アナスタシア〈第5幕〉

文字数 1,160文字





 十月の海岸に打ち寄せる波音は、どの季節の時よりも、しっとりとした響きを含んでいるように感じられる。

 僕は両膝を抱えた格好で、ひんやりとした砂浜に腰を下ろし、穏やかな鼓動を繰り返す海原を眺めている。

 老舗の画廊『ワルキューレ』から全ての作品を引き揚げてから、一月余りが過ぎていた。

 その間、他の画廊を何件か回ってみたものの、既に菊川さんといざこざを起こしたことは知れ渡っており、そのせいで、取り引きを進めようとしても、悉(ことごと)く難色を示されるのだった。

 もうこうなったら、今少しほとぼりが冷めるまで待つか、さもなければ、海外への移住を考慮に入れた方が良いだろう。

 とにかく今必要なのは、積極的な攻めの姿勢ではなく、斥候のように水面下で虎視眈々と、敵側の動静を見極めるための忍耐力だった。

 そんなふうに今後の身の振り方について、あれこれと思い悩んでいるところへ、干し草のようなほんのりと甘い香りが、僕を柔らかく包み込んだ。

 けれどもそこには何故かしら、微かなテレピン臭さも混ざり合っていた。

 僕は両肩に回された細い腕を掴むと、ゆっくりと首を傾けた。

 すると、そこに待ち構えていたのは、吸い込まれてしまいそうな澄んだエメラルド・グリーンの瞳だった。

 そうしてその中には、鮮やかなセルリアン・ブルーの煌めきが、暗号のように点々とちりばめられている。

 そして、その暗号を解読出来るのは、世界中では勿論、僕一人だけだ。

「アナスタシア」

 その囁きは、蕩(とろ)けるように甘く滲んだ。

 僕が彼女の存在を認めたその瞬間、少し張り詰めているようだったアナスタシアの表情が、見る見るうちに柔らかく解けていった。

「あたしが分かるのね? 良かった。

 あの時、絵の中の女として一度死んでから、人間の女に生まれ変わるまでに、少し時間が掛かったの。

 その間、あなたがあたしを忘れてしまうんじゃないかと思って、気が気じゃなかったわ」

「忘れるものか!

 僕がきみを忘れてしまうなんて、一生涯、有り得ないよ。

 だけど、きみが人間の女性として、生まれ変わる準備をしていたことには気付かなかったな。

 …‥ところで、その格好は?」

 アナスタシアは、よれよれの男物のギンガムチェックのシャツを一枚だけ、身に付けていた。

 そしてそれは、僕がアトリエに置きっ放しにしている、着古したシャツと良く似ていた。

 それを今は何に使用しているかと言うと、テレピン油で洗った絵筆を拭う時だった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

・・・ 第6幕へと続く ・・・


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