第5話
文字数 1,821文字
女の子と男の子を育てていると、生まれながらの両者の違いに驚くことが多い。
男の子は、何というか、とても“活発”なのだ。
ズボンはすぐに破れるし、靴もすぐにだめになる。
「え、うそやろ?」って言いたくなるくらい、それはそれはあっけなく。
階段を三段跳びみたいにして降りていったり、高いところからドーンと飛び降りてみたり。
見ているこっちが、視覚効果か、階段から足を踏み外しそうになる。
一昨年の冬、そんな息子が、公園で遊んでいて骨折した。
高いところから飛び降りて着地に失敗したとかで、見ると、くるぶしのあたりが紫色に腫れ上がっていた。
見た目では“捻挫かな?”という印象だったが、やたらと痛がるので、念のため病院に連れて行った。
すると医師から「裂離骨折ですね。」と告げられた。
「え、こんなんで骨折なんですか?」
「はい。ここのところですね。(レントゲン写真)子どもはねえ、骨とか関節が大人とは違うから、大人だと捻挫になるところが、骨がはがれちゃうんだよねえ。」
ギプスを装着し、松葉杖まで渡される羽目になり、まさかの展開に受け止めきれず、つい聞いてみたのだった。
「先生、どうすれば、こんな骨折なんかしないで済むんですかね?」
「うーん、そりゃあまずは、高いところから飛び降りたりしないことだよねえ。」
「・・・。(返す言葉もない)」
運の悪いことに、骨折事件の2週間後に、遠足の予定があった。
行き先はというと、このあたりでは有名な大規模公園だ。
電車を乗り継ぎ、駅についてから公園に到着するまで、大人の足でも結構な距離がある。
公園の内部も、起伏に富む広大な敷地で(調べると約2.6平方キロメートル)、そこでお弁当を食べ、みんなで遊ぶ、という計画だ。
わくわくイベントなわけだが、どう考えても、息子は参加出来そうにない。
そこで担任の先生に相談してみた。
「先生、今度の遠足なんですけど、息子は欠席させるか、学校で待機するかになりますよね・・・?」
「いやいや、参加してもらって大丈夫ですよ。」
「え?・・・けど、息子はギプスの松葉杖ですし・・・。」
「市役所で車椅子が借りられるんですよ。車椅子を借りて、学校まで持ってきてもらえれば、あとは学校がやりますよ。」
先生は、“そんなこと気にする必要あらへん。朝飯前やで”という表情を浮かべて笑っていた。
「・・・。(驚きと喜びで返す言葉が見つからない)そうですか。でしたら、明日にでも市役所に借りにいって、学校まで持ってきますね。どうもありがとうございます。ご迷惑ばかりおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。」
遠足当日、果たして息子は、親の心配もよそに、喜びいさんで出かけ、無事に帰宅した。
息子によれば、公園には遊具がたくさんあったが、車椅子なので遊べずにいたそうだ。すると驚いたことに、それを察した級友たちは、
「ちゃまちゃま(息子のあだ名)、砂場で一緒に遊ぼう。」
と声をかけてくれたのだった。
日頃、あれほど活発な子どもたちなのだから、本当は、遊具で思いっきり遊びたいという欲求があったはずだ。
それをいったん脇に置いて、けがをしている友達を思いやり、一緒にできる遊びを選んでくれたのである。
このことを聞いて思い出した。
我が家では子どもたちにゲームを与えていないので、友達同士でゲームの話題になると入れない。
しかし、息子の級友たちは
「ちゃまちゃまはゲーム持っとらんから、今はその話、やめようぜ。」
と、こちらから頼みもせずとも、その場その場で柔軟に、みんなで楽しめる話題や遊びに変えてくれるそうなのだ。
後日、学校に車椅子を取りに行った際、担任の先生にお礼に伺った。
そして、息子と級友たちの話をすると、
「そうなんですよ。僕も驚いたんですが、あれこれ指導しなくても、自分たちでやってるんですよね。いやあ感心しましたよ。」
遠足当日、息子の車椅子を押してくださった補助の先生にもお会いできたのでお礼を言うと、
「いえいえ。私はもともと介護施設で働いておりましたので、小学生の車椅子を押すくらいでしたら、なんてことはありませんよ。」
と、またもや“こんなん、朝飯前ですわ”という笑顔を返されたのだった。
先生や級友たちの、思いがけない温かさに触れ、改めて、愛着や信頼が、生身の人間にとって力の源泉なのだと思い至る。
毛利元就の三本の矢ではないが、ひとりではどうにもならないことでも、誰かの“朝飯前の”助けによって実現しうるのだ。
愛着や信頼の、底力、である。
男の子は、何というか、とても“活発”なのだ。
ズボンはすぐに破れるし、靴もすぐにだめになる。
「え、うそやろ?」って言いたくなるくらい、それはそれはあっけなく。
階段を三段跳びみたいにして降りていったり、高いところからドーンと飛び降りてみたり。
見ているこっちが、視覚効果か、階段から足を踏み外しそうになる。
一昨年の冬、そんな息子が、公園で遊んでいて骨折した。
高いところから飛び降りて着地に失敗したとかで、見ると、くるぶしのあたりが紫色に腫れ上がっていた。
見た目では“捻挫かな?”という印象だったが、やたらと痛がるので、念のため病院に連れて行った。
すると医師から「裂離骨折ですね。」と告げられた。
「え、こんなんで骨折なんですか?」
「はい。ここのところですね。(レントゲン写真)子どもはねえ、骨とか関節が大人とは違うから、大人だと捻挫になるところが、骨がはがれちゃうんだよねえ。」
ギプスを装着し、松葉杖まで渡される羽目になり、まさかの展開に受け止めきれず、つい聞いてみたのだった。
「先生、どうすれば、こんな骨折なんかしないで済むんですかね?」
「うーん、そりゃあまずは、高いところから飛び降りたりしないことだよねえ。」
「・・・。(返す言葉もない)」
運の悪いことに、骨折事件の2週間後に、遠足の予定があった。
行き先はというと、このあたりでは有名な大規模公園だ。
電車を乗り継ぎ、駅についてから公園に到着するまで、大人の足でも結構な距離がある。
公園の内部も、起伏に富む広大な敷地で(調べると約2.6平方キロメートル)、そこでお弁当を食べ、みんなで遊ぶ、という計画だ。
わくわくイベントなわけだが、どう考えても、息子は参加出来そうにない。
そこで担任の先生に相談してみた。
「先生、今度の遠足なんですけど、息子は欠席させるか、学校で待機するかになりますよね・・・?」
「いやいや、参加してもらって大丈夫ですよ。」
「え?・・・けど、息子はギプスの松葉杖ですし・・・。」
「市役所で車椅子が借りられるんですよ。車椅子を借りて、学校まで持ってきてもらえれば、あとは学校がやりますよ。」
先生は、“そんなこと気にする必要あらへん。朝飯前やで”という表情を浮かべて笑っていた。
「・・・。(驚きと喜びで返す言葉が見つからない)そうですか。でしたら、明日にでも市役所に借りにいって、学校まで持ってきますね。どうもありがとうございます。ご迷惑ばかりおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。」
遠足当日、果たして息子は、親の心配もよそに、喜びいさんで出かけ、無事に帰宅した。
息子によれば、公園には遊具がたくさんあったが、車椅子なので遊べずにいたそうだ。すると驚いたことに、それを察した級友たちは、
「ちゃまちゃま(息子のあだ名)、砂場で一緒に遊ぼう。」
と声をかけてくれたのだった。
日頃、あれほど活発な子どもたちなのだから、本当は、遊具で思いっきり遊びたいという欲求があったはずだ。
それをいったん脇に置いて、けがをしている友達を思いやり、一緒にできる遊びを選んでくれたのである。
このことを聞いて思い出した。
我が家では子どもたちにゲームを与えていないので、友達同士でゲームの話題になると入れない。
しかし、息子の級友たちは
「ちゃまちゃまはゲーム持っとらんから、今はその話、やめようぜ。」
と、こちらから頼みもせずとも、その場その場で柔軟に、みんなで楽しめる話題や遊びに変えてくれるそうなのだ。
後日、学校に車椅子を取りに行った際、担任の先生にお礼に伺った。
そして、息子と級友たちの話をすると、
「そうなんですよ。僕も驚いたんですが、あれこれ指導しなくても、自分たちでやってるんですよね。いやあ感心しましたよ。」
遠足当日、息子の車椅子を押してくださった補助の先生にもお会いできたのでお礼を言うと、
「いえいえ。私はもともと介護施設で働いておりましたので、小学生の車椅子を押すくらいでしたら、なんてことはありませんよ。」
と、またもや“こんなん、朝飯前ですわ”という笑顔を返されたのだった。
先生や級友たちの、思いがけない温かさに触れ、改めて、愛着や信頼が、生身の人間にとって力の源泉なのだと思い至る。
毛利元就の三本の矢ではないが、ひとりではどうにもならないことでも、誰かの“朝飯前の”助けによって実現しうるのだ。
愛着や信頼の、底力、である。
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