つきもの 2

文字数 14,971文字

 八
 佳那が知らぬ間に持田は、問題のブログ画面からメールを送っていた。その返信として、持田の記した携帯番号に直接かかってきたのだ。
 相手は強い関西弁の男だった。たしかに中年っぽい。だが先方は最初に謝罪してきた。ブログの作成者ではないという。元のブログはとうの昔に削除されたのだが、それを完全にコピーしたうえで自分に問い合わせが来るように細工したらしい。
 男はこちらの事情を細かく訊ねたのち、面会をもとめてきた。持田は色めきだった。先輩は元社会部だ。文化部に来てからも興味のおよぶところには、担当分野にかかわりなく取材の足を運ぶ。だが今回は佳那のネタだった。先輩にまかせるわけにいかない。
 都心上空に発生した積乱雲のせいで午後三時過ぎには案の定、あちこちがゲリラ豪雨に襲われた。それでも佳那が指定された目黒駅前に到着した四時には、夏空がもどっていた。
 「東邦新聞の方ですか」
 相手は、柔和な顔だちとは好対照のがっしりとした体躯で、ノーネクタイの白シャツがはち切れそうな胸板をしていた。まだ四十歳そこそこといった感じで、短く刈った髪も相まって引退直前のプロ野球選手といった印象だった。だが差しだされた名刺に佳那はひるんだ。
 笹島庸一は、大阪府警捜査一課強行犯担当の警部補だった。
 「もしかして刑事さんってことですか」
 「せやな。だまっとって悪かったな」
 いやな予感をおぼえた。警察の捜査がらみの話なのか。それ自体、厄介だし、文化部のマターを離れてくる。それにどんな形にせよ警察から協力要請があった場合は、会社の広報部をとおさないといけない。すくなくともデスクの許可を得ないとまずい。コンプライアンスを金科玉条のごとく振りかざす昨今だし、それでなくともうちの部はリストラ候補の筆頭格としていつだってやり玉にあがっている。へたなまねをすれば、社内のヒラメ連中がどれだけ騒ぐか考えるだけでブルーになった。
 でも持田ならきっと最低限の取材はするはずだ。それに支局のサツ回り時代ならともかく、女優や小説家がらみの取材で、刑事に出会うなんてめったにない機会であった。
 「どういうことなんですか」雑踏のなかで佳那は訊ねた。
 「おどろいたやろ。せやけど、事情があるねん。カラオケボックスでも入らへんか。他言をはばかる話なん」
 佳那はいっぺんに緊張した。「ほんとに刑事さんなんですか」その質問が思わず口をついた。
 「すまんな。でもパトのなかってわけにもいかんやろ。スタバじゃ、だれが聞いとるか知れへんし」笹島は穏やかに告げた。
 「刑事さんならコンビで来るものじゃないですか」トートバッグをきつく握りしめながら佳那は訊ねた。
 笹島は苦笑した。「あんた、テレビドラマの見過ぎちゃうか。捜査は一人でもやるし、いまは警察も人手不足やからな。それに女の子にいたずらするのに、こんな手のこんだまねせんやろ」
 たしかにそうだ。占い師に興味を持つのは女性だけとはかぎらない。佳那は三十分だけの約束で、駅前の古びたカラオケボックスに同行した。
 「あんたも『ねぐり堂』が気になったんやろ」笹島は気をつかって佳那から離れてソファに腰かけた。
 「利用したと思われる女性がいるんです」
 「一人か」
 「いまのところ一人ですけど」
 「いまのところというと?」
 ここまできて逡巡する必要はない。佳那はすべて話すことにした。「かつてその女性にごく近い関係にあって、おなじく崖っぷちに立たされていたもう一人の女性がいまして」
 「崖から落ちたんか」笹島はわかっていてあえて訊ねたようだった。
 「窮地を脱していまではベストセラー作家です。その彼女のことを聞き歩いているうちに『ねぐり堂』に出くわしたのです」
 「なるほど」合点がいったかのように笹島は大きくうなずいた。
 「ところで大阪でなにか事件があったんですか」
 「何年か前にな。それで動向を調べとるんや」たばこのヤニとカビくさい個室だった。日中のためほかに利用者はいないようだった。
 「寝栗妖子ですか」
 「そうや。寝栗妖子、本名、前田容子や」笹島はスマホの写真を見せた。取り調べのさいに撮影したのだろう。きちんと正面を向いている。エキゾチックな占い師というより、スーパーのレジにいるのが似合いそうなおばさんだった。「せやけど情報が乏しくてな、それであのブログを改ざんして、おとりアドレスをのせたんや」
 「あのブログ自体は本物なんですか」
 笹島はズボンのポケットからたばこのパッケージを取りだし、一本抜きだしたが、佳那に気をつかって火をつけようとはしなかった。「本物やで。作者ともコンタクトは取ったよ。もうずいぶん前になるけどな」
 「その前田さんって、なにをしたんですか」
 「ブログ読んだんやろ。彫刻刀や」
 「それがなにか」
 「銃刀法違反やろ」
 佳那は首をかしげた。「たしかにそうかもしれませんけど、それってサバイバルナイフとか日本刀とか――」
 「彫刻刀一本でもじゅうぶん人を傷つけられるねん」鼻先にたばこを近づけ、犬のようにひくひく嗅ぎながら笹島は反論した。「そういう目的で持ち歩くのはあかんやろ」
 「なるほど……いや、待ってください。彫刻刀って寝栗さんが自分で使うわけじゃないんですよね」
 笹島は大きくかぶりを振った。「人に使わせるなんて、ある意味、もっとあかんやろ。じっさい検挙歴もあるんや。銃刀法違反のな。さすがにムショにはぶちこめんかったけど、執行猶予中で保護観察の身やった。それが去年の春先から姿くらましおってな。これ以上他人の人生、狂わせるのをほっとくわけにいかんやろ」
 「それで追ってるんですか」
 「せやな。最近になって東京に出てきとるって情報をつかんだんや」
 「だけど」佳那は戸惑っていた。「そこまでして追いかける相手なんですか。脱獄したわけでもないんですよね」
 「保護観察には居住制限がついとる。それに違反しとるやろ」
 「でもなんかなぁ……」佳那は慎重に言葉を選んでいった。「警察も人手不足というならもっとほかに力を――」
 いきなり笹島はテーブルを叩いた。高圧的な破裂音が二人用の個室に響いた。
 佳那はクロスのはがれた壁に背中をおしつけてつぶやいた。「やっぱり刑事さんって、こうなんだ」
 「すまん……」笹島は肩をすぼめ、深々と頭をさげた。「ついカッとなっちまって。でも取り調べのときはもっと冷静なんやで。仕事やから、被疑者との距離もちゃんとわきまえとる」
 「仕事じゃないんですか、これは」
 「そんなことないで。保護観察違反だし、犯罪予防のためや。しゃあないやろ」それまでとちがって歯切れは悪かった。
 それが佳那にとってはある意味、光明だった。「もしかして個人的なこととかなのかな。むしろそっちのほうが、わたしはやりやすいです。これが本当の捜査なら、会社に無断で協力するわけにいきませんから」
 細かい事情について、笹島がそれ以上口にすることはなかった。かわりに寝栗妖子こと前田容子に関する最新情報を話してくれた。
 「素性はうちらもよう把握しとらんのやけど、やつに占ってもらうととにかく運勢が開けるというんや。せやけど前田容子もそれがどんな余波をまねくかよう理解しとる。だからネットで大々的に広告したりなんか絶対せえへん。へたに殺到されて、あとでトラブルになったり、警察に目をつけられるといやなんやろ。それに一回の占い料は百万円やから」
 「百万……!」佳那は目を丸くした。
 「払う人間がおるんよ。運勢が開けるなら安いんやろ。じっさい何人も億万長者が出とるって話やから」
 「マジですか」
 「確認はしとらんがうわさレベルではそうや。じっさいギャンブルで大当たりした人間なら、わしも知っとる。だから容子としちゃ、そんなに客を取る必要はないんやな」
 「口コミで広がってるってわけですか。だけど接触するには、せめて電話番号ぐらいどこかに出しておかないと。もちろん店舗なんてないんですよね」
 「そんなしっぽをつかまれるようなまねはせんわな。客もせっかくついた運が逃げるのが怖くて、容子にいわれたとおり他言を慎んどる。だからネット上にもほとんど情報は出とらんが、知る人ぞ知る占い師や。潜在的には何万人もがその存在を知っていて、どこかで占ってもらいたいと思っているはずだ。それをやつは逆手にとって、レンタカーで気ままに出かけるんや。そこで繁華街の電柱に一つだけ広告をぶらさげる。表向きは不動産広告やけど、下のほうに小さく『ねぐり堂』と記して、場所と時間を指定するんや。場所っちゅうのは、車をとめている駐車場ってことやな。広告の下のほうに数字を書いた半券が一枚ついおって、客はそれを持参して駐車場にいき、フロントグラスにおなじ数字のシールがはってある車を探すって寸法や」
 「百万円持ってですか」
 「電柱看板見つけた者は超ラッキーや。だれかに借金してでも百万円かき集めるやろな」
 「笹島さん、いつから東京に来てるんですか」
 「今回は先週末からや。情報提供者が何人かおるんよ。先週、恵比寿で電柱広告が見つかったんや。もう長いことやつのこと調べとるから、行動パターンみたいなもんがわかるんや。大阪では環状線の駅を順番に回るような格好で出没しとった。占いの法則でもあるんかな。とにかくそれを考えたら、ちょっと単純かもしれんけど、恵比寿って山手線やろ。それでぐるぐる回っとったんや。ほら、これや」
 笹島はたばこを入れていたのとは反対側のズボンのポケットから、一枚の紙きれをつまみだした。
 四けたの数字が書いてあった。
 「おととい、この先の電柱で見つけたんや。せやけど面が割れとるから、わしが直接いくわけにいかんやろ。協力者が必要やったんや。自傷行為を行わせるために刃物を手渡せばそれだけで不法所持の証拠になるからな」
 「わたしが直接会うんですか」
 「カネなら心配いらんで」笹島はセカンドバッグから無地の封筒を取りだし、佳那の前に置いた。分厚かった。

 九
 笹島からは目黒駅に直結する地下駐車場を教えられていたが、問題のレンタカーは佳那一人で探さねばならなかった。ところどころ照明の切れた薄暗い駐車場で、満車に近いくらい埋まっていたが、それでもフロントグラスの数字はすぐに見つかった。シールではってあるわけでなく、ワイパーではさんだB5判大の紙に黒マジックで四けたの数字が書かれていた。防犯カメラの死角になる場所で、後部座席に人影がある。佳那は慎重に近づき、リアウィンドーをノックした。
 「ご用かしら」
 音もなく下がった窓の奥でかすれた低い声がした。前田容子の顔写真は笹島から転送されていたが、エンジンをかけたままの軽ワゴン車の後部座席に隠れるように座るその人物は、黒のスカーフと薄茶色のサングラス、それにマスクで顔を隠していた。寝栗妖子として営業中なのはあきらかだった。車内はレンタカーらしく小ざっぱりとしている。タブレット端末が容子のひざにそっと置かれていた。
 「これを見つけまして」のどがカラカラだったが、佳那はやっとのことで声を出した。
 妖子はそれを手にとり、後部ドアを開けて佳那を招き入れた。
 「あの――」
 「あなた、だいじょうぶなの」
 狭い車内の後部座席で対峙しながら妖子は訊ねてきた。しんとした空間には、それまで佳那が経験したことのない異様な緊張感が満ちている。ガラガラヘビの巣穴に足を踏みいれてしまったようだった。
 「こちら『ねぐり堂』……ですよね」
 それに答えるかわりに妖子は黒いマニキュアをほどこした右手の親指と人さし指を神経質にこすりあわせた。佳那はあわてて、ICレコーダーをしのばせたトートバッグから無地の封筒を取りだして渡した。
 背中でドアロックがかかる音がした。
 一万円札の束を数えおえ「ほんとにだいじょうぶなの」とあらためて妖子はサングラスの奥から訊ねてきた。
 意味が理解できず、佳那は怖くなってきた。エアコンが入っているのだが、それ以上に体温が急速に低下している気がする。ドアに背中を押しつけ、できるだけ妖子から離れる姿勢を取りながら、佳那は深呼吸した。笹島への協力はべつとして、記者として訊ねるべきことは聞かないと。
 「幸運をつかめるって聞いたんです。対価に見あうだけの効果はあるって」
 「手を見せてくれるかしら」
 妖子は節くれだった十本の指を広げた。手のひらは肉厚で表面はつるんとしている。佳那は右手より左手に気をひかれた。薬指が長い。すくなくとも中指より関節一つぶんは長かった。
 「寝栗さんに鑑定してもらって、女優として脚光を浴びた人とか、ベストセラー作家になった人もいるとか――」
 冷たい青い光のようなものが体を突き抜け、佳那は短い悲鳴をあげた。いきなり妖子に左右の手をつかまれたのだ。爬虫類のようなひんやりと湿った感触だった。
 「客のことは話せないし、あなたもそんなことは聞かないほうがいい」体をこわばらせる佳那に妖子が告げる。そして左右の手のひらをじっと見つめながらささやくようにいう。「おどろいたね、こりゃ」
 佳那の耳元で心臓がばくばくいうのが聞こえる。「わたし……手相なんて見てもらうのはじめてで――」
 「ノブナガコウとおなじだ」
 妖子がなにをいったか佳那には理解できなかった。「ノブナガコウ……?」
 両手をつかんだまま妖子は落ち着いた声で告げる。「織田信長さ。運命線の出方がそっくりだ」妖子は右手でつかんだ佳那の左手を大きく開かせ、自らの左手の指先で佳那の手首から中指の付け根にかけてゆっくりとなぞりあげた。「頭脳線と感情線をきれいに突き抜いている。開運の相だね」
 佳那は呼吸を整えてから訊ねた。「織田信長とおなじ手相なんですか」
 「そうさ。ただ、信長公は持って生まれた運命だけでは満足しなかった」言い聞かせるようにいうと、妖子は両手で佳那の左手を包みこんだ。さっきと打って変わって母親に抱かれたようなぬくもりが広がる。「若いころ、小刀を手のひらにあてがって、痛みとともに運命線を引いた。より深く、くっきりと浮かびあがるようにね」
 「すいません、わたしは……」
 怖くなって引っこめようとする手を妖子はぎゅっとつかんだ。「怖くなんかないわ。あなたにはできるから」
 テーブルマジックのようだった。いつのまにか佳那は一本の小刀を握りしめていた。彫刻刀だ。持ち手にはあの焼き印がある。
 ねぐり堂――
 それから妖子は手慣れたようすで佳那の左右の手のひらの写真をスマホで撮影し、データをパソコンに移して画面に表示させた。そこにピンクの中太マジックに設定したタッチペンで、まるで設計図のように何本かの線を引いていく。「わたしがやるわけにいかないの」そういって妖子は完成した画像をUSBメモリーに落とし、佳那に手渡した。
 どうしろというのだ。
 たまらず佳那は自分のスマホを操作し、ルームメイトから入手した奈須原千種、すなわち寺西美子の写真を表示した。
 「この人にもそうしたんですか……手のひらに」
 美子の写真に妖子はしばらく目を落としていた。それからおもむろにサングラスの奥からひたと佳那を見すえた。「人の体は宇宙の気の流れをキャッチする受信機、アンテナなの。だから必要なら体じゅうどこでも調整をほどこさないと。悪いものが取りついて運気の巡りが滞っているなら、そのつきものは落とさないといけないのよ。わたしはそのお手伝いをしているだけ」

 十
 地上にあがるエレベーターのなかでICレコーダーがまだ回りつづけていることに気づき、あわてて佳那はトートバッグに手を突っこんだ。妖子から渡された彫刻刀とUSBメモリーが指先に触れる。
 佳那はぼんやりと手のひらを見つめた。
 自分がなにをしているのかわからなくなった。まるで脳が委縮してしまったかのようだった。じっとりと蒸し暑い鋼鉄の箱のなかでかわりによみがえってきたのは、学生時代の記憶だった。
 大学四年の夏。
 はじめて短答式試験に合格し、論文式試験を経験した。それで手ごたえを感じ、就職の道を捨てて司法試験一本にしぼる決意をした。十二年後には、衰退するオールドメディアの片隅で縮こまっているなんて、想像だにしていなかった。頭にあるのは、合格後の明るく輝く未来だけだった。正直、あのときほど自分が取りくんでいることに情熱を感じた時期はなかった。当時の司法試験仲間のなかには、塾講師のアルバイトでしのぎながら浪人をつづけ、三十歳を過ぎて合格を果たした者もいる。そして三十代半ばに差しかかってもあきらめずに、いまなお挑みつづける猛者もいる。
 どうしてあきらめちゃったんだろう。
 家庭の事情もあった。父が亡くなり、郷里の福島では母がいちご農園で働いているだけだった。アパートの家賃や司法試験予備校の学費は、自分で稼がねばならなかった。だがそうした客観的事情以外に、就職もせずに試験を受けつづけるだけの気力が萎えてしまったのだ。それが真実だ。
 あのときの手相はどうだったのだろう。信長公とおなじ運命線はあのころものびていたのだろうか。それとも中途半端なままだったのかな。だからあきらめる運命だったのかもしれない。
 ほんのちょっとだけ、文字どおり切り開くだけで……。
 いますぐ合格というわけにはいくまい。記者生活はそれなりにやりがいがあるし、なによりお給料がいい。味をしめるまま十年以上が過ぎてしまった。その間に法律の知識なんて頭のなかから完璧に駆逐されている。それを取りもどすのに最低でも三年はかかるだろう。だがそれでも四十路前だ。結婚や出産をそれから考えても遅くはない。
 いったいなにを考えているの?
 地上に達し、エレベーターの扉が開いたのに佳那は動けずにいた。まるで脚の筋肉が弛緩してしまったかのようだった。ベビーカーとともに外で待っていたTシャツ姿の若い母親がけげんな顔でにらみつけてきた。
 無理にきまってるじゃない。
 佳那は外に転がりだした。雨あがりの午後の陽ざしがたちまち脳天と首筋を焼いた。じりじりと音が聞こえてきそうなくらいだった。笹島を探した。早く現実にもどらないと。
 警部補の姿はどこにも見あたらない。佳那は自分が現実そっくりの異世界に出現してしまったような錯覚に陥った。
 ちょっと切るだけなら問題ないんじゃないかしら。
 手土産として渡されたUSBメモリーの中身をたしかめたい衝動がわきおこった。御しがたい激しい疼きが胸を貫く。妖子がタッチペンで記したのは、ほんの数センチ。たしか中指の付け根のあたりだった。まさか木版画のような深彫りが必要なわけではあるまい。トートバッグの下に押しこんだ彫刻刀は、あの焼き印と相まって強い存在感を放っている。でもいうなれば銅版画のエッチング程度、ちょっとこすって傷をつける程度でじゅうぶんなんじゃないか。だったらためしてみても悪くないか。ほんのすこしだけ。
 弁護士になるの?
 理性を越えた本能が問いかけてきた。
 新聞社をやめて、法律家として海外に羽ばたきたいの?
 佳那は答えられなかった。
 そうでないことが明々白々だったからだ。駅前ロータリーの反対側にある宝くじ売り場がやけに目だっているように見える。
 じっさい何人も億万長者が出とるって話やから……。
 刑事が口にした言葉が、いまになって頭のなかでわんわんと響きはじめた。
 そうなのよ。
 エッチングなんてけちなことはやめなさい。皮膚も肉も血管も、なんなら骨までも思いきってざっくりやって、勝負をかけてみたらどうなの? 痛みなんて一時の苦しみよ。子どものころカッターで指を切ったことがある。不器用な自分をあざ笑う、炎であぶられたような痛みだった。だがいまは意味がちがう。これからわたしがなそうとしているのは、生まれ出ずる――。
 「どうやった」
 うしろから声をかけられ佳那は目がさめた。笹島はマックの紙カップをすすっていた。
 「えぇ……まぁ……」佳那は寝起きのようなあいまいな返事をした。
 「会えたんか」笹島は取調官の口調になっていた。
 「……はい」佳那はいつの間にか笹島の視線をシャットアウトするようにトートバッグの開いた口をぎゅっと握りしめていた。しかしバッグのなかで、彫刻刀とICレコーダーがぶつかりあう小さな音がしたのを笹島は聞き漏らさなかった。
 「あんた、あかんよ。前田容子の言葉は麻薬とおんなじや。わしがよう知っとるんやから。彫刻刀、渡されたんちゃうか。ミイラとりがミイラになってどないすんねん」
 笹島に腕をつかまれ、佳那はためしたい気持ちを心からしめだした。なんだか目の前から札束が消えていくかのようだったが、泣く泣くバッグからねぐり堂印の彫刻刀を取りだした。
 「あのアマ、やっぱり懲りとらんな」笹島は吐き捨てた。「ふん捕まえたるで」
 「そんなに他人の人生を狂わせるんですか。むしろいい方向に導かれる人だって――」
 「欲ばりなんや、人間なんて。際限がなくなって、最後は欲にのみこまれてしまうねん」
 「でもそれって自己責任じゃないですか」佳那は自ら口にしていることに驚いた。ついさっきの幻覚のような興奮がまだ頭の片すみでとぐろを巻いているのだ。
 「わしはそうは思わん。他人を巻きこむ悲劇の源にならんともかぎらんやろ」
 「奈須原千種もそうなのかな」佳那はぽつりとつぶやいた。
 「やっぱり容子のところに来たんか」
 「はっきりとはいわなかったけど、彼女の写真を見せたら、あの人、へんなこといったんです」
 「へんなこと……?」
 「はい。必要なら体じゅうどこでも調整をほどこさないと……とかなんか」
 笹島は大きくため息をついた。「その人、いまどうしてるねん」
 「取材拒否状態です」
 「居場所はわかっとるんか」

 十一
 午後六時過ぎになって高田馬場のマンションに到着したとき、オーナーのコウさんは銭湯の番台にはいなかった。寺西美子の部屋がある五階の廊下をそわそわといったり来たりしているところだった。先ほど佳那が帰ったあと、どうにも五〇一号室の住人のことが気になってしかたがないのだという。手にはマスターキーを握りしめていた。
 雨あがりのいつも以上に蒸す真夏の夕暮れだった。コウさんの額からも汗が噴きだしている。
 「居留守みたいなんだよ。コツコツって音がときどきするしぃ。なにか作っているのかねぇ。元気ならいいんだけどさぁ。いっくら呼んでも返事がないんだよぉ」
 「小説を書くのに没頭しているんじゃないですか」佳那は声をひそめた。「ヘッドホンをしていたらわからないし」
 「せやけどな」笹島がちゅうちょなくいう。「前田容子に会ったあと、あんた、どんな気分やったか思いだしてみぃ。熱に浮かされたみたいにぼおっとしとったやん。なにをいわれたか知らんが、こっそりためそうなんて思うたんやろ。ここの人もおんなじやで」そこまでいうと笹島は岩のような拳で鉄のドアをたたき、大声で寺西美子の名を呼んだ。
 それでも返事は一向にない。笹島は有無を言わせずコウさんの手からマスターキーをもぎ取り、開錠した。そして丸いノブをゆっくりと回してドアを引き開けると、ところどころ錆びたチェーンロックがぴんと張った。
 外はまだ明るいが、ドアの隙間から垣間見える室内は薄暗い。遮光カーテンがひかれているようだ。短い廊下の先がキッチンになっている。佳那は顔をしかめた。妙なにおいがしたのだ。売れないころの林原ゆかりと飲み明かしたであろう小ぶりのダイニングテーブルには、食器やマグカップがのっている。食べ残しでもあるのだろうか。それが腐敗しはじめたかのような、むっとするにおいだった。
 金づちを打ちつけるような短い音が聞こえた。
 前よりも生々しく響く。室内からだ。
 笹島はチェーンクロックに手をかけ、鎖の具合をたしかめた。オーナーであるコウさんはうなり声をあげたが、刑事には通用しなかった。笹島は反動をつけて力いっぱいドアを引き開け、三度目で鎖を破壊した。
 「すんませんなぁ、寺西さん、乱暴なことして堪忍な。警察なんですわ」笹島は大きな体を慎重に室内に滑りこませた。それに佳那とコウさんがつづく。
 異様な蒸し暑さだった。
 エアコンがあるはずだが回っていない。
 廊下のすぐわきのドアが開いたままになっており、ユニットバスのトイレが見えた。笹島が明かりをつけたが、そこに汚物が飛び散っているわけではなかった。テーブルの食器もマグカップも空だった。台所に洗い物が残っているわけでもない。
 右手に半開きになったドアがあり、奥にがらんとした部屋が広がっていた。寺西美子は、林原ゆかりが使っていた居室に物を入れたりせず、そのままにしてあるようだった。
 「こっちやな」侵入者を拒むように閉ざされた反対側のドアに笹島が近づく。
 形ばかりノックをしてノブに手をかけたが、ロックされていた。
 「だれ……」
 ドアの向こうからかすかな声が聞こえた。
 それにはコウさんが答えた。「寺西さん、あら、よかったぁ。最近顔が見えないから心配しちゃってさぁ。どうしちゃったかと思ってぇ」
 「ご心配なく」ドアの真裏に近づいてきたらしく、さっきよりもはっきりとした声音だった。「ですからお引き取りください。いくらなんでも、おばさん、ひどいわ。入ってくるなんて」
 はっきりといわれ、コウさんは気分を害されたように佳那のことを上目づかいに見た。
 「警察なんですわ。すんませんなぁ」笹島はドアに顔をよせた。「せやけど、寝栗妖子、知っとるやろ。あの女になにかいわれたんやないか。あれは無責任な女や。うちらもマークしとるんよ。せやからやめとき。悪いこといわんから、妙なこと考えんほうがええよ」
 「ご心配いりませんから。元気に暮らしているし、お仕事もきちんとしていますから。そう、調子いいのよ。とても……」
 「すみません」笹島の隣に並び、佳那が呼びかける。「東邦新聞文化部の神保ともうします。奈須原千種さんとしてインタビューをおねがいしたく思っておりまして」
 沈黙ののち、美子が返事をする。「聞いてますよ、出版社の編集の方から。『顔』でしたっけ、その欄」
 「はい、そうです。最近のご活躍について、略歴と合わせて簡単に紹介させていただければ――」
 「簡単に……?」とげのある声で聞き返された。「人の人生なんて、そう簡単に話せるものじゃないわ。まだまだ小娘かもしれないけれど、それでも四十年近く生きてきたのだから。時間ばかりがむなしく過ぎていく気の遠くなるような日々だったのよ」
 「すみません」全身の毛穴から冷や汗が噴きだした。笹島もコウさんもだまったままだ。「できればお会いしてお話しいただければと思うのですが。奈須原さんのご活躍は『顔』にぴったりかと」
 「編集の方にも伝えたと思うけど、その欄は遠慮させてもらえないかな。なんていうか、迷惑なのよ」美子はぴしゃりといった。
 佳那は息継ぎが苦しくなってきた。こんなにも蒸し暑いのに体はいやな汗で冷えきっている。
 「新聞に出るのはやぶさかでないわ。ほかの新聞にもいろいろ出ているし。けど、そういうの、メールのやり取りですませられないかしら」
 「それはちょっと……それに写真が必要なんです」
 「写真なら送ってあるわ。ごらんになっていないのかしら」
 例の旅先で撮った記念写真のことだろう。
 「お会いして、これまでの苦労話をうかがいながらインタビューカットを撮影するわけにいきませんでしょうか。そしてできれば『顔』の欄で……」
 くぐもった忍び笑いが聞こえてきた。佳那は笹島と顔を見合わせた。刑事は目に困惑の色を浮かべている。
 「おかしいよ、あなた。ほんとにおっかしい。非常識にもほどがあるわ。住居侵入してきていう話じゃないでしょう、そんなこと。だいいちわたしがどれだけ苦労してきたかなんて、文章にしたって書ききれないくらいなのよ。それをインタビューで聞きだせると思って? いったいなにさまなの、あなた」
 「ですがそこをなんとかおねがいしたく……」
 「わたしね、過去はもういいの。いまの流れにのっていればそれでじゅうぶん。てゆうか、それを失いたくないのよ。だからほっといてくれないかな」
 「せやけどなぁ」立てこもり犯を説得するような同情的な口調で笹島が話しかけた。「寝栗妖子のいうてることまねすると、ろくなことあらへんで。わしはそういう人、何人も知っとるんや。ほんま悪いこといわんから――」
 「出てって!」
 耳に突き刺さってきた。佳那は思わずドアから体を離した。
 「あんたたちになにがわかるっていうの」落ち着きを取りもどし、美子がつづける。「毎日毎日、真夜中までパソコンに向かっても一行も書けないのよ。たばこばっかり吸って、のどがおなしくなってきて、声もまともに出なくなって。何度おしまいにしたいと思ったか知れないわ。それなのに神さまは意地悪をした。向かいのルームメイト、ゆかりのほうに味方したんだから。あの子にチャンスがめぐってきたあとはひどかった。書くどころじゃないわ。プロットを考えることすらできなくなったのよ。
 あの子がまともにデビューできるなんてうそにちがいない、あの子の思いこみにちがいないって、ずっと考えつづけて、それをたしかめようと何度も検索したりした。だけど悔しいけど、あの子のいってることは事実だった。事実ってものほど痛くて、突き刺さるものはないわ。一夜の夢、どこかでつまずけ、失敗しろ……いっしょに頑張ってきた親友なのに、そんなネガティブなことしか考えられなくなって、わたし、自分でも頭がおかしいと思うようになっていった。だけど不公平じゃない。ゆかりばっかりうまくいくなんて。あの子ね、前に一度、わたしのほうが女優になればいいのにいってくれたことがあるの。そのとき正直、転向しようかって考えたわ。だってね、はっきりいって、わたしのほうがきれいだもん。あんな田舎娘なんかより。
 知ってるかしら、あの子の実家、北陸だか中部地方だかどこかのさびれた町にあるメリヤス工場だったんですって。いまどきだれもはかないようなゴムひものブリーフとか作っていたんだとか。そんなんでやっていけるわけがないから、もうずいぶん前に廃業して父親はタクシー運転手。母親は町で一軒のビジネスホテルの掃除婦。しょうがないからあの子、高校卒業して上京してアルバイトをはじめたの。だけど工場でもお店でもいいからちゃんと就職すればいいのに、あの子、そうしなかった。やりたいことがあったんだって。女優よ、女優。ふん、身のほど知らずもいいところよ。だからそれから十年をむだについやした。それでにっちもさっちもいかなくなって『挑戦する相方求む!』なんてネットに書きこんだわけ。この家のことよ。わたしもセクハラとパワハラが横行するОL職場を辞めて、この先どうしようかって迷っていたころだったから、あっさり引っかかっちゃって。目標はちがうけど、たがいに切磋琢磨したらうまくいくんじゃないかって思いこんで、わたしもあの子をはげましたりしてきたの。いま思えばほんと、ばっかみたい。
 でもさ、女優に転向するわけにはいかなかった。わたし、昔っからかなり頑固者でね。それじゃ初志貫徹にならないし、そもそも隣の芝生は青く見えるものでしょ。進路変更した先で失敗したら目もあてられないじゃない。それってもしかすると祖父も父親も銀行員だったせいもあるかもしれない。田舎の危なっかしいメリヤス工場なんかには一円だって融資しない、計算高くて石橋をたたいて渡るタイプ。それでいて融通がきかないっていうか、旧家出身でおっとりしているだけでだまされてばっかりの母親の血も引いているからしょうがないのよ。それでね、あの子が女優で成功したのなら、わたしはやっぱり小説でなんとかしないといけないと思って対策を練ったの。とにかくわたし一人、置いてきぼりは絶対いやだったから。
 あの子がいったいなにをしたのか調べてみたのよ。
 手に包帯をぐるぐる巻きにしていたのが気になってね。それであの子がいないときに部屋に入って調べてみたの。そしたら机のひきだしにあったのよ。ハンカチにくるまれていたわ。『ねぐり堂』がなんなのかは、机に置きっぱなしにされた日記がわりのシステム手帳に書いてあった。妖子さんとの接触方法もね。だからわたしも運命を変えてみることにした。べつにいけないことじゃないでしょ。法律に違反しているわけでもないし、警察にとやかくいわれる筋合いはないと思うんだけどな」
 足音がした。
 かたずをのんで聞きいっていた佳那たちの前から、美子は離れていったようだった。佳那はたったいま聞いた話を反すうしながら、林原ゆかりから送られた美子の顔写真を思いだした。あんなに輝いて見えたのにこんな闇を抱えていたなんて。
 ふたたび金づちを打つ音がした。同時になにか硬いものがつぶれるような鈍い響きも伝わってきた。
 たまらず笹島がドアノブをつかむ。「寺西さん、開けてください! おねがいしますわ。わしにはようわかるんです。ほかのだれよりもようわかるんです。はっきりいいますが、これは警察の仕事とはちゃいます。もうこれ以上被害者を出しとうないんです。女房みたいな目にだれもあわせとうないんですわ。このままではあんた、破滅しますねん」
 笹島は両手でノブをつかんだまま、ドアに体あたりした。重苦しい響きが居室全体をゆさぶる。コウさんは口を開けたまま呆気にとられていた。
 ドアの木枠がミシミシといいはじめ、四度目にタックルした瞬間、オーナーが修理代を懸念せねばならない短くも致命的な音が響いた。
 闇が広がっていた。
 部屋の奥だけが薄ぼんやりと明るくなっている。佳那は鼻に手をあてた。腐敗臭と金臭さが混然一体となって漂っていた。
 「なんなのよ!!」
 唯一の光源は、ハードカバーや文庫本がうずたかく積みあげられた机に置かれたパソコンだった。画面までは見えないが執筆に取り組んでいたのだろう。それに向き合う座り心地のよさそうなデスクチェアに腰かけたまま、美子が振り向いた。影になって顔はよく見えない。
 「いったいなんの権利があるっていうの!! じゃましないで!!」
 じゃまするつもりはない。笹島のうしろからのぞきこみ、佳那は身動きできずにいた。取材したい気持ちはもううせている。たすけたいとも思わなかった。
 逃げだしたかった。
 笹島がポケットに手を突っこみ、つかみだしたマグライトで美子の顔を照らした。悲鳴と同時に美子は身をかがめた。が、もはや佳那の脳裏には焼きついてしまった。
 この先一生、消えることのないベストセラー作家の素顔が。
 「なんなのよ……」美子はそのままの姿勢ですすり泣いていた。
 机のうえではノートパソコンが煌々と輝いていた。見目麗しい女の顔を映しだしている。しかしひいでた額にも、すっきりとした頬にも、小ぶりの口もとにも、そしてもちろん愛らしく魅力的で男女問わずひきよせられる大きな目の周囲にも、ピンクのタッチペンで太線がひかれ、子どもの落書きのように塗りつぶされている部分まであった。佳那はフローリングの床に目をやった。転々と黒っぽい滴が飛び散っている。それがなんであるか容易に想像がついた。
 机上には洗面器が置かれている。包丁や鑿(ルビ、のみ)も。そしてしぶとく居座る親不知を割るときに歯科医が使う小型のハンマーもあった。そのわきに転がっていたのは鎮痛剤の紙箱だった。
 「女房とおんなじや……」笹島はひざの力が抜けたかのように佳那のほうによりかかってきた。
 美子はこちらに背を向け、ふたたびパソコンに覆いかぶさった。そのせいで部屋の薄暗さが増した。
 「もういいでしょ。ぞんぶんにわたしのこと、ばかにしたでしょ。こんなことでしか人生を切り開けないなさけない女なのよ。新聞記事なんてムリ。なんていう欄だっけ。写真なんてのせられるわけないよ。だからもうほっといて。帰ってちょうだい。だれにも迷惑かけていないんだし、わたしの密やかなお愉しみなの。これからもっともっと運気が増すんだから。夢が実現するのよ。それに小説家は顔じゃないでしょ」
 美子は紙箱から鎮痛剤を一粒取りだし、キャンディーのように口に放りこんだ。それをペットボトルの水で流しこみ、二、三度肩を揺すってから、鑿とハンマーを手に取った。
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