1.少年
文字数 2,168文字
ある日の朝。魚たちを起こそうといつものように水族館の中へ足を踏み入れた館長さんは、ぼんやりと空っぽの水槽の前にたたずむ一人の少年を見つけました。
「……こんなところでどうしたんだい?」
ふいにかかった声に、少年は驚いて勢いよく振り返りました。大きなブルーの瞳に見つめられて、館長さんはまるで海のようだと思いました。遠い記憶の彼方にある、海の青さ。少年の瞳は海の色をしていたのです。
「あ、勝手に入ってしまってすみません。あの…ここは水族館なんですか?」
「ああ、そうじゃよ。ここは電脳水族館といって、海について学ぶ場所なんじゃ。わしはここの館長を任されておる」
物珍しそうに館内を見回す少年に、館長さんは笑みを浮かべました。
「ウミ…ですか?」
「ああ、そうか。君たちの世代では海は知らないんだね」
不思議そうに首を傾げる少年に、館長さんは少し寂しそうに微笑みました。
「そうだね……ちょっと待っておくれ」
そう言うと、館長さんは入口近くの壁へと歩み寄り、自分の目の高さほどをトントンとたたきました。パカリと壁が小さく四角に開いて、中から赤いボタンが一つ顔を出しました。そうして、いつものようにそのボタンを押すと、ウィーンと言う耳慣れた機械音が部屋中に響き渡りました。少年は驚いて辺りを見渡し、館長さんへと疑問の視線を投げかけました。それにちょっと笑って見せると、館長さんは水槽を指差しました。
「見てごらん」
言われるままに視線を水槽へと向けた少年は、そこにゆったりと泳ぎ回る色とりどりの魚たちを見つけました。
「わぁっ! さっきまで何もいなかったのに……すごいですね!!どうやったんですか?」
水槽へと駆け寄り、珍しそうに何度ものぞきこむ少年の姿がうれしくて、館長さんは満面の笑みを浮かべました。
「その魚たちは本物の魚じゃないんじゃよ」
「本物の魚じゃない?」
館長さんの言葉に、少年は首を傾げました。
「その魚も岩も水草も全部、水をスクリーン代わりに映し出された立体映像なんじゃよ」
「立体映像…これが? こんなに生きているみたいなのに……」
少年はもう一度じっと魚たちを見つめました。けれども、やっぱり本当に生きているようにしか見えません。
「これが映像…だったら、本物の魚はきっともっともっと綺麗なんでしょうね」
そう言って、少年は瞳を輝かせました。
「ああ、もちろんだとも。もっと多くの種類の魚が、海と言う大きく塩辛い水たまりの中で自由に泳ぎ回っているんじゃよ」
「いいなぁ。一度でいいから、僕も見てみたいなぁ……」
思いを巡らすようにそっと目を閉じた少年の姿に、館長さんは本物の海をこの子の世代にも見せてやりたいと思いました。けれども、宇宙に浮かぶ機械のカタマリのこの惑星では、故郷のような広い広い海を作り出すだけの水も装置も、材料もどこにもありません。それでもあの広い海の記憶を残して行きたいと考えて、作り出されたのがこの電脳水族館だったのです。
「例え、こうして海の記憶を少しでも伝えようとしてもしょせんはニセモノ。本物の暖かさや広さを伝えることなど、到底無理だったのかもしれんのう……」
ぽつりとつぶやいた館長さんの瞳は、水槽を通して幼い頃に見た広く大きな青い青い海を見つめていました。
「館長さん?」
かけられた声にそちらを見れば、少年が心配そうに館長さんを見つめていました。
「ああ、ごめんよ。……そう言えば、君は一体どこの子だい?」
そんな心配を吹き飛ばすように笑顔を作って問いかけました。すると少年は少し考えてから
「えっと……あ、うん。この近くに家があるんです。それで、いつも見えていたんだけど今日は思い切って来てみたんです」
と答えました。
「この近くに家?」
少年の言葉に、館長さんは首を傾げました。というのも、水族館の近くにだれかの住む家はなかったような気がしたからです。けれども、海色の瞳を見つめているうちに、それもどうでも良くなってきました。少年がどこに住んでいようと、水族館の久し振りのお客様に違いありません。
「そうかい。それはそれは、ご来場ありがとうございます」
館長さんは疑問を吹き消すように、笑顔で少年にぺこりと一つお辞儀をしました。
「せっかく来たのだし、水族館の中を案内していただけませんか?ついでに、館長さんのしっている海の話を聞かせてください!」
「もちろんじゃよ。わしの知っている限りのことを、話して聞かせよう」
そうして少年はその日から、毎日水族館へ足を運ぶようになりました。
毎日水槽を眺めて、海の話を二人で交わすこと。それは館長さんにとっても楽しみの一つになって行きました。
* * * *
『……神様だって』
――は? なんだそりゃ。今時、そんなもん信じてる奴なんていないだろう?
『違うよ。あの子がそう言ったの。人間にしてあげるって言ったらアタシに 「神様ありがとう」って』
――そうかい。
『うん。…なんだか変な感じだね』
――そうだな……。でも、考えてみればそう思われても仕方ないだろう。やったことがやったことだしな。
『そうだね。でも……何だかちょっとおかしな気分だよ』
――……そうか……。
「……こんなところでどうしたんだい?」
ふいにかかった声に、少年は驚いて勢いよく振り返りました。大きなブルーの瞳に見つめられて、館長さんはまるで海のようだと思いました。遠い記憶の彼方にある、海の青さ。少年の瞳は海の色をしていたのです。
「あ、勝手に入ってしまってすみません。あの…ここは水族館なんですか?」
「ああ、そうじゃよ。ここは電脳水族館といって、海について学ぶ場所なんじゃ。わしはここの館長を任されておる」
物珍しそうに館内を見回す少年に、館長さんは笑みを浮かべました。
「ウミ…ですか?」
「ああ、そうか。君たちの世代では海は知らないんだね」
不思議そうに首を傾げる少年に、館長さんは少し寂しそうに微笑みました。
「そうだね……ちょっと待っておくれ」
そう言うと、館長さんは入口近くの壁へと歩み寄り、自分の目の高さほどをトントンとたたきました。パカリと壁が小さく四角に開いて、中から赤いボタンが一つ顔を出しました。そうして、いつものようにそのボタンを押すと、ウィーンと言う耳慣れた機械音が部屋中に響き渡りました。少年は驚いて辺りを見渡し、館長さんへと疑問の視線を投げかけました。それにちょっと笑って見せると、館長さんは水槽を指差しました。
「見てごらん」
言われるままに視線を水槽へと向けた少年は、そこにゆったりと泳ぎ回る色とりどりの魚たちを見つけました。
「わぁっ! さっきまで何もいなかったのに……すごいですね!!どうやったんですか?」
水槽へと駆け寄り、珍しそうに何度ものぞきこむ少年の姿がうれしくて、館長さんは満面の笑みを浮かべました。
「その魚たちは本物の魚じゃないんじゃよ」
「本物の魚じゃない?」
館長さんの言葉に、少年は首を傾げました。
「その魚も岩も水草も全部、水をスクリーン代わりに映し出された立体映像なんじゃよ」
「立体映像…これが? こんなに生きているみたいなのに……」
少年はもう一度じっと魚たちを見つめました。けれども、やっぱり本当に生きているようにしか見えません。
「これが映像…だったら、本物の魚はきっともっともっと綺麗なんでしょうね」
そう言って、少年は瞳を輝かせました。
「ああ、もちろんだとも。もっと多くの種類の魚が、海と言う大きく塩辛い水たまりの中で自由に泳ぎ回っているんじゃよ」
「いいなぁ。一度でいいから、僕も見てみたいなぁ……」
思いを巡らすようにそっと目を閉じた少年の姿に、館長さんは本物の海をこの子の世代にも見せてやりたいと思いました。けれども、宇宙に浮かぶ機械のカタマリのこの惑星では、故郷のような広い広い海を作り出すだけの水も装置も、材料もどこにもありません。それでもあの広い海の記憶を残して行きたいと考えて、作り出されたのがこの電脳水族館だったのです。
「例え、こうして海の記憶を少しでも伝えようとしてもしょせんはニセモノ。本物の暖かさや広さを伝えることなど、到底無理だったのかもしれんのう……」
ぽつりとつぶやいた館長さんの瞳は、水槽を通して幼い頃に見た広く大きな青い青い海を見つめていました。
「館長さん?」
かけられた声にそちらを見れば、少年が心配そうに館長さんを見つめていました。
「ああ、ごめんよ。……そう言えば、君は一体どこの子だい?」
そんな心配を吹き飛ばすように笑顔を作って問いかけました。すると少年は少し考えてから
「えっと……あ、うん。この近くに家があるんです。それで、いつも見えていたんだけど今日は思い切って来てみたんです」
と答えました。
「この近くに家?」
少年の言葉に、館長さんは首を傾げました。というのも、水族館の近くにだれかの住む家はなかったような気がしたからです。けれども、海色の瞳を見つめているうちに、それもどうでも良くなってきました。少年がどこに住んでいようと、水族館の久し振りのお客様に違いありません。
「そうかい。それはそれは、ご来場ありがとうございます」
館長さんは疑問を吹き消すように、笑顔で少年にぺこりと一つお辞儀をしました。
「せっかく来たのだし、水族館の中を案内していただけませんか?ついでに、館長さんのしっている海の話を聞かせてください!」
「もちろんじゃよ。わしの知っている限りのことを、話して聞かせよう」
そうして少年はその日から、毎日水族館へ足を運ぶようになりました。
毎日水槽を眺めて、海の話を二人で交わすこと。それは館長さんにとっても楽しみの一つになって行きました。
* * * *
『……神様だって』
――は? なんだそりゃ。今時、そんなもん信じてる奴なんていないだろう?
『違うよ。あの子がそう言ったの。人間にしてあげるって言ったらアタシに 「神様ありがとう」って』
――そうかい。
『うん。…なんだか変な感じだね』
――そうだな……。でも、考えてみればそう思われても仕方ないだろう。やったことがやったことだしな。
『そうだね。でも……何だかちょっとおかしな気分だよ』
――……そうか……。