第8話 綻びた鳶装束

文字数 4,867文字



 鉄骨との格闘の合間に眺める上野の桜も四回を数えた。哲也は、念願の一級鳶技能士に合格した。
 完成時の先端が地上200メートルを超える超高層ビルの仕事が入ってきた。哲也はついに親方となり、その現場を担当した。
 工期は1年。殺人的な工程だ。日本全国の鳶の人数は限られている。関東関西から7つの鉄骨建方会社がゼネコンの下につき、割り振られた工区を担当した。
 この現場はフロアクライミングクレーンを主力武器として鉄骨を組み立てていく。フロアクライミングとは、その名のとおり、ビルが建ち上がっていくにつれ、クレーンが床を貫通し自らよじ登って行く。従って、タワークレーンの全長は四十メートルほどであるが、絶えずビルの先端に位置することにより、300メートルを超える超高層ビルの建設も可能となる。ビルの構造鉄骨を吊り上げるタワークレーンは、それ自体が数10トンもある重量物だ。このクレーンの組み立て解体工事自体も鳶の仕事となる。
 建設現場に明るい雰囲気を求めるのは無理だが、哲也は気のせいか、この現場は最初から不穏な空気が感じられた。時おり、工事現場には不釣合いな高級外車がやってきて、厳つい男が監督の林と何やら話し込む様子が垣間見えた。
 毎月1回、それぞれの鳶グループの責任者が現場事務所に集まり、まだ若い現場監督を中心に工程の進捗と問題点を話し合う。黒崎建業からは、哲也と社長が出席していた。
 梅雨開けの7月の会議の時だった。顔見知りになった2つの会社の席が空いていた。元請けから異例の発表があった。2社の代わりに、新たな鳶グループが入るという。
 林が、入り口に向って遠慮がちな声を上げた。
 濃紺の鳶装束で身を固めた、無精ひげの男がのっそりと入ってきた。
 哲也は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。目元に陰りを帯びているが、精悍な相貌は、先輩の杉本に違いなかった。杉本は哲也に気がつかないまま、無言で空席にかけた。
「竜神興業の杉本さんです。辞退した二社の工区を受け持っていただきます」
 林の声が、心なしか上擦っている。
「杉本です。よろしく」杉本が出席者をじろりと見渡した。
 直後に、ハッとしたような目で、哲也を振り向いた。数秒の沈黙。再び杉本は、凍るような視線をテーブルの工程表に戻した。
 哲也の心臓が、苦しいほどに打ち続けていた。いったいどうなったというのだろう。視界の端に見えるのは、確かに杉本であるが、あの明るく優しかった杉本とはまるで違う。十年の歳月は、これほどまでに人の姿を変えてしまうのだろうか。
 会議が終わった。哲也は、杉本に声をかけようと彼の背中を追った。彼に追いつき、声を発しようとした時だった。現場の入り口に黒い高級車が音も無く近づいてきた。停まるとすぐに後部ドアが開き、杉本が滑り込むと、車はすぐに発進した。
「社長、まだ始まったばかりの現場で鳶が変わるって、どういうことなんですか?」
 哲也は、杉本のことには触れず、率直な疑問をぶつけた。
「おそらく、ヤクザの介入だろうな。あの竜神興業は、昔は竜神鉄工といって堅気の鳶会社だったが、経営難から大手暴力団の三次団体に身売りしたという噂が流れていた」
「それがどうして、スーパーゼネコンと言われる竹元工業の現場に入り込んでくるんですか?」
「ああ、この業界ではそうめずらしいことではない。巨額な利権が絡むところには必ずヤクザが目を光らせる。人間も会社も、叩いて埃が出ないヤツはいない。弱みを握れば、ヤツらはハゲタカのように喰らいつく。ただ、あの元竜神鉄工は、関東の鳶の世界で知らないやつはもぐりだ。特にあの杉本って男は、鉄骨の鬼とまで言われた鳶だ。だが、仕事のやり方では、今はあまりいい噂は聞こえてこないが……。そうだ、彼は確か、お前と同じ北海道出身と聞いたことがあるな」
 社長が、残念だと言わんばかりに、独りうなずいていた。
 翌日から、現場は社長が心配していたとおりとなった。2社分の工区を1社で請負った竜神興業は、親綱を張る手間も惜しみ、突貫作業を進めた。現場監督の林が再三注意する安全ネットも、完璧なものではない。杉本を親方とする、濃紺の鳶装束で固めた竜神興業の五人の鳶は、まるで黒ヒョウが動き回るように鉄の城を組み上げていった。
 ビルの谷間に秋風が吹くころ、そびえるような鉄骨の造形がその威容を現わし始めた。ゼネコンの計らいで中帳場が開かれた。場所は現場に近い浜松町の老舗割烹だった。
 ひっきりなしに電話が入る施主の担当者、眼光鋭い白髪の設計監理代表、ゼネコンからは営業部長が出席していた。鉄骨建方の中帳場としては異例の顔ぶれだ。このプロジェクトにかける関係者の熱気が、畳の匂いも新しい大広間に溢れていた。
 主役である鳶の会社は、ゼネコン指定のクライミングタワー担当のA社を筆頭に、B社、C社、D社、そして黒崎建業と竜神興業の六社が肩を並べた。各社は社長と、今は職長と呼ばれることが多くなった親方衆が出席した。スーツ姿が多かったが、鳶装束の姿も見えた。昔、鷲尾組では、正式な宴席に、社長が仕立て下ろしの鳶装束で出席していたことを思い出した。哲也は、当時のしきたり通り、洗いざらしの鳶装束で身を固めていた。
 ちらりと見ると、杉本は肩の刺し子が綻びた鳶装束を纏い、一人寡黙な雰囲気を漂わせていた。あの明るかった杉本とはまるで違うが、目の光りだけは変わらないように思えた。竜神興業だけはなぜか、社長の姿は見えなかった。
 ゼネコンの部長が立ち上がった。せり出した腹を抱えるように手を組み、このプロジェクトの重要性と、成功に導く鍵は鳶の一致団結が不可欠だと、額に汗を光らせながら挨拶を終えた。
 最後に、会社の作業服で身を固めた林から挨拶があった。
「鳶の皆様、毎日お疲れさまです。若輩が偉そうなことを言って申し訳ありませんが、超高層ビルの建設ともなれば社会の縮図。表もあれば裏もあるかと。それでもたった一つ守り通さなければならないことがあります。それは無事故で完成させるということです。今から45年ほど前、クレーンなしで建造したという東京タワーが竣工しました。今回の現場のように、全国から百戦錬磨の鳶が60人も集まったそうです」
 にわかに鳶たちが興味の目を向けた。林が続けた。
「当時は親綱どころか安全帯もなく、リベットハンマーを片手に細い鉄骨を歩き回っておりました。けれども鉄塔が高さを増すにつれ、恐ろしい敵が現れました。地上でもふらつくほどの突風が襲い始めたのです。急遽、接続工法をハイテンションボルトに変えましたが、その日は鉄塔がしなるほどに荒れました。皆、鉄柱にしがみつきながらやり過ごしておりましたが、水平ブレースの上でウインチの積荷に手を伸ばしていた鳶が、あっという間に強風に足をさらわれました。あの工事でたった一人、命を落したのが私の祖父の同僚でした。亡くなった同僚には婚約者がいて、完成の祝賀会に一緒に参加することが夢だと、祖父にいつも話していたそうです」
 鳶は皆、神妙な顔で姿勢を正した。林が一呼吸をおき、続けた。
「鳶の仕事は神の領域かもしれません。しかし東京タワーの事故は、何者も制御できない魔の刻があるということを教訓として残しました。神様が見放した時、命綱が救ってくれます。最後は自分で身を護ることが必要なのではないかと思います」
 哲也はその時、林の目の奥に、鳶と同じ光りを見たような気がした。鳶たちは皆、真剣な顔でうなずいていた。
 間もなく、艶やかな和服に包まれた女性たちが現れ、ヤクザの襲名披露のような会場が一挙に華やいだ。料亭の女将も顔を出し、ダム工事現場での中帳場とまた違った雰囲気で、宴席は賑わっていた。
 哲也は、他社の親方にもお酌をしながら、それとなく杉本の席に近づいていった。杉本はその様子を目の端でとらえているはずだが、振り向くことも無く、女性の酌に無言で盃を傾けていた。
 哲也は、杉本のわきに正座した。女性が気を遣い去っていった。
「先輩、お久しぶりです。覚えているでしょうか、俺のこと」
 哲也の記憶が一挙に、今にも希望を失おうとしていた、あの養護施設に遡った。
「ああ、お前のことは一番よく覚えている。現場会議で会った時は目を疑った……」
 杉本が始めて、哲也の目を見た。
「あ、ありがとうございます。この十年、ひたすら先輩の後を追い続け、やっとあの時の杉本さんに近づくことができました」
 膝に置いた哲也の拳に、涙がぼたぼたと落ちた。杉本の目も光っているように見えた。
「あの時がピークだったな。あれから俺の人生は変わり果て、女房も出ていってしまった……」
「先輩、もう何も言わないでください。最後の最後まで、あの白樺学園の光りとなってください。俺、今日、杉本さんがこの鳶装束で現れなかったら、声をかけなかったと思います。俺や、後に続く仲間にとっての杉本さんは、何も変わっていません」
 哲也は、あの時仲間が杉本の鳶の話に目を輝かせ、最後に激励して去っていった、杉本の後姿を思い出していた。
 哲也は正座のまま、杉本の盃に銚子を傾けた。杉本が注いでくれた盃をかかげ、一緒に飲み乾した。杉本の目が、あの時に戻っていた。
 翌週から、現場の様相ががらりと変わった。竜神興業の鳶も親綱を張るようになり、総勢六十人の鳶たちは工区の壁を越え、安全第一で協力し合うようになった。
 皆、現場で交わす監督との挨拶も活気良く、工程は計画通り進んでいった。

 その後一度だけ、杉本と飲む機会があった。

 現場では気さくに話す仲にはなっていたが、やはり杉本には語りたくない何かがあるようだった。
 哲也は、素朴な希望を口に出してみた。
「先輩、もう学園には顔を出さないのですか?」
「ああ、行ってみたいけど、家庭も壊れ、もうみんなの模範にはなれない。会社も後ろにある組織が、人様に話せるようなもんじゃないからな」
「そんなことないです。俺たちは、そこが原点じゃないですか。先輩はあのとき言ってました。どんなことがあっても絶対に負けるなって。俺も、仲間も、それだけを信じて頑張ってきました」
 学園の誰もが、鉄の踏み板を渡って生きていけるなんて、思ってもいない。陽の当たる場所など、はなから望んではいない。陰で支えることが鉄骨鳶のプライドだ。けれども闘い続けている限り、人間としての価値に差はないと、哲也は信じていた。
 ふと、思いついたことを訊いてみた。
「先輩ほどの腕があれば、会社を変えるってことも……」
「それは、別れた女房にもよく言われたことだ。けど、あの連中は、竜神鉄工だった時代からの、言わば兄弟分みたいなもんなんだ。一人、びんが白い鳶がいたろ。彼は、俺をここまで育ててくれた師匠なんだ。バックがどうであれ、抜けるわけにはいかない」
「そうですか、わかるような気がします。俺も、傷害事件を起こしちゃって、やむなく前の会社を出てきたんです」
「そうか、お前も色々あったんだな……。確かに俺らの仕事は、ヤバイ現場ばかりだ。ベトナムやカンボジアまで行って、今にも崩れそうな鉄橋や橋の解体を請負う。この前、アフリカの造船所建設に行った時は、ゲリラの攻撃を潜り抜けながらの仕事だった。世の中には、俺たちのようなアウトローでなければ収まらない仕事もある。だが、その仕事によって、この国にいてはわからない、多くの人々が生きるためのインフラができ上がっていく。俺はこの世界で最後までやるつもりだ。ただ、これからはどこに行っても、命綱だけは忘れないようにするよ」
 杉本が始めて、あの時の爽やかな笑顔を見せた。
 哲也は、哀しくもあり嬉しくもあった。やっと追いついたと思った杉本は、また哲也には手が届かない世界を羽ばたいていた。

 工事は無事に完成した。鳶たちの汗と埃の痕は微塵も無い超高層ビルが、東京湾を見下ろしている。オレンジ色に輝く、巨大な水晶のようなカーテンウォールに、ふと杉本の顔が浮かんだように見えた。

 
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