アナスタシア〈第3幕〉

文字数 1,655文字

 



 いつから記憶を失っていたのか、最早定かではない。

 目が覚めてみたら、朝になっていた。

 一晩中床に寝転がっていたものだから、身体の節々が軋るように痛かった。

 目の前には、暗い色合いをした緑色のボトルが転がっている。

 結局、一瓶空けてしまったのだ。

 僕はヒキガエルのような呻き声を発しながら、どうにか身体を起こした。

 自分の身体でありながら、思うように動かせなくなっている。

 だが、アルコールに主導権を渡してしまうということは、そういうことなのだ。

 せっかくアナスタシアと二人で祝杯を上げ、良い気分に浸るつもりが、悲しいかな、激しい後悔に取って代わられていた。

 アトリエにふんだんに射し込んでいる蜂蜜色の陽光の中で、細かな埃がチラチラと舞い踊っている。

 そのままぼんやりと部屋の中を見渡していた時、『アナスタシア』の近くに佇んでいる人物がいることに気付いた。

 その瞬間、全身が総毛立った。

 当然だ。

 何故ならこの場所は、僕達二人で作り上げた、濃密な愛の巣なのだから。

 異物のように、第三者が存在していて良い筈がなかった。

 しかしその人物は、見ず知らずの他人というわけではなかった。

 それどころか、何かと面倒を見てくれる親戚の伯父さんのように、僕にとっては馴染みの深い人物だった。

 そのことに少なからず安堵したものの、次の瞬間には、頭の天辺から冷水を浴びせられたような気分に陥った。

 何故ならば、その人物とは、今、僕が最もアトリエに招き入れたくない人物だったからだ。

 彼がこの場にいるくらいなら、金品目当ての押し込み強盗の方が、まだましだと思ったくらいだ。

 案の定、菊川さんは、熱に浮かされたような眼差しで、食い入るように『アナスタシア』を見詰めていた。

 そのうち僕が目覚めたことに気が付くと、気が抜けたように微笑んで、右手を小さく振ってみせた。

「やあ、茶谷くん、お早う。

 気分はどうだい?

 勝手にアトリエに入ってしまって、すまなかったね。

 何しろ随分と長い間、画廊に顔を見せに来なかったものだから、身体でも壊してるんじゃないかと心配になってね、預かっていた合鍵を使って、こうして様子を見に来たというわけなんだ。

 …‥だけどまあ、来てみて驚いたよねえ。

 確かに、こんな大作にエネルギーを注いでいる最中に、画廊にふらりと遊びに来ている場合じゃないもんねえ。

 それにさあ、こーんな見事な傑作が晴れて完成したら、そりゃあドン・ペリでも飲んで、祝いたくもなるよねえ。

 いやー、茶谷くん、でかしたねえ。

 早速、画廊に運んでもらう手筈を整えるからね。

 大丈夫、これならすぐに買い手が付くよ。

 私の頭の中には、こういうタッチの絵画を好む収集家の顔が、何人か思い浮かんでいるんだ」

 菊川さんは、ベージュのチノパンツのポケットの中から、いそいそとスマートフォンを取り出すと、手早く運送業者に連絡を取り、絵画を運び出す段取りを相談し始めた。

 その時、僕の身体の奥底から、風の咆哮のような怒りが、うねるように突き上がってきた。

 『アナスタシア』を、菊川さんの商売の道具になど、絶対にさせない。

「菊川さん、彼女は誰にも渡しません。

 追い払うようで申し訳ないんですけど、今すぐお引き取り願えますか」

「えええっ?

 何馬鹿なこと言ってるの、茶谷くん。

 この力作がきっかけで、美術業界に名を知られるようになるかも知れないんだよ?

 そんなことにでもなれば、個展だって開けるようになる。

 茶谷くんが世界的に飛躍出来る、大きなチャンスが巡ってきているんだからね」

「そんなことは、今の僕にはどうだっていいんです。

 ただ、彼女を手放す気は毛頭ない。

 どうかお引き取り下さい」


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

・・・ 第4幕へと続く ・・・


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