アナスタシア〈第4幕〉
文字数 1,731文字
「…‥茶谷くーん、絵を描いているうちに愛着が湧いてしまって、手放せないという気持ちは分かるよ。
だがね、そんなことは、多かれ少なかれ、画家だったら誰にでもあることだ。
大丈夫さあ、茶谷くん。
すぐに次の作品に取り掛かるようになれば、そっちが最重要事項になって、過去に手掛けた作品のことなんか、そのうちに忘れていくものなんだよ」
「違うんです。
彼女は…‥彼女のことだけは、そんなふうに割り切って考えられない。
とにかく、僕は彼女のことだけは、一生涯手放さないでおこうって決めたんです」
「茶谷くーん、往生際が悪いったらありゃしないねえ。いいかい?
画家の仕事なんていうのは、作品が仕上がってしまえば、それでお仕舞いなんだよ。
あとは販売のプロに任せなさい。
悪いようにはしないから」
菊川さんは、次第に苛立ちを募らせながらも、決して一歩も引こうとはしなかった。
凄腕の画商としての威信に賭けて、どうあっても『アナスタシア』を奪っていくつもりなのだ。
それならば、僕にだって考えがある。
「どうしても、彼女を攫(さら)っていくつもりなんですね」
「攫うだなんて、人聞きが悪いなあ。
画廊に展示するために、運び込もうとしているだけじゃないか」
僕は床に手を付きながら、亡霊のようにゆらりと立ち上がった。
そうして、油絵の具のこびりついている樫材のテーブルの上に転がっていたパレットナイフを取り上げると、それを握り締めた。
それから『アナスタシア』のすぐ傍まで近付いていき、両膝を抱えて小首を傾げている彼女の白い肢体目掛けて、振り降ろした。
キャンバス地の裂ける、鈍い音が響いた。
それと同時に、僕の心にも痛烈な痛みが走った。
その途端、菊川さんは顔面蒼白になり、その場にへなへなと膝を付いた。
「なっ…‥何ていうことをしてくれたんだ、あんたは!
こんなことをされたら、いくら何でも修復は不可能だ。
行く行くは、美術界の至宝と謳われたかも知れないのに…‥。
茶谷くん、こうなったら、責任を取ってもらうよ」
可笑しな言い掛かりだとは思ったが、僕は素直に頷いた。
これでは、恵比寿様のように温厚な菊川さんが逆上するのも、無理からぬことだ。
「分かりました。
僕は何をすればいいんですか?」
「取り敢えずはだね、『ワルキューレ』で一手に引き受けていた茶谷くんの絵画の販売から、今後一切、手を引かせてもらうことにするよ。
これからどんな画廊に作品を持ち込もうが、茶谷くんの自由だ。
しかしね、この美術業界で、私のサポート無しに画家としてやっていこうと思ったら、色々と苦労が多いということだけは、覚えておきなさいよ。
画廊『ワルキューレ』の影響力がどれほどのものなのかを知る、良い機会にはなるだろうがね」
菊川さんは、吐き捨てるようにそう口にすると、負傷した兵士のようによろよろと立ち上がった。
そうして、今となっては疵物(きずもの)になってしまった『アナスタシア』に、惜別の一瞥を投げ掛けた。
それから、がっしりした背中に侘しさを滲ませながら、アトリエからすごすごと出て行った。
僕は、『アナスタシア』と再び二人きりになった途端、手にしていたパレットナイフを取り落とした。
それが床に当たった瞬間、物寂しい乾いた音が鳴り響き、暫しの間、渦を巻くように反響が続いた。
心は毟(むし)り取られたようにひりひりと痛み、血を滲ませていた。
それでも、自分が手を下したことに、後悔はしていなかった。
確かに作品としての『アナスタシア』は失ったかも知れないが、その代わり、女性としてのアナスタシアは、未来永劫、僕と共にいてくれるのだ。
そう考えたら、パレットナイフが奏でる反響音は、ささやかながらも、勝利の鐘のようにも聞こえてくる。
それなのに、『アナスタシア』と静かに見詰め合っているうちに、何故だか涙が零れた。
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・・・ 第5幕へと続く ・・・
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