文字数 2,162文字

 馬は黒々とした瞳で不二を見つめ、なんだ、おまえか、といったふうに軽く鼻をならした。
 不二は思わず笑って、ごしごしと首の横を撫でてやった。羽矢が乗っていた、栗色の賢そうな馬だった。
 名は明星(あかぼし)だと、馬丁の少年が教えてくれた。羽矢は明星を可愛がり、毎日のように遠乗りするのだという。
 不二はまず、この明星の世話をすることにしたのだった。
 なるべく羽矢の側にいるようにと佐尽は言ったが、羽矢はどうもそれを好んでいないようだ。いままでの側人も、うるさいだけの存在だったのではないか。はじめのうちは、目障りにならない程度に仕事をしていったほうがいいだろう。
 不二が明星のたてがみを丁寧に梳いてやっていると、羽矢がやって来た。手にしているのは竹筒と小さな包み。水と軽食。遠乗りの準備というわけだ。
「早いお出かけですね」
 明星に鞍をつけて、不二は言った。
「お供いたしましょうか」
「いや、いい」
 そっけなく、羽矢は答えた。
 さっさと駆け去っていく羽矢を見送りながら、不二は頭をかいた。
 さて、これから、どうやって過ごそうか。今日一日は始まったばかりなのだ。
 馬丁の仕事を一通り手伝い終えて、不二は厩を後にした。獣と藁の匂いを消し飛ばそうと、風通しのよさそうな場所で両手を伸ばす。
 そこはむき出しになった天然の大岩の上で、周りより少しばかり高くなっていた。背伸びすると、昨日、不二が佐尽とともに上ってきた坂道が見下ろせた。
 今はその道を、別の二人連れが辿っている。薄緑色の衣をまとった細身の人物と、その影のような黒っぽい大きな男。大柄な方は、一抱えの荷物を手にしていた。
 不二は一人うなずいた。そういえば、昨日、須守が言っていたっけ。琵琶の稽古に来る麓の若殿、更伎という名だったか。側人に琵琶を持たせてお出ましというわけか。
 ずっと眺めているわけにはいかず、不二は岩から降りて詰め所に向かった。みなそれぞれに仕事があるようで、詰め所には誰もいなかった。
 詰め所の壁にもたれて腕組みし、そのうちについうとうととしてしまった。誰かが入ってきた気配で目を開けた。
戸口に立って不二を見下ろしていたのは、浅黒い顔をした、頑丈そうな体格の青年だった。眉が太く、目つきが鋭い。さっき、琵琶を持っていた方の人物だ。
 視線が合うと、彼は軽く会釈した。ぼそりと低い声で、
「初めてお見かけしますが?」
 不二も頭を下げた。
「昨日からこのお館に来ました、不二と申します」
「ああ、あなたが」
 眉も動かさずに、彼は言った。
「わたしは都琉(つる)。更伎さまの側人です」
「今日は、お供で?」
「更伎さまの稽古の間は、いつもここで待たせてもらっています」
 都琉は、入り口近くに腰を下ろした。
「泉から聞きました。真崎どののお従兄だとか」
「血が繋がっているだけの田舎者ですが」
 不二は、笑ってみせた。
「泉どのとは、よくお話されるのですか?」
「更伎さまと惟澄さまはご友人です。泉とはたまに顔を合わせます」
「なるほど」
「羽矢さまは、お出かけなのですね」
「わかりますか?」
「更伎さまの稽古日には、たいていいらっしゃいませんから」
「そうですか」
 羽矢は更伎を避けているのだろうか。
 それとも、〈龍〉の新世代全部を?
稽古が始まったとみえる。琵琶の音が聞こえてきた。
 不二は、耳をそばだてた。
 ひとつの琵琶の旋律を、もうひとつの琵琶が正確に繰り返している。楽器のことにはまるで疎い不二にも、その指さばきの複雑さは理解できた。
 後の琵琶の音はしだいに早くなって先の琵琶を追いかけ、やがて二つの音はぴたりと重なって、一糸乱れぬ合奏となった。龍が大空を舞っているような、伸びやかで優美な曲だ。
「すばらしい腕前ですね」
 不二はお世辞抜きで言った。
「月弓さまにもひけを取らない」
 都琉の顔に、はじめて笑みがよぎった。
「更伎さまは、琵琶を弾くために生まれてきたようなお方です。本当に琵琶がお好きなのですよ」
「月弓さまの跡を継がれるとか」
「冬の大龍祭に正式に認められるはずです」
 目を閉じ、満足げに琵琶の音に聞き入る都琉を、不二はすこしばかり羨ましい思いで眺めやった。泉といい、都琉といい、主人を心底敬愛しているようだ。
 はたして自分は、羽矢にそんな感情を抱けるだろうか。
 いや、それより先に、この仕事を続けていけるかどうかが問題だな。
 不二は苦笑した。
 なんとか、がんばるとしよう。多雅の屋敷にはおいそれと戻る気にはなれなかったし、何より、不二はここが気に入った。〈龍〉に、これほど近く関わる場所など、他のどこを探してもないだろうから。
 琵琶が鳴り止んだのは、夕刻近くだった。門を出る更伎を、不二はさっきよりずっと近くで見ることができた。
 都琉と並ぶと、中背で肉の薄い体つきが、いっそう華奢に見える。不二と同じ歳だと須守から聞いた。
 常に微笑んでいるような、優しげで端正な顔立ちは、まぎれもなく柚宇の血筋を思わせる。だが、柚宇とは何世代離れているのだろう。
 不二は首をかしげた。
 そもそも、柚宇は何歳なんだ?
 更伎が去って間もなく、羽矢が帰ってきた。厩の前で待っていた不二に無言で手綱を渡し、行ってしまった。
 ごくろうさん、とでもいうように明星が不二を見てヒンといなないた。

               
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