深窓と晴天

文字数 3,362文字

雨の日だった。いつものように秘密基地に行って、絵を描いたり、おもちゃで遊んだり、昼寝をしたりした。暗くなって家に帰ったら母さんがご飯を作ってて、絵に夢中になってる父さんを呼びに行って、みんなでご飯を食べる。日常のうちのひとつで、何も特別なことなんてない。
はずだったのに。
その日帰ったカルロッタが見たのは、転がった椅子と、宙に浮く足。倒された絵の具の海の中で、赤いはずのベレー帽はどす黒く染まっていた。ガラスを叩く雨音が耳鳴りと混ざりあって、世界から隔絶されたようだった。ぴちゃり。どこかで水の音がした。
父が自殺した。

三日。カルロッタが秘密基地に来なくなってから三日経つ。今までにも来ないことはあった。でも、来ない日は事前に言っていたし、連絡が無いにしても、一日だけだった。こんなに続けて来ない日は無かった。
──あの雨の日に、何かあったのだろうか。
それとも、自分が嫌いになったのか。
あの日の雨は止んでいる。雲ひとつない、美しい青天井だ。
今日こそ来てくれたら、と願いながら、橙色のくれよんで夕陽を書く。
ガサリ、木の外で音がした。
青い空をバックに、それよりも深い青の目をした少年が立っていた。
ふらりとしたその立ち姿は不安定で、泣き腫らしたような赤い目は俯き、いつものような元気は見えない。
「どうしたの?」
ラストラストは立ったままのカルロッタの瞳を覗き込み、心配そうに尋ねる。
「……なんでもない、なんでもないよ」
にこり、とカルロッタは笑った。無理に口角を上げたその顔つきは、見るに堪えないほど痛々しく思えた。
その表情に少し顔を歪めて、ラストラストは言う。
「なんでもないならそんな顔じゃない。カルロの笑顔はそんなに苦しそうじゃないよ」
口の端を持ち上げたまま、カルロッタは眉を下げる。
「そんなに苦しそうかな、俺。いつもみたいに笑えてたつもりだったけど……」
「鏡見たらわかるよ。そんなの、笑顔じゃない」
キッパリと、厳しく告げられた言葉に、カルロッタの顔から笑みが消える。
しばらくして、視線を落としたまま、カルロッタは口を開いた。無理矢理に押し殺したような無表情に、平静を装う声で告げる。
「……父さんが死んじゃったんだ。アンナと別れたあの後、家に帰ったら、父さんが、宙に揺られてて……」
じっと、ラストラストは何も言わずに見つめる。
「ひ、ひとって、あんな感じに簡単に死んじゃうんだなっ、て……」
堰を切ったようにぼろぼろと溢れる涙を、ラストラストは小さな指でそっと拭う。
脳裏に、今よりずっと幼かったあの日の光景が蘇る。一面の黒、沢山の白い花、同じくらい透き通った白い顔──。
「……そうだね、すぐに、死んじゃう。ずっと元気だった人が、明日には死んじゃうかもしれない」
重なった景色を消して、どこか深くに置いた想いをすくい上げるような瞳で、ラストラストはカルロッタの顔を見つめる。
あぁ、人の死を知ってしまったんだね。
「おかしいな、なんか、全然涙止まらなくて、俺、男なのに……」
「止めなくていいよ。泣きたいだけ泣いていいんだよ。我慢なんてしなくていいの。悲しいのは、悪いことじゃない」
食い気味に零れた言葉は、きっとあの日に欲しかった言葉で、ずっと自分で考えていた言い訳だった。
「……ありがとう」
拭っていた手がするりと頬を撫で、膝に落ちる。
言おうとして、言えなかったこと。これを言って何の意味があるのかと考えて、やめたこと。きっとそれを言うのは今だ。
「……あのねカルロ、わたしね、お母さんがいないの。昔に病気で急に死んじゃって、わたし、それを目の前で見たの。……すっごく怖かった」
「そ、そうだったのか……?やっぱり、泣いたか?」
「……まだ小さかったから、見た時は泣かなかった。でも、お葬式の時に、もうお母さんに会えないってやっと分かって、そう思ったら、涙が止まらなかった」
鼻をすすりながら、カルロッタは何も言わず聞いている。
「なにしても止まらなくて、ずっとずっと悲しくて、辛くて、でも、悲しくないのって、その人が好きじゃなかったってことじゃない。好きな人だったから、悲しくて、泣くんだもん。今、全部出し切るくらい泣いて、最後に残るのは悲しい気持ちだけじゃないから」
あの日、自分に言い聞かせた言葉。自分の為だけに綴った言葉。
あなたに、届いたらいい。
「……だから、大丈夫」
心から染み出したような言葉。
胸に届いた想いを反芻する、一拍。
「……そうだな、ちょっと元気出たよ。ありがとうな!」
まだ目は赤い。でも、さっきまでとは違う、自然な笑顔でカルロッタは言った。
「いつまでもくよくよしてられないもんな!俺、父さんのやり残したこと全部やってやるつもりで頑張るよ」
「うん、それでこそいつものカルロだよ」
「ほんとありがとうな。アンナがいなかったら俺、駄目だったかも」
へら、と笑うカルロッタに、ラストラストは少し眉根を寄せて笑い返す。
「そんなことないよ、カルロは強いもん、わたしがいなくても大丈夫でしょ」
「まさか!俺、全然弱いよ、すぐ泣くし、さっきのだってアンナのおかげで立ち直ったし……」
「そうかなぁ、弱くなんてないと思うけどなぁ」
「そ、それは……お前の前だから……」
ごにょごにょと、カルロッタは口の中で言う。ラストラストは無邪気に問い返す。
「どういうこと?」
「な、なんでもない!独り言!」
ふぅん、と釈然としない顔。
「でも、元気になって本当に良かった」
「また明日から頑張れるよ、ここんとこ絵も描けてなかったからな」
「描きたい時に描けばいいよ、わたしはカルロの絵、大好き」
カルロッタはびっくりしたような顔をし、顔を赤くしながら笑う。
「あ、ありがとうな!そういうのすごい嬉しいな!」
「なら沢山言ってあげる!カルロの絵はすごく綺麗で、細かくて……」
「わあー!もういい、いいよ!すごくうれしいから!」
カルロッタは更に顔を赤く染め、慌てたように制した。止められたラストラストは頬を膨らませ、不満げな表情を浮かべる。
「まだまだ言い足りないんだけどなぁ」
「そ、そんなに言われたら……恥ずかしい……」
ニヤリ。ラストラストの口角がいたずらっ子のように上がる。
「カルロの弱点、見つけたり」
「弱点ってほどでも!……ある、のか?」
「ないの?」
ラストラストはずいっと顔を近づける。
「うっ……俺に弱点は、ないぞ!ない!ないったらない!」
「うそつけー!」
「うわぁ!?」
目を泳がせるカルロッタに、ラストラストは全体重をかけて倒れ込む。
カルロッタはバランスを崩し、床にどさりと背中をつく。
「うそつきはだめだぞ〜、悪い子だぞ〜!」
「うううそついてないし!俺弱点とかないし!!」
バタバタと暴れるカルロッタを意にも介さず、ラストラストは楽しそうにからからと笑う。
「ほら焦ってる!やっぱうそだー!」
カルロッタは声にならない叫びをあげる。
「も~、わかったわかった!うそだってば、うそついた!俺が悪かった!だから降りて~!」
「あははは!」
ひとしきり笑ったあと、ラストラストは身体を起こした。
「はあ……まあ、アンナが楽しそうなら、それで何よりだけどさ」
その言葉にラストラストは、にし、といたずらな笑みを浮かべた。
「ねぇ、何して遊ぶ?」

暗くなって家に帰ったら、母さんがご飯を作ってる。違うのは、呼びに行かなきゃいけない父さんはもういないこと。
少し疲れた顔の母さんは、それでもちゃんと『母親』でいてくれる。
「おかえり、カルロッタ」
「……母さん。父さんの帽子、どこにある?」
母さんは驚いた顔をしたけど、何も言わずにアトリエの方を指した。
パチン、と電気を付けると、絵の具の海は無くなっていて、倒れた椅子は元の位置、揺られた足は見当たらない。
何も無い古びたイーゼルに、くすんだ色などひとつもない、綺麗な赤のベレー帽がかかっていた。
ぽす、と頭の上に乗せる。
「父さん。父さんの意志は俺が継ぐ」
だから、見ててくれよ。
「カルロッタ、ご飯にするわよ。早く戻ってらっしゃい!」
「はーい!」
晴れやかな表情に、雲模様はどこにもない。
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