4.海へ

文字数 3,610文字

『…声が聞こえるの』

――またか?

『うん。今度はね“ホントウノウミヲミセタイ”って言ってる』

――本当の海?

『うん。本当の海が存在しないから、大切な人に本当の海を見せてあげたいんだって』

――お前。まさかまた……

『うん。叶えてあげたい』

――冗談じゃないぞ! 海なんて、人間にするのとは比べものにならないぐらい大きなものじゃないか!

『うん。でも叶えてあげたいの』

――…そんなに神様になりたいのか?

『違うよ。そんなものあの時から少しも信じてないよ。何もかもが、アタシたちを裏切ったあの時から』

――だったらなぜ……。

『だからだよ。アタシたちは今、どうにか出来る位置に存在しているんだよ?同じ思いを、あの子にさせる意味なんてどこにもない。どうにもならなくて悲しくて切なくて……。昔のことなんて、あの子には関係ないよ』

――しかし……

『心配してくれるんだね…有り難う。でもね、諦めたくないんだ。だから…とめても無駄だよ』

――……わかった、もう止めないよ。でも、オレも手を貸すぞ。

『でも……』

――悪いが、止めても無駄だ。

『……ありがとう』

――勘違いするなよ。これは誰のためでもない。おれ自身のためだ。

『うん。でも、ありがとう』


 * * * *

 その日は朝からずっと天気のいい一日でした。空高く昇ったお日さまの光に照らされて、窓際の花たちもキラキラと輝いて見えました。
 そんな中、少年はだれかに頭をなでられていることに気がつき目を覚ましました。
「おお、起こしてしまったかのう?」
 ベッドに上半身だけ起こして微笑む館長さんに、少年は首を横に振りました。
「いいえ。丁度目が覚めた所だったんです。館長さんこそ起きていて大丈夫なのですか?」
「ああ。なんだか今日は調子がいいんじゃよ」
 そう言う館長さんの顔には赤みがさし、いつもの青白さは少しもありません。少年はホッとして立ち上がりました。
「スープを温めてきますね。調子のいいときに、食べておかないといけませんから」
「ああ、そうだね」
 館長さんに軽く微笑んでから、少年はキッチンへと向かいました。
――少年が人になってから数十年。あれから二人で水族館に住むようになって、少年は少し大きくなっていました。
 三年前に館長さんが体を壊して寝こむようになってからは、少年が看病をしていました。朝から晩まで、片時も傍を離れることはありません。館長さんは「大丈夫」と言って笑いますが、きっと大丈夫ではないことを少年はなんとなくわかっていました。自分に心配をかけまいと元気に振舞う館長さんに、少年の心はいつも苦しくなるのでした。
「どうして人間は死ぬんだろう。どうして年をとって、老いて行くのだろう。どうして……永遠の別れなんてしなきゃいけないんだろう……」
 立体映像だったときの“死”という言葉は、少年にとってとても遠い存在でした。けれども、人になって館長さんと暮すようになってからは、とても身近なものに感じるようになりました。
――ずっと一緒にいたいのに……。
 ポタリと少年の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちました。それは、言いたくても言えない、少年の本当の気持ちでした。
 少年がスープを持って行くと、館長さんはベッドに腰かけて窓の外を眺めていました。
 向けられた背中がとても寂しそうで、また胸のどこかがキュッと音をたてて痛みました。そんな気持ちを振り払うように、少年は笑顔で声をかけました。
「館長さん、スープが温まりましたよ」
「ああ、ありがとう」
 ゆっくりと振り返った館長さんは、やっぱりいつもどおりあの優しい笑みを浮かべていました。少年からスープのお皿を受け取ると、そっと一口飲みました。
「すっかり、君の料理の腕が上がってしまったね。とってもおいしいよ」
 そう言って館長さんは苦笑を浮かべました。
「……わしはもう、きっと長くはないじゃろう」
「!」
 視線を窓に向けて、ふいにぽつりと館長さんがつぶやきました。その言葉に、少年は一瞬心臓が止まってしまうのではないかと思いました。
「そんなっ……」
 否定しようと声をあげた少年を、こちらへ向き直った館長さんの澄んだ瞳がじっと見つめました。少年は言おうとしていた言葉が、スゥッと頭の中で消えていくのを感じました。
「いいんじゃ。人ならばいつかは訪れること。否定してもしょうがないことじゃ」
 そう言うと、館長さんはそっと少年の手をとって微笑みました。
「ありがとう。わしの前に、人として現れてくれて。ずっと一人で…死ぬまで生きていくんだと思っておった。でも、この年になってこんなに可愛い孫を持つことが出来て、わしは本当に幸せじゃ」
「館長さん……」
 さっきぬぐったはずの涙が、また頬を静に流れ落ちました。そんな少年を、館長さんは小さな子をあやすようにそっと抱きしめて、その背をポンポンと軽くたたいてあげました。
「けれども、最後に一つだけわがままを言わせてもらえるのなら、君と一緒に故郷の海を見てみたかった……」
 そう言って、そっと館長さんが瞳を閉じたときでした。

――その願いごと…叶えてあげるよ。――

「!」
 ふいに声が響いたかと思うと、部屋中眩しい光であふれました。
「わっ! なっ、何?」
 思わず目を閉じた二人が、次に目を開けたとき、そこには一人の少女が立っていました。
 少女はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべ、ペコリとお辞儀をしました。
「この子は……?」
「館長さん、この人なんです。僕を人間にしてくれた神様って!」
「あなたが……」
 少年の言葉に、館長さんは笑みを浮かべました。
「神様、ありがとうございます。彼を人にしていただいたおかげで、わしは残りの人生をとても楽しく過ごさせていただきました」
「それは違うわ。アタシはただ、小さなお魚さんの願いが叶う手助けをしただけ。その結果、あなたもお魚さんも幸せになっただけ。神様は何もしてないわ」
 そう言って微笑むと、館長さんに歩み寄りその手を取りました。
「今度はあなたの願いを叶える、手助けができそうね」
「手助け…ですか?」
 『願いを叶える』のではなく、『叶える手助けをする』とは、いったいどういうことなのでしょう。館長さんも少年もよく分からず首を傾げました。
「願いはね、ただ思うだけじゃダメなの。強く強く、なによりも叶えたいと願う心がなければ神様でも叶えられないの。小さなお魚さんは、本当に心から人になりたいと思っていたわ。だからアタシは、その願いを叶えることができたの。そして今、館長さんのなによりも叶えたいと思う強い心が、アタシに願いを叶えるチャンスをくれたのよ」
「わしの強い願い……」
「さあ、あなたの願いをアタシに言って。そうしたら、アタシはその願いを一番最高の形で叶えてあげる」
「館長さん!」
 少年の弾んだ声と、じっと静に見つめる少女の瞳。館長さんは、にっこりと笑みを浮かべました。
「わしの心からの願いはただ一つじゃ。本当の故郷の海を、彼と共にこの目でもう一度だけ見ること。ただそれだけじゃ」
「館長さん……!」
 館長さんの言葉に満足そうにうなずくと、少女の体が静に光を放ちました。

――行こう。あなたたちの故郷の海へ――

 まぶしいばかりの光とは違う、優しい光が部屋中にあふれました。まるでお母さんの腕の中にいるようだと思いながら、館長さんはそっと目を閉じました。

――さあ、目を開けてごらん――

 そっと目を開けると視界一面、青い光が飛びこんできました。
「ああ……」
 ザァッと寄せる波の音。空を飛ぶカモメ。遥か遠くに見える青い空と白い雲。砂の小さな粒の一つまで、何もかもが思い出の中の故郷の海そのままでした。
「なつかしい……そうじゃ、これが本当の海なんじゃ」
 しまっていた懐かしい記憶がこみあげて、館長さんの頬を涙となってぬらしました。
「そうじゃ。あの子は? それに、神様はいったいどこに?」
 そう言って立ち上がろうとした館長さんの肩に、そっとだれかの手が乗りました。振り向くとそこには、じっと海を見つめて立つ少年の姿がありました。その海を映した青い瞳は、さらに青く深く染まりキラキラと輝いていました。
「本当の海……思っていた以上にきれいですね。ただ、知識としてあるだけでは本物がどんなものなのかなんて分からないと、初めて知りました。……こんな気持ち、きっと水族館の立体映像だったらわからなかった。ありがとう館長さん。僕に、本当の海を見せてくれて」
 にっこりと笑みを浮かべる少年に、館長さんも幸せそうに微笑みました。
 そうして二人は、ずっとずっと時の許す限り、毎日海を見つめて過ごしました。

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