触媒 2

文字数 14,563文字

 七
 薄暗く人気のない一階ロビーに下り、施錠された玄関扉の向こうに広がるウォーターフロント再開発地区の暮れなずむようすをぼんやりと久美はながめた。夕方再会したときからもう何か月もたってしまったようだった。取材上のトラブルとしては比較的小さなものだ。しかし個人的にはずしりときた。宣伝会社のちゃらけた若僧になれなれしい態度を取られるほうが、よっぽど容易に受け流せた。
 中学時代の谷村久美はこんなんじゃなかった。
 彼女は運命について口にした。だったらここで二人が再会することも運命だったのだろうか。
 「たばこ、外で吸えますよ」うしろから声をかけられた。金髪、ショートカットの兼子あゆみだ。「館内全面禁煙なもんでして、いちいち抜けだしてここまで来ないといけないんです」
 「いえ、わたし、ここで時間つぶしてるだけですから」
 広報担当者の案内を待っているのだとあゆみは察し、小さく何度かうなずいた。「それじゃ、ごゆっくり。コーヒーとかの自販機なら廊下の先にありますから。甘いのばっかりですけど」
 「ちょっといいですか」朋夏は、玄関扉を開錠して外に出たあゆみのあとに追いすがるようにしてつづいた。
 あゆみはすでにスリムなたばこに火をつけていた。「はい?」口の端でくわえている姿がさまになっている。朋夏には――おそらくは久美にも――けっしてできないポーズだ。作業着でなく革ジャンをはおれば、アン・レノックスか髪を短くしたクリッシー・ハインドといってもとおりそうだった。
 「この工場なんですが、女性の方ってどれくらい働いていらっしゃるんですか」
 「あら、そういうの、谷村さんから聞いていません?」あゆみは正面にいる朋夏に気をつかって首を九十度曲げて煙を真横に吐きだした。その姿は夕暮れの草原でたたずむダチョウを思いださせた。
 「聞きもらしちゃって」
 「あたしと谷村さんだけですよ。でもあの人は事務だし、現場の仕事はいやがってるみたいだから。じっさい現場に出てるのはあたしだけかな。えぇと――」
 「咲野です。東邦新聞の」
 「咲野さんって、谷村さんのお友だちなんですよね」
 「ごぞんじでしたか」
 「さっきも仲がよさそうだったし、森川くんが話していたんです『クミちゃんの親友なんだ』って」
 親友……いまもそうなのだろうか。胸が疼き、朋夏はあわてて話を変えた。「兼子さんは何年目ですか」
 「あたし、転職組ですから。前は普通の会社で事務やってました。でもお給料イマイチだったから辞めちゃった。清掃工場は三年目。ここには去年配属になったんです。人が嫌がる仕事だからわりとお金にはなりますよ。それにほら、あたし、体力はあるほうだし」
 「だけど男職場だからたいへんですよね」訊ねながら朋夏は館内にちらりと目をやった。久美が下りてきたらいい顔はしないだろう。余計なことを聞きまわっていると思われる。朋夏は立つ位置を微妙に変え、館内からの死角に入った。「宿直なんて、女性にはきつくないですか」
 「そんなことないですよ。スケベ親父さえいなけりゃ、いくらでもこなせますよ。手当もいいし、いまどき夜勤をいやがる女なんてダメでしょ」あゆみは豪快に笑った。不倫相手らしき男の前でマグカップを握りしめながらつらそうにしていたのとおなじ女性には見えなかった。「最近は男の子のほうが体力ないんじゃないかって思うこともありますよ」
 「スケベ親父はたくさんいるんですか」
 朋夏は探りを入れたが、さらりとはぐらかされた。「男なんてみんなそうでしょ。だけどあたしなんて、ただの生ごみまみれのくっさいおばさんですよ」
 「そんなことないですよ。まだお若いし、美人じゃないですか。それにここ、思ったほどにおわないですよね」
 「肝心なところは完全密閉されてますからね」
 「収集したごみをためておくところですか」
 「ごみバンカ。いちどあそこに足を踏みいれたら、防臭服を着ていてもたちまち髪の毛の間にまでにおいがしみついて、シャンプーしても二、三日は取れない。なにしろ大昔に投入した生ごみとかが底にたまってヘドロになってるんですよ。想像するだけでぞっとするでしょう」あゆみは朋夏をおどかすように説明した。「上からどんどん入れて、その上の部分だけをさらって焼却炉に入れて、そこにまたごみをかぶせていく。処理の仕組みとして、バケットが一度つかみそこねたごみは、どんどん表面から沈んでいくことになっている」
 「人が立ち入ることはないんですか」
 「基本的にはだれも入らないですよ。だってなにが入ってるかわからないごみ箱にわざわざ手を突っこむ人なんていないでしょう。それとおんなじ。ばかでかいごみ箱なんですよ。ごくまれに収集車からごみを落としているときに、作業員が転落するケースが報告されてるけど、あとは聞いたことないなぁ。もちろん上のほうにあるメンテナンス用の回廊はべつですよ。あのあたりはものすごい強力な脱臭装置がついてるから、かろうじて人間が呼吸できる空間になっている。そっちでは毎晩、クレーンとかのメンテナンスやってますよ。今夜は五人で宿直組んでいて、森川くんがメンテやることになってます。あの子のレリーフの取材なんですよね、スラグを使った」
 「そうです。ただ――」朋夏は思いきって訊ねてみた。「谷村さん……あえて久美って言っちゃおうかな、彼女、区役所から出向なんですよね。こちらではどんなようすなんですか」
 あゆみは困ったような顔をした。「どんなようすって……?」
 「つまり……これは久美にはないしょですよ。みなさんとはうまくやっているのかしらって、ちょっと心配になりまして。中学卒業までずっといっしょで、明るいしっかりした子だと思っていたのですが」
 「さぁ……あんまりこみいった話とかしませんし、あの人はめったに現場に出てこないですからねぇ。もうすこし手伝ってくれてもよさそうなものだけど」
 あゆみははぐらかしたつもりのようだったが、朋夏は疑問を正面からぶつけてみた。「班長の中田さんと折り合いが悪いとか」
 「なんだ、聞いてるんだ」あゆみは肩をすくめ、二本目のたばこに火をつけた。「スケベ親父の代表選手ですよ、あの男。こんなこと新聞に書かないでね。あたしがまずいことになるから」
 「もちろんです」
 あゆみはあたりを気にして玄関を離れ、駐車場の端に朋夏を連れていった。
 「あの男、見た目は紳士然としてるけど、へいきでおしりとか胸とか触ってくる。それで一度、あたしがきつく文句言ったら、矛先が谷村さんに向いちゃって。先月なんて、日中無人になるクレーン操作室にわざと谷村さんを呼びだしたんですよ。どうでもいい用件で。ふつうは逆ですよ。管理事務室に班長が出頭すべきなのに」
 なるほどそれで久美が中田を遠ざけているというのも納得がいく。だが先月の一件には余談があった。森川精一にまつわる話だった。
 「タイミングよくとんでもない事件がバンカで起きたんで、谷村さん、たすかったんですよ」深々と吸いこんだ煙を頭上に機関車のように吐きだしてからあゆみがつけくわえる。「いまにして思えば、谷村さんのことを慕っていた森川くんがたすけたといえるかもしれないわ」
 「どういうことですか」
 「彼、ごみバンカのメンテナンス回廊にいたんですけど、そこからドボンしちゃったの」
 「ドボン……?」
 「バンカにダイビングしたんですよ。信じられます? 自殺行為ですよ。といってもふかふかだから、転落して死ぬことなんてないですけどね。そのせいで中田さんはクレーンの緊急停止ボタンを押さざるをえなかった。そのすきに谷村さんは操作室を抜けだせたし、中田さんはバンカに下りていかざるをえなかった」
 「そんなことがあったんですか。けど、それほどの話なら工場のほかの人もみんな知っているんじゃないですか」
 「公然の秘密ですよ。森川くんは『神さまが空を見あげて怒ったから、話を聞きにいった』とかなんとか、わけのわからないことをいってましたよ」
 神さま。
 彼のレリーフに描かれていたあのパンツをはいた仏像みたいなやつのことだろうか。久美の態度が急変したきっかけになった作品だ。
 「森川くんは足を滑らせて転落したわけじゃなかった。わざとダイビングしたの。だから本来なら重大な就業規則違反として都にも報告しなきゃいけないんですけど、あまり騒ぐと中田さんが操作室でなにをしていたのかって話になってしまう。それであの男が、過失による転落事案にしてしまった。それに谷村さんのほうもあまり騒がれたくなかったのでしょう。結局うやむやになって、森川くんが工場長から厳重注意されておわってしまった」
 「なるほど。だったら久美が中田さんに近づきたくないっていうのもわかりますね。だけどきょうここに来たとき、最初、久美は喜んで取材を受けいれる感じだったんですよ。にこにこしてね。それがさっき手のひらを返したようにわたしを帰そうとしてきたんです。それがちょっとショックだったんです。けど、中田さんが今夜の宿直班長だってことは、もっと前からわかっていたんですよね。だったらいまになって急に取材拒否っていうのもおかしな話だと思うんですよ」
 「たしかに。けど、なにかほかに理由があったんじゃないかしら」
 「森川さんが『神さま』を描いたレリーフを見せてくれたんです。ものすごく独創的な作品でした。それについていくつか質問しようと思ったら、久美に遮られちゃって。どうもそのあたりから彼女、態度がへんになった感じなんです」
 「その『神さま』って、森川くんがあのときいってたやつかなぁ……でもバンカの監視モニターにもなにも映っていなかったから、なんともいえませんよ。けど、まぁ、谷村さん、森川くんには母親みたいに接してますからねぇ。ときどきどうしてそこまでやさしくできるのか、理解に苦しむことはありますよ。ただ、谷村さんとはこの春からですから正直、まだよくわからないんですよ。前の職場でのこととか」
 「前の職場は臨海区の区民税課ですよね。そこでなにかあったんですか?」朋夏はずばり訊ねた。
 夏の薄暮のなかであゆみの目が泳ぐ。さっと腕時計に目をやり、職場のほうに体が傾いた。三本目のたばこに火をつけようとはしなかった。
 朋夏は切り札を切った。
 「すみません。もうひとつだけ。ちなみに兼子さんはご結婚していらっしゃいますか」
 「独身ですよ」話をおわらせようと手短にあゆみは答えた。
 「木崎さんと仲がいいみたいですね」
 その名を出した途端、あゆみは絶句した。朋夏はたたみかけた。「この先にカフェがありますよね。さっきわたし、カウンター席にいたんです。兼子さんと木崎さんのすぐそばの。木崎さんって、たしか奥さまがいらっしゃるのでは――」
 「なんなんですか、よしてください」いらだたしげに口走ると、あゆみは足をとめ、三本目のたばこに火をつけた。
 朋夏は声をひそめた。「だれにもいいませんから。約束します。わたしは久美のことが心配なんです。あの態度の急変には、なにか原因があるのだと思うのです。それが前の職場になにか関係があるのなら――」
 「あたしがこんなことぺらぺらしゃべってるなんて絶対いわないでくださいよ。あの人だって触れられたくない過去なんだろうから」
 「もちろんです」
 「あの人、役所を出されたらしいんです。あっちこっちたらい回しになったあげくにね。その原因っていうのが……不倫だっていうんですよ」そこまでいいきると、あゆみは恥じいるようにアスファルトの地面を見つめた。自分もおなじことをしているとの自覚があるのだろう。
 朋夏は話を詰めた。「職場不倫ですか」
 あゆみはうんざりするような顔で玄関に向かって歩きだした。「職場っていえば、職場なんだろうけど……」
 「どうなんですか」
 あゆみは早足になっていた。朋夏のほうを振り向きもしない。「何年前の話か知らないけど、あの人、財政課にいたらしいんですよ。そこで出入りの銀行マンと。けっこう泥沼だったみたい。もういいでしょ。あとは知らないの、本当に――」
 二人がそろって玄関にもどってきたとき、ちょうど谷村久美が階段から薄暗いロビーに姿をあらわした。

 八
 七時から見学者用のビデオを見させられ、じっさいの見学は八時前にはじまった。その働きぶりを取材したい森川精一は、今夜はずっとクレーンのメンテナンスを担当するという。場所はごみバンカ上部の周囲に張りめぐらされた回廊だ。防臭服で全身を包み、そこで二十四時間稼働するクレーンの点検や交換用バケットの分解清掃を行う。
 久美はすぐにはそっちに連れていってくれなかった。手っ取り早く取材を終わらせたいのなら、とっとと目的のしろものを記者に見せて満足させるのがいちばんだろう。なぜ久美がそうしないのか朋夏は首をひねった。セクハラ前科のある班長を避けているようにも思えたが、それよりもずるずると時間を引き延ばして、精一に会わせるのを断念させたいのかもしれない。
 たまらず朋夏は訊ねた。「バンカのほうも回るよね」
 「回るよ。でもせっかく来たんだから清掃工場のすみずみまで見てほしいの」
 「貴重な経験だもんね」朋夏はついいやみを口走ってしまった。だが久美は心ここにあらずといった感じで、どんどん進んでいく。そのあとに遅れないようについていきながらグレーの作業着に包まれた小ぶりのおしりについ目がいってしまう。
 この子が不倫……。
 いっしょにピアノ教室に通っていたときの清楚なイメージが記憶の表面にぬるりと浮かんできて、朋夏は混乱した。不倫って、どんなことだっけ。結婚している人が配偶者以外の異性といっしょにスタバでラテを飲んだり、通勤の途中でいっしょになったり、電話で話をしたりすることだっけ? 朋夏の知る谷村久美のすることで思いつくのは、その程度だ。しかしそれはせいぜい十五歳、思春期まっただなかの印象だし、色白で上品な顔だちの少女が腹の底で異性にどんな肉欲を抱いていたかなんてわかりようがない。そしてその後二十年以上が過ぎたのだ。
 自分はどうだろう。
 あゆみから久美の暗部を聞かされて以来、朋夏自身、もっとも考えたくない点だった。三十七歳のいまも朋夏は独身だし、婚姻歴もない。しかし不倫歴がないといえばうそになる。それを甘美な記憶としてたいせつにとっておく女もいるというが、朋夏にとっては二度と思いだしたくない過去――いやでも毎日思いだすのだが――だった。渦中にあったときは、あれほど苦しいものはなかった。つらさが愛欲の悦びを計測不能なほど上まわっていた。あの心の暗がりと比較すれば、久美の苦悩も推し量ることができる。
 気がつくと久美は、館内履きのゴム靴の底をリノリウム張りの廊下にこすりつけながら、十メートルも先を進んでいた。それはまるでかつての親友から必死に逃れようとしているかのようだった。だが久美が逃れてようとしているのは、わたしではない。
 人生だ。
 大きな夢を抱いてピアノを奏でつづけてきた手を巡回先の独居老人に、そしてクレーン操作室の薄暗がりに潜む毒蛇のような中年男に握られるはめになった自らの人生から、できるだけ遠くへ逃げようとしているのだ。
 ごみ焼却の熱を利用する蒸気タービン発電機の説明を受けているとき、電話が鳴った。
 朋夏のスマホだった。会社からだ。
 「もしもし」
 先輩の持田晋哉だった。文化部の放送キャップだ。朋夏は久美に断って騒音のしない廊下に出た。
 「もうしわけないけど」いつもながらのかぼそい声音で訊ねてきた。ひょろりと背の高いモヤシのような男で、取材力のある特ダネ記者だが、いかんせん覇気に欠ける。五年前まで放送担当だった朋夏は二年ほど彼に仕えたが、見た目の印象で大いに損をするタイプだとずっと思ってきた。だから四十九にもなって独身なのだ。「勤務ダイヤのことでおねがいがあるんだけど」
 ようは翌週の夜勤交代の申し出だった。急に脚本家の取材が入ったという。運よく朋夏が交代できる日だったので、了承してやった。
 「ねぇ、マッチ、ちょっといい?」なれなれしいとは思いつつ愛称で呼んだ。
 「なに」
 今夜のこのもやもやした不快な気分を乗り越えるには、だれでもいいから部の同僚に話をぶちまけ、苦境をなぐさめてもらうのがいい。朋夏は勝手にそう考え、ちらりと発電室のほうを見た。そこで広報担当者が仁王立ちで待っているわけではなかった。
 「聞いてくださいよ」
 朋夏は一気にまくしたてた。相手にどれだけの吸収能力があるかなんて考えもしなかった。臨海区役所財政課員の泥沼不倫のくだりにいたるころには、もう自分でもなにがいいたいのかわからなくなっていた。
 「臨海区か。おれも前に回ってたよ」それで思いだした。持田は社会部出身で、以前、区役所回りもしていたのだ。「財政課のなんていう人だっけ」穏やかな口調で持田は訊ねてきた。
 友だちを売るみたいだったが、朋夏は彼女の氏名を先輩につたえた。

 九
 一瞬の出来事だった。
 デジカメを振り向けているひまなんてなかった。朋夏はその目を疑ったが、それは現実に起きてしまっていた。ごみバンカ上を移動するブリッジに格納されていたはずのバケットが、いまや十数メートル下のごみの海のなかにめりこんでいる。
 その瞬間を朋夏は見ていなかった。ドスッというにぶい音と直後に舞いあがった大量の雪のようなごみくずで異変に気づいたのだ。
 悲鳴が聞こえた。
 肝をつぶした自分の口から漏れているのかと思ったが、声は足もとを這いあがってきていた。落ちたバケットの衝撃で、ごみだめには蟻地獄さながらのクレーターができている。そのわきで腰を抜かす森川精一がわめきちらしていた。
 それには理由があった。
 土砂崩れ現場を駆け回って要救助者を発見した災害救助犬のようなものだったのだ。朋夏は眼下に目を凝らし、青ざめた。
 クレーターの中央部に六枚の鋼の爪を開いたまま落下したバケットが鎮座していた。その爪の一枚が赤々と染まっている。周囲にもまるで吐瀉物をまきちらしたように赤いものが飛び散っていた。すぐわきに白い防臭服に包まれた片方の足が見えた。頭上からバケットの直撃を受け、そのまま体ごと持っていかれたらしい。中田は逆立ちしたような格好になり、頭のあたりは鋼の爪もろともごみだめのなかにめりこんで見えなかった。朋夏にとってはせめてものさいわいだった。そうでなければ意を決してデジカメを向けるなんてできなかっただろう。
 「けが人は……!」
 突如、天井のスピーカーから声が降ってきた。あゆみだ。中央制御室のモニターで異変に気づいたのだ。
 「きゅ……救急車……救急車……!」朋夏はデジカメを握りしめたまま叫び声をあげ、クレーン操作室に急いだ。ブリッジで叫んだところで中央制御室に届くわけがない。操作室のピッチ……だめだ。あれは中田が持って下りていったのだ。こうなったら自分で通報するしかない。スマホは操作室に放置したままのデイパックに突っこんであった。
 操作室のガラス窓の向こうは無人だった。
 久美はどこにいった……まさか……。
 恐ろしい考えが頭をよぎったが、それを無理やり押しやり、朋夏は操作室に飛びこんだ。それと同時にあゆみが、場内を巡回していたほかの二人の男性職員とともに駆けこんできた。操作室には腐敗臭が充満していた。心なしか先ほどまでとは異質でとげとげしく、めまいがしそうだった。
 「兼子さん! たいへん! 中田さんが!」
 あゆみはガラス窓に額をこすりつけてバンカに目を凝らした。「なんてこと……」
 男性職員のうち年かさのほうが防臭服も身につけずにバンカ側に飛びだしていった。さらなる汚臭が操作室に広がる。片割れはスマホを取りだして、119番通報していた。
 中田が使った縄梯子をつたってバンカに到達した職員は、慎重な足どりでバケットのクレーターに近づいた。そこに中田が頭から引きずりこまれるようにして埋まっている。職員はそこに近づき、脚をつかんで引っぱりだそうとしたが容易でないようだった。精一はクレーターの縁で腰を抜かしたままだ。
 「どう……なってますか……」あゆみは操作卓のマイクのスイッチを入れ、こわごわと訊ねた。
 職員はクレーターから操作室のほうを見あげ、両手を頭上で大きく交差させてから、ポケットから電話をつかみだした。
 あゆみのピッチが鳴った。
 「わかりました……えぇ、そうします」電話を切るなり、あゆみが朋夏に向きなおる。「咲野さん、しばらく帰れなくなっちゃいましたね」
 「どうだったんですか」
 「体が食いこんじゃって……でももうダメみたい。頭が……」
 「でも――」
 朋夏を制するようにあゆみはかぶりを振った。目には恐怖の涙が浮かんでいる。「あたりどころが最悪だったみたい。ギロチンみたいになっちゃって」
 「なんてこと……」
 「現場はいじらないほうがいいと思うんで、一人、下に待機してもらってます。あたしは中制室で監視カメラを巻きもどしてなにが起きたかチェックします」
 「わたしもいきます」朋夏は防臭服を脱いだ。
 中央制御室に移動しながらあゆみが怒ったように訊ねてきた。「谷村さんっていっしょじゃなかったんですか」
 「森川さんが飛びこんだあと、わたしもバンカの回廊に出ちゃったんでよくわからないんです。あゆみさんのほうには?」
 「来てないですよ」
 朋夏の脳裏に恐ろしい記憶がよぎった。事故の直前、クレーンを取りつけたブリッジで不審な物影が見えたような気がしたのだ。あわてて朋夏はそのさいに撮影したデジカメの写真を再生したが、久美が写っているようなことはなかった。
 「どうしました」あゆみが不審そうな目を向けてきた。彼女も久美がいないことに気をもんでいるのだ。中田との関係は、朋夏が知らないことまで知っているはずだった。
 思わず朋夏は口にした。「ブリッジの近くにいたのってわたしと――」
 「無理ですよ」即座にあゆみが否定した。「操作手順がわかっていないと不可能ですよ。バケットなんてそんなに簡単に外せるものじゃない。谷村さんなんて、さわったこともないんだし」
 「なにがあったんですか」
 階段の前を通ったとき、声をかけられた。
 久美だった。
 スマホを握りしめたまま下の踊り場からあがってくるところだった。班長を見まった惨劇を知らないようすだった。
 「どこいってたんですか」あゆみが声を荒げた。
 状況を説明すると久美は顔をこわばらせた。「森川くんが飛びこむところまでは見ていたんです。それでもう取材はつづけられないと思って、工場長に連絡しにいったんです」
 「いちいち電話する必要なんてあるんですか」あゆみが詰問する。「それに操作室からいなくなることないじゃないですか」クレーンのバケットの着脱まではできずとも、あゆみはなんらかの疑念を久美に抱いているようだった。認めたくなかったが、その点は朋夏もおなじだった。
 「工場長の電話番号がわからなかったんです。それで管理事務室にもどって……でもつながりませんでした。留守電には吹きこんでおきましたけど」
 そのときどたどたと走る足音が背後から近づいてきた。
 「あぁ、クミちゃん!」
 鼻が曲がりそうな悪臭を引きつれて精一が廊下の角を曲がって姿をあらわした。バンカからあがってきたのだ。
 たまらずあゆみが叱責する。「あんたがバカなことするから、とんでもないことが起きたじゃない! あんたのせいよ!」
 殴りかかりそうなほどの剣幕に精一はたちまち委縮し、廊下のまんなかで直立不動になった。久美は精一には母親のように接してきたという。だったらこんなときこそ激しく動揺する青年の心をなだめ、事情を聞きだすべきだろうが、きつく口を結んだままだった。
 かわりに朋夏ができるだけやさしく訊ねた。「ねえ、森川さん、バケットが落ちてくる前、なにか見なかったかしら。クレーンのブリッジのあたりで」
 「知らない」精一は朋夏のほうを見ていった。「ぼくは神さまを探していた。そうしたら班長が来るもんだから」
 「神さま?」
 「そうだよ。これで二度目なんだ。神さまが出てきてくれたんだよ」
 二度目……?
 七月のダイブのときのことか。たしかそのときも「神さまが空を見あげた」とかなんとか弁解していたと、あゆみがさっき建物の外で話してくれていた。
 精一はぼそぼそと話をつづけた。「神さまはクミちゃんが大好きなんだ。だからクミちゃんが来てると喜んで顔を出してくれるんだよ。ぼくはそれを知っているから」
 クミちゃんが来てると――。
 朋夏ははっとした。
 精一が七月に最初のダイブを行ったとき、久美は、中田によってごみバンカを見おろすクレーン操作室に呼びだされていた。そして今夜も久美は操作室にいた。朋夏の取材のアテンドとして。
 臨海清掃工場で広報を担当する谷村久美は、スラグアートに関するリリースを都庁クラブに投げこみしたといっていたが、朋夏のもとへは直接郵送されてきた。都の広報課員が気をきかせて個別に転送してくれるなんて、常識的にはありえない。やはりあれは久美とはべつルートで届けられたのだ。中学の同級生のことを自慢する久美を通じて東邦新聞の美術担当記者のことを知っていた森川精一によって。そうすれば事務専門の久美が、朋夏の取材のアテンドとしてごみバンカを見おろすクレーン操作室に足を運んでくれるものと見越して。
 つまりわたしは、精一が執心するなにものかが出現するための段取りの一つ、
 触媒だったというわけか。

 十
 中央制御室に並ぶモニター画面のなかで、まんなかにある三番モニターがごみバンカに落下したバケットをアップで映しだしていた。遺体そのものでなく、わきにたたずむ男性職員の足もとが映っている。
 「あたしもここで一人だったから、バンカのようすばっかり見ていたわけじゃないのよ」あゆみは言い訳するようにつぶやきながら、監視カメラの映像をマウスで操作しだした。それを朋夏と久美と、さすがに自分でも耐えられなくなって防臭服を廊下で脱いできた精一がかたずを飲んで見つめる。
 「あんた、さっき、なにかが出てきたとかいってたわよね」厳しい口調であゆみが精一に訊ねる。
 精一はまるで他人事のように話しだした。「うん、神さまが出てきた。それで会いにいったんだよ」防臭服は脱いだものの、それでも彼が身動きするたびに悪臭が漂ってきたし、朋夏自身も髪の合間からツンとするいやなにおいがわきだしてくる。
 「じゃあ、そのあたりから映すからね」あゆみがマウスをクリックすると三番モニターにごみバンカが映しだされた。
 ブリッジの真下に据えつけられたカメラからの映像だった。精一が飛びこむ直前のもので、もとは白色だった都指定のゴミ袋やスーパーのレジ袋がミルクコーヒー色に変色し、天井の明かりをぬらぬらと鈍く反射しながら海のように広がっている。数秒後、そこに向かって防臭服の人物が飛びこんでいく。
 「ちょっともどしてください」朋夏が画面の端を指さす。「なにか動きました」
 あゆみは映像を十秒ほどもどし、スロー再生する。精一が落下する場所から一メートルほど離れたところで、ごみ袋の小山がわずかに崩れるのが見えた。
 「自然に崩れただけじゃないかな」あゆみはさらにマウスを操作してカメラを切り替えた。
 クレーン操作室の外に取りつけたカメラから眼下のバンカの状況を映した映像だ。精一がダイブしたのち、緊急停止したクレーンがブリッジに向かって上昇していく。黒光りする六枚の巨大な爪の一つに白いゴミ袋が付着している。都指定の大判のものだろう。それについては、回廊からデジカメで撮影した写真で朋夏も確認している。ただ、あのときなにか黒っぽいものがブリッジ上で動いたような気がしていた。朋夏は慎重に訊ねた。「ブリッジを別の角度から撮影した映像ってありませんか」
 あゆみはいらいらとマウスを操作し、つぎつぎと映像を切り替えた。そのなかにロングショットでブリッジを真横から撮っているものがあった。あゆみはブリッジのあたりを拡大した。
 ほんの一瞬だったが、格納されたバケットのなかから黒っぽい影が浮かんだように見えた。その直後、バケットが落下し、大量のごみくずが舞いあがる。その間にもう一度だけ黒っぽい影がうごめく。ブリッジの下側、安全フェンスの死角になってはっきりしないが、ゆらゆらと振り子のように動きながら、クレーン操作室のほうに移っていく。
 ふたたびあゆみは操作室の外に取りつけたカメラの映像に切り替えた。ブリッジからバケットが落ち、羽毛のようにごみくずが飛び散る。
 「あっ……」
 朋夏とあゆみがそろって声をあげた。バンカの惨状をメンテナンス回廊からのぞきこむ朋夏の姿を映す画面の下に、ほんのわずかだったが影のようなものがよぎったのだ。
 「操作室の外ってどうなっているんでしたっけ」
 「回廊よ。ブリッジにも直結してる」
 だからこそ操作室から回廊やブリッジにも作業に出ることができるのだ。そして帰ってこられる。朋夏もそうだった。
 あのとき――。
 記憶が嗅覚をふたたびなぶった。あゆみに連絡しようとあわてて操作室にもどってきたとき、やけにきついにおいがしなかったか。
 朋夏のスマホが振動した。メールの着信だった。
 持田からだ。

 谷村久美は有名人だった。区役所の知り合いが不倫相手の銀行マンのこともおぼえていて、その男と懇意だった元財政課員を紹介してくれた。銀行マンはすでに離婚している。谷村さんとの不倫が原因だ。元妻の連絡先も教えてもらったんで、さっきかけてみた。当然だが、彼女の谷村さんに対する憎悪はすさまじかった。ぺらぺらしゃべってくれた。谷村さんは、不倫してただけでなく、子どもまで産んでいた。男の子だ。その子が二歳のとき、銀行マンが離婚しないことがはっきりした。それで谷村さんの怒りは子どもに向いた。虐待したんだ――。

 朋夏は首筋がぞわぞわする感覚に包まれた。
 もの好きな先輩からのメールに驚いたのもそうだが、つい先ほど脳裏によみがえったあのきついにおいが、ふいに鼻先をかすめた気がしたのだ。
 スマホ画面が消えていた。指が勝手に動いて余計なところをタッチしてしまったらしい。
 隣にいる精一があらぬ方向に目をやっている。部屋の入口のほうだ。うれしそうに微笑んでいる。
 メールのつづきを読みたい衝動をおさえ、朋夏はそちらを振り返った。ゆっくりと。そして息をのんだ。
 入口のところに見たこともない真っ黒い塊があった。
 震える指先で朋夏はスマホ画面をタッチした。

 それだけじゃない。銀行マンの家をいきなり訪ねてきて、応対した妻に「これ、お宅のですから」といって玄関先に大きなごみ袋を置いていこうとした。袋の口が開いてなかのものが見えたとき、妻は飛びあがった。ぐったりした半裸の子どもが入っていたんだ。体はあざだらけで、太ももにはむくれあがったケロイド状の痕があった。アイロンでも押しつけたのではないかと妻は話している。はいていたパンツにダンボの絵柄がプリントされているのも見えたらしい。もちろん妻は袋ごと久美に押しつけ、追いかえしたといっている。五年前のことだよ。

 スマホから顔をあげ、朋夏は目の前の黒い塊を凝視した。
 精一がスラグの石板に彫りこんだ仏像の下半身が鮮明な記憶としてよみがえった。ダンボのブリーフをはき、太ももにはやけどの痕がある。精一がはっきりと話していた。
 「ちょっと、なによ……」入口にあらわれた異物にあゆみも気づいた。
 久美だけが、ごみバンカを映すモニター画面をじっと見つめ、わなわなと肩を震わせている。五年前、子どもを入れたごみ袋を拒絶された彼女は、その後、袋をどうしたのだろう。それを抱えたまま自宅までとぼとぼと歩いてきたのだろうか。
 朋夏は、カフェで耳にしたあゆみと木崎の会話を思いだした。五月から通算で二十件を超えたとかなんとか話していた。さほど大きくないごみ袋だったので、生まれてすぐではないかと木崎は見ていた。あれはもしかすると人間のことをいっていたのではないか。袋に詰めたものがひとたび収集車に放りこまれたら、あとはほかのごみにまぎれて清掃工場のバンカに投入される。だれもチェックなんてしないし、木崎やあゆみも見て見ぬふりのようだった。
 だがいずれは久美も正気を取りもどしたのではないか。そして幼児のような純粋さを持ちあわせた精一に出会ったことで、贖罪の気持ちが芽生え、母親さながらに接するようになったのかもしれない。
 眼前の物体が真っ黒く見えるのはのび放題の髪のせいだった。もちろん皮膚も堆積した垢のせいで黒光りしている。ひざを抱えてうずくまっていた。
 精一のレリーフがふたたびフラッシュバックした。朋夏は後頭部を殴られたような衝撃をおぼえた。あの仏像は立像だった。坐像ではない。あの子は立ちあがることができたのだ。木崎やあゆみがしばしば見つける冷たくなった死体ではなく――
 生きていたのだ。
 そんなことってあるの……?
 五年よ……。
 朋夏は自問自答した。しかしバンカの隣には焼却炉がある。けっして寒い場所ではない。しかも生ごみだらけだ。飽食の時代、まだ食べられるのにごみとして捨てられるものがどれほど多いことか。そしてあのごみ袋の海のなかで、ちょっと頭をひっこめさえすれば、監視カメラに映ることもない。そうなればだれの目にもとまるまい。そもそもバンカに人が立ち入ることもないのだし。
 朋夏の推理を立証するように、入口でうずくまっていた体がゆっくりと立ちあがった。途端に恐ろしい汚臭が中央制御室に広がる。
 「なんなのよ……」
 がく然とするあゆみをよそに精一が歓喜の声をあげる。
 「神さま! やっと会えたね!」
 がりがりにやせ細り、難民のようだった。その下半身に朋夏の視線は釘づけになった。あのレリーフのとおりだった。汚れた象の図柄の下からのびる太ももには、いまも痛々しいほどに変色した皮膚がむくれあがっていた。
 朋夏たちのほうへふらふらと近づいてきた。脚が悪いらしい。飴細工のような色をした小さな顔は一点を見つめている。朋夏はその左手に目をとめた。奇形だろうか。妙に薬指が長く見えた。
 その子は久美のまうしろまで来ていた。
 館内のどこか遠くで足音がする。救急隊が到着したようだ。
 激しい悪臭に襲われても久美は振り向けなかった。
 きょうという日をこの子はどれほど待ったことだろう。口のなかがカラカラになりながら朋夏のなかでさまざまな想像がめぐった。偶然にも異動してきた久美がクレーン操作室にあらわれるのを、いつだってバンカから心待ちにしていたはずだ。ところが中田の蛮行に小さな胸を痛めることになり、最後はバケットの点検作業をながめるうちにおぼえた方法で復讐を果たした。そしていま、手をのばせばとどくところに久美がいる。
 背後の存在から逃れるように久美はぎゅっと目を閉じていた。その光景を呆然と見つめるあゆみの隣で、精一だけがにこにこしている。
 久美の肩がもう一度小さく震えた。たとえようもない恐怖に襲われているのだろう。だが恐怖は生命力の裏返しでもある。それが肌で感じられたそのとき、薬指が異様に長い左手をあげてその子がつぶやくのが聞こえた。
 「ママ……」
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