アナスタシア〈第2幕〉
文字数 1,444文字
老舗の画廊『ワルキューレ』を営んでいる菊川さんからは、作品を持ち込む度に、こう言われていた。
これはこれで大した出来なんだけどね、でも、私が思うに、茶谷くんの中には、画家魂の底力が、まだまだ眠っているんだと思うなあ。
早く私を唸らせるような傑作を描き上げて、持ってきて見せて下さいよ、と。
その菊川さんの言葉を借りるなら、『アナスタシア』は間違いなく、傑作の部類に入る作品だった。
だが、だからと言って、すんなり画廊に持っていく気になど、到底なれるものではなかった。
最早、アナスタシアと離れ離れになることなど、僕には考えられないことだった。
ましてや、画廊の仲介で、他の美術収集家の手に渡ることにでもなったら、僕は自分の最愛の恋人にリボンを掛け、贈り物として、むざむざ引き渡さなければならなくなる。
そのようなことは、決してあってはならなかった。
とは言え、『アナスタシア』を完成させるまでには、実に半年近くもの歳月を要したのだ。
そろそろ完成した作品を持って行かないと、鼻が利く菊川さんから怪しまれる恐れがあった。
美術業界では凄腕の画商だと評判の菊川さんには、どんな言い訳を用意しておくのが妥当だろうか。
そんなことを頭の片隅で考えつつ、良く冷えたシャンパンのボトルを抱えて、いそいそとテレピン臭いアトリエへと戻った。
それは、『アナスタシア』が無事に完成した暁に、彼女と二人で祝杯を上げる時のために、奮発してわざわざ取り寄せておいたものだった。
銘柄は、シャンパンの王様と謳われる、ドン・ペリニヨンだ。
大作である『アナスタシア』は、まだイーゼルに立て掛けてあるままだ。
僕は、用意してきたバカラの美しいシャンパングラスを二つ、その足許に仲良く並べてみた。
そうして、その前にあぐらを掻いて座り込むと、ボトルの開栓を試みる。
ホテルでバーテンダーをしている友人から教えてもらったことだが、シャンパンのボトルを開栓する時には、コルクを回そうとするのではなく、そこは押さえて、ボトルを回すのがコツなのだそうだ。
そうすると、コルクがロケットのように、派手に飛び出るのを防ぐことが出来る。
コルクに強く掛かってくる圧力を掌で受け止めているうちに、ぱんぱんに凝縮されていた空気が、一気に解き放たれる音が響いた。
それが、コルクが完全に抜けたことの合図だった。
二つのシャンパングラスに、ドン・ペリニヨンを静かに注ぎ分ける。
澄んだ金色に煌めく液体の底から、細かい気泡のネックレスが豊かに立ち上ってくる。
僕は右側のシャンパングラスを手に取ると、床に置いたままの片割れに、そっとぶつけた。
その瞬間、天使を呼び出すための鈴の音のような清らかな音が、空気の中をまろやかに伝わっていく。
僕はアナスタシアの瞳をひたむきに見詰めながら、絶え間なく気泡のはぜる液体を、ゆっくりと喉に流し込んだ。
飲み込んだ後に、芳醇な樽の香りが鼻孔から華やかに抜けていく。
飲み口は、抜群に滑らかだった。
こうして、当たり年のドン・ペリニヨンは、普段はあまりアルコールを嗜まない僕ですらも、虜(とりこ)にしてしまったのだった。
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・・・ 第3幕へと続く ・・・
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