文字数 3,028文字

 更伎が月弓とともに前庭に現れた。
 引き継ぎは、すっかり終わったらしい。
 明るい紫色の袍に銀糸の飾り帯の礼装で、龍の琵琶を持った更伎は、青ざめてはいたがその顔にしっかり決意のようなものを浮かべている。
 月弓の方は、はじめから白装束だった。彼が普段使っている別の琵琶を手にしている。この琵琶とともに月弓は眠るつもりなのだ。
 羽矢の傍らにいた柚宇の瞳が、ゆらぐように翳った。
 佐尽だけが見送りに来ていた。庭の隅で、深々と頭を下げている。
「では、行こうか」
 月弓が言った。
 柚宇が静かにうなずき、領巾をからめた手を羽矢にさしのべた。羽矢がその手を取ろうとした時、またしても山がゆらいだ。
 足を踏ん張っていなければ立っていられないほどの強い揺れだ。館の柱が、ゆさゆさと左右に揺さぶられているのがはっきりとわかった。中から女たちの悲鳴が聞こえてくる。
「急ぐとしよう」
 揺れがおさまると、月弓がつぶやいた。
 羽矢はこんどこそ柚宇の手をとり、彼女の呪力に身をまかせた。

 不二は、ふうとひと息ついた。樹齢何百年とも知れぬ杉の木々が凛々とそびえ立ち、まわりを取り囲んでいる。
 どのあたりを歩いているのか、見当をつけるにはむずかしかった。だが、山道がひどく急になってきたことで、頂が近くなってきたことだけはわかる。
 やがて杉の木よりも灌木が多くなり、坂道にむきだしの岩が増えてきた。歩きづらく、右足に痺れるような痛みを覚えた。〈龍〉たちは足を使わなくとも山頂にたどり着けるから、道を整備することなど考えもしていないのだろう。
 恨み言のひとつも言いたくなるが、誰も通らないのだから見つかる心配はまずあるまい。
 道は急斜面に変わりつつあった。これが道と言えるのかどうか。石がごろごろと転がり、足場が悪かった。不二は這うように登り続けた。
 したたる汗をぬぐって顔を上げると、斜面の上に空が広がっていた。
 山頂だ。
 ここからは、身を隠しながら登らなくては。
 不二は、灌木の茂みの中に入ろうとした。
 その時、臓腑が震動するような地鳴りが起こった。山が胴震いし、立っていられないほど足下が揺さぶられた。大小の石が斜面を転がり落ちる。不二は近くの木を掴んだが、あいにく根が浅く、周りの木もろとも地崩れにまきこまれた。
 揺れがおさまり、土まみれになりながらも身を起こした。幸い崩れたのは斜面の一部で、山頂からさほど遠ざかっていない。
 伊薙が〈蛇〉の侵入を怒っているのかもしれないな。顔の土をぬぐいながらちらと不二は思った。だが、ここまで来たのだ。行くしかないだろう。
 不二は斜面にはりつき、灌木の影に隠れながら山頂をのぞいた。
 頂の中央に、大きな石が積まれていた。よく見ると、一枚岩を組んで巨大な長方形の室が造られている。二千年も前の石室だ。おそらく、昔は土盛りがしてあったのだろう。長い年月で土は削られ、石室があらわになったのだ。
 この中で伊薙は眠っているわけか。
 〈龍〉の呪力者たちは、すでに十人ほどが石室の前に集まっていた。銀髪小柄でひどく年老いた男女が三人がおり、彼らは側の〈龍〉に支えられて立っていた。長老と言われている者たちなのだろうと不二は思った。
 その老人たちの近くに、人影が現れた。空から生み出されたかのように忽然と。
 さすがに不二は息を呑んだ。恐るべきは〈龍〉の呪力だ。
 羽矢たちだった。
 羽矢は柚宇から離れると、落ちつかなげにあたりを見まわしていた。
 月弓と柚宇が長老たちに歩み寄り、言葉を交わした。
 羽矢は、硬く立ちつくしているような更伎の所に行って、励ますようにその腕をつかんだ。
 刀也が石室の前に進み出て、右手をかざした。手前の石がゆっくりとずれて、石室の入り口が現れた。
 羽矢は更伎になにかひとこと言ったようだ。更伎が返事をする間もなかった。 
 羽矢は駆け出し、刀也の前をすりぬけて石室の中へと飛び込んだ。
 すべては、一瞬の出来事だった。
「羽矢!」
 刀也の叫びだけがはっきりと聞こえた。
 一呼吸後、大地が轟いた。
 今までの地震とは比べものにならないほどの揺れが山を襲った。夜彦山全体が崩れてしまいそうなほど。
 不二は、必死で木の幹にしがみついた。〈龍〉たちも立ってはいられず、伏せるようにしゃがみ込んでいた。
 巨石が歪んだ。羽矢を中にいれたまま、石室が崩れ落ちていく。高く土煙が上がり、石片が四方に飛び散った。
「羽矢さま!」
 不二は思わず斜面から飛び出していた。
 揺れは小さくなったが、地鳴りの不気味な余韻が残る中、風が強くなってきた。黒雲が湧き、空が翳った。ぞっとするほど冷たい風が吹いてくる。
 不二より先に、刀也が石室に駆け寄っていた。
 巨石は、半地下だったらしい窪みに、めりこむように崩れ落ちていた。
 刀也はその前で力なく両膝をついた。
 不二は、刀也が何かを抱え上げるのを見た。
 羽矢だ。
 巨石の下から、呪力で救い出したのか。
 羽矢の顔は、額が裂けて血が流れているほかは綺麗なままだった。しかし、胸から下は完全に押しつぶされ、形が妙な具合にねじれていた。右手には刀子を握り、その細い刃にも血がついている。
 手から刀子が落ちた。羽矢はすでに息をしていなかった。
 あたりは夜のように暗くなり、横なぐりの雨が降ってきた。羽矢からしたたり落ちる血が、雨とともに地面に流れた。
「荒霊が解き放たれた」
 呆然と立ち尽くした不二の耳に、誰かの声がはっきりと聞こえた。
「更伎、琵琶を」
 月弓の声もする。
「霊鎮めの琵琶を弾く」
 月弓が伊薙と代わる前に、荒霊の封じ込めが解けたのか。
 なぜ?
 不二は雨で洗われている刀子を見つめた。羽矢のしわざなのか。
 なんのために。
 月弓たちの琵琶が響いた。二人は、風雨に負けじと琵琶をかき鳴らしていた。
「不二」
 刀也が振り返った。
「羽矢を連れて行ってくれ」
「刀也さま」
 刀也は、羽矢のなきがらを不二に押しつけた。
 羽矢を抱え直す間もなく、不二は月弓の館に戻っていた。
 母屋の庭先だった。
 見まわすと、建物の柱は歪み、庇が落ちていた。池の水は干上がり、母屋の下にそって亀裂が走っている。倒壊した棟もあるようで、館の人々の互いを呼び合う声が風と雨の音に混じってあちこちで聞こえている。
「不二どの」
 佐尽が不二を見つけ、羽矢に気づいて絶句した。
 不二は、佐尽と目を合わせ、首を振った。どうしようもなく涙が出てきた。
「浄めてさしあげなくては」
 佐尽は低く言い、不二を長屋の方に導いた。
 屋根の低い建物はかろうじて潰れずに残っていて、女たちが、次の揺れが来てもすぐ逃げ出せるように軒近くにかたまっていた。怪我人もそこに運び込まれて来る。
 詰め所は戸が全部落ちてしまったものの原型はとどめており、不二は羽矢をそこに横たえた。
 泣き叫ぶ須守たちに羽矢をまかせて、不二はふらりと詰め所を出た。とたんに、誰かに腕をつかまれた。
 都琉だった。
「ご無事でしたか、都琉どの」
「いったい、何があったのでしょう」
 都琉は、押し殺した声で言った。
「羽矢さまは帰って来られた。更伎さまは?」
 不二は首を振るしかなかった。都琉は低くうめき、山頂を見はるかすようにした。そして、身体を強ばらせた。
 不二は都琉の視線の先をたどり見た。
 黒く流れる雨雲の中に、龍が身をくねらせて翔んでいる。
 月弓と更伎の琵琶が創り出した幻なのか、それとも本物の龍なのか。
 不二にはわからなかった。


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