第6話

文字数 1,400文字

年を取るに従い、「食べることで命をいただく」ということが、体感として分かるようになってきた、と感じている。


振り返ると、若い頃は、それこそ腹がふくれさえすれば何でもよかった。
インスタント食品が普及しだした頃、“おふくろの味がなくなって袋の味”などと揶揄する向きもあったらしい。
だが、生のエネルギーが充満する若い体にとって、口から入るものが、愛する母が真心込めて作ってくれたものなのか、それとも、どこかの食品加工会社の工場で大量生産されて袋詰めされたものなのか、ということは、取るに足らない問題なのだ。
目の前のやるべきこと、やりたいことに対し、己の持てる力の限りを尽くして取り組みたい。
アタマから湧き上がる欲求に付き従っていると、それこそ“10秒メシ”ではないが、口から入って体内をすり抜けていったものが何だったかなんて、二の次、だった。


食べることに対し、そんな、どこか横暴な態度をとっていた私が根本的に変わったのは、子どもを産んだのがきっかけである。

幼い子どもは、自分の力で食べるものを選ぶことができない。
「ひとは、食べたものでできている」。
私が与えた食べものが、今まさに子どもたちの口から体内に入り、消化され、吸収されて血や肉となり、彼ら自身を形成していくのだと思うと、もうちょっと真摯に向き合う必要があるのではないか。
そう思ったのだ。


料理をするのは、もともと好きではなかった。
家事のなかでもとりわけ集中力を要し、アタマと体を使うからである。
ぼんやりしながら根菜を切っていると、包丁が滑って指を怪我するし、火加減なども気をつけないと、吹きこぼれたり、鍋を焦がしたりする。
要領が悪いこともあり、家族の食事を用意するのにも、軽く2時間くらい要することもざらではない。
片付けにしても、炊飯ジャーや大きな鍋などを洗うのは、重たくて一苦労だ。
はー、もうやめてしまいたい。
しょっちゅうそう思う。
けれども、これだけは、きっぱりやめるわけにはいかない、のである。


面白いもので、こうした葛藤を抱きながらも、繰り返し作業を続けていると、様々な気付きを得ることができる。

春菊やセロリなど、香味野菜に包丁を入れたとたん、その断面から、野性味溢れる強い香気が立ち上る。
それは、一瞬にしてこちら側の気をしゃきっとさせる力を持っている。
朝引きの新鮮な鶏肉は、見た目からしてプリッと張りがあり、色合いもつややかだ。
干し椎茸を水で戻せば、滋味深い香りがあたりに漂い、母がよく作ってくれたすまし汁を思い出す。
食べるものと、そのときのからだの状態がうまく合致すると、腹の底からじんわりと生命力が満ちてくるのが実感できる。
単に栄養素を摂取するのではない。
まさに、命をいただくということなのだ、と思い至る。


食べるとは、己の体内に自然を取り入れ、それと一体化する行為と言える。
そして料理することは、自分の来し方行く末を思う行為なのだ。
私は、大いなるものの一部であり、それに抱かれているーーーそう思う。


先日、単身赴任中の弟が、子どもたちの相手をしに、久しぶりに来てくれた。
我が家の夫は、コロナ禍中からジャカルタに単身赴任をしているので、それを気遣ってのことである。

私はお礼に、筑前煮を作ってお土産に持たせた。
筑前煮は、私たちきょうだいにとって、郷土料理である。
亡き母の代わりは到底務まらないが、命ある食べものを食べ、生を養ってほしい。
そう願った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
  • (1)はじめに

  • 第1話
  • (2)手から伝わる思い

  • 第2話
  • (3)限りのあるもの

  • 第3話
  • (4)ニホンヤモリと息子

  • 第4話
  • (5)公立小学校の、先生と級友たち

  • 第5話
  • (6)食べることで命をいただく、ということ

  • 第6話
  • (7)「強さ」を支えるもの

  • 第7話
  • (8)「少子化」とは何か

  • 第8話
  • (9)母親は交換可能か

  • 第9話
  • ①世の中の動向

  • 第10話

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み