第5話 父の教え

文字数 5,444文字



 身を包む白装束が鉄骨現場の錆と油にまみれたころ、初めて柱起しと梁の仮締めをさせてもらえる日がやってきた。現場は大手ゼネコンの建設現場ではなく、町の建設会社から請負った平屋建ての工場増築工事だった 。
 事務所は朝から、東京で起きた地下鉄サリン事件で持ち切りだった。社会に横たわる不穏な空気を感じたが、哲也は、今日の仕事のことでそれどころではなかった。

 社長から朝の訓示があった。

「今日は午後から風が出るという予報だ。安全に十分気をつけるように。それと哲也、いよいよだな。今日はプロの鳶としての第一歩だ。気を許すな。七分がばたつき始めたら、すぐに足場を確保しろ。今日の現場は親綱無しだ。お前はまだ梁を渡るな。いいな」
 労基署の目が届かない小さな建設工事では、親綱を張らない現場もけっこうあった。社長は厳格な言葉の中にも、気のせいか、嬉しそうな目をして哲也を見た。
 クレーン車が入り、午前中に高さ十メートルの二十本の鉄骨柱はすべて建ち上がった。
 梁の組み付けは、先端に梁ブラケットが張り出した対向する二本の柱にそれぞれ鳶が登り、クレーンで水平に吊られている梁の両端を、梁ブラケットにボルトで固定する。通常、建ち上がった柱の昇降には、鋼芯入り縄梯子を使用するが、この現場の柱は何本かおきに昇降用のタラップが溶接されていた。
 哲也はタラップのある柱を登ったが、対向する柱にはタラップがなく、先輩は別な柱のタラップを登り、すでに掛けられた梁の上をボルトの箱を抱え、スタスタと歩いてきた。この建物は50トンの大型天井クレーンが設置されるらしく、梁の幅は広く、三十センチあった。 
 この半分の幅でも、親綱なしで歩き回る先輩たちにとっては、地面の上を歩くのと同じだった。哲也は梁ブラケットの上にまたがったまま、羨望の目でそれを見ていた。

 先輩は、すがるものが何もない柱の先端に立ち、クレーン運転士に合図を送り始めた。

 哲也は初めての地上10メートルに足がすくみ、立ち上がれないまま梁ブラケットにしがみついていた。
 すぐにクレーンのブームが旋回し、重さ三トンの巨大な梁が静かに降りてくる。哲也はブラケットをまたぐ両脚に力を込め、受け止める態勢を固めた。水平に浮ぶ長さ18メートルの梁を、渾身の力とバランスで梁ブラケットに収める。
 梁が、風で静かに揺れ始めた。「指を挟むな!」という先輩の声が風にかき消される。万一、鋼鉄と鋼鉄のエッジに指が挟まれば、皮手袋もろとも切断されることは間違いない。
 双方の先端が突き合わされた瞬間、両側から当てたプレートの穴をシノで合わせ、素早くハイテンションボルトを差し込む。ワッシャを重ね、ナットをメガネレンチで仮締めする。
 全体が組み上がると、鉄骨の傾きや歪を直し、シャーレンチと呼ばれる電動のナット締め付け工具を用い、すべてのナットを規定の力で締め付ける。それを本締めと呼ぶ。
「いつまでも遊んでるなよー」
 先輩の温かい叱咤が容赦なく飛んでくる。
 太い梁になると、1ヶ所の接合に30本ものボルトが使用される。全身汗だらけになり、半分のボルトを収めた時は、すでに先輩の姿はなかった。

 最後のボルトを入れようとした時だった。

 綻びかけた革手袋からボルトが滑った。ボルトは大地に吸い込まれるように消えていった。下には誰もいなく、腰袋に予備もなかった。哲也は、梁の向こう端にあるボルトの箱に目が吸い寄せられた。
 鳶の仕事に完璧な安全などありはしない。規則がどうあれ、親綱のない梁は鳶としてどうしても越えなければならない壁だった。親綱に命綱をかけていても、落下すれば親綱はたわみ、鉄骨のジャングルを空中ブランコのように往復する人間振り子となる。無傷で終わるわけはない。もし親綱で生命が救われたとしても、同時にその時は、鳶としての命は失われるはずだ。
 哲也は覚悟を決め、立ち上がった。目の前に、手摺のない吊り橋が一直線に延びている。下を見ない限りはふらつくことはない。哲也は自分に言い聞かせ、空中を一歩踏み出した。地下足袋の底が、鉄の肌をつかんでいく。半分ほど進んだ時だった。ふいに地上の光景が目に飛び込んできた。まずい! と、思ったとたん視界が揺れた。死の恐怖が全身を突き抜ける。哲也はしゃがみ込もうとした。その時だった。
「しゃがむな! 両手を開け!」
 頭の声が真下から聞こえてきた。
 やじろべえのようになると、何とか持ちこたえた。だが、そこから先は、足の裏が磁石のようになり、1歩も動かすことができなかった。
 目の前に、頭部ほどもあるクレーンのフックがするすると降りてきた。
「早く命綱をかけろ!」
 下から仲間の声が響いてきた。
 巨大なフックが、哲也を誘導するように水平に移動した。
 屈辱を噛み締めながら哲也は、地上の土を踏んだ。
「しゃがむと逆さダルマと同じで、今ごろは仏さんだ」
 頭が哀れみの表情を見せ、哲也の肩に手を載せた。
 それから哲也は、再び下回りの仕事に戻った。ひと月ほどが経ち、社長に呼ばれた。
「哲也、この商売向き不向きがあることは確かだ。今いる十二人も百人の中から生き残った連中だ。人間は恐怖にとらわれると運動能力が著しく低下する。そこが動物と大きく違うところだ。野性の勘が残っている人間だけが、この仕事を続けることができる――」
 哲也は社長の言葉を遮るように口を開いた。その先の言葉が予想できたからだ。
「社長、二ヶ月、いや一ヶ月待ってもらえませんか。俺、本当にプロの鳶になりたいんです」
 その時、工具を整理していた健二が、神妙な面持ちでやってきた。
「社長、もう少し面倒見てやってはどうでしょうか。こいつ、地走りは一人前だし、筋はいいと思うんです。俺が責任を持って指導しますので」
「面倒見たいのはやまやまだ。俺が先代について修行していた時、親類から預けられた同い年の見習いがいた。やはり初めての梁渡しの時だった。彼は俺の目の前で、俺に手を伸ばしながら消えていった。地盤に曝す変わり果てた姿を、俺は二度と見たくない」
「社長、すみません。準備もなく勝手に歩いた俺が悪かったんです。何とかもう一度だけ、やらせてもらえませんか」

 やがて社長はうなずき、無理だけはするなと言って哲也の肩を叩いた。

 哲也は何としても一人前の鳶になりたかった。それはこれまでの屈辱をすべて消し去り、男として生きていくための、どうしても越えなければならない壁だった。
 その夜哲也は、健二と頭にさそわれ、行きつけの小料理屋の暖簾を潜った。ほどよく酒が回ったころ、頭が意外ことを話し始めた。
「実は俺も、鳶になって最初の梁渡りは本当に怖かった。俺は元々電工だった。電柱が木柱からコンクリート柱に変わろうとしていた時代だ。俺は外線工事のプロで、毎日猿のように木柱を昇り降りしていた。つかむ物が何も無い木柱を、昇柱器だけを頼りに15メートルの高さまで昇るのは、今考えても鳶の仕事とさほど変わらない」
「へぇ、頭が電工だったというのは初めて聞いた。ところで昇柱器ってどんなものなんだ?」
 健二が、頭の顔をのぞき込んだ。
「昇柱器ってのは、登山家が使うアイゼンのようなもので、ゴム長の上に革バンドで括りつけるんだ。シノの先のような鉄の爪を木柱に蹴り込み、体重をかける。脚力は粘りは鉄骨鳶と変わらない」
「それがどうして、鳶の世界に?」
 哲也が目を見開き、乗り出した。
「想像もしなかった事故は安全が保証されたコン柱で起こった。コン柱は足場ボルトが取りつけられており、木柱経験者にとっては目をつぶっても昇降ができた。俺はトランスの結線のため、てっぺんに設置されたトランスを目指し、街路のコン柱をスイスイと登っていった。トランスのアイボルトに手をかけた時だった。体が金縛りに遭いブルブルと震え出した。胴綱を切る前だった。手を離せば真っ逆さまだ。俺は視界ががたがた揺れる中、逆にアイボルトを握り締め、足場ボルトを蹴った。全体重が右腕にかかると同時に、手から足へと抜けていた電撃は去った。下で通行人が騒ぎ出した。仲間がロープを担ぎ、次々と昇ってきた。指が伸び切る寸前で、俺は助かった」
 哲也は、高さ十五メートルの空中を片腕だけでぶら下がる頭の姿を想像し、酔いが一挙に醒めた。
「そうか、頭はそれで電工から足を洗ったんだ……」
 健二がコップを握ったまま、何回もうなずいている。
「ああ、自分のミスで命を落すのは本望だが、設備の不良で命を取られるのはごめんだ。鳶の世界は電工よりもはるかに危険だが、落ちるもつぶされるも、すべては自分の責任だ。この世界に入って初めて、最初から命を捨ててかかる仕事もあることを知った。生き残るには、自分を信じるしかない」
「確かに、この世界に入ってくるやつは、鳶以外に飯を食う場所がない人間だ。天空は、俺らだけの地面だ。だから怖くない」
 健二が、コップを飲み干し、しみじみと語った。
「訓練ではどうにもならないということですか?」
 哲也は、二人の顔を交互に見た。
「いや、そうとも限らない――」
 頭が眼尻にしわを刻み、健二の方に顎をしゃくった。
 体育大学中退と噂がある健二が、重い口を開いた。
「俺は若い時、国体の体操競技で優勝を狙っていた。危険度が高い鉄棒が得意だったが、仮に大車輪でミスったとしても死ぬことはない。訓練を積めば、神業とも言える着地に到達できる。だが、鳶は違う。最初から梁の上での訓練では無理だ。落ちれば仕舞いだ」
「と、いうと――」
 哲也は身を乗り出した。
「例えばの話だ。橋の欄干を渡るとか――」
 頭の顔が曇った。
「それで死んじまったら何もならない。健二はトウシロウ上がりだが、元々平均台の上で宙返りをしていた人間だ」
 頭が暗に、無理するなと言っている。だが哲也はこの時、おぼろげながら訓練の秘訣がわかった。哲也が神妙な顔をしていると、建二がまぁ飲めと、ビールを注いでくれた。

 翌日から哲也は、あらゆる訓練にトライした。

 現場で健二から、バランスの取り方と足さばきのコツを教えてもらった。けれども最後は、自分で乗り越えなければならない何かがある。頭が言っていた「命を捨ててかかる仕事」という言葉が脳裏にこびりついていた。
 忘れていた少年のころの、ある思い出が蘇ってきた。
 酒が飲めない父のたった一つの趣味は釣りだった。哲也もよく連れていってもらった。ある夏の日の釣行でのことだ。
 二人は、大イワナが棲むという滝を目指していた。大きな岩が行く手を阻む。うっそうとした樹林の向こうから、地響きのような滝の音が聞こえてきた。

 谷川に、長さ10メートルほどの丸木橋がかかっている。

 目指す滝壺は対岸に渡らなければ行けない。枝を払った松の木の直径は二十センチほどか。その下は、岩場を激流が渦巻いている。
「哲也、渡れそうか? 少しでも無理だと思った時はやめたほうがいい。父さんはせっかくここまで来たから、滝まで行ってみる」
「父さんは、この丸木橋を渡れるの?」
「ああ、父さんは棟上げの時はいつも、高さ10メートル、幅10センチの角材の上を動き回る。もちろん丸腰だ。だが丸木を渡るのは初めてだ。昔、友人の鳶に教えてもらったことがある。足の裏で丸木をつかむんだと。あとは下さえ見なければ、ただの細い道だ。けど、人間は死が怖いから、逆にその世界を見てしまうんだ。無理だけはするな。この激流では、落ちれば命はない」
「父さん、僕も渡ってみる!」
 その時の哲也は、どこまでも父について行きたいという気持ちが、激流に流される恐怖を打ち消していた。
「それじゃコツを教える。一歩踏み出したら、一匹のけものになることだ。けものは死を恐れない。恐れないから恐怖に囚われることがない。技よりも心の問題だ」
 父は、自分と哲也の釣り道具を両手に提げ、まるで林道でも歩くかのように、丸木の上をスタスタと進んでいった。
「さあ、お前は一匹のけものだ。怖いものはなにもない」
 渡りきった父が、こちらを穏やかな目で見ている。
 丸木の前に立つ。確かに、この森の動物になったと思うと、激流の恐怖が嘘のように引いていった。けものとなった足が、丸木の皮をつかんでいく。強張らない脚が、自然と丸木の揺れを吸収してくれる。
 空中を浮遊する感覚のうちに、哲也は対岸にたどりついた。
「よくやった!」
 父が目を細め、初めて口を開いた。
 あの時父は、息子に大工になるための心構えを教えようとしたのかもしれない。
 哲也は夜の埠頭で訓練を重ねた。黒い波が打ち寄せる岸壁の縁を、まったく意識することなく歩けるようになった。
 ひと月後、最後の仕上げにかかった。
 休みの日、哲也は、腰道具一式をバッグに詰め、隣町に出かけた。部屋には念のため、社長宛に置き手紙を書き、身の回りの荷物を整理した。
 その町には、船が往来する大きな川が流れ、立派な橋がかかっていた。
 橋のたもとで夜になるのを待つ。雲間から覗く月が、うねりの波頭を照らしている。哲也は鳶装束に着替え、ずしりとする腰道具を身に着けた。呼吸を整える。視界が研ぎ澄まされてくる。耳元に野生の息吹が聞こえてきた。幅十五センチほどの欄干が、遠くから挑むように迫ってくる。
 車の往来が途絶え、辺りは静寂に包まれた。
 哲也は欄干に飛び乗った。立ち上がると闇の中に、あの時父が待っていた丸木橋が延びている。ただ無心に、一歩を踏み出した。

 
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