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文字数 1,794文字
いつもの朝、不二はなにげなく羽矢に声をかけた。
「お供しましょうか?」
「好きにすればいい」
思いもしなかった言葉が、ぶっきらぼうに返ってきた。
不二は喜んで、従者用の馬に鞍を置いた。
拒まれないのをいいことに、それからはほとんど毎日、不二は羽矢の遠乗りに従った。
羽矢の行く先は気まぐれだ。南かと思えば北、野山かと思えば河原、続けて同じ道を取ることはない。
不二は、長い綱で杭に繋がれた子犬を連想した。周りを遮二無二駈けまわり、日が暮れると律儀に杭の側へ戻るのだ。
羽矢の杭とは、龍の一門の血なのだろう。彼の父親は、綱を断ち切ってどこかへ行ってしまったのだが。
その日の羽矢は、夜彦山の西に出た。政庁のある東側と比べると、家屋敷の数はずっと少ない。三つ四つの集落と耕作地を過ぎると雑木林が一面に広がり、なだらかな丘陵に続いている。
馬は、丈の低い木々の中を一気に駈けぬけた。茂みの中の野兎が、驚いて跳び上がり、四方八方に逃げていく。
まぶしい陽射しはもう夏のものだ。丘に入って木陰を求めた。涌き水があったので、二頭の馬を憩わせた。
不二は汗をぬぐって一息ついた。
羽矢は明星のかたわらで、冷たい水に両手をひたしている。顔を洗い、ぶるっと獣のように首を振った。
不二はあわてて乾いた手拭を差し出した。
「水が気持ちいい季節になりましたね、羽矢さま」
「ああ」
顔を拭きながら羽矢は言った。
「不二の故郷は南だ。ここより、ずっと暑くなるのだろう?」
「どうでしょう。海辺ですから、浜風が入りましてね。叔母などは、都の方が暑いと言っています」
「そうなのか」
「まあ、この夏を過ごしてみないと、わたしとしては何とも言えませんが」
不二は目を細めて空を仰いだ。
「天香より夏が早く来るのは確かですね。わたしの弟たちは、もう海で泳ぎまわっているでしょうよ」
「不二には弟がいるのか」
「妹もいます」
羽矢は、きょとんとした。
「何人兄弟なんだ?」
「兄と姉、弟と妹がひとりづつ」
「五人か」
羽矢はあっけにとられたように言った。
「めずらしいな」
「故郷では、普通でしたよ」
普通でないのは天香の方だ、と不二は思った。龍の一門は別にしても、都の子供の数は少なすぎる。真崎のような一人っ子は当たり前で、せいぜいが二人か三人きょうだいだ。
地霊の少なさは、〈龍〉どころか天香に住む者すべてに影響を与えているのかもしれない。
二人は、もう一度馬に乗ろうと歩みかけた。あたりの茂みにざわめきが走ったのはその時だ。
けたたましい鳴き声と羽音をたてて鳥たちが一斉に飛び立った。
明星が、警戒のいななきを上げた。
羽矢と顔を見合わせる間もなく、叫び合うような人声が聞こえた。潅木を掻き分けて、一頭の鹿が二人の前に踊り出た。
角の見事な雄鹿だ。背中に傷を負っているようで、毛並みにべっとりと血が張り付いている。
痛みと恐怖で興奮した鹿の目には、何も映っていなかった。ただ、なんとかしてこの場を逃れたい一心だったのだろう。角を振り上げ、そのまま二人に突進してきた。
不二は夢中で羽矢を庇った。彼を抱えるようにして鹿に背を向けた瞬間、右足に凄まじい痛みを覚えた。
「不二!」
羽矢が叫んだ。
鹿の角は、深々と不二の太ももに突き刺さっていた。鹿はとどめのように頭をひねって不二に激痛を与え、角を引き抜いた。そして身をひるがえし、茂みの中に走り去った。
不二は、羽矢にささえられたまま倒れ込んだ。脈打つたび、足から血が吹き出すのが分かった。
「おい!」
「大丈夫か!」
羽矢ではない、別の声がいくつか聞こえた。
「朔乃 、おまえたちの仕業か」
羽矢が怒っている。
「すまない。仕留めそこなったんだ。まさかここにあなた方がいたとは」
かろうじて意識が留まり、不二はうっすらと目を開けた。見知らぬ狩装束の青年が四人ほど、自分の周りを取り囲んでいる。瞳の色は黒かったが、明らかに龍の一門を思わせる風貌だ。
「傷口も塞がなくては。羽矢」
朔乃は、不二の横にかがみ込んでいる羽矢に首をめぐらし、ゆっくりと言った。
「あなたの呪力でなんとか」
羽矢は、一瞬顔を強ばらせた。
「いえ」
声をふりしぼって不二は言った。
「羽矢さまのお手を煩わすなど‥‥…。羽矢さま‥‥…どうか、ご心配なく」
しかし、もう起き上がることもできなかった。
身体の力はすべて抜け、不二は完全に気を失っていた。
「お供しましょうか?」
「好きにすればいい」
思いもしなかった言葉が、ぶっきらぼうに返ってきた。
不二は喜んで、従者用の馬に鞍を置いた。
拒まれないのをいいことに、それからはほとんど毎日、不二は羽矢の遠乗りに従った。
羽矢の行く先は気まぐれだ。南かと思えば北、野山かと思えば河原、続けて同じ道を取ることはない。
不二は、長い綱で杭に繋がれた子犬を連想した。周りを遮二無二駈けまわり、日が暮れると律儀に杭の側へ戻るのだ。
羽矢の杭とは、龍の一門の血なのだろう。彼の父親は、綱を断ち切ってどこかへ行ってしまったのだが。
その日の羽矢は、夜彦山の西に出た。政庁のある東側と比べると、家屋敷の数はずっと少ない。三つ四つの集落と耕作地を過ぎると雑木林が一面に広がり、なだらかな丘陵に続いている。
馬は、丈の低い木々の中を一気に駈けぬけた。茂みの中の野兎が、驚いて跳び上がり、四方八方に逃げていく。
まぶしい陽射しはもう夏のものだ。丘に入って木陰を求めた。涌き水があったので、二頭の馬を憩わせた。
不二は汗をぬぐって一息ついた。
羽矢は明星のかたわらで、冷たい水に両手をひたしている。顔を洗い、ぶるっと獣のように首を振った。
不二はあわてて乾いた手拭を差し出した。
「水が気持ちいい季節になりましたね、羽矢さま」
「ああ」
顔を拭きながら羽矢は言った。
「不二の故郷は南だ。ここより、ずっと暑くなるのだろう?」
「どうでしょう。海辺ですから、浜風が入りましてね。叔母などは、都の方が暑いと言っています」
「そうなのか」
「まあ、この夏を過ごしてみないと、わたしとしては何とも言えませんが」
不二は目を細めて空を仰いだ。
「天香より夏が早く来るのは確かですね。わたしの弟たちは、もう海で泳ぎまわっているでしょうよ」
「不二には弟がいるのか」
「妹もいます」
羽矢は、きょとんとした。
「何人兄弟なんだ?」
「兄と姉、弟と妹がひとりづつ」
「五人か」
羽矢はあっけにとられたように言った。
「めずらしいな」
「故郷では、普通でしたよ」
普通でないのは天香の方だ、と不二は思った。龍の一門は別にしても、都の子供の数は少なすぎる。真崎のような一人っ子は当たり前で、せいぜいが二人か三人きょうだいだ。
地霊の少なさは、〈龍〉どころか天香に住む者すべてに影響を与えているのかもしれない。
二人は、もう一度馬に乗ろうと歩みかけた。あたりの茂みにざわめきが走ったのはその時だ。
けたたましい鳴き声と羽音をたてて鳥たちが一斉に飛び立った。
明星が、警戒のいななきを上げた。
羽矢と顔を見合わせる間もなく、叫び合うような人声が聞こえた。潅木を掻き分けて、一頭の鹿が二人の前に踊り出た。
角の見事な雄鹿だ。背中に傷を負っているようで、毛並みにべっとりと血が張り付いている。
痛みと恐怖で興奮した鹿の目には、何も映っていなかった。ただ、なんとかしてこの場を逃れたい一心だったのだろう。角を振り上げ、そのまま二人に突進してきた。
不二は夢中で羽矢を庇った。彼を抱えるようにして鹿に背を向けた瞬間、右足に凄まじい痛みを覚えた。
「不二!」
羽矢が叫んだ。
鹿の角は、深々と不二の太ももに突き刺さっていた。鹿はとどめのように頭をひねって不二に激痛を与え、角を引き抜いた。そして身をひるがえし、茂みの中に走り去った。
不二は、羽矢にささえられたまま倒れ込んだ。脈打つたび、足から血が吹き出すのが分かった。
「おい!」
「大丈夫か!」
羽矢ではない、別の声がいくつか聞こえた。
「
羽矢が怒っている。
「すまない。仕留めそこなったんだ。まさかここにあなた方がいたとは」
かろうじて意識が留まり、不二はうっすらと目を開けた。見知らぬ狩装束の青年が四人ほど、自分の周りを取り囲んでいる。瞳の色は黒かったが、明らかに龍の一門を思わせる風貌だ。
「傷口も塞がなくては。羽矢」
朔乃は、不二の横にかがみ込んでいる羽矢に首をめぐらし、ゆっくりと言った。
「あなたの呪力でなんとか」
羽矢は、一瞬顔を強ばらせた。
「いえ」
声をふりしぼって不二は言った。
「羽矢さまのお手を煩わすなど‥‥…。羽矢さま‥‥…どうか、ご心配なく」
しかし、もう起き上がることもできなかった。
身体の力はすべて抜け、不二は完全に気を失っていた。