海の家 2

文字数 15,494文字

 十三
 「息子さんはいまもそのビデオを持っていました。見るに堪えないと思いましたが、わたしも内容を確認せざるをえなかった」
 「映画なのでしょう」エミはおぞましいものを遠ざけるようにエッセーの原稿を持田のほうに押しやった。
 持田はタブレット端末を取りだし、背面の脚を広げて画面を自分のほうに向けた。「信彦さんが撮ったのはまちがいないでしょう。そのビデオが、絹井野啓が生みだしたその後の作品の原点になっているような気がするのです」
 「高校生のときにそんなビデオを手に入れていたなんて、まったく知らなかったわ……でも本人から直接聞かないことには――」エミはもういちど息子に電話をかけた。
 「出ませんよ。電話が鳴っても聞こえていないでしょう」持田はタブレット画面をエミのほうに向けた。
 「ケイくん……」
 デスクトップパソコンの前に突っ伏した背中が、持田のタブレット画面いっぱいに映っていた。パソコンは電源が切れているのか、節電モードでブラックアウトしているのかわからないが、画面にはなにも映っていない。
 机の左手には石ころや草を並べた水槽があり、底のほうに水が張ってあった。水槽の上部には『与之助の部屋』と書かれた木札がかかっていた。その手前にスマホが横たわっている。着信ランプが点滅していた。静止画でなく動画だった。
 「リアルタイムで撮影しています」
 「あの子になにをしたの」エミは顔をゆがめた。
 持田はテーブルの包丁を自分でつかんだ。エミを襲うつもりはない。襲われるのをふせぐためだ。「電話をされても通じないことをお伝えしようと思ったまでです。彼のことならご心配なく。眠っているだけですから。彼が大好きなクスリで」
 エミは声を荒げた。「いったいなにを考えてるの。取材じゃないんでしょう」
 持田は包丁を持ったまま両手を太ももにのせた。「うかがいたいことがあるのです。その意味では取材です。個人的なものではありますが」持田はエッセーのつづきを母親に読むようにうながした。「彼は、おとうさま、つまりあなたのご主人に関して、ある疑問を感じていらっしゃるようです」

 十四
 海の家(7)
 人間に対するゆがんだ思いを表現する方法として、ぼくは演劇を見つけた。高校二年のときだった。以来、ぼくは自ら脚本を書き、演出をほどこすことをおぼえ、自分のなかに産み落とされた恐怖の卵を形に変えて発表しつづけた。
 それによりぼくはある種の救済を得たのだが、それとは逆に日に日に憔悴していったのは父だった。飲めない酒を飲むようになり、休日は昼間からぐでんぐでんに酔っ払った。そんな父を母は疎んじるような目で見たのだが、父は父で母とめったに口を聞かなくなった。
 ある日、ぼくは酔っ払う前の父に思いきって訊ねてみた。海の家とおじさんとあそこで見つけたビデオのことを。すると父は顔色を変え「ケイくんの将来のためなんだ」とだけいい、あとは口を閉ざしたままだった。
 そして大学四年の夏に書いたのが、下北沢の小さな小屋で上演された『沈黙』だった。お客さんは手売りの関係者ばかりで、五日間の上演予定が、結局三日間になり、もっとも多かった楽日でも、二十人ぐらいしか入らなかった。それでも期待したとおりの反応を得て、ぼくは満足した。客の全員がいやな気分になって帰ってくれたからだ。
 それは、とりかえしのつかぬ罪を犯した兄を殺害した弟の物語だった。弟は兄の異常性を見抜き、社会防衛の観点から兄に手をかけたのだが、真の理由はべつのところにあった。それを弟は長年、沈黙しつづけたのである。それでも最後に弟は、刑事の前で告白をはじめる。
 楽日に両親が見にきていた。二人で来るようチケットを送っていたのだ。父が海で亡くなったのはそれから半月後。酔って海に入るにはもってこいの真夏の宵の出来事だった。

 十五
 原稿から顔をあげたエミに持田はいった。「数ある絹井野作品のなかでも『沈黙』は、マイナー中のマイナー作品です。しかし大きなターニングポイントだったのはまちがいない。ご本人もそれによってなにかが吹っ切れたと話しています。たしかにその後、たとえホラーであってもエンタメ色が強くなり、楽しめる作品が増えてきた。いうなれば抜き差しならぬダークな部分が削ぎ落とされた。そんな感じですかね」
 エミは憤然としたまま押し黙っている。
 ひざの上で包丁の柄を握りしめたまま、持田はかまわずつづけた。「絹井野裕司さんは一九九五年七月三十一日の早朝、千葉県御宿町の沖合でしぼんだ浮き輪とともに漂っているところを漁船に発見されています。前日に夫婦で近くの海岸に遊びにきていた。ここに当時の記事があります」
 持田はビジネスバッグから記事のコピーを取りだした。東邦新聞千葉県版のベタ記事だった。
 「うちの会社でいえば、御宿町は茂原通信部の管内でして、当時は偶然にも同期の記者が赴任していました。いまはべつの部署なのですが、先日、話をしてみたら、とても几帳面な男でして、そのころの取材メモが残してあったのです。それをたしかめてもらったら、裕司さんが使っていた浮き輪の継ぎ目に針で開けたような穴が見つかっていたそうです。裕司さんは大量飲酒をしていたので、所轄署もその点は深く検証しなかった。ただ、取材メモには、夫婦がいた海岸が、離岸流のせいで遊泳禁止になっているため、海水浴客がはじめて来るような場所でない、というようなことが走り書きしてありました。二人が薄暗くなってから訪れているのも妙だった、とも」
 「妙なことなんかあるもんですか」がまんしきれずにエミが吐き捨てた。
 「では裕司さんは本当に酒に酔って溺れたのだと?」
 「そうよ。きまってるじゃない。あれだけ飲めば浮き輪をしていたって心配よ」
 「そうですか。しかし息子さんがいくら訊ねても、あなたはそういうことをいっさい話さなかったらしいですね。むしろ訊ねるとヒステリックに怒りだしたとか。まるでかつて結城環佳子のことを聞いたときのように。だからそのとき息子さんは、母親がなにか隠しているんじゃないかと疑ったそうです」
 「なんで隠しごとなんてするのかしら。わけがわからないわ。夫は事故だったの。息子にだって話したくない事実ってあるでしょう」
 「事実ですか……『沈黙』はいかがですか」
 母親は乱暴にいすから立ちあがり、食堂の片すみに置かれた工具類のほうへ近づきながらいった。「おぼえていないわ。いったいあの子がどれだけの脚本を書いていると思っていらっしゃるの。学生時代の作品でしょう。あれこれ試行錯誤していた時代のものよ。悪いけど、いくら親でもそこまでは――」エミはセメントを入れるバットの前にしゃがみこみ、こちらに背を向けた。
 「作品の台本はすべてお持ちですか」
 「もちろんよ」エミは背中で返事をした。
 「うそだ。先ほどこの部屋に通されるとき、廊下の本棚をのぞいてきたのです。台本は年代ごとに並べてあったので『沈黙』が抜けているのはすぐにわかりました。あなたはそれだけはそばに置きたくなかったのでしょう」
 エミは顔を横に向けていった。「あそこにぜんぶ並べてあるわけじゃないわ」
 「たしかにそうですね」持田は食堂の床と四方にあらためて目をやった。ブルーシートやビニールで覆われている意味がだんだんとわかってきた。「それとはべつにわたしが個人的に気になっているのは、紙飛行機のことなんです。じつはあの夏の日、わたしも見つけておりまして」
 「あの夏の日……?」
 「昭和五十九年の夏です。おなじ高校だったんですよ。結城環佳子さんと」

 十六
 海の家(8)
 ふしぎなこともあるものだ。
 あれから三十年近くたったある日、ぼくは一人の新聞記者と出会った。彼は会社の同僚から『沈黙』について聞かされ、そのなかのある場面にいたく興味を抱いた。紙飛行機が主人公にぶつかり、それに「たすけて」とつづられている場面だ。かつて自らも似た体験をしており、それと重ね合わせたところ、ぼくがあの町、それも浜ノ井地区の出身であることを知ったのだという。
 彼もあの雑木林にいたのだ。
 そこに紙飛行機が飛んできたのだが、彼はそれをいったんは手にしたものの、結局なかを開かずに捨ててしまっていた。ぼくの頭にぶつかったのとおなじスーパーのチラシを折ったものだった。
 ぼくはそれを開いていた。
 表は精肉セール、裏は白地で、血で書いたような赤い筋が見えた。かすれていたが、もしかしたら文字だったのかもしれない。しかしそれはバンクーバーへの留学の前日だったから、気にはなったものの結局、よくたしかめずにおいてしまった。
 以来、いっしょに与之助に餌をあたえながら、彼と紙飛行機の記憶をたどることになった。そして最終的に幻想的なあの家と雑木林について記録を残そうと、このエッセーを書くことになったのだ。

 十七
 「彼女の失踪は学校でも持ちきりでした。なにしろ美人で、アイドルのような存在でしたから。ですから高校時代、何度かあの雑木林におもむいて個人的に捜索したりもしました。もちろんあの家も気になりましたが、これといった手がかりは見つけられないまま、卒業してしまいました。でも彼女のことを忘れた日はなかった。その後、記者になって社会部にいたころ、舞台『沈黙』のある場面について耳にしたのです。それから息子さんについて調べはじめ、接近を図ろうとしました。それなら文化部に異動したほうがいいと思い、七年前に移ってきたのです」
 エミはしゃがんだままこちらを振り向き、怖々と訊ねた。「あなた、彼女とお付き合いされていたの……?」
 持田は天井を見つめた。そこにもビニールがはってあることには、そのとき気づいた。「深く愛し合っていました。ですから罪の意識があったのです」
 「罪の意識?」
 「人の罪の意識には三つあると思うのです。一つはずっと消えない罪の意識、もう一つは時とともに薄れゆく罪の意識、そしてはなから感じることのない罪の意識というものです。わたしの場合、その意識が消えることはなかった。わたしがあんなことをしなければ、彼女の人生が暗転することもなかったはずです。あの日、わたしたちは浦和から二人で海にやって来ていたのですが、ちょっとしたことからけんかになってしまい、わたしは彼女にひどいことをいってしまった。とても、とてもひどいことです。すると彼女はその場から走っていってしまった。それが彼女を見た最後です」

 十八
 海の家(9)
 ぼくと彼を結びつけるきっかけとなった『沈黙』は、つまるところ父である絹井野裕司の告白が下敷きになっている。
 大学三年の秋だった。
 深夜、アパートの呼び鈴が鳴り、ドアの向こうに父が立っていた。缶ビールと乾きものを詰めたコンビニの袋をさげていた。引っ越しのときだって手伝いにこなかったのにどういう風の吹きまわしだろう。そのころ付き合っていたカノジョがバイトのため帰ったあとだったからよかったが、エロビデオはみんなバレてしまった。
 父は酔っていた。飲んだ帰りだった。ふだんの陰気な感じでなく、せかせかとまくしたてるようにしゃべり、まるで別人だった。
 そしてひととおり息子の暮らしぶりを訊ねたのち、二本目の缶ビールを開けて話しはじめた。唐突に訪問したわけを。
 その日、職場で同僚の女性がひどく落ちこんでいたという。夫が山手線で痴漢をして現行犯逮捕されたのだ。検察事務官という職業柄、家族の素行は致命的だ。だが彼女がなにより心配していたのは、娘の結婚への影響だった。娘は一か月後に一流企業のエリート社員と結婚することになっていたのだ。同僚は、恥をしのんで職場の仲間にすべてを打ち明け、自分は離婚してもかまわないが、娘だけはきちんと嫁がせてやりたいし、これから先も幸せになってほしい。父親の件が人生の障害になるのはつらくてしかたないと、しまいには泣き崩れたという。
 「痴漢がなんだっていうんだよ」
 父の告白はそこからはじまった。罪の意識に耐えられなくなったのだ。
 信彦おじさんのことだった。
 一九八二年八月九日の昼下がり、海の家の裏手に広がる雑木林で、若い女の子が泣きながら嘔吐していた。ペットクリニックの仕事が休みだったおじさんがそれを見つけ、エアコンのきいた屋内に招きいれて介抱した。女の子は途方に暮れ、疲れきっているようすだった。おじさんは元気が出るように薬を飲ませ、そのまま眠らせた。持ち物から十七歳の結城環佳子であるとわかった。それから先、とてつもなく長い時間をかけておじさんは環佳子を介抱しつづけた。地下室は防音化がはかられて“スタジオ”となり、さらにおじさんは勤め先の獣医がしばしば行っていた処置も自らほどこした。
 二年後の八月十二日、ぼくがバンクーバーにいっている間におじさんの密やかな趣味は突如幕を閉じることになる。
 「隠しごとが明るみにでたんだ。でも問題はそこから先だ。苦しみの歳月が待っていた」
 そこでぼくは父に紙飛行機の話を伝えた。
 「はじめて聞く話だな。でもあの部屋には、汚れものを始末するためのチラシならいくらもあったし、天井の換気口の先は外とつながっていた。兄貴がいない間、結城さんは必死にたすけをもとめていたんだろう。でも兄貴はすでに一線を越えている。痴漢なんかとはわけがちがうんだ」それから父は自らの罪について語りはじめた。

 十九
 エミは両の拳を握りしめて立ちあがった。きわめて私的な事情を明かされた怒りに震えている。それでも冷静さをたもとうとつとめ、ブルーシートを踏みつけて持田の前で仁王立ちしながら、骨ばった肩を上下させて深呼吸をくりかえした。「一つ教えていただけるかしら。あなたと彼女のけんかってなんだったのかしら」
 持田はタブレットを操作した。「これを見ていただけますか。あなたに見てもらおうと、息子さんの“スタジオ”コレクションのなかからピックアップして編集してきました」動画がはじまり、持田は画面をエミのほうに向けた。
 薄暗い明かりのなか、汚れたコンクリートの床に麻袋をかぶされた全裸の女が横たわっている。
 「やめて、そんなの……」エミは息をのんだ。
 「いや、見てもらわないと。あなたよりわたしのほうがつらいのですから」
 まるで高熱にもだえるように女はわなわなと震えている。腹部が大きく膨らんでいる。そこで画面が切り替わり、カメラは女の股間を大映しにする。性器にモザイクはかかっていない。屋根裏を吹き抜ける北風のような、嗚咽にも似たうめき声がBGMとしてずっと聞こえている。やがて赤ん坊の頭がにゅるりと飛びだしてくる。赤い貫筒衣の撮影者がその子を取りあげる。
 画面が切り替わる。
 固定カメラが貫筒衣の人物をアップで映す。火がついたように泣く赤ん坊を抱え、小さな口にメスのようなものを差し入れている。赤ん坊は激しくむせ返り、血がレンズに飛び散る。
 映像は暗転する。
 「こんなのって……」
 「母子ともに声帯を除去されたのです。いまではマンションで犬を飼うときに、ごく一般的にほどこされる手術です」
 エミは悲鳴をこらえるように右手を拳のまま口に押しあてた。
 「あの家を整理されたとき、ちゃんと天井裏まで調べるべきでしたね。それと母親なら、思春期の息子さんの好奇心にもっと敏感になるべきでした」持田はタブレットを操作し、デスクに突っ伏したままの絹井野啓の背中をふたたび映しだした。「結城さんとわたしは結婚を誓いあっていました。もちろんたがいに大学を卒業して社会人になったのちにね。でも気持ちの昂ぶりはおさえられなかった。それであの日、妊娠を告げられたのです。二か月だというのです。頭が真っ白になりましたよ。責任はぼくにあるのですが、心底動転してしまって……ただひと言『堕ろしてよ』と言い放ってしまったのです。それが悲劇のはじまりでした」
 持田はひざの上から包丁をあげ、切っ先をエミのほうに向けた。
 「彼女の地獄はつづきました。それでも自分が囚われていることをなんとか外の世界に伝えようと、彼女は知恵をしぼり、やっとのことで名案を思いついた。限界が近づいて朦朧とする意識のなか、チラシに血文字を記して紙飛行機をつくり、あの換気口のわずかな隙間から投げてみたんです。息子さんもそうですが、ぼく自身、それを手に取っていながら気づかなかったなんて、悔やんでも悔やみきりません。目と鼻の先でたいせつな人が凌辱のかぎりをつくされていたのに、素通りしてしまったのですから。でも監禁から二年が過ぎたあの夏、チャンスが訪れた。」
 エミはうつむいたまま立ちつくしていた。室内は静まりかえり、閑静な高級住宅地であることもあってか外の音もいっさい聞こえない。
 ある日突然、新聞記者から電話が入った。少年時代に暮らした海辺の町での出来事をつづった息子のエッセーに関して話を聞きたいという。母親は急いで自らビニールシートを張りめぐらせた。まさかのときのために。その点はまちがいないだろう。持田はその状況を逆手に取ってやろうとも思った。なにしろ凶器はこっちが手にしているのだから。だが肝心なことを聞きださねばならない。
 「息子さんがバンクーバーに出発した四日後の八月十二日、あなたとご主人はふたたびあの家を訪ねていますね。あなたが当時はまっていたマルチ商法をお義母さんと信彦さんにすすめようと考えて。息子さんがいるときにはさすがに具体的な話ができなかったので、出直してきたのでしょう。あなたは、わざわざ休暇をつけさせたご主人が運転する車で、約束の午後一時より三十分も前に到着した。そのせいかインターホンを押してもだれも出ない。ご主人はちょうどカーラジオで高校野球を聞いていて、試合が佳境を迎えたところだった。試合のつづきをテレビで見たいご主人は、がまんできずに庭にまわり居間の無施錠の窓からなかに入って、まずはテレビをつけた。
 その瞬間、電子レンジやエアコンがついているわけでもないのに停電した。そこでご主人は地下室に下りていく階段のほうに向かった。ドアを開けたすぐのところにブレーカーがあるからです。そのころ、すでにドアには南京錠が取りつけられていましたが、その日はそれが外されていた。かわりに内側からロックされている。でもご主人には、それがコインで簡単に開けられることぐらい、勝手知ったる実家だからわかっている。ご主人は難なく錠を開けてブレーカーに手をのばした。そのとき目が合ってしまった。停電に驚き、階下の“スタジオ”から飛びだしてきた信彦さんと」
 「やめて!」エミは両の拳を耳に押しつけて叫んだ。「もういいから!」
 「だめだ。やめるわけにいかない」持田は火のついたマッチを腕に押しつけるように話をつづけた。「あのときの記憶はいまだってあなたのなかで生々しく疼いているはずだ。あなたにとっての原罪が生まれた瞬間なんですから。分厚い“スタジオ”の扉は半開きになったままで、信彦さんの背後からまるでスローモーションのように全裸の人間が転がりでてきた。体は赤黒く汚れていたが、まぎれもなく女だった。階段の上にいたご主人は本能的に背後のドアを閉めようとしたが、時すでに遅く、あなたが顔をのぞかせてしまっていた。そしてちょうど買い物からお義母さんが帰ってきた」
 エミが一歩前に踏みだしてきた。怒りに顔がゆがみ、左右の拳を振りあげて身構えている。いまにも飛びかかってきそうだった。持田は包丁を持つ手に力を入れた。ブルーシートとビニールがはってあるから床や壁に血が付着することはないが、こっちの服はどうしたらいい? 適当な着替えが見つかるといいのだが。頭の片すみでそんなことを考えながら、最後に言い放った。
 「あなたは裸の女を見ただけじゃない。階段を下りていき、そこで認めがたい真実、義理の兄による悪魔の所業をまのあたりにしたんだ!」
 エミは飛びかかってこなかった。かわりに二つの拳をすばやくこちらに向かって振り下ろした。持田はエミがセメントの粉末を握りしめているとは思いもよらなかった。

 二十
 海の家(0)
 狭いアパートで父はすべてを告白した。
 あの階段をゆっくりと下りていったとき、父はあらゆる神という神に祈った。自分がいま夢を見ていますように。すべてがうそでありますように……。だが“スタジオ”の扉の向こうに見えたのは、凄惨な現実だった。糞尿と消毒液の混じり合った臭気が漂う薄暗がりの奥にあったのは、数々の拷問器具とあの映画に出てきた素焼きの甕だった。そして打ちっぱなしのコンクリートの床には、白っぽい野良猫のような生きものが甲虫たちにたかられながら這っていた。
 あらゆる夢や希望、そしてなにより息子であるぼくの将来が音を立てて崩れゆくなか、父も母もそしておばあちゃんも言葉も発せなかった。そのなかでおじさんだけが、家畜のようなうめき声をあげる女を監獄に押しもどし、無表情のまま分厚い扉を閉じた。階段の上からは高校野球中継が聞こえていた。
 工具類が散乱した蒸し暑い廊下に突っ立ったままおじさんは、ぼそぼそと話しだした。
 「カノジョなんだ……結婚するつもりで……」
 だが抵抗する力さえ残っていない女はもちろん、体が腐りかけた瀕死の幼子の前では、なんの説明にもならなかった。
 とてつもなく長い時間、だれも口を開かなかった。
 重苦しい沈黙を破ったのは、一人の鬼女だった。
 「だめ……絶対にだめよ……いっちゃだめだからね」
 母の言葉がなにを意味するか、父は即座に察知した。
 警察だ。
 母はその後の人生を左右する複雑な計算を瞬間的になしとげた。以前からそうだったが、母には持って生まれた直観力がある。そしてたとえ他人に非難されようと一度決めたら絶対に曲げない。
 すべて葬れというのだ。
 「わたしたちも協力するわ。だからお義兄さん、ご自分でやるべきよ」
 おばあちゃんは廊下で泣き崩れた。それを無視して母はつづけた。
 「もしバレたら、お義兄さん、逮捕されるわ。それだけじゃすまないのはわかってますよね。新聞やテレビに出て、わたしたち家族までどれだけ害悪をこうむるか。考えただけでも恐ろしい。自分の弟がどんな仕事をしているかわかっているでしょう。それになにより、あの子の将来をどうしてくださるのかしら。あまりにもダメージが大きい。けど、さいわいにもいまはまだわたしたち以外だれも知らないんでしょう。だったら墓場まで秘密を持っていくしかないじゃない」
 父はもはや事の是非を考えられる状態ではなかった。でも心のどこかで妻をたのもしくも感じたという。そんな父をぼくは軽蔑しなかった。同情するほかなかった。買いこんできた缶ビールはすべて父が飲みほしてしまっていた。
 母は廊下の工具類をあさり、重量感のあるバールをおじさんに渡した。「獣医さんのところで、ペットを安楽死させることもあるんでしょ。でもそれに使うガスはここにはないみたいだから」
 扉の把手に手をかけたのは母だった。おじさんは逡巡した。しかし母にはあらがえなかった。母は何度も「後頭部」とくりかえした。
 「真実を知る者は家族以外にいなかった」泥酔した父がいった。「兄貴はふらふらとなかに入り、しばらく女と赤ん坊を見つめていた。しかし背後の恐ろしい視線に気圧され、というより、おまえの母親のなかにいる魔物に乗り移られて、バールを振り下ろした。腐ったカボチャがつぶれるみたいな音がしたよ。二回ね。それから三人で遺体を毛布にくるみ、地下室をきれいに掃除した。そのときにはおばあちゃんはどこかにいなくなっていたよ」
 いなくなったわけではない。おばあちゃんは階段をあがり、仏壇の前で必死に手を合わせていたのだ。心筋梗塞の発作が起きたのはそれから一時間後のことだった。
 親族しか知らぬ事件のあと、おじさんは精神が不安定になった。家で酒浸りになってわめき散らしたり、ガラスを割ったりしていたという。
 母の懸念は一点だった。
 自らの罪を悔いて自殺するのはかまわないが、警察に自首されたらたまらない。ぼくが知らぬ間に夫婦そろって何度かおじさんのもとを訪ね、ようすをたしかめていた。それで九月下旬のある日、おじさんは成城の家に連れてこられた。ぼくが学校に出かけた直後のことだった。その日、ぼくは学校から塾に直行し、夜九時過ぎまで授業を受けねばならなかった。帰宅したのは十時ごろだったが、おじさんが来ていたなんて気づきもしなかった。
 「おまえを守るため」父は両手を見つめながらつぶやいた。「あいつはそういってたよ。たしかにそうなんだ。兄貴がしでかしたのは生半可な罪じゃない。親としちゃ当然考えることさ。だがな、あいつはそれをおれにもとめてきた。血のつながった肉親を殺せってな。時間がたてば罪の意識は薄れる。だからお義兄さんはいずれおなじことをくりかえすはずだって」
 母は水を張った洗面器を用意していた。それをしこたま酒を飲んで食卓で眠ってしまったおじさんのわきに置いて何度も父をうながしたという。
 「おとうさんは兄より息子であるおまえを選んだんだ。それだけはわかってくれ、ケイくん」足の踏み場もないほど散らかり放題のアパートで、父は懺悔し、自ら兄の顔を洗面器に押しつけたことを認めた。「大きな魚が釣り針にかかったときみたいなぶるぶるする感触だった。それがいまだに手に残っている。一生消えないかな。消えちゃいけないのかな」
 事務所のデスクに向かい、与之助に見守られながら、ぼくはあの日、父が語った事件の顛末を書きつづっている。感情を抑制し、気持ちを昂ぶらせないでいるつもりだが、それだって限界がある。主人がいったいなにを怖い顔してキーボードをたたきつづけているのか、長年の連れ合いであるクサガメにも想像がつかないだろう。

 二十一
 焼けつく痛みに持田はいすから転げ落ちた。包丁は手放していた。それどころでない。セメントの微粒子が両目を襲い、涙がどっとあふれた。いくらかきむしっても視野を取りもどせない。灰色の幕が張ってしまったかのようだった。
 重いものを引きずる音がした。
 持田は激痛をこらえ、無理やり指で右のまぶたを開いた。
 エミがつるはしを持ちあげようとしていた。持田はそちらに向かってタックルした。ふたたび視野が失われたが、肩に母親の体を感じることができた。エミがもんどりうって倒れる音がする。持田は前に広がるブルーシートを手さぐりし、やっとのことでつるはしの柄をつかみ、引き寄せた。
 なおも目をかきむしり、涙で浮いたセメントをこそぎ落としてかろうじて左目だけ見えるようになった。一刻も早く目を洗わないといけなかったが、そんなひまはない。エミはこんどは工事用の大型ハンマーのほうへ這っていた。持田はその間に立ちはだかり、つるはしをかまえた。
 「話してもらわないといけないことがあるんです。どうか落ち着いてください」息があがり、肺が燃えそうだった。
 エミは警戒する獣のように壁のほうへ後ずさりしながら立ちあがった。凶器は手にしていないが、すきあらば爪を立ててきそうだった。
 持田はつるはしで威嚇しながらつづけた。「父親の告白を聞いた息子さんは例の『沈黙』を書きあげ、つぎの年の夏に上演した。それを見たあなたは、ご主人が漏らしたと勘づいた。ことによると第三者にも話してしまうかもしれない。事件からすでに十年が過ぎていましたが、あなたはそれが明るみに出るのを恐れ、半月もしないうちにご主人を御宿の海岸に連れていった」
 「冗談じゃないわ。わたしが夫を殺した証拠なんてどこにあるの。酒に酔って溺死したのよ。だいいちそんなビデオ、いくらだって作れるじゃない。お義兄さんはいまも沖縄にいるはずよ。たんに連絡を取っていないだけなんだから」
 右目は依然として見えない。持田はひりつく痛みをこらえて左目だけ開けていた。「遺体ですよ。彼女と子どもの。わたしはそれだけでいい。ご主人は息子さんに遺体を葬った場所まではいわなかった。それを教えていただきたいのです。いまさらあなたを告発しようなんて思っていませんから。わたしにとっては三十年以上捜しつづけてきた相手なのです。あなただって、この世でいちばん大切なものを奪われたら、どんな気持ちになるかわかりますよね……あなたにとって、いちばん大切な存在ってなんですか」
 エミの体がびくりと波打った。
 持田は躊躇しなかった。「息子さんはおばあちゃんのことを疑っています。あの夏の日のずっと以前から、長男の隠しごとに気づいていたんじゃないかって。だけど彼を失いたくない一心から、どうしても通報できなかったのではないかというのです。究極のエゴですよ。だけど平然とそれをやってのけていた」
 エミは暗い目で見つめながら、ゆっくりとかぶりを振った。
 持田はつるはしを握りなおし、エミを威嚇しながらテーブルに近づいた。「あなたもおなじですよね。すべては息子さんを守るためだったのでしょう。彼の存在こそが、いまなおあなたのすべてなんだ。あなた自身はからっぽなんですからね」タブレットに手をのばし、画面を操作してエミのほうに向ける。絹井野啓は依然として深くうなだれて机に突っ伏したままだった。カメラの位置からは、痩せた背中の首筋までしか見えない。「執筆に疲れて眠りこんでしまったわけではないんですよ。彼はクスリが手放せないんです。そこでわたしは、彼が使ういつものクスリにすこしだけ手をくわえました」持田は画面にちらっと目をやった。「効きすぎたかもしれないな」
 「なにをしたの!」たまらずエミが叫んだ。
 「このところお疲れのようでしたから、よく眠れるようにしただけです。もしかしたらずっとこのままかもしれない。いくら電話したって聞こえやしない」
 エミは持田を無視して食堂を出ていこうとした。それをつるはしで持田がとめる。「家にいってもむだですよ。べつの場所なんです」
 「なんてこと……どこなの、いったい!」血の気を失った顔でエミは持田につかみかかってきた。老人とは思えぬ力強さで、持田は後ずさりした。
 「かつて収入があったころに購入したワンルームマンションがあるんです。最近はそこを執筆用の事務所として使っている」
 「どこよ、どこなの!」エミは目の前で泣きわめいた。
 「落ち着いてください。息子さんはそう遠くないところにいますから。だけどただで教えるわけにはいかない」持田はつるはしを突きだし、エミを押しもどした。「先ほど罪の意識には三つあると話しましたよね。ずっと消えない罪の意識、時とともに薄れゆく罪の意識、そしてはなから感じることのない罪の意識があると。あなたの場合、その三番目なんだ。これまでずっと罪の意識を感じずに生きてきた。無理やり封印してきたわけでもなく、持って生まれたエゴイスティックな本能によって、ごく自然に罪の意識をうっちゃることができた。でももうそろそろ、それを感じていただかないと。いいですか、おかあさん、もし息子さんを救いたいなら、彼女とぼくの子どもをどこに葬ったか話してください」
 「ここよ」エミは泣きじゃくりながらブルーシートにひざから崩れ落ちた。「ここよ……」
 持田はつるはしを放りだして母親につかみかかった。いつの間にか両目とも見開き、見えるようになっている。「ここって……どういうことだ」
 エミは持田から逃れようともがきながら告げた。「テーブルと台所の間あたりかしら。あの家から運んできたのよ。母子ともにね。フローリングの下にコンクリートで固めてあるわ。土だけだとにおいがひどいから。エッセーにも書いてあったじゃない。園芸肥料の話。最初のうちはあれでカモフラージュしたんだけど、結局、コンクリで固めないとシャットアウトできなかった」
 「遺体といっしょに暮らしていたっていうのか」持田はエミの顔を力いっぱい引き寄せた。
 「そうよ。だってそれが一番安全じゃない。だれも近寄らせないことができる。気色悪いけど、そんなのはがまんすればいいし、そのうち慣れたわ。だけどあの子はべつ。あの子に不快な思いをさせるわけにいかない。だから主人があの子に埋め場所をいわなかったのはもっともなことよ」
 持田ははたと気づいた。信彦が殺害されたのはこの家だった。
 「まさか信彦さんも」
 エミは持田の腕を振りはらってすばやく後ずさりした。「コンクリートを砕いて、また埋めなおすのはひと苦労だったわ」
 持田は床のブルーシートと、壁と天井を覆うビニールに目をやった。「わたしも埋められる運命だったのかな。そのための準備なのでしょう、これは」
 「ご想像にまかせるわ。だけど母親であるわたしのところに面会にくるなんて、妙だと思ったのよ。だったらこっちだって、最悪の事態に備えるわ。できればそういうの、避けたかったんだけど。でも早まらなくてよかった。まさかあの子を人質に取っているなんて想像もしなかったから。とてもじゃないけど新聞記者のやることとは思えないわ」
 「そうでもしないとあなたはしゃべらない。確信がありましたからね」
 「わたしのことなんて、もうどうでもいいじゃない。さあ、こっちは話したのだから、あなたも教えなさいよ、あの子の居場所を。早く!」エミはふたたび飛びかかるような体勢を取り、野犬のように上下の歯をむきだしにした。
 そのときだった。
 テーブルのタブレット画面がぱっと明るくなった。
 画面の中央に映る絹井野啓の体の一部が、彼が向き合うパソコンのマウスに触れたらしい。やはり省電力モードでブラックアウトしていたのだ。
 息を吹き返したパソコン画面には、執筆中の原稿が表示されていた。白々とした明かりが隣にある空の水槽にも反射している。
 エミが短い悲鳴をあげた。
 原稿は血のようなもので汚れていた。原稿ではない。画面そのものだ。いままでわからなかったが、そこに赤いものがべっとりとついていたのだ。
 「ケイくん……!!」エミはテーブルに走り寄った。
 振動で足もとの黒いカメラバッグが倒れた。元の場所に赤黒い染みが広がっている。持田のチノパンに飛散した染みとおなじ色合いだった。エミの目がそこに釘づけになった。
 「息子さんは眠っているともうしましたよね」持田はカメラバッグに手をのばし、テーブルの上に置いた。カメラなんかよりずっと重々しい音が食堂に響いた。「そもそも彼にも責任の一端があるんですよ。だってそうでしょう。彼という存在がなければ、事態が発覚したとき、信彦さんは通報されて、彼女と子どもは生還できた。なにしろその時点では生きていたんですからね」
 「あなた、いったい……」
 上下の歯がぶつかりあうのが聞こえるほど震えながら、エミは声をしぼりだした。持田はそれを心地よく耳にしながら、ナイロン製のカメラバッグを四角く取り巻くジッパーに指をかけた。「だから彼にも償ってもらったのです。きっとそれはあなたにとって、自らの死よりもつらく苦しいものなのでしょうね」
 エミは絶叫した。
 隣家はもちろん、成城の街じゅうに響きわたったにちがいない。それに気を取られることなく、持田は部屋のすみからブルーシートを手ぎわよく外しはじめた。つるはしとハンマーを使っても容易ではなかろう。だがこっちは三十年以上待った。それぐらいなんだというのだ。持田はわきあがる興奮を抑えられなかった。
 ふたの開いたバッグからは、人頭に食らいつく一匹のクサガメがふしぎそうに首をもたげたところだった。

 [In Circle TALK 文化部]
 2018年8月31日 夜勤山内、大木
 ・出稿 TPP著作権関連まとめ 春野 3面落ち、3社トップ、12版~。
 ・本日午後、成城署で部長とともに持田と初めて接見。いつもどおりの穏やかな表情。理解を超えた闇。背負ってきた歳月の重み。その後、持田の懲戒解雇を伝えに被害者・絹井野啓の母親宅を訪問。部長は2度目。3人の遺体と30年以上暮らしつづけた化け物はふつうの年寄り。紅茶にスコーンでも供されるかと思ったが、さすがになにも出てこなかった。でも異様に薬指が長い。左手。魔女みたい。
 ・逮捕に失踪。どうなる文化部? ほかの部の連中は興味津々。そして冷ややか。他人の不幸は蜜の味。なんかいいことありませんか? ぱぁっと明るい話がいいね。CNNによると、ラスベガスのスロットマシーンで60億円当てた女がいるとのこと。早速ネットに拡散。日本人旅行者説あり。手に包帯巻きつけているらしい。目だつね。襲われるんじゃない?
 ・北側壁の下水管交換と修復作業が本日完了。編集管理によると、下水管には直径2センチの穴が開いており、そこから汚水(要するに糞尿)が漏れていたらしい。そこを中心に放射状に黒カビというか、謎の染みが下水管の表面に広がっていた。写真を見るかぎり、オニヒトデのよう。大木は人の手のひらにも見えるという。そういわれるとそうかもしれないが、指が足りない。薬指部分が欠けている。ただ、問題の穴は、薬指があったと仮定した付け根部分に開いている。「その指が穴をうがち、めりこんだままなのかも」と大木捜査官。今後の捜査に期待したいが、やつは世界遺産登録を目指す龍ヶ島のプレスツアーを目前にひかえ、いまはそれどころでないらしい。しかし沖ノ島につづけとばかりに、二匹目のドジョウを狙いたい地元の気持ちはわかるが、ユネスコだってそんなにお人好しじゃないだろう。それより、へんに騒ぎたてたりすると、なにか妙なことが起きるんじゃないか? 不穏というか不吉というか。邪悪なるもの、われわれのすぐ隣でひっそりと息を潜めているのだから。引き金は引かぬにこしたことはない。
 (了)
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