第2話 少年時代

文字数 6,426文字



 見上げるような梁の上を自由に歩く父の姿はかっこ良かった。父は大工で、日曜日でも建築現場に出ていくことが多かった。そんな時哲也は、母が作ったお弁当を現場の父に届けに行く。
 父は毎年冬になると東京に出稼ぎに行く。母は、宿泊する旅館で仲居として働いていたらしい。友達が家に遊びに来た時、「哲也の母ちゃんは奇麗でいいな」と肩先を小突かれたことがある。そう言われても哲也にはぴんとこないが、小顔で色白のところは母に似たのかもしれない。

 けれども哲也が小学校四年の冬、東京に出稼ぎに行ったまま父は帰ってこなかった。

 日に日に母の顔はやつれ、家は急に貧しくなった。おかずはもやしの炒め物だけとなり、哲也の好きなカツ丼は夢の中のご馳走となった。三つ下の順子は、お父さんどこに行ったのとしつこく訊き、いらだつ母によく叩かれては泣いていた。
 母が、家族が住んでいた札幌西区のK町駅前の旅館で働き始めてから、食卓に明るさが戻ってきた。
 けれども、その明るさは一年も続かなかった。ある日、風邪で学校を早引きして帰ってくると、黒光りのする大きな車が家の前に停まっていた。玄関の鍵がかかっていた。チャイムボタンを押すと、しばらくして、別人のような目をした母が出てきた。
 三和土(たたき)に母のオレンジ色の靴に並んで、黒い革靴が並んでいた。父は革靴を履かないので別な男に違いなかった。
 奥から、黒っぽいスーツを着た背の高い男が、辺りを窺うように出てきた。男は、「可愛い息子がおるんやなぁ」と言って、哲也の頭を撫でた。哲也は反射的に、その手を振り払った。男は濃いサングラスをかけていたが、目がにやりと笑ったように見えた。

 その日から、家族の会話が消えた。

 関西弁の男は週に一度ほどのペースで来るようになった。母は、車がある時は二人とも外で遊んでいなさいと、まるで他人のような目で言った。家族が家にそろっていた時に、外で重厚なエンジン音が聞こえると、母にこれで何か食べていなとお金を握らされ、妹と一緒に外に追いやられた。昔の母の面影は、もうどこにもなかった。
 ある雨の日だった。二人はどこにも行くあてがなく、一つの傘の下で、男が帰るのをじっと待っていた。高級そうな黒い車は雨滴をはじき、不気味に輝いていた。
 玄関のドアが開いた。けれども出てきたのは男ではなく、髪がほつれた母だった。なぜか母はいつもより怖い顔で、哲也に、家の中に入るように言った。
 哲也は嫌な予感がしたが、拒絶することができない母の哀しい威圧感に押され、玄関に足を踏み入れた。なぜか母はそのまま外に残った。雨に濡れた母の顔が、泣いているように見えた。
 半分ほど開いた母の寝室の襖の向こうから、「入ってきな」という男の野太い声が響いてきた。哲也は恐る恐る、一歩踏み込んだ。目が慣れてくるにつれ、布団の上に、今にも動き出そうとするかのような龍が浮かび上がった。大きな男が振り向き、薄笑いを浮かべた。
 哲也はきびすを返そうとしたが遅かった。鷲のような手が足首に巻きついた。ふすまにかけた指がずるずると引き伸ばされていく。酒気が混じる、生臭い息が覆いかぶさってきた。
 薄暗い部屋でのできごとなのに、なぜか哲也の記憶は真っ白な光りに遮られ、その映像が立ち上がることはなかった。

 その日以来、母は哲也の目を見ることを避け、哲也も母の目を見ることができなくなった。

 それから間もなく、皆押し黙ったまま、テレビを見ながら夕食の箸を進めていた時だった。
 ニュースが始まり、K町駅前で起きた暴力団の抗争事件の模様が伝えられた。繁華街の路肩に乗り上げ、電柱に激突した黒いセダンが映し出された。どこかで見たような車だった。
 運転席のガラスは粉々に砕け、ボデーは蜂の巣のように弾痕が刻まれている。殺害された男の顔写真がアップになった。哲也は思わず、口をつけようとした味噌汁のお椀をテーブルに落した。
 妹はキャッと叫んで哲也を見たが、母は涙を隠そうともせず、無言で畳みの汚れを拭っていた。アナウンサーの話では、どうやら母の働いていた旅館の近くに、関西から進出してきた暴力団の仮事務所があり、そこの幹部が地元の暴力団に襲われたらしい。

 それ以来、あの黒い車が姿を現わすことはなかった。

 時が経つにつれ、あのころの忌まわしい出来事は色褪せていった。けれども、あの時、哲也の記憶を封じ込めた白い光りの強度は、益々強くなっていった。
 母の表情に、昔の面影が戻ってきたかに見えたが、何かに囚われたような陰りが消えることはなかった。各々が、やっと仮面に支えられる家族の生活が続いていた。
 一年を過ぎたころ、急に明るくなった母に連れられ、二人は札幌の遊園地に行った。昼食になり、母が何でも好きなものを食べなと微笑んだ。二人は初めてジンギスカンを食べた。世の中に、こんな美味しいものがあるのかと思った。
 翌日母は、いつになく二人の頬に触れ、小さな笑みを残し仕事に出ていった。その日も、次の日も母は帰ってこなかった。
 三日目の夜、家の電話が鳴った。受話器を取ると、微かな気配は感じるが、最後まで無言だった。その後毎日、決まった時間に無言電話は続いた。誰からなのか、知ることがなぜか怖かった。けれども、受話器を離す手の平は、誰かの手を握り続けていたように、いつもじっとりと濡れていた。
 いつもより多く入っていた冷蔵庫のパンや牛乳も、一週間もすると空になった。腹が減って学校に行くこともできなくなり、やがてトイレに行く力もなくなった。無言電話は続いていたが、もう取る気力もなくなった。目の周りにハエがたかり、骸骨のようになった妹の顔を見て、自分も同じなのだろうと哲也は思った。
 父はどうして帰ってこなかったのだろう。母はこうなることを知って、僕たちを捨てたのだろうか。様々なことが脳裏に浮んでは消えていく。視界が暗くなり、蝿の飛び交う音も聞こえなくなろうとしていた時だった。
 慌しい気配に薄っすらと目を開けた。白いヘルメットの人が見下ろしている。餓死寸前のところを民生委員に発見されたらしい。
 病院に面会にきた伯母さんから、母は古くからいた板前と駆け落ちし、行方がわからないのだと聞かされた。哲也は、ジンギスカンをほおばる二人の姿をじっと見ていた時の、母の目を思い出した。妹だけが伯母さんに引き取られることになった。

 哲也は、市の職員から、児童養護施設に入ることを説明された。

 一時保護所に十日ほどお世話になっていると、児童養護施設が決まったので移動しますと言われ、迎えにきた施設の車に乗せられた。
 まるで別世界のようなビルの風景が遠ざかっていく。哲也は流れていく路肩の煤けたような雪を眺めていた。不思議と父と母のことは何も思い出さなかった。車は札幌郊外の静かな町に入り、古びた木造の建物の前で停まった。
「白樺学園」と刻まれた木の看板に、哲也は未知の世界に踏み込むような不安に襲われたが、迎えてくれた施設の人の笑顔にほっとした安らぎを覚えた。
白樺学園には二十一人の男女の児童が暮らしていた。児童たちは四人から五人の四つの部屋に分けられ、共同生活をする。
 その日の夕食時、食堂に案内され驚いた。正面の、「歓迎、柿崎哲也くん」という花丸で囲まれた大きな文字の張り紙が目に飛び込んできた。
 哲也が先生に紹介された後、児童たちの自己紹介が始まった。
 皆、心のどこかに傷があるのか、優しさに飢えた目をしていた。哲也はやっと、仲間と一緒になれた安心感を覚えた。
 小学六年の哲也は五人の大部屋に入ることになった。予想もしていなかった感謝の気持ちを、施設の規則になっている日記に綴った。
 九時に消灯となった。薄闇の中に四つの頭が並んでいる。ふと川の字で寝た家族を思い出したが、今は遠い昔に思えた。仲間の寝息に、いつしか自分も溶け込んでいった。
 起床は午前6時半。食堂に行くと、トレーに、ふりかけがまぶされたおにぎりがたくさん並び、席につくとおばちゃんが笑顔で温かい味噌汁を出してくれた。
 職員は皆親切で、失いかけていた希望を取り戻したが、実の親に捨てられたという埋めようの無い空洞は、そのまま胸に残った。

 月日が経ち、哲也は中学三年になった。

 ある晴れた秋の日曜日だった。珍しいお客様が来るということで、昼食を兼ねたパーティが開かれた。
 食堂にいくと、カレーライスの良い匂いが漂っており、カウンターの向こうで、調理のおばちゃんがお皿に湯気の上がるご飯を盛りつけていた。テーブルにはいつもとは違って、一人ひとりにサラダとデザートのショートケーキがついていた。女の子たちは食堂に入ってくるなり、みな歓声を上げ、顔をほころばせていた。
 カレーライスが全員の分テーブルに並んだころ、園長先生と若い男が入ってきた。男はジーンズに、盛り上がる筋肉が浮き立つような黒い革ジャンを纏っていた。園長先生がにこやかに男を紹介した。
「杉本君は十年前、中学卒業と同時にこの学園を卒園しました。東京に出て鳶職となり、親方となれる一級鳶技能士に合格しました」
「杉本です、よろしく!」
 杉本はよく通る声で丁寧にお辞儀した。男子はみな口を半開きにしたまま、褐色に日焼けした精悍な顔の杉本を見上げていた。
 背は高いがひょろりとした哲也も、憧れの目で杉本を見ていた。
「それではカレーが冷めないうちにいただきましょう!」
 園長先生が口火を切ると、一斉にスプーンが皿を打つ音が響き始めた。その日のカレーは形のある豚肉が三つも入っていた。
「今日は特別おかわりもありますよ」
 調理場の中からおばちゃんが、笑顔で声をかけてきた。
「懐かしいな。それじゃ俺も、もう半分くらいもらおうかな」
 いちばん最初におかわりを申し出たのは杉本だった。おばちゃんは杉本を知っているらしく、遠慮することはないよと笑い、最初と同じに盛りつけ、カウンターに載せた。
 杉本の豪快な食べっぷりを、皆、羨望の目で見ていた。哲也も、初めて見る大人の男のかっこよさに、顔が火照ってくるのがわかった。いつも何かに押しつぶされそうに暮らしている園児たちが、この日だけは自信に満ちた輝きを放っていた。
 哲也は思い切って訊いてみた。
「鳶職って、どんなことをするんですか?」
 仕事の興味というよりも、逆三角形のかっこいい杉本がいる世界が知りたかった。
 杉本が一枚の写真を取り出した。そこには、積み木を敷き詰めたように見える都会の風景に、天に届くような鉄骨の建設現場が写っていた。よく見るとそのてっぺんに、ヘルメットをかぶった濃紺の作業服姿の男が立っていた。腰の周りにたくさんの道具を提げている。ズボンの裾がやたら広いのが記憶に残った。
「これは去年完成した西新宿の東京都庁ビルの建設現場だ。小さく写っているのが俺さ。地上高、二百四十メートルぐらいかな」
「わぁーすごい! でもここで、どんなことをするんですか?」
 哲也は、空の上の仕事に興味がわいてきた。他の男児も皆、息を詰めて杉本の顔をのぞき込んだ。
 杉本が、自分の弟たちを見るような目で話し始めた。
「鳶も色々あるが、俺は鉄骨鳶といって、建設現場で柱や梁の鉄骨を組み建てるのが仕事だ。この鉄骨は全部俺たちが組み建てたのさ。  柱や梁は工場で製作され、トラックやトレーラで現場に搬入される。俺たちはクレーンを使ってそれを組み建て、ボルトとナットで締めつけていくんだ。作業はいつも地上の人が蟻のように見える高いところだ。一瞬の油断で命を落とすこともある」
 哲也は、聞く言葉がすべて初めてなのでよくわからなかったが、誰にでも簡単にはできない仕事だということだけはわかった。
「どうして鳶って言うんですか?」
 質問が得意な和行が訊いた。
「おお、みんな鳶に興味あるんだな。よく間違われるけど、ピーヒョロロと空を飛ぶトンビとは違うんだ。鳶の語源は鳶口という道具からきている」
 杉本が二本の指で鋭利な工具を象った。
「江戸時代のころ、鳶口で材木を曳いたり持ち上げたりして城や神社を造営する職人を鳶と言った。高所作業が得意な鳶は町の火消しも兼ね、お祭りにはやぐらを建てたりして、町にはなくてはならない存在だった。今は時代も変わり、俺たちが桧舞台に出ることはない。けど、俺はこの仕事にプライドを持っている」
 少年は皆、瞬きもせず杉本を見つめていた。
 お別れの時がきた。学園の前で、杉本が初めて真剣な眼差しを見せた。
「みんな、絶対に負けるな! 誰も俺たちに夢や希望を与えてはくれない。自分で行動し、自分でつかみ取るんだ。頑張れよ」
 園児はみな背筋を正し、無言でうなずいた。この時哲也は、杉本を目指そうと決心した。なぜか、心にぽっかりと開いた穴を、埋められそうな気がした。

 厳寒の中、年が明けた。この春、哲也は中学を卒業する。学園では高校進学を勧められたが、早く一人前の鳶になりたいという哲也の意志は固かった。「どんな豪華なビルも、陰で鉄骨が支えているんだ」と言った、杉本の言葉がいつまでも哲也の心に残っていた。
 職員の遠い親類だという、住み込みで鉄骨鳶の見習いができる会社が室蘭で見つかった。「鷲尾組」は、初代は神社造営の頭(かしら)で、町場鳶と呼ばれた時代から続く、今は鉄骨建方(たてかた)を専業とする会社だった。
 哲也は職員に付き添われ、面接のためその会社に向った。初めて見る室蘭は、煙が立ち昇る要塞のような工場が横たわり、その周辺をビル群と住宅がひしめき合っていた。
 鷲尾組は、室蘭港を背にした灰色に煤けた工場群の外れにあった。立ち並ぶ倉庫の間から濃紺の海が垣間見え、潮のにおいが鼻についた。哲也は、荒々しい港湾の風景に、わずかな不安を覚えた。
 四十歳半ばに見える社長がにこやかに迎えてくれ、事務服を着た社長の奥さんがお茶を淹れてくれた。ふと壁の上を見ると、とび技能士合格証書や玉掛け資格証書が、仕事の権威を現わすようにずらりと掲げられていた。高校に行けなかった劣等感と不安でいっぱいだった哲也は、その輝きになぜか安堵を覚えた。
「哲也君は、先輩を見習い、鳶になりたいと思ったんだね。立派なことだ。経験を積めば、国家検定のとび技能士資格を取ることもできる。頑張るんだな」
 社長が、優しさの奥に鋭さを持つ目で哲也を見た。親のことを訊かれたらどうしようかと心配だったが、社長は何も言わなかった。
 それから社長は、高所作業ができる18歳までは、先輩の手元となって、下回りと呼ばれる資材の運搬に明け暮れることを説明した。
「下回りは足腰が命だ。最初は工具や資材の名称を覚えながら、プロとして必要な勘と体を作っていく。この仕事には上も下もない。皆一体となってビルを建てるんだ」
 試験もなく、面接は無事に終わった。部屋を用意しておくから卒業したらすぐに来てくれと、社長は哲也の両肩に分厚い手を載せた。

 春の陽射しにはまだ遠い北国の三月に、哲也は中学を卒業した。

 鷲尾組の社長と奥さんが、面接の時と同じように迎えてくれた。
 哲也の住み込み部屋は、事務所に続く資材置き場の二階を三つに区切り、ベニヤ張りで改装したところだった。以前は三人が暮らしていたそうだが、二人が会社を辞め、一人はアパートで所帯を持ったそうだ。
 部屋には、パイプベッドと先輩が残していったテレビだけがあり、学園の部屋よりも閑散としていた。初任給十四万円から食費と管理費を合わせて六万円が天引きされる。安アパートの家賃でも四万円から五万円ということは哲也も知っており、ありがたいことだった。工具を揃えていくための貯金は必要だが、見習い期間が過ぎたら、わずかでも妹に仕送りができるかもしれない。
 哲也は、新たな世界への不安の中にも、やっと杉本の世界にたどりついたという感動を胸に、眠りについた。

 
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