触媒 1

文字数 16,191文字

 [In Circle TALK 文化部]
 2018年8月17日 夜勤山内、咲野
 ・出稿 訃報・奈須原千種 咲野、2社2段、12版~。
 注 死因は「心不全」としたが、感染症の悪化が引き金となったらしい。詳細不明。お別れの会等未定。「7月発売の新作は、尾崎賞の候補作としては残す方向」と咲野が尾崎賞事務局に取材ずみ。
 ・18日は咲野が清掃工場に潜入。本人自信満々! なんの自信?
 ・編集管理より連絡。「北側壁の改修を今週末に実施。コンクリートを一度崩して、まずは配管を修理する」とのこと。該当エリアの机上にブルーシートを張り、粉塵の飛散を防ぐとの話だが「心配な方はパソコン等精密機器を放置しておかないように」だそうです。ちなみに“配管”とは下水管のこと。二次被害を懸念。
 ・神保と依然連絡取れず。


 「触媒」
 一
 朋夏にも見えたような気がした。
 巨大なUFOキャッチャーさながらに三トンものごみを運びあげることができるクレーンのバケットが、可燃ごみで膨らんだビニール袋の大海に食らいついたときのことだ。すぐ近くでビニールの水面(ルビ、みなも)が不自然に揺らぎ、その合間から黒っぽい異質な物体が顔をのぞかせたようだった。
 八月十八日午後十時二十分。
 すでにバケットは六枚の鋼の爪を開いた状態でゆっくりと上昇し、バンカと呼ばれる深さ二十メートルもの巨大なごみ溜め上を移動するブリッジ内にもどりはじめていた。緊急停止ボタンが押されたのだ。バンカを取り囲むメンテナンス用の回廊から人間がダイブしたのだから、クレーンをとめないわけにいかない。
 これで二度目か。
 クレーン操作室にいた朋夏は、見習い運転係の青年がこれからどんな目に遭うか想像し、いやな気分になった。
 それでもたしかに朋夏の目はなにかをとらえていた。焼却炉のすぐ手前、ちょうどバケットの真下あたりだった。記憶をたどりながら彼女は首をかしげた。
 班長の中田が操作卓に両手をつき、完全密閉されたガラス窓に身を乗りだして眼下のごみバンカをにらみつけた。
 「あのバカが!」
 ごみ溜めのなかに腰までつかった森川精一は、そこから下半身を引き抜こうともがいている。班長の声が届くわけがなかった。悪臭が入りこまぬよう完全密閉された操作室のなかでいくら叫んだってむだだった。
 「おい、森川!」中田はバンカにも聞こえるようマイクのスイッチを入れた。「死にてえのか! ふざけやがって!」吐き捨てるなり、マイクから離れ、壁のフックに掛かる放射能防護服のようなものに手をのばした。頭からすっぽりかぶるゴーグルつきのマスクと一体化した防臭服だ。それなしにはバンカの激しい腐敗臭から身をまもれない。
 「あの野郎、やっぱりダメだ。あいつにこの仕事はムリなんだよ」中田は内線用ピッチをつかんだ。相手はすぐに出た。二十四時間連続操業する清掃工場の心臓部である中央制御室にかけているらしい。そちらにはべつの宿直職員が待機していた。「あゆみ、見てたろ」相手の返事もろくに聞かずに中田がたたみかける。「またやりやがった。幻でも見てやがるんだ。いまから連れもどしてくる。それですぐに再開するからな」
 だが朋夏には作業がすぐに再開できるとは思えなかった。二十四歳になる森川精一は、多少の知的障害を抱えているが、それは業務に支障のない程度だし、ある種、天才肌の人間特有のクセのようなものにも思えた。だったらだれの目にも危険な場所にあえて飛びこんだことには、なんらかの理由があったと考えたほうがよさそうだ。それが朋夏の退路を断った。いま取材すべき場所は、計器類の仄暗い明かりに浮かびあがる操作室でなく、煌々たる明かりに照らしだされるバンカの側だ。
 朋夏は隣にいる谷村久美に目を向けた。わなわなと口元を震わせながら、薄暗い操作室の壁に背中を押しつけている。彼女もなにかを目にした可能性がある。
 「なんでもありませんから」防臭服に着替えた中田が、朋夏に伝えた。取材のアテンド係である久美のことは無視している。「十分以内に作業を再開します。焼却炉に投入するのをやめると火が消えてしまうんです。そうなったらまたガスで火をつけないといけないし、後々厄介なんです」そう告げて班長は、バンカに下りていくのに使う丸めた縄梯子をつかみ、分厚いドアを力まかせに引きあけた。
 たちまち吐き気をもよおす耐えがたい腐敗臭が操作室に満ちた。

 二
 その七時間前、東邦新聞文化部の咲野朋夏は、東京湾を臨むウォーターフロントの再開発地区にあるカフェで、煮詰まったコーヒーをすすっていた。
 品川からバスに乗ったときは三十五度を超す猛暑だったが、急に空が暗くなり、ひんやりとした風も吹いてきた。早いところ現着していないとゲリラ豪雨に遭いそうだったが、アポの時刻までまだ一時間もあった。清掃工場なんて小学校の社会科見学で行って以来だ。ごみ収集車がひっきりなしに出入りしてあたり一面、生ごみ臭いにちがいない。そんなところで時間をつぶすくらいなら、多少濡れてでもぎりぎりまでべつの場所で待機していたほうがいい。
 そう思って店に入ったのだが、意外と混んでいた。朋夏はカウンター席が一つだけ空いているのを見つけ、くたびれたデイパックを抱えて割りこむようにして腰を落ちつけた。
 臨海区の家庭や事業所から排出される可燃ごみを燃やしたあとにできる砂状のスラグを固めて石板をつくり、そこにレリーフをほどこしたものを清掃工場の外壁にモザイクのようにはりつける。そんなスラグアート構想について話を聞くだけなら三十分ですむ。だが朋夏宛てに郵送でとどいたリリースには、スラグの生成過程のほか、深夜に行われる彫刻素材用の硬化スラグ作りまで見学可能とあった。それで物見遊山で深夜の見学会に申しこんだのだが、強い風に白波が立ちはじめた湾を見つめ、朋夏は後悔しはじめていた。へんな記者魂なんて見せるんじゃなかった。社会面に提稿するわけでないし、そもそも夕刊だ。デスクの山内からは六十行をぶんどってきたが、夕刊のまんなかへんにあるページなんて、いったいだれが読むんだろう。そもそもスラグ材のレリーフ自体、ことによると前例があるかもしれない。それをこれ見よがしに書いて、あとで恥をかくなんてことになるまいか。
 朋夏は、放送担当を経て念願の美術担当になってもうすぐ五年。専門記者を自任するには早すぎるが、それでも最低限の基礎知識は身につけたつもりだ。こんなところでミソをつけて、異動させられるのはごめんだった。
 「すげえにおいがするんだろうな」一週間ほど前に届いた見学会のリリースを見ながら、山内はにやにやしながらいった。「だいじょうぶか、おまえ」
 「ネットで調べましたけど、意外とにおわないらしいですよ。かえってそういうところに気をつかっているようです」
 「じゃあ、たのしみだな」
 山内はデスクをもう三年もつづけている。それ以前は文芸記者として長く、いまの部長とちがって出世志向は皆無に近い。そのぶん歴史の裏話や伝説、サブカルチャー、オカルトといった分野への理解があった。その意味では、山内はスラグアート取材を介して、ふだんお目にかかれない清掃工場をのぞかせ、話を聞きたがっているようだった。もちろん個人的に。
 カフェのガラスに滴が落ちてきて、あっという間に大粒の雨となった。朋夏は小さな折り畳み傘しか持ってきていない。あと三十分かそこらでやむといいのだが。
 「今週に入ってきょうので四件目だ」
 ふいに男の声が耳に飛びこんできた。うしろのテーブル席からだった。白いTシャツ姿の三十代後半とおぼしき男が、向かい側に座ったパーカーを羽織った細身の女と話しているのが、朋夏の目の前のガラスに映っていた。
 「五月から通算で二十件超えたぜ。だんだんこっちの感覚もマヒしてきた」
 「あたしも木崎さんとおんなじくらい回数いってると思う」女がテーブルに身を乗りだしていう。ボーイッシュなショートカットを完璧な金色に染めあげていた。
 声をひそめているつもりだろうが、背を向けていても朋夏にはまる聞こえだった。距離が近すぎるし、そもそもほかの客は自分たちの会話に聞く耳を持たぬときめこんでいるふしがある。だが逆の立場ならどうだ。一人でカフェに入ったとき、隣席の会話に耳をすませるのは、記者の常道などという大げさなものでなく、単純に人の性だ。いつだったか山内は、隣でゲイとバイセクシャルの女がセクシャルマイノリティーの市民権拡大について大声で議論しているのを聞かされるはめになり、せっかく持ちこんだ文庫本が読めずに頭にきたと漏らしていた。
 「みんな気づいたと思うぜ。袋から露出してたから」
 「大きいやつ? 都指定の」
 「いや、スーパーとかのビニール袋。だから生まれてすぐだと思う」
 「どうして収集車の時点でわからないのかな」
 収集車……?
 朋夏ははっとした。取材先の清掃工場は目と鼻の先だった。
 「重さがちがうでしょう」
 「わかるわけないさ。機械的に放りこんでるだけなんだから」
 「で、きょうのそれ、ちゃんとやってくれたの……?」女は不安そうに訊ねた。「これからシフト入るんだから」
 木崎という男が小さくうなずくのがガラスに映った。
 「まいっちゃうわね」
 「仕事だからな。どうしようもないさ。へんな気起こして、そのたびに操業とめたって、収集車のほうはとめるわけにいかないんだ。すぐにバンカが満杯になって燃やすのが追いつかなくなる。あわてて余計に突っこめば、炉のほうが故障する。そうなったらこっちが干上がっちまう。腐ったごみに囲まれてると、人間のほうまで腐った考え方になる『あんた、最近へんじゃない』って女房によくいわれるけど、マジやばいかもしれない」
 女はうんざりした声をあげ、マグカップをあおった。「早くお金ためて、やめたいわ、あんなとこ」
 それから二人は職場の上司の愚痴をいいあい、やがて指を絡ませるようになった。それを潮に朋夏は席を立った。

 三
 ひと目見ただけでは朋夏は相手がだれだかわからなかった。中学の卒業式以来だ。別々の高校に進学後、顔を合わせる機会すらないまま、はからずも二十年以上が過ぎていた。
 「取材の話がくる前から朋夏のことはずっと知ってたよ。東邦の文化部でしょ」臨海清掃工場のエントランスロビーで谷村久美はうれしそうに告げた。管理係に勤務し、広報関係も引き受けているという。「大学卒業して東京で暮らすようになってからずっと東邦取ってるの。朋夏、文化面でよく書いてるでしょ。顔写真つきで」なるほどうちの読者だったわけか。つまり歳月がかつての親友にどんな恐ろしい変化をもたらしたか、とうの昔から知っていたのである。「記事が出るたびにここの人たちに自慢していたんだから」
 「驚いた。こんなことってあるんだね」久美の名刺をあらためてしげしげとながめ、朋夏はようやく言葉を発した。途端に中学時代にタイムスリップしたかのような温かな懐かしさに包まれた。自分もそうだろうが、久美にもかつての面影はほとんどない。昔は似たような細身の体型だったが、いまはどちらも完全に中年体型だ。頬や首回りは朋夏のほうがだぶついているようだが、いずれにしろ二人とも見事なおばさん顔になっている。それに自分だってそうだろうが、久美の髪の合間から白いものが何本か見えた。それでもさすがはかつて親友どうしだっただけのことはある。ちょっと言葉をかわしただけで、離ればなれになっていた時間がいっぺんに吹き飛んだ。これからいっしょに手をつないで下校するみたいだった。「久美にここで会えるとは思わなかったな。ぜんぜん知らなかった、都内に勤めていたなんて」
 二人とも郷里は長野市だ。家も比較的近く、おなじ公立中学に通った。ともに吹奏楽部に在籍し、校外ではおなじピアノ教室に通い、コンクールを目指した。どちらも中流家庭に育ち、ピアノの腕前は久美のほうが格段に優れていた。悔しかったが、朋夏にもはっきりと才能の差を感じ取ることができた。そのぶん朋夏は、あきらめの境地で早くから学業に打ちこんだ。新聞社に入れたのもそのおかげであった。
 応接室にとおされ、しばし昔話に花が咲いた。そのとき朋夏は気づいた。大粒の雨が降りしきる外には、ひっきりなしに出入りするごみ収集車が放つ酸っぱいにおいが満ちていたが、建物内はそれがぴたりとシャットアウトされている。どういうシステムかわからないが、なるほど空調には気をつかっているようだ。建設されてから十年以上というが、建物のなかもクリーンな印象で、むしろ臨海区のくたびれた役所のほうが陰気で不衛生な感じがした。久美はその役所の職員だった。
 「四月に出向してきたの。その前は区民税課にいたんだよ」
 ピアノ、どうしてる?
 そんなことを訊ねるほど朋夏は無神経でなかった。それはいまの久美にとってけっして甘美な思い出ではないはずだ。朋夏は直感していた。小学校時代の久美は、両親の趣味が影響したのだろうが、いつも上下おそろいの赤いチェックのブレザーとスカートをまとっていた。中学の制服は地味なジャンパースカートだったが、ピアノ教室へは、発表会でも通用する華やかなワンピースを着てきていた。それらに身を包んだ彼女がくりくりとした愛らしい瞳で夢見ていたのは、大好きなモーツァルトを弾きながら子どもたちに囲まれる上流の暮らしであったはずだ。すくなくともあくせくと汗水たらして働かねばならぬ区役所の末端職員ではないし、ましてやたとえ防臭システムがほどこされていても、一度や二度のシャワーでは落とせそうにない汚臭とつねに隣り合わせの世界なんて、想像だにしなかっただろう。
 だがおっとりとして穏やかな雰囲気は昔のままで、堅実な家庭生活を営んでいるにおいはした。ばたばたと忙しいだけで無為に時間ばかりがすぎていく新聞記者には縁遠い暮らしだ。それであやうく訊ねるところだったが、すんでのところで左手の薬指に指輪がないのに気づいた。
 久美のほうで話してくれた。「だれかいい人いたら紹介してよ」
 「こっちだってそうよ」あわてて朋夏は応じた。
 「けど、新聞記者ならカッコいいじゃない。あこがれちゃう。キャリアウーマンっぽい」
 「まさにそれ。“ぽい”よ。ただの報道サラリーマンよ。出会いなんてぜんぜんないんだから。まわりはさえないオッサンばっかり」
 「そうかしら。バリバリ働いてて、やりがいがありそう。役所と大違いよ。こっちは九時に出勤して、いっつもおんなじ相手の顔見て、五時に帰っていく。機械にでもできるわ」
 「広報は機械にはできないでしょう」
 「広報の仕事なんて余技のなかの余技よ。清掃工場の管理係なんて、ふだんはつまらないデスクワークばっかり」そこで久美は声をひそめた。「ひまなの、すっごく。気が狂いそうなくらい」
 「じゃあ、取材対応なんてあまりないの?」
 「めったにないよ。今回もまさか東邦新聞の記者さまが来てくれるなんて夢にも思わなかった。スラグで作った石板にレリーフを描こうっていうのは、工場長の発案なの。職員にうまい子が一人いてね。それを見ているうちに思いついたのよ。それでわたしのところに話が下りてきて、しかたないから企画書を書いたの。それを都の広報課経由で都庁の記者クラブにばらまいてもらったんだけど、朋夏のところまで届くとはね」
 「都庁クラブに投げこんだ……の? 各社に直接送ったんじゃなくて?」
 「うぅん、だってどこの新聞社とかテレビ局に送ればいいかもわからなかったから」久美は肩までのびた髪をいじりながら答えた。
 「うちにはあたし宛てに郵便で届いたんだけどな」
 「送ってないよ。朋夏のことは知ってたけど、いきなりそんなぶしつけなまねしないって。ねえ、そのリリース、きょう持ってきた?」久美はけげんそうに眉をひそめた。
 朋夏はデイパックを広げてみたが、あいにくリリースは会社に置いてきてしまった。「もしかしたら都の広報課の人が気をきかせて送ってくれたのかもね。あたし、以前、広報課に取材に行ったことがあるの。そのときに置いていった文化部の名刺が残っていたのかな」
 「やっぱりこうして再会するのって運命だったんじゃないかしら。きっとなにかの縁よ。すっごくうれしい。わたしにも運がめぐってきたかな。いい記事書いてもらわなきゃ」
 「もちろんよ。まかせて」
 朋夏がそう告げると、久美は満面の笑みを浮かべ、持参した臨海清掃工場のパンフレットを開いて作業工程について説明をはじめた。
 「工場長は朝まで見てもらったほうが、清掃工場への理解が深まるっていってるけど、そんなのたいへんでしょう。適当に引きあげてもらっていいから。もちろんずっといてくれてかまわないし、その間はわたしが付き添うことになっている。それに夜中でもだれかしら職員が勤務しているから、なんでも質問してへいきよ。中央制御室やクレーン操作室もどこだって見学できるし」
 ひととおりのレクチャーが終わると、久美は朋夏をべつのフロアに連れていった。自販機の並ぶ職員の休憩スペースで、その一角にパーテーションで仕切られた場所がある。天井からは「スラグアートコーナー」の札がさがっていた。そこに近づきながら久美がいう。「だれでもレリーフが作れるようにしているの。といっても熱心なのは、あそこにいる一人だけだけどね」

 四
 父親の勤務明けを待ちかねた小学生が職場を訪ねてきたのかと思った。だが久美とおなじ制服を着ていたし、職員証を首からさげていた。
 森川精一は、こんなところにいるより、アイドル事務所にでも所属していたほうが似合う、リスのような目が愛らしい小柄な青年だった。テーブルに向かい、ベージュ色の石板を一心不乱に彫っている。
 「森川くん」
 久美が呼びかけても返事はない。彫っているのは羽を広げた鳥のようだった。遠目にも躍動的なのがわかる。
 「森川くん、ちょっといいかしら」
 ようやく若者は顔をあげ、一瞬、ぽかんとした表情になったあと、うれしそうに微笑んだ。「やあ、クミちゃん」
 久美は朋夏のほうに手を広げて告げた。「お客さま。あなたの作品の取材に来てくれたの。新聞社の方よ。ごあいさつできるかしら」
 「知ってるよ。クミちゃん、しょっちゅう話してたもん」
 「あら、いやだ。わたしったら、森川くんにまでいってたかしら」久美は肩をすくめ、朋夏のほうを見てウインクした。「あっちこっちでいいふらしていたみたい、朋夏のこと」
 「ありがとう。うれしいわ。こんにちは、森川さん、スラグアートの取材をしているんです」
 「さぁ、森川くん、新聞記者さんにちゃんと話せるかな?」
 まるで幼児を相手にするような久美の話し方が気になったが、精一の受け答えぶりに朋夏も納得した。けっして視線を合わせようとしないし、話しているときは落ち着かず、ずっと上半身を左右に揺らしつづけている。そして話す内容といえば、まるで夢見る子どもそのものだった。
 「神さまが暮らす森をつくってるんだ。妖精たちが歌を歌う宮殿の奥に小さな神さまが一人で暮らしているんだ。ぼくはその森に迷いこんだ、コグマなんだよ。それで神さまの話し相手になって、いろんな悩みを聞いてあげてるんだ」そこまで一気にしゃべると精一はふたたび石板に向かった。
 「四月から来てるの。いまは運転係、つまりバンカのごみをクレーンで焼却炉に投入する仕事の手伝いをしてもらっている。人手不足だから宿直のダイヤにも入っている」だまってうなずく朋夏の疑念を察して久美が弁解するようにつけたした。「指示された仕事はちゃんとこなしてるし、機械の操作は得意なの。貴重な戦力よ」
 それから何点か作品を見せてもらい、久美が通訳がわりとなって、朋夏は精一にインタビューした。精一はぽつりぽつりとだったが、朋夏が知りたいことに答えてくれた。しかしその間、石板を彫る手が休むことはなかった。恥ずかしがっているというより、手にべつの意思が宿っているかのようだった。
 清掃工場の外壁を巨大なレリーフ化するという大それた話でなくとも、精一の作品自体、独創的でアートとしての輝きを放っていた。スラグという材質のせいかもしれないが、想像以上に細密なタッチで、描いた花々や動物、それに人間がいまにも硬い石板から解き放たれてこちらに躍りだしてきそうだった。なにより驚いたのは、精一がいっさいの下書きなしに石板を彫り進めていることだった。
 「設計図はぜんぶ彼のここに入ってるのよ」久美はうれしそうに自分のこめかみを指でたたいた。
 「神さまはもうできているんだよ」石板を彫る手がふいにとまり、精一が立ちあがった。「見せてあげるよ、クミちゃんにも」そう言い残し、ぴょんぴょんと飛び跳ねるような足どりでパーテーションの反対側に消えた。
 「使わない会議室を作品の保管庫にしているの」どうやら精一は自分のアートについてもっと自慢したいらしい。
 「かわいいじゃない。弟みたいな感じなんでしょ」
 「まぁ、そうかな。だけどやっぱり不安定なのはいなめないわ」
 「不安定って?」
 「職員としてよ。ようやく運転係にも慣れてきたみたいだけど、ときどきポカをやることもあるから。正直、今回の外壁アート構想も彼の居場所をうまくつくるための苦肉の策なのよ」
 その意味はなんとなく朋夏にも理解できた。「つまり雇わないわけにいかないってことかな」
 「ごぞんじのとおり、そういうご時世よ。現場の人間にいわせれば、やっぱりあの子は使いづらいみたい。かといってたらい回しにはできない。だけど偶然にも彼には彫刻の才能があった。それで工場長が思いついたのよ。もちろんアートなんて清掃工場の本業じゃないわ。都民の税金で運営されている施設なんだし。だけどいまの工場長の在任期間なんて長くてあと二年。それぐらいならあの子にそっちの“仕事”をさせといても文句は出ない。それに工場のイメージアップにつながるでしょ」
 それが一般紙の文化欄で紹介されたらなおさらだ。朋夏はすこしだけげんなりした。自分は出世をもくろむ工場長にうまいこと利用されたというわけだ。しかし文化部にかぎらず、記者の仕事なんて所詮、広い意味での宣伝でしかない。
 パーテーションの隙間から、休憩スペースに入ってきた女性職員の姿が見えた。すらりとして背が高い。さっきカフェにいた金髪の女だ。彼女に向かって朋夏が手をあげた。「兼子さん、ちょっといいですか」相手はあきらかに年下に見えたが、久美は敬語で呼びかけた。
 女は警戒するような目つきで近づいてきた。カフェでこみいった話をしているのを盗み聞きされたと気づいたのだろうか。朋夏は唾を飲みこんだ。
 「こちら、東邦新聞の咲野さんです。今夜、わたしがアテンドして作業を見学させていただきますので、よろしくお願いいたします」久美が紹介してくれたので、朋夏は立ちあがり、ぎこちなく会釈した。
 「はい、中田さんから聞いてます。スラグの硬化のほうは、わたしが説明することになってます。たぶん夜中の一時ごろになると思いますけど、だいじょうぶですか。いつも空いた時間にぱぱっとやっちゃってるもんで」
 名札には「兼子あゆみ」とある。さっきのけげんそうな目つきは消え、どちらかといえば人懐っこい表情で話してくれた。あやしげな関係らしい同僚男性とカフェにいたとき、目と鼻の先に朋夏がいたことには気づいていないようだ。
 喫煙室に向かったあゆみと入れ替わりで、精一がもどってきた。大きなトートバッグを両手で抱えている。
 「神さまは森の宮殿に一人で暮らしているんだ」そういって先ほどよりも大きい、新聞紙大の石板をバッグから取りだして、作業台にのせた。それには久美も息をのんだ。彼女もはじめて目にするもののようだった。
 それまでの作品以上に繊細で、ダイナミックなタッチだった。本当にこちらの世界に飛びだしてきそうなくらいだった。
 モチーフが仏像であることはすぐにわかった。躍動的な手足の曲げ方にはヒンドゥー教的な要素も入っていた。おそらく南アジアの仏教美術が念頭にあったのだろう。特徴的なのは左手の薬指だった。中指よりも関節一つぶん長く描かれており、人間でないことが歴然としていた。神さまの足もとには、花々が咲き乱れ、菩提樹とおぼしき木が背景に描かれていた。顔だちは、細面で柔和そのものだった。森の動物たちや草木を慈しみ、生きる希望をあたえているかのようである。
 ただ、身につけているものが気になった。上半身が裸で、下半身は仏像にミスマッチな印象の衣類――しいていうならブリーフのようなもの――をはいていた。そこから二本の脚がにょっきりとのびているのだが、左の太ももには三角形の刻印のようなものが浮き彫りにされていた。
 「独創的な神さまなのね」朋夏は訊ねた。「イメージというか、意味合いをもうすこし話してもらえるかな」
 精一ははにかむようにこんどは上半身を前後に揺らしはじめ、ちらりと久美のほうを見てからつぶやくように話した。「寒くはないんだよ。森は蒸し暑いくらいだから。パンツでへいきなんだ」
 「そっか。やっぱりパンツなんだ。めずらしいわね、パンツをはいた神さまなんて」
 「神さまはパンツをはいちゃいけないの?」ぽかんとした顔で精一が聞いてきた。
 「いけないことはないわ。だけど、ほら、仏さまなら袈裟……つまり長い布みたいなものを巻きつけるとか――」
 「だってパンツをはいてたんだもん」精一は神さまの股間のあたりをなでるように触った。
 朋夏はそこにもう一つべつのものを発見した。股間の右側に動物が描かれている。パンツの柄のようだ。
 象だ。
 「これってもしかして」朋夏の頭に浮かんだのはタイの仏教美術だった。「エラワンかしら。神さまにつかえる象のこと」
 「なにそれ」精一はいきなり腰を折り曲げ、においでも嗅ぐように石板のその部分に顔を寄せた。「知らない」
 「てっきりそうかと思っちゃった。耳とか鼻の具合がちょっとアニメっぽいけどね」
 「そうだよ。ダンボだもん」
 「ダンボ……ディズニーの?」
 「神さまは大好きなんだよ」
 「そうなんだ」朋夏はゆっくりと何度かうなずいて見せた。「じゃあ、この印はなんだろう」
 「やけど」
 「え……」
 精一は小さな三角形に人さし指をはわせながらくりかえした。「やけどだよ」
 「やけどなの……」
 「そう。むっくりと盛りあがってる。神さまは森のみんなに幸せを分けあたえる。だけど神さまにも悲しみがある。それがこの――」
 「もういいわ」腰を曲げたままの精一の背中に久美が手のひらをあてた。「いっぺんに説明してもわからないわ。またつぎにしましょう」

 五
 朋夏が防臭服をつかんでも久美はなにもいわなかった。
 すでに精一は可燃ごみの海から両足を引き抜き、アメンボのような格好でもがきながらバンカのなかを移動している。二十メートル近いダイブだったが、幸か不幸か可燃ごみをつめたビニール袋がクッションとなり、けがは負っていないようだ。
 「森川! 死にたいなら、たのむからほかんとこでやってくれ!」
 朋夏がメンテナンス用の回廊に飛びだすなり、縄梯子を下りる班長の怒鳴り声が聞こえた。だが焼却炉と換気システムのうなりが、深いバンカ全体に共鳴して轟音と化している。それ以上どんな指示を出しているかまでは聞き取れなかった。なにより刺激臭が鼻を蹂躙する。防臭服を身につけていなければ、どんなことになるか。想像したくもなかった。
 班長の声は聞こえているはずだったが、精一はそれを無視して茶色く変色したビニール袋のふくらみをかき分けていた。バンカのごみは全体が一つの巨大な生きものの背中であるかのようにてらてらと鈍く光っている。おそらく生ごみから染みだしたタンパク質をふくむもろもろの汁が、雑菌により発酵して粘液となり、表面に浮かびあがってきているのだろう。
 朋夏はカメラをつかんでいた。これでどんな記事が書けるのかわからなかったが、とりあえず現場写真は押さえないと。だがこれは広報担当者としては好ましくない状況だ。朋夏は横目でクレーン操作室のほうを見た。
 久美の姿がなかった。
 どこかに通報に行ったのだろうか。しかしこの広い清掃工場は、各部門ともオートメーション化され、人間のやることは中央制御室で計器類を監視することぐらいだった。そもそもバンカから焼却炉にごみを運ぶクレーン作業そのものが自動運転されている。今夜、中田が手動で操作していたのは、収集車による翌日のごみ搬入に備えて、ごみ山ができやすい搬入口付近をならすメンテナンスの一環にすぎない。それは久美自身が話してくれたことであった。だから今夜も宿直勤務者は五人しかいない。場内巡回に出ている者をのぞけば、バンカで起きていることはすでにモニター画面で把握しているはずだ。
 だが久美は宿直にあたる運転係ではない。むしろ彼らのミスや事故を記録し、上層部につたえる管理係だ。ことによると工場長に連絡しているかもしれない。現場の班長である中田は、どうやら久美のことをさげすみ、うとましく思っている。逆に久美のほうも中田のことが苦手なようだった。だったら管理係として独自の通報を行ってもおかしくはない。
 いずれにしろ久美はすぐにはもどってこまい。朋夏はそうふんで、鋼鉄板の回廊から職員が転落せぬよう張りめぐらされた柵から身をのりだしてデジカメをかまえ、眼下でごみの海を泳ぐ精一をファインダーにとらえた。精一がダイブする直前、朋夏はあそこでなにかがうごめいたような気がしていた。見間違いかもしれないが、それがなんだったかたしかめたかった。
 そのときだった。
 頭上を黒っぽいなにかがよぎった。
 トンビほどの大きな鳥が宙を滑空したかのようだった。朋夏はファインダーから目をあげた。だがそこにはトンビどころかカラスでさえ、十分に羽ばたけるほどの隙間はなかった。精一がバンカに飛びこんだことで停止したクレーンのバケットを格納したブリッジが五メートルほど前方を横に走っていた。まさに橋のようだった。なにかが動いたとすればその上ということになる。柵が設けられていることからすると、メンテナンスのために職員が上ることはあるようだったが、今夜、すくなくともいまそれは行われていない。
 朋夏はもう一度、操作室に目をやったが、まだ久美はもどっていない。だったら彼女がブリッジにあがったのだろうか。
 朋夏はこんどはカメラのファインダーをのぞきながら、ブリッジの端から端までズーム機能を使ってチェックしてみた。すると黒光りするクレーンバケットの爪のあたりでなにかが動くのが見えた。とっさにシャッターを切り、ふたたびファインダーをのぞいたが、もはやなにも見えない。朋夏は手早くデジカメを操作し、いま撮影した一枚を再生した。問題の部分を拡大すると、ピンボケだったが、ひらひらする白っぽいものが写っている。都指定の大判の可燃ごみの袋のようだった。それがバケットに付着し、燃焼をたすけるために焼却炉に吸いこまれる汚れた空気の流れにのって揺らいでいただけのようだった。
 あらためて朋夏は眼下に目をやった。すでに中田が精一のいるバケットの真下付近にまで近づき、いまにも飛びかからんとしていた。しかし精一は逃げようともせずに、まるで落としたコンタクトレンズでも探しているかのように粘つくごみの海に両手をつけたままだった。そこに異変が起きているとは思えなかった。やはりさっき見えたと思ったものは錯覚だったのだろうか。
 このままだと今夜は、宿直当番のだれにとってもハードな勤務になりそうだ。スラグアートに打ちこむ青年の姿は撮影ずみだし、インタビューもおおむね終了している。不足分は後日電話で訊ねてもよさそうだった。だからこそ迷いも生じていた。妙な記者根性なんて出さなければよかった。防臭服に身を包みながら朋夏は後悔しはじめていた。こんなことなら久美の提案にしたがって早々に退散したほうがよかったかもしれない。朋夏はもう一度、操作室のほうを見た。
 久美はまだ帰ってきていなかった。

 六
 「どうかしら、こんな感じの取材で」
 デスクのある管理事務室に朋夏を招きいれ、久美がいった。午後六時を回ったばかりだったが、日勤職場である管理係は久美以外、すでに人影がなかった。
 「硬化スラグの作り方ならDVDもあるし、焼いて送ってあげようか。インタビューも写真もバッチリじゃない?」久美は微笑んでみせた。朋夏はあまり気持ちがよくなかった。久美は取材の打ちきりを申しでているのだ。
 「いいの? さっきの職員の方、石板の作り方を教えようと思ってるんじゃないかしら」
 「兼子さんにはわたしからいっておくわ。あの人、そんなに気にしてないよ。愛想は悪くないけど、めんどくさがりだから。できるだけ余計な仕事は増やしたくないと思ってる」
 なるほど。たしかに記者対応なんて“余計な仕事”にちがいない。だがどうにも引っかかる。さっきまで久美はあれほど取材をしてほしがっていたのに。取材先で相手が豹変することはしばしばある。それに応じてこっちも臨機応変に対応するときもあれば、意地でも続行することもある。しかし友だち、それも二十数年ぶりに再会した親友がその相手となると、きわめて居心地はよくない。
 「森川さんの話は十分聞けたと思う。ただ、ふだんの彼の姿も見ておきたいかな」
 慎重に告げると久美は口元をきつく結んだ。まるで教師に反抗する中学生のようだった。「宿直の運転係なんて退屈なものよ。クレーンのメンテナンスしたり、モニター眺めてるだけだもの」
 「それでも――」
 「こんなこというのもなんだけど、わたしみたいな管理係は日勤職場なのよ。工場長には取材のアテンドをするようにいわれたけど、正直、時間外勤務はちょっと。わたし、朋夏ほどもらってないから」
 給料の話をされるとつらい。いくら斜陽の新聞社でも地方公務員よりは格段に高給だ。だがそれを理由に取材を断るなんて聞いたことがない。基本はたがいの信頼関係だ。それも相手が税金で暮らす公務員となれば、国民への情報開示はより積極的に行うべきだ。だがこの場でそんなことをいうつもりは毛頭ない。
 久美のほうから訊ねてきた。「ピアノ、どうしてる?」
 朋夏は息がとまりそうになった。先ほど自分が久美に訊ねようとしてためらった質問だった。「ピアノかぁ……」動揺を押し隠しながら朋夏は記憶をたどった。「高校入ってから弾かなくなっちゃった。教室も中学まででやめちゃったし。高校では音楽系の部活には入らなかったの。水泳部でマネージャーやってた。あとは受験勉強かな」
 「そっか、意外と早く見切りつけたんだ。そうよね」久美はおかしそうにいった。「人さまからお金取れるピアニストなんか、そう簡単になれるわけがないものね。わたしもほんと、そうすればよかった」
 「高校でもつづけてたの?」
 久美はいきなり吹きだし、口に手をあてた。その姿はかつての親友と変わらなかった。「高校どころか大学なんて私立の音大に入ったのよ。東京でね」
 「すごいじゃない」
 「よしてよ、ばかにしないで」半分笑いながら、半分真顔で久美はいった。「もちろんピアノで入ったんだけど、入学するなり後悔したわ。自分の何十倍も才能のある人がごろごろしてるんだから。才能って努力で埋め合わせできないじゃない。それも四年かそこらじゃ。そう考えたら気持ちが萎えちゃって。音楽教員とかも考えたんだけど、それも未練がましいし、お給料のこと考えたらふつうに役所入ったほうがいいって思ったの。父親もそうだったし」
 久美の父親が公務員だったとは、朋夏はこのときはじめて知った。
 「長野県庁だったのよ。だからUターン就職も考えたんだけど、やっぱり東京にいるんだから都庁受けようと思ってね。そしたら落ちちゃった。やっぱりわたし、朋夏とちがって頭悪いから。それで臨海区に拾ってもらったってわけ。音大出て区役所勤めよ。それも最初は健康福祉課で、ピアノ弾いてた手で年寄りのよだれ拭いて、最後は独り暮らしのおじいちゃんに無理やり手握られて迫られたあげく、逃げるようにして帰ってくるの。あんな連中、とっととインフルエンザにかかって死んじゃえばいいって本気で思ったし、挫折感がないといえばうそになるわ。ピアノなんてもう見るのもいやだし、あのポロン、ポロンっていう音を聞くだけで気分が悪くなる。だけどね――」
 久美はキャスターつきのいすに背中をあずけ、両手を頭上にあげてのびをした。蛍光灯の光の加減からか、痛々しい傷のようなしわが目元に出現した。ぐったりと疲れた公務員。放課後、テレビドラマの話題でいつまでも盛りあがっていたあのころの輝きは、微塵も感じられない。
 「いまにして思えば、それがわたしの人生なんだって。運命なんだって。だからじたばたしてもはじまらないし、結婚もしていないけど、それなりにお給料もらって暮らしているんだから満足しなさいよって、自分に言い聞かせてるの。なんの因果かいまはこんなところに流れてきちゃったけど、ずっといるわけじゃないし、とにかく割り切って考えるようにしているわ。遠からず異動でしょう。ただ、そんなときに新聞社で活躍するあなたに会ったものだから――」
 「ごめんね、久美。付き合わせちゃって。今夜なにか用事とかあったのかしら」
 「ないわけじゃないけど、朋夏しだいかな」
 「一人で見学するわけにいかないかな」
 その提案を久美はしばらく反すうした。「そうしたいところだけど、わたしがついていないと、宿直の人たちが困ってしまう。とくに班長の中田さんは気難しいところがあるから」
 「そうなんだ。外部の人に神経質ってこと?」
 「まぁ、そんな感じ。現場ひと筋だし――」久美はリノリウム張りの床に目を落としてつぶやいた。「正直、わたしのこと嫌ってるから」
 「そりが合わないの?」
 「最近でこそ兼子さんとか運転係にも女性が入ってくるようになってきたけど、ちょっと前までは、清掃工場なんてどこも完全に男の職場だったのよ。だから職場の雰囲気は、旧態依然としているし、区役所なんかにくらべると、女性職員はつらい思いをしてる」
 いわんとすることは理解できた。その意味では女性の権利向上や管理職への優先登用がうるさいくらい叫ばれている新聞社とは、職場環境が根本的にちがうのだろう。
 「久美には迷惑かけないから」
 あきらめたように久美は天井をあおいだ。「でも森川くん、もうシフトに入ってると思うわ。きょうはずっとクレーンのメンテかな。ひとつおねがいだけど、勤務中はスラグアートの話は、なしにしてね。彼、ああいうタイプだから、いちど集中力がとぎれると元にもどるまで時間がかかるの」
 「了解。話しかけないようにするわ」
 「そう。じゃあ、七時ぐらいから回りはじめるってことでいいかしら。それまでわたし、残務整理をしておきたいの」
 「ってことは、どこで待ってればいいかな」
 久美はいらついたように眉をひそめた。もはや再会の感激なんて消え失せている。朋夏はぞっとするほど悲しかった。
 「下のロビーで待っていてくれるかしら。エアコンもきいてるから」久美は立ちあがって管理事務室のドアを自分で開け、出ていけとばかりに朋夏をうながした。
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