞ!」
「か、可愛くない!それに、笑うの似合わないから……」
焦ったように弁明する少女に、少年は強く明るく言う。
「絶対そんなことないって!俺が保証するから!」
「そう、かな」
「ああ、自信持ってけば大丈夫だよ。お前、いいやつだしさ!」
「あなたもいい人だね」
その言葉に少年は面食らった顔つきになる。思いがけない台詞に少し困惑し、表情に迷うように頬をかいた。
「そ、そうか?そんなこと言われたのは…初めてだな……」
「そうだよ、わたしが保証するよ」
「むっ……お前、中々やるな!ありがとうな!」
ニヤリと笑うその顔には照れが垣間見える。
「えへへ、仕返し」
「こうも仕返しされちゃ、俺もお手上げだな!」
少年は大袈裟に手を広げ、これ見よがしに大きな溜息をつく。
その様子がおかしくて、少女はからからと声を立てて笑った。
「あなた面白いね!」
「そーゆーお前もだぞ!なぁ、なんか似てるな、俺たち!」
「そうかも。ねぇ、名前なんていうの?」
「カルロッタ、カルロッタ・エレメノールっていうんだ!お前の名前は?」
「わたしは、ラストラスト・ファムリアンナ」
「へぇ、いい名前だな!うーん、でもちょっと長いな……アンナって呼んでもいいか?」
「いいよ。カルロって呼んでもいい?」
「全然いいぞ。はは、なんか凄く仲いいな、俺ら!」
「そうだね、わたし、友達って初めて」
「じゃあ……俺が初めての友達ってことか!なんか嬉しいなぁ」
「わたしも」
へへ、とカルロッタは照れくさそうに笑いながら、後ろ手にしていたスケッチブックと筆を取り出し、眼前に伸ばして見せた。
「じゃあ記念ってことで!アンナのために何か描くよ」
「いいの?えっと、じゃあね、ちょうちょ描いて欲しいな」
「お安い御用だ!じゃあ、ちょっと目閉じててな」
「目?わかった」
ラストラストは、すっ、と目を閉じる。
がさごそと布の擦れる音、ガラスの当たる音。ぴちゃり、と水のような音もする。
「出来た!開けていいよ」
ラストラストが目を開けると、視界の中を一匹の水色の蝶が悠々とはばたいていた。ひらひらと不安定に上下する動きは生きているものと変わらず、美しく輝いて見えた。
「じゃーん!どうだ!」
「うわぁ!すっごい!飛んでる、生きてる!」
「へへっ、すごいだろ!」
「うん、すごい!魔法?」
「そうだぞ、描いた絵がなんでも本物になるんだ!」
「魔法使いだ!すごいなぁ、わたしも魔法使いたいなぁ」
ラストラストが差し出した手の先にひらりと蝶が止まり、また飛び立った。
この手に魔法は使えない。
「魔法はひとを幸せにする力があるんだ、だからきっとアンナにもできる!」
「うん、わたしも頑張る!カルロみたいには出来ないだろうけど」
「そんなことないよ、きっとできる!俺もまだまだだしな……」
ぱちん、と軽い音がして、悠々とはばたいていた蝶が破裂する。飛んだ絵の具は落ちる前に、宙に消えた。
「そう?すごいと思うよ。とっても綺麗だった!また見せてね」
カルロッタはぱっと顔を輝かせた。
「し、仕方ないからな!アンナにだけ特別だぞ!」
「あはは、ありがとう。わたしからは何もあげられないなぁ」
ラストラストは少し哀しそうな顔をする。さして気にした風もなく、カルロッタはあっけからんと返した。
「別にいいじゃん?俺ら友達なんだからさ、そういうのは気長に待てば!」
「……ありがとう、やっぱり優しいね」
「お、お互い様だろ!」
カルロッタの頬が紅潮する。しかしそれは、落ちる直前の陽光の赤さに飲まれて見えなくなる。
黒い絵の具が零れて染み渡るように、辺りは一気に暗くなる。
「……あ、もう暗くなってきた」
「ん?あっ、もうこんな時間かぁ……」
名残惜しそうな表情に、夕闇が更にベールをかける。
「わたし帰らなきゃ」
「俺も帰らなきゃ、また母さんに叱られるや」
「………」
ふと、光の消えたその目は、さらりと流れた金髪に隠れて見えなかった。
「じゃあな!また明日会おうな!」
ポケットから溢れそうな絵の具の入った小瓶を抑えつつ、木の外からカルロッタが大きく手を振り、遠くへ走っていく。
「うん、また明日ね!」
ラストラストは届くように大声で言い、その背が見えなくなるまで手を振った。

すっかり暗くなった道をひとり歩く。家々から漏れる光に目も向けず、歩調は自然早くなっていく。
豪奢な家の前で足を止める。ゴンゴン、と扉を鳴らす。重苦しい音と共に開く向こうに懐かしい幻想を見る。──開いた先にいたのは父に仕えている執事だった。おかえりなさい、という声に、視線を下に向けたまま小さくただいまと返す。広いテーブルに座るのは自分ひとりだけ。置かれた食事もひとり分。温かいスープに、冷え切った指先。いつもの事だ。本当は、誰でもいい、誰かひとりでも同じテーブルに座っていてほしい。でも、後ろに控えている彼が仕えているのは父だ。ごちそうさま、と食器を置く。半分以上が残ったままだ。それでも誰も何も言わない。重い足で広すぎる自室へ帰る。寂しいんだ。ベッドにうつ伏せに倒れて、手探りでぬいぐるみを抱き寄せる。このまま眠ればいい。そうすれば朝が来る。一日が始まる。微睡んでいく。頭の奥が痺れてくる。新しい友達。絵を描く彼に、会うことが出来る。ごろりと転がり、指先を見て、深い吐息と共に目を閉じる。
明日はきっといい日だ。
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