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文字数 2,053文字

 つい数日前まで父が伏していた部屋の真ん中に、惟澄はぼんやりと座っていた。
 昼の暑さは和らぎ、庭の池を渡って夕刻の涼しい風が吹き込んでくる。蚊遣り火の煙が、つんとする臭いとともに細く流れた。
 遺品を片づけようとしたものの、父はこの部屋をいつ娘にあけわたしてもいいようにきちんと整理しており、やることはあまりなかった。
 こんなにもあっけないものかと思えるような最期だった。なんの前触れもなく足腰が弱くなり、床につく時間が増え、やがて眠ったまま、静かに息をひきとったのだ。
 死んだものの霊は、すみやかに地霊に還さなければならない。
 弔いの儀礼は慌ただしく、気づけば父はもう墓の中だった。
 母が病死した時はまだ幼くて泣いてばかりいた。羽矢がしきりに慰めてくれた。
「泣くな、伊澄」
 自分だって目を真っ赤にしながら、羽矢は言ったっけ。
「わたしがいる。ずっとそばにいる」
 その言葉は嘘だった。
 いつのころからか羽矢は惟澄に背を向けて、こちらを見ようともしなくなった。
 昔のように羽矢が手をさしのべてくれるのを、惟澄はずっと待っていたのだが。
 自分が父のように横たわった時、羽矢はまだ青年の姿のまま、飽きもせずに馬を駆っているのだろうか。
 ほんの少し、申し訳なさそうな顔をして。
 惟澄は、ため息をつき、ふと眉をひそめた。
 それにしても、自分の父の死と入れ替わりに刀也が現れるとは皮肉な話だ。羽矢は、父親の突然の帰還をどんな思いで受け止めているのか。
 泉が来客を告げに来た。
 更伎だった。
 更伎は深々と頭を下げて哀悼を示した。彼自身、二年前に父親を亡くしている。
「まだ落ち着かないだろうけれどね」
「ええ。でも、そろそろ弓を引こうと思っているの。じっとしていても、しかたがないし」
「それがいい」
 惟澄は更伎と並んで部屋の縁に座り、涼しくなってきた庭風を頬にうけた。
「羽矢は、刀也さまと顔を合わせていないようだよ、惟澄」
 更伎の言葉に、惟澄は眉を上げた。
「気になっていたのだろう」
「ええ」
 惟澄はあいまいにうなずいた。
「わたしも羽矢に会っていない。あいかわらず、一日中馬を乗り回している。このごろは、日が暮れても邸に戻って来ないようだ」
「そう」
 羽矢は、父親にどう向き合っていいかわからないのだろうと惟澄は思った。あまりに突然すぎる対面だ。
「刀也さまは、なぜ帰って来られたのかしら」
「わからない」
 更伎は長い両指を膝の上で組み合わせた。
「今日、はじめて刀也さまのお顔を見た。琵琶を聴きに来られたんだ。羽矢とはあまり似ていなかったな」
 更伎は、ちょっと間を置き、
「刀也さまは、左手がなかった」
「手?」
「肘から下を失っていた。いったい、今まで何をなさっていたのだろう」
 惟澄はぼんやりと首を振った。天香を離れていた十八年間、刀也が安穏としていなかったことだけは確からしい。
 だが、何をしていたにせよ、刀也は帰って来たのだ。
 惟澄は思った。
 羽矢だって、やがては打ち解けるだろう。あの父子には、時間がたっぷりあるのだから。
「龍の琵琶は」
 惟澄は話をそらした。
「すっかり弾きこなせるようになったのでしょう」
 更伎は首を振った。
「まだ、月弓さまのようにはいかないな。意にそぐわない弾き方をすると、音が出なくなったり、自分で別の弦を弾いたりするんだ。うまくいっているような時でも、ふと気がつくと私が弾いているのか、琵琶に弾かされているのかわからなくなる。ともすれば、琵琶にとりこまれてしまう」
 更伎は、自分の両手を見つめた。
「龍の琵琶に支配されるのではなく、支配しなければならないと月弓さまはおっしゃる。わたしはほんとうにあの琵琶の持ち主になれるのか、不安だよ、惟澄」
 更伎は、目を伏せた。
「月弓さまは、なぜわたしを後継者にしたのだろう」
「なぜ──」
 それは、惟澄も思っていたことだった。月弓は、おそらく自分たちより長く生きるだろう。いま月弓がやっていることは、ただの気まぐれにしか思えなかった。更伎が龍の琵琶を継いだところで、それはまた月弓のもとに還るはずなのだ。
「理由を訊いてみたことはないの?」
「ある」
「月弓さまは、なんて?」
「わたしには、その力があるとだけ」
「そう」
「わたしも、月弓さまのように龍の琵琶を弾きこなしたい。あれを支配してみたい。だが、生きているうちにできるだろうか」
 更伎は深々と息をはき出し、首を振った。
「すまない。弔問のはずだったのに、こんな話を聞かせてしまって」
「そんなこと」
「なにも考えず、琵琶を弾くのが一番だとは思っているんだ。別に、龍の琵琶が自分のものにならなくともかまわない。月弓さまには感謝している。わたしに琵琶を、生き甲斐を与えてくれたから」
「うらやましいわ。あなたが」
 惟澄は心から言った。
 更伎には、一生かけて打ち込めるものがある。
 自分には、何もなかった。
 ただ生きているだけだ。
 惟澄は、黄昏の色を帯びはじめた庭に目を向けた。
 この鬱々たる思いから、どうすれば抜け出すことができるのだろう。
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