つきもの 1

文字数 13,603文字

 [In Circle TALK 文化部]
 2018年8月4日 夜勤山内、神保
 ・台風が北関東から東北南部を通過する影響で12版のみ工程繰り上げ90分。
 ・出稿とくになし。局総務より「顔」の発注執拗。神保が奈須原千種の線で調整中。成否不明。ほかの方も積極提案を。
 ・オフィス北側壁の染み広がる。黒カビも。編集管理が対応検討。コンクリートの腐食部分に、配管からの漏水が浸透か。会社と建物、どっちが先に崩壊?
 ・早期退職の宇佐美氏から電話あり。ペナン島で快適に暮らしているとのこと。うらやましい。

 一
 「なんとか直接会えないものかな。メール・インタビューなんて、ちょっと抵抗あるな」いつもの穏やか口調ながら山内は難色をしめした。
 効きの悪いエアコンのせいで、深夜二時になっても文化部のオフィスは蒸し風呂のようだった。それでも台風の吹き返しで気温も湿度もレッドゾーンに入った外よりはずっとましだ。いま窓を開けようものなら、真夜中の熱風に居残り部員たちが悲鳴をあげる。その端のデスク席のわきで、山内唯史と神保佳那はそろって腕組みして突っ立っていた。
 「ですよねぇ……」デスクの反応ははなからわかっていたが、佳那はとりあえず取材先からの申し出を口にしないわけにいかなかった。対面インタビューの固辞という出版社サイドからの理不尽な提案に憤っているのはデスクだけでない。自分がいちばん腹を立てている。だが担当編集者ばかりを責めるわけにもいかない。だからやっかいなのだ。
 「だいいち写真が撮れないんじゃ『顔』にならんよ。向こうで用意できる写真は一枚もないのかな」
 「旅行先で撮った記念写真みたいのならあるそうです」
 「葬式の遺影じゃないんだからな」
 「ですよね」それにしてもこの建物のエアコンはどうかしている。まちがって暖房が入っているみたいだった。佳那は放送担当時代に番宣部員からもらったドラマ宣伝用のうちわで猛然と顔のあたりをあおぎながら、ため息をついた。タンクトップのわきの下をぬるい汗が滴る。CMにだまされて買った新しい制汗スプレーなんて子どもだましでしかなかった。
 朝刊の「顔」欄は、二面に掲載される人物紹介欄だ。東邦新聞のまさに“顔”ともいうべき看板コーナーである。ところが最近、編集局内の各部からの提稿が鈍り、とくにお盆の時期の紙面が空いていた。空いているどころかガラガラで、そこで各部とも今週中に最低一本は提稿するようにとのお達しが、編集局のナンバー2である局総務から発せられたのだ。山内は「顔」の担当デスクである。そこで相談を持ちかけられたのが、たまたま夜勤当番を組むことになった佳那だったというわけだ。山内は、部内の引き継ぎ用インサークル・トークを使って、ほかの部員にも出稿要請を行ったが期待薄だ。文化部のメンツは佳那の双肩にかかっていた。
 三十四歳になる佳那は、学生時代は国立大の法学部で司法試験を目指していた。国際弁護士としての海外での華やかな活躍を夢見ていたのである。だが大学卒業後、二年間司法浪人をつづけたものの、試験の壁は厚かった。それで転向して記者として新聞社に入ったのだが、体力的にはもちろん精神的にも女にはきつい職場だった。社会部で活躍する同性も多いが、かつて自分が夢見た職業についた人々のそばにいるのは正直、気乗りしなかった。一方で子どものころから小説好きだった。ならばと文化部をめざし、放送担当をへて、いまは文芸を担当している。妥協に妥協を重ねた末の現実的な“希望”どおり。
 山内からはいきなりの発注だったが、佳那は今年に入って彗星のごとくあらわれた新進女性作家の奈須原千種はどうかと思いきって提案した。四作目となる最新作は七月の発売後、すぐにベストセラーとなり、たしかにそろそろ「顔」で紹介してもよさそうだと考えていたのだ。それに奈須原千種は写真をふくめ、これまでプロフィールがほとんど公表されておらず、読者の興味をかきたてる謎めいた存在でもあった。
 「担当編集者に聞いてみて驚きました。マスコミのインタビューに応じないばかりか、編集者も直接会ったことがないっていうんです。やりとりは電話とメールだけらしいです。でもとにかく作品の内容が面白いし――」
 「なぁ、神保」薄くなりかけた頭をかきながら山内が聞いてきた。「たしかにどれもおもしろいよ。でもなぁ、なんていうか、ちょっと新人ばなれしていないか」
 「え……?」
 「うがった見方だとは思うんだけどさ、どうも手練れ感があるんだよな」
 「それよ」オフィスの壁のほうで声があがった。美術担当の咲野朋夏だった。佳那より年上のベテランだ。社の主催事業である印象派美術展の特集面用の原稿に追われ、夜なべ仕事をつづけていたのだ。「わたしもそう思った。デビュー作なんてとくにそう。海外の作家みたいなタッチだったし」
 「だからすごい新人なんじゃないですか」
 「なんかあやしいよな」
 「たしかに」朋夏が近づいてきた。「あやしいわね」
 「あやしいって……?」
 「奈須原千種なんて新人作家、ほんとにいるのかな」山内が口走ると、朋夏もうなずいた。
 佳那はあわてた。「そりゃ、いるでしょう。いちおう本名まではわかってるんですよ。寺西美子。平凡な名前ですけど、いかにもいそうじゃないですか」
 山内はがたのきたオフィスチェアに背もたれを抱えるようにしてまたがり、佳那の顔を見あげた。この時間になると化粧崩れが隠せない。そんなに近くで見ないでほしかった。
 「そんなもん、信用できるかよ。本人に会えないんじゃどうしようもないだろう。バーチャル作家って可能性はどうなんだ」
 佳那は面食らった。「それって奈須原千種なんて存在しないってことですか」
 「ゴーストよ」朋夏がいう。「一流作家が遊び心でやってるのかも。じっさい過去にはそういうケースがいくつもあるんだし」美術担当ではあるが、さすがは先輩だ。いろんなことにくわしかった。
 「じゃあ、出版社もグルってことですか」
 「版元が知らないわけあるまい」山内はペットボトルのミネラルウォーターに手をのばした。「それが悪いわけじゃない。むしろもしそうなら、そのことをそろそろ明かしてもらって、晴れて『顔』に出てもらうってのはどうかな」
 「なるほど。だったらスクープにもなりますね」
 「そういうわけさ」

 二
 そうはいっても「あの作家さん、ゴースト入ってるんですか」なんて担当編集者に聞けるわけがない。奈須原千種が「顔」として仕立てあげられるか、佳那は台風一過の翌八月五日の午後から取材に入った。その夜には出稿可能か結論を出さねばならない。デスク陣のなかでも山内はもっとも信頼できる相手だ。結果を出したかった。
 まずは奈須原千種こと寺西美子に接触することが第一である。しかしやんわりと訊ねてみても、担当編集者は彼女がどこに住んでいるかけっして口を割らなかった。というか本当に知らないようすだった。ただ、美子とのメールのやり取りのなかで、去年の夏まで美子がある女優志望の女性といっしょに暮らしていたことまでは、編集者もつかんでいた。ネットを通じて知り合い、古いマンションをシェアしていたというのだ。
 さいわいにも編集者はその女性に関する情報を有していた。それは彼女のその後の活躍によるところが大きい。夢を実現させて女優としてはばたき、いくつかのヒット映画や大作舞台に出演を果たしていたからだ。佳那は編集者からそれらの作品のタイトルをメモし、あとはネットで出演者を検索した。いずれにも出演していたのは、今年三十九歳になった林原ゆかりだった。劇団に所属し、小劇場でその他大勢の役に長年甘んじてきたが、去年の八月、著名な演出家に見いだされて、一躍、脚光を浴びることになった。
 キャンバス地のトートバッグを華奢な肩にさげて佳那が渋谷の劇場に到着したのは、午後一時過ぎのことだった。一週間後の公演初日を前に熱の入った稽古が午前中から行われていたが、ちょうど一段落したところだった。演劇担当の先輩が林原ゆかりへの取材をアレンジしてくれていた。劇評を書くからと主催者である劇場のプロデューサーに無理をいって、ゆかりが楽屋にもどってくるタイミングで佳那が面会できる段取りになっていた。
 「前とは別人のようだ」
 舞台稽古のあと、楽屋口でスマホをいじりながらゆかりを待っていると、廊下の離れたところからつぶやき声が聞こえた。喫煙コーナーだった。
 「ほんと、ほんと。ゆかりさんが主役みたい」スタッフらしい黒のTシャツにジーンズ姿の若い女が、ベテランらしいスキンヘッドの男に小声で返事をしながら何度もうなずく。聞こえていないつもりだろうが、狭いコンクリートの廊下は声がよく響いた。
 「連ドラもきまって、いよいよスターの仲間入りか。ついこないだまでいっしょに冷や飯食ってたのにな」
 「ひがんじゃ、ダメですよ、シオさん。流れにのれたってことですよ。やっぱりこういうのってめぐり合わせですから。光り輝いてますよね」
 「そうなるようにライトあててんだけどな、こっちは」スキンヘッドのシオさんは照明係らしかった。「だけど舞台の前に出るようになったぶん、あれが目だつんだよな。けっこう気をつかって影になるようにしてんだけど」
 「わかります、わかります。シオさん、めっちゃ苦労してるなぁって」女は鼻からいきおいよく紫煙を吹きだした。
 「本人は隠してるみたいだけど、歌うたうときは、やっぱ感情入るから、自然と手も広がるだろ。ときどきもろ見えになっちまう。きょうも最後のほうは血がにじんでた。見てるこっちが冷や汗かかされるよ。初日までになんとかなるかな」
 「なかなか治りませんよね。けいこ始まったときからずっとだもん。どういうけがなんだろうな。相当深い傷なのかも」
 佳那はスマホをいじるふりをつづけながら耳をそばだてた。芸能班の同僚なら飛びつきそうな話だった。
 「ああいう手相なのかなって、最初は思ったんだよ」
 「そうそう、あたしも手相かと思った」
 「でもちがうよな。たぶんナイフかなにかでやったんじゃないか。ためらい傷にしちゃ、場所がちがうだろ。手のひらだからな」
 女がちらりと佳那のほうに目をやった。佳那は知らんぷりをして天気予報を映したままのスマホ画面に食い入った。
 女は声をひそめた。さすがに聞き取りづらくなり、佳那は顔の位置をすこし動かして集音マイクのように耳をそばだてた。
 「こないだ楽屋のドアの隙間から見えちゃったんですけど、左手の傷、触ってたんですよ」
 「触ってた?」
 「そう。薬でもつけてるのかと思ったんですが、そうじゃないみたいで」
 「なにしてたんだよ」
 「こうやって――」女の手が動くのが横目に見えた。佳那は思いきってそっちに目をあげた。女は開いた左手のうえに右手の親指と人さし指を置き、スマホの表示を拡大するためにピンチアウトするように二本の指先を広げた。「わざと傷口を開いているようにしか見えなかったんですよね」
 「ありえないだろ」灰がのびて落ちそうになっているたばこを持ったままスキンヘッドはうなった。「なんだそりゃ」
 「痛そうに顔しかめてたんですけど、そのあとの顔がもう怖くて。にたぁって笑うのが鏡に映ったんですよ。女優なんだから一刻も早く治すべきでしょう。それなのに」
 「ありえない」スキンヘッドのたばこからぼろりと灰が落下した。

 三
 「美子、元気なんですか」
 畳敷きの小さな楽屋で、逆に佳那のほうが訊ねられた。表面が黒光りする年季の入ったちゃぶ台にもたれかかり、林原ゆかりは生命力にあふれる長い黒髪をアップにまとめ、長いうなじを露出させてアンニュイな雰囲気を醸しだしていた。劇団のホームページに掲載されている写真は以前のものなのだろう。いまはアラフォー女性ならではの艶を放ち、とくに憂いをたたえたまなざしに、女でありながら佳那も心を奪われた。認めがたい感情だったが、魔力のようなものさえ感じられた。
 「活躍されていますからね。作品はお読みになりましたか」佳那は軽い気持ちで訊ねたが、ゆかりは驚いたようすだった。
 「ぜんぜん知らなかった。デビューしたの?」
 「奈須原千種というペンネームです。ごぞんじありませんでしたか」
 「いっしょにいたときは、本名で投稿していたんじゃなかったかしら。奈須原千種って人の本が最近よく紹介されているのは知ってましたけど、まさかそれが美子だったなんてぜんぜん知らなかった」ゆかりはちゃぶ台に身を乗りだし、右手でそれを何度もたたいた。左手のほうは台の下に隠れて見えない。
 「シェアハウスにいらっしゃったんですか」
 「シェアハウスなんて、そんな聞こえのいいものじゃないけど。古いマンションを見つけて、オーナーと交渉してあたしが同居人を募集したの。キッチンの両隣に六畳の洋室がちょうどいい具合に並ぶ間取りだったから。それで美子が応募してきて、たまたま同い年だったものだから意気投合して」ゆかりはスマホを取りだして操作を開始した。ちゃぶ台の下から出てきた左手でスマホをささえているが、手のひらまでは見えなかった。
 そのとき気づいた。ゆかりが背にする鏡台に黒いポーチがのっているのだが、そのわきに木の棒のようなものが転がっていた。棒の片方の先から金属片が数センチ突きでている。さっき廊下で耳にしたゆかりにまつわる奇妙な話が頭をよぎった。ゆかりはスマホに目を落としたままだ。佳那は鏡台のほうに目を凝らした。
 彫刻刀だった。
 「ほら、見てくれる、これ」ゆかりが顔をあげ、スマホを佳那の目の前に突きだした。写真だった。ゆかりと並んでショートカットの女性が写っている。それが寺西美子だという。「二、三年前に撮ったのかな。いっしょによく晩御飯作ってたの。美子のこと取材してるんでしょ。転送してあげるわ」そういいながらゆかりは、佳那が渡した名刺に印字されたアドレスを打ちこみだした。
 写真のなかのゆかりは、いまとはまるで別人だった。髪はぼさぼさで、暗い目をしており、無理に微笑もうとしているのか顔がひきつって見えた。それとくらべると美子は、アイドル歌手のような愛らしい顔だちで、なにより純真無垢な印象があった。万人に好かれるタイプだ。そしてすくなくともそれは、著名作家のだれかというわけでもなかった。だからゴーストライター説は払拭していいだろう。それはともかく、あきらかに美貌に差のある二人の写真をこうも堂々と見せられるのは、いまのゆかりの自信のあらわれなのだろう。
 「何年ぐらいいっしょにいらしたんですか」
 「あたしが二十八のときからだから、かれこれ十年ぐらいいっしょだったんじゃないかな。個人的にはいちばんつらい時期だったから、ともに辛酸をなめて臥薪嘗胆した戦友みたいなものね」
 「去年、林原さんが引っ越されたんですか」
 「うん、ちょっと仕事の関係でね。美子とはそのあと、何度か電話で話したけど、おたがい忙しくて、だんだん音信不通になっちゃった。でも忘れたりなんかしなかったわよ。デビューのこと知らなかったのは悪かったけど、あたしにとって恩人であるのはまちがいないんだから」そうつぶやくと林原ゆかりはくすんだ天井を見あげた。「そっかぁ、あれからもう一年かぁ……」

 四
 ゆかりが落ちこみ、美子がなだめる。
 それはシェアハウスの食卓でくりひろげられるいつもの光景だった。だがこの日、ゆかりはすでに缶チューハイを三本あけ、いつも以上に荒れていた。電気代を節約しようとこの夏は二人ともエアコンを使わないときめていた。かわりに開け放ったリビングの窓から、昼間の余韻を残す熱気が容赦なく押し入ってきていた。これではいくら扇風機をかけても蒸し風呂状態はいっこうに改善しない。だがそんなことが気にならないほど、今夜のゆかりはブルーだった。
 「あんたならへいき。大丈夫よ。つぎまた頑張ればいいのよ」ショートパンツからむきだしになった脚をいすの上で両手で抱え、この夜、七本目になるたばこを吸いながら、美子はゆかりにいった。
 「デジャビュよ……こういうの。オーディション落ちて、美子に慰められながら自棄酒飲んで。もうおしまいにしたいわ、こんなこと」
 「言わないの、そんなこと」咳こみながら美子はルームメイトをなだめた。
 「もう何回目よ。あと何回こんなことつづくんだろう」
 たばこを指にはさんだまま美子は自分の缶チューハイをつかみ、ぐびぐびと飲みほしてからいった。「ねえ『挑戦する相方求む!』ネットにそう書きこんだのだれだっけ? 苦しいのはゆかりだけじゃないんだから。落とされてる回数なら、わたしだって負けないわ」
 たまらずゆかりはたばこに手をのばし、火をつけた。「小説はいいのよ。年とってもつづけられるから。だけど女優はいましかないの。それにあたし……やっぱりきれいじゃないもん。向いてないのかも」
 「なにいってんのよ。ゆかりが女優にならなくてどうするのよ」
 ゆかりは美子を見つめた。「あんたのほうが向いてるよ。女の色気、あるもん」
 「よしてよ。あんたはもうすこしなんだって。あとは運の問題よ。ゆかりのこと、評価してくれる人だっているんだから」
 「でもさぁ……その運がこないのよ。お祓いとかしようかなって本気で考えちゃう。もうこうなったら」
 「よしなさいよ。気味悪い……でも占いとかならいいかもね。アドバイスぐらいにはなるかもよ」

 五
 「いまはまったく連絡を取っていないのですか」
 「あたしも忙しくなっちゃったから。ねぇ、どうするの。美子に会うんでしょ。だったらよろしく伝えといてくれるかしら」
 「会えればいいんですけどね」
 「会えないの? どうかしたのかしら」
 「美子さんはいまもおなじマンションにいるんですよね」
 ゆかりは首をひねった。「それはわからないわ。あの子だって本が売れたのなら引っ越しているかもしれないし。わからないのかしら、そのへんのところ」
 佳那は恐るおそる訊ねた。「シェアハウスってどこなんですか」
 ゆかりはスマホを左手で握りしめながら意味ありげに口元に笑みを浮かべた。「それはどうかぁ……。家の住所なんて個人情報の最たるものじゃない。会うならどこかレストランとかホテルのロビーとかにしたらどうかしら」
 「……ですよねぇ」
 「いいわ。こんどひまなときに連絡してみる。それであなたのことも話してみるから。取材を受ける気があるなら、あの子、まじめだから電話してくると思うわ」
 舞台初日が一週間後に迫っている。遅咲きながらスターへの道を歩みはじめた女優がひまになるときっていつだろう。佳那は今この場で粘ることに決めた。
 「都内……ですよね。だいたいこのあたり……ですか」
 「え、なにが」
 「その……シェアハウス……」
 ゆかりはいたずらっぽく微笑んだ。「高田馬場よ。学生アパートの並んでるところ。一階が銭湯になってる古いマンション。向かいが洋食屋さん。さがせばすぐわかるわよ」
 それ以上はむずかしそうだった。佳那はもう一つだけ気になっていることを訊ねた。「すみません、林原さんのことなんですが」
 「なにかしら」
 「先ほど舞台稽古をちらっと見させていただいたのですが、手をけがされているようですね」
 「え……あぁ……」巣穴にもどる臆病なウツボのようにゆかりの左手がスマホを握りしめたままちゃぶ台の下に消えた。「ちょっと切っちゃって。たいしたことないの。初日には治ってるから」突拍子もない質問にすくなからず動揺しているようだった。
 「料理かなにかされていたんですか」
 「ぜんぜん、ぜんぜん。そんなんじゃないから」それだけいうとゆかりは立ちあがった。楽屋からの辞去をうながしている。
 「すみません。余計な心配をしてしまいまして」
 それにはもはやなにも答えずにゆかりは楽屋のドアに近づいた。
 佳那は無人になった鏡台の前をもう一度食い入るように見た。手をのばしたかったが、さすがにそこまではできない。それでもさっきよりもよく見えた。
 彫刻刀の先端に赤い染みがついていた。
 たぶんナイフかなにかで――。
 照明係のシオさんの言葉が頭で反響した。
 「ごめんなさいね、いまから打ち合わせがあるのよ。ほんと、演出家ってうるさくてしょうがない」ゆかりはドアを自分で開き、廊下のようすをうかがっていた。「きょうの話って記事になるのかしら。ちゃんと宣伝しといてね。えぇと、お名前は……」
 「神保です。東邦の神保です」あらためてそう告げてから佳那も立ちあがった。その瞬間、佳那の疑問に鏡が答えてくれた。見る角度が変わったことで、彫刻刀の柄の部分が写り、そこに押された焼き印が読めたのだ。追いだされるように楽屋をあとにしてから、佳那は記憶をたどり、たったいま鏡に写った文字を頭のなかで反転させた。
 ねぐり堂――。

 六
 林原ゆかりは、あの彫刻刀で自らの左手を傷つけていたのだろうか。そしてそれは女優としての道が開けたこととかかわっているのだろうか。高田馬場へ向かうタクシーのなかで佳那はずっと考えていた。
 向かいに洋食屋のある銭湯はすぐに見つかった。たしかに外見はマンションだが、築三十年近かった。銭湯の入り口のわきにエントランスがあるが、オートロック錠はついてない。くすんだステンレスのポストの群れからは、のみこめなかった宅配ピザや学生向けローンのチラシがこれでもかと顔をのぞかせていた。
 午後二時前のことだった。入道雲がわきあがり、西の空は黒ずみはじめていた。佳那は折り畳み傘を持ってきていなかった。台風がいったばかりだというのに。これで猛暑をあざ笑うような冷風が急に吹きはじめたらおしまいだ。とっとと仕事をしないとずぶ濡れになりそうだった。
 番台に座っていた腰の曲がったおばあさんが、マンションのオーナー兼管理人だった。佳那が名刺を差しだすと、番台からわざわざ下りてきて「コウ企画代表取締役 高槻コウ」と和紙に印刷した名刺をうやうやしく両手で渡してくれた。
 コウさんは林原ゆかりのことは知っていたし、去年まで五〇一号室を貸していたことはおぼえていた。寺西美子はいまもそこに住んでいるという。ただ、彼女も奈須原千種が美子であるとは知らないようだった。
 「寺西さん、最近見ないねぇ」古めかしいエレベーターの前に立ちながらコウさんがいう。親切にも部屋まで案内してくれた。「前は銭湯にもよく来てくれたんだけどね。節約してるのかな」
 各フロアに三室が並び、五階はいまは美子のほか、学生が入居しているという。「空き部屋もけっこうあってねぇ。大学生も最近じゃ、新築のきれいなところばっかり入ろうとするんだよ。うちなんか商売あがったりさ。だから寺西さんみたいにずっといてくれる人は貴重だねぇ。礼儀ただしいし、かわいらしいし。あれで独身なんだから、もったいないよぉ」
 五階にあがってみてわかったが、マンションというより昔の団地のようだった。無骨な鉄扉の上には「林原・寺西」との手書きの表札がまだ掲示されていた。傘が二本、台所らしき窓の外に組まれた防犯柵にかけてある。埃まみれで最近使われたようすがない。
 佳那より先にコウさんがインターホンを押した。
 返事はない。三回おなじことをくりかえしたが、不在のようだった。
 「出かけているのかもしれませんね」
 「作家になったのならそうかもしれないけど、どうかねぇ。あたしゃ、だてに番台に座ってるんじゃないんだよ。うちのマンションの人の出入りならだいたいわかるさ。寺西さんが出かけるのなんて、ここんとこ見てないからねぇ。なかにいるんじゃないのかい」
 佳那は声をひそめた「執筆に集中してるのかな」
 「そんなんならいいけど」コウさんは咳払いしてからいきなりダミ声を張りあげた。「寺西さぁぁぁん! お客さぁぁぁん!」それをインターホン同様、三回くりかえしたところで力つき、その場にへたりこんでしまった。
 「だいじょうぶですか」
 「まいったねぇ、この年じゃ大声出すのもひと苦労だよ。でも心配だねぇ。なかで死んじゃってるとかじゃないよねぇ」
 「怖いこといわないでくださいよ。やっぱり外出されてるんですよ」
 そのとき壁に細釘を打ちつけているような音が二、三度聞こえた。隣戸に迷惑をかけまいとためらいながら作業しているようだ。寺西美子の部屋のなかからだった。たまらず佳那はもう一度インターホンを押した。
 返事はない。
 「居留守かもしれないよぉ。それもまたいやだねぇ。心の病とかだとかわいそうだろう」
 一階のエントランスに下りてから佳那が伝えた。「あとでもう一度来てみます。こんどは一人で上がれますから」
 「ほんとにきれいでかわいらしい子なんだよぉ」コウさんは五階を見あげながらいった。「大きな声じゃいえないけど、ゆかりさんなんかよりずっと美人。あの人より女優さん向きよ。小説書いてるとは聞いていたけど、ぜんぜん芽が出なかったでしょう。だからそんな辛気臭いことなんてとっとと見切りつけて、女優さんになればいいって思っていたのよ」
 「でもいまじゃベストセラー作家になったわけですから」
 「地道な努力ってたいせつなんだねぇ」コウさんは感心してつぶやいたが、やはり顔色は曇ったままだった。「あんまり根つめてがんばるのもよくないよねぇ。せめて銭湯でも遊びにきてくれればいいのにぃ。家にこもってるとなにかいいことあるのかね。験かつぎとか」
 「験かつぎ……ですか」
 「宝くじ。あたしゃ、買う場所をいつも変えてるんだよ。なんとなくピンとくる店ってあるのさ。前にそれで十万円当たったことがあってね。それ以来そうするようにしてるのさ。つきっていうのかねぇ。あんたもあるだろ、そういうの」
 「なるほど」佳那は大きくうなずいてみせた。
 コウさんはしわだらけの顔をほころばせた。
 帰り道、佳那は反すうするようにして林原ゆかりの躍進を思いだしていた。左手のけがと彫刻刀。あれはもしかすると幸運の印にかかわるものだったのだろうか。
 信号で待っているとき、ふと角の店に目がいった。いかにも学生を狙った、タトゥーの店だった。
 あれはタトゥーだったのだろうか。だが手のひらにそんなものをほどこすなんてあるのかな。それにもしそうなら他人に彫ってもらうのがふつうじゃないか。その道具が手元にあるというのも妙だった。
 「ジンちゃん」
 いきなりうしろから声をかけられ、佳那ははっとした。白髪頭の男が立っていた。
 「どうしたの、こんなところで。取材?」
 持田晋哉だった。文化部の超ベテラン記者だ。デスクの一歩手前で、長らく放送キャップをつとめている。現場記者に執着し、デスク昇格のラブコールを断りつづけているとも聞いていた。
 「お昼、食べた?」

 七
 持田は、エッセーを依頼する脚本家に面会した帰りだった。二人で学生向けの食堂に入った。ポークジンジャー六百円。良心的な価格に食べる前から佳那はうれしい気分になった。それに持田にならいまの苦境を愚痴ってもよさそうだった。
 「難航してるんですよ『顔』が」
 それだけで持田は察してくれた。「あんまり無理しないでいいんじゃないの。総務がいってきた例の夏枯れ対策でしょ。ほかの部も出してくるよ。それに奈須原千種って取材受けないんじゃないの」
 「そうなんですよ」
 「ぼくなら手を引くけどな」
 いつもながらのかぼそい声で持田はいった。長身ながら鶏がらのように痩せている。それでも目だけは少年のようにいつだってきらきらと輝いていた。人を安心させるまなざしだ。いくつもの特ダネを引っぱってきたのも、その瞳の輝きがあるからだろう。佳那は勝手にそう思い、あこがれてもいた。
 「取材すべき相手ならほかにもいくらもいる」
 「ですよね」ポークジンジャーは値段以上の味とボリュームだった。さすがは学生街だ。それを頬張りながら佳那は、おなじものをじっくりと味わうように食べている先輩に打ち明けた。「だけど気になることもあるんです。奈須原千種の素性を調べようと思ってシェアハウスのルームメイトにあたったんですが、その人はその人で気味が悪くて」
 持田は店内に目を走らせた。ピークは過ぎたが、まだちらほらと学生たちが洋食メニューに舌鼓を打っている。声をさらにひそめて持田は聞いてきた。「気味が悪いって?」
 佳那は、林原ゆかりの手のひらの傷と彫刻刀について話した。タトゥーかと思ったということも。
 「ねぐり堂ねぇ」持田はライスを半分残し、お冷やをあおった。「聞いたことないな。彫刻刀のメーカーかな」
 「さっきネットで調べたんですけど、なかなかヒットしなくて」そういいながら佳那はスマホでふたたび検索をはじめた。
 「タトゥーの店なのかな」持田も自分のスマホをいじりだした。「ちがうね。出てこない」
 「彫刻刀の刃を専門につくる刃物師とかかもしれない。いずれにしろ林原ゆかりは手の傷をすごくだいじにしているみたいだったんです。幸運のお守りみたいに」
 二人は定食にセットでついているコーヒーをすすりながら検索に没頭した。いつしかほかの学生客はいなくなり、カウンターの向こうで店主らしき女性がぼんやりとテレビを見はじめた。
 「あったぞ。これじゃないか」持田がスマホを猛然と操作しだした。「占い師だ」
 「占い師?」
 「舞台のスタッフには手相のようにも見えたんだろ。手の傷が」
 「みたいなことをいってましたけど」
 「だから『ねぐり堂』と『手相』で検索したら一件だけ引っかかったんだ。ほら、これ」持田はスマホ画面を佳那の目の前に差しだした。
 それは手相占いを受けた人のブログだった。六年前の十二月の記述だった。プロフィールを見るかぎり四十八歳の男性らしい。

 彼女のこと 2010年12月20日
 「ねぐり堂」の話は知人に聞いていたので、思いきって受けてみることにしたのです。いまのままではぼくは、家族にも逃げられたただの借金まみれの負け犬ですから。
 セッションはわずか十分ほど。彼女はぼくの両手を握りしめ、じっと手相を鑑定しはじめました。それから彫刻刀を渡してくれました。あとは自分でやらないといけないというのです。
 結果を考えれば、寝栗妖子を名乗るあの女性に感謝しないといけません。ただ、禁を破ってこうして記してしまった以上、なにが起こるか想像するだけで恐ろしいのです。だけど毎日募るこの胸のざわつきにどうにも耐えられなくなっているのも事実です。放っておけばいいのですが、頭の片すみでずっととぐろを巻いているのです……。

 彼のブログをたどってみても「ねぐり堂」に関する記述はほかになかった。ブログに対する書きこみもない。なによりそれ以降、ブログは更新されていなかった。
 さらにスマホを操作しながら持田がいう。「すくなくとも六年前に、寝栗妖子という手相鑑定の占い師がいて、それが『ねぐり堂』として営業していたってことなんじゃないか。林原ゆかりはその利用者だったのかもしれない」
 「六年前ですよ。検索でほかにヒットしないってことは廃業したんじゃないですか」
 「林原ゆかりは『ねぐり堂』の焼き印のある彫刻刀を持っていたんだろう。それでじっさいに幸運をつかんだ」
 「鑑定してもらったってことですかね。それで大当たりした」
 「当たるっていうか、なにかを見つけだしてくれるんじゃないか。その人の潜在的な能力とか」
 「彫刻刀が気になりますね」
 「そのための道具なんじゃないか」
 「潜在的な能力を発掘するための? 遺跡を掘る感じですかね」
 「てゆうか……手相って変わるっていうだろ」
 「え?」
 「気がつかないかもしれないが、子どものころの手相と大人になってからの手相って、微妙にちがっているんだ。二十代と四十代、五十代でもどんどん変化していく。まぁ、手相なんて、いってみれば“手のしわ”だからな。老化の一過程かもしれないけど」
 「まさかそれを自分で……?」
 「ピアスの穴あけるみたいなものかな」持田は両手を頭のうしろで組んでのびをした。
 佳那は冷たくなったコーヒーを飲みほした。「そんなに効果があるならもっと有名になってもいいのに。書きこみもぜんぜんないし」
 「口外無用みたいにいわれてるんじゃないか。この人も『禁を破って』って書いてるし」
 「どういうことですかね」
 「賞賛と恐怖。表裏一体なんじゃないか。だから六年前のブログしかなくても『ねぐり堂』が廃業したとはいいきれないんじゃないか」
 弁護士になろうと寝食を惜しんで努力していた学生時代の自分を佳那は思いだしていた。「そんなに運が開けるのなら、みんな殺到する。それを避けるためにも拡散させないのがルールなのかな」
 「林原ゆかりと奈須原千種って共通点があるよな」
 「おなじシェアハウスで、アラフォーで……」
 「どっちも崖っぷち、どん底だった。それで――」
 そのとき持田の携帯が鳴った。
 「だれだろう」登録されていない番号のようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み