第1話 鳶の世界

文字数 8,022文字

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 突然、床をシャッターが突き上げる音で目を覚ました。
 哲也は慌ててわきの時計を見た。セットした六時にはまだ時間がある。
 下の資材置き場から、鉄がぶつかり合う物々しい音が聞こえてくる。緊張で寝不足気味の目をこすりながら、錆びの浮いたパイプベッドから起き出した。
 学園からお祝いで買ってもらった作業服で身を固めると、一階に駆け降りていった。
 階段を降りたところのわずかなスペースに、箸立てと醤油さしだけが置かれたテーブルがある。すでに、生卵と納豆、まだ湯気が残る味噌汁、そしてご飯がてんこ盛りのどんぶりが用意されていた。そのわきに、昼食の包みが置いてある。
 哲也は急いでかき込むと、母屋続きの事務所に出た。
 哲也は目を見張った。初めて見る荒々しい光景が目の前にあった。
 真新しい空色の作業服は哲也だけで、社長以下全員が、油や鉄さびが染み込んだ白い鳶装束で身を固めていた。鳶の上着は肩と腕が刺し子で補強されており、七分と呼ばれるズボンの裾は胴体が二つ入るほどに広い。哲也は面接で社長に言われたとおり、普通の作業服上下を用意した。
 足元を見ると、地下足袋や年季の入った革の安全靴の中で、小遣いをはたいて買ったスニーカータイプの安全靴が、気恥ずかしいように浮いていた。
 鳶が履く高所用安全靴は、地下足袋とまではいかないが、軽く屈曲性に優れている上につま先が金属で補強されている。価格が三倍もするので、最初は合成皮革の安全靴で十分だと、面接の時社長に言われた。
社長の鋭い目は、もう哲也の方は見ていなかった。それまで持っていた淡い夢や希望が全身の毛穴から蒸発し、代わりにふつふつと、何やら野性的な力が沸き立ってくるのを覚えた。これが、学園の先輩の杉本が棲んでいた世界なのだと、その時、納得した。
「おぉ、みんな、新入りだ。柿崎哲也くんだ。ガタイは一丁前だが、まだ中学出たばっかりだ。みんなめんどう見てやってくれ。健二、今日からお前の下につける。現場だけでなく、社会人の一歩から教えてやるんだぞ」
 社長が、ヘルメットから長髪がのぞく三十半ばに見える男に視線を移し、ドスの利いた声を張り上げた。
「うっす」
 健二が哲也をちらりと見ると、顎ひげを撫でた。
 哲也は、暗記していた挨拶の言葉は何も出てこなく、ただ「よろしくお願いします」と言って、ぺこりと頭を下げた。
「髪型だけは尾崎豊だな」と、誰かが茶化した。すぐに爆笑が起こった。「おーぅ、がんばれよ!」と、赤ら顔や髭面の先輩たちから声が上がった。恥ずかしさと緊張で紅潮した顔が、腹に響くような激励で一挙に引き締まった。
 わきにいた、社長より年かさに見える鳶が笑いながら、「この業界は、お辞儀も相手の目を見ながらするんだよ」と教えてくれた。哲也は、よくその意味がわからなかった。
 最後に社長から全員に、仕事の指示があった。
「須藤のグループは室蘭港のクレーン解体に出かけた。頭(かしら)のところは引き続きSデパートの本締め。健二の班は市立病院の病棟増設現場だ。病院は今日から鉄骨建方に入る。風が強いから十分気をつけるように。俺は打ち合わせで午前中はゼネコンの事務所だ。以上」
 この会社は、現場の親方を今でも「頭」と呼ぶようだ。どうやら、先ほど忠告してくれた鳶が頭で、建二はその次の立場にあるらしい。哲也はふと、どことなく風貌が似ている学園の杉本先輩のことを思い出した。
 総勢十二人の鳶が、本締めの五人と、健二の班の七人に別れた。本締めの鳶たちは、太い電気コードがついた、ナットを締め付けるためのゴツい工具を運び出していた。
 頭が、「頑張れよ!」と口元を緩め、哲也の肩をぽんと叩いた。全員がそれぞれ、事務所の奥の大きな神棚に一礼すると、慌しく外に出ていった。
 事務所の前の駐車場では、ルーフに長いアルミ梯子を括りつけた、装甲車のようなグレーのバンがすでに低いエンジン音を響かせていた。
 哲也は健二の指示に従い、資材庫から、先がヘラのようになった長い鉄の棒や、手に取ると体が傾くような大きなハンマー、それに油が滲み込んだ太いロープなど、どれも始めて手にする工具や資材をバンの後部に積み込み始めた。中でもボルトが入ったダンボール箱は、二人で運んでも、腕が抜けるようなずしりとした重さがあった。
 健二の班は二台のバンに分乗した。車内は鉄と油と荒々しい鳶たちの匂いでひしめき合っていた。運転席から建二がバックミラーを見ながら太い声を上げた。
「さあ、行くぞ! 工具は忘れても弁当だけは忘れんなよ」
 車内からカラカラと笑いが起こった。建二も後を振り返り、白い歯を見せた。
 様々な年齢の鳶たちは、晩酌やパチンコの話しに盛り上がっていたが、目は真っ直ぐ前を見据えている。これから取りかかろうとする仕事への意欲と緊張が伝わってくる。哲也も、杉本から聞いていた工事現場の様子を思い浮かべ、血が騒ぐのを覚えた。
 現場に着くと、緑十字の旗がひらめくプレハブの事務所があり、広大な敷地に赤茶色に塗装された巨大な鉄骨が何十本も並べられてあった。整地された地盤に、何本ものアンカーボルトがつき出た柱の基礎が碁盤の目のように広がっている。柱の基礎と基礎の間には、地中に打ち込まれたコンクリート布基礎から、田植えをしたように鉄筋が突き出ている。まるで障害物が仕込まれた戦場のようだ。
 哲也が、建二の指示を待っていると、全員が現場の大地に散らばった。何が始まるのかと目をきょろきょろさせていると、カセットデッキから懐かしい音楽が流れ、ラジオ体操が始まった。厳つい顔の鳶装束の男たちが真剣に体を回している姿を見ると、学園で一緒に飯を食った仲間たちを思い出した。やはり自分には鳶の世界が合っていたのだと思った。
 全員が、バンの車内から各々の腰道具を取り出した。皆の横顔にはすでに、体操のリラックス気分はない。ガチャガチャと音を立てながら、引き締まった腰にベルトが巻かれていく。一見、ガンベルトのようにも見えるが、構造がより複雑だ。ウエイトリフティングベルトのように腰をサポートする幅の広い胴当てと、工具類が下がる胴ベルトの二重構造になっている。ベルトにはガンホルダーの代わりにたくさんの金具がついており、様々な工具がずらりと並んでいる。それぞれの腰道具は皆同じようで、微妙に違う。工具を下げる位置、またその工具の大きさや光り具合が、その鳶の個性を表している。共通するのは、皆、落下時に命を守るためのランヤードを収納していることだ。
 哲也も、まだ工具は持てないが、真っ白なヘルメットと安全帯を支給された。正面に黒で鷲尾組とプリントされたヘルメットをもらった時は嬉しかった。頭部を守るということはまだピンとこなく、小学校の時に両親に捨てられた哲也は、これでやっと、自分も一家の一員になれたという安堵のほうが大きかった。
 安全帯は、ベルトと命綱、その命綱の先端に取り付けられている大きなフックが一体となっている。命綱とフックを合わせてランヤードともいう。先輩の鳶たちも同じようなものを下げているが、哲也には、社長が最新式のショックアブソーバー付きのものを用意してくれた。
 高所から落下した場合、命綱に全体重が瞬時にかかり、その衝撃で内臓が破壊されることもあるという。なんとも恐ろしい話しだが、確かに、川や海に投げ出されるのとはわけが違うことは想像できる。
 ショックアブソーバーはその衝撃を吸収してくれるということだ。哲也は、いずれにしてもこの細いロープ一本で宙吊りになる時は、死と紙一重の重大事だということだけは分かった。
 まだ高所作業は禁じられているが、この安全帯を腰に巻くと体幹が補強され、鉄とコンクリートのジャングルに立ち向かう力が湧いてくるのが不思議だった。
 完全装備が整った鳶は、腰に何丁もの拳銃を下げたガンマンのようにも見える。中でも目を引くのは、一方がメガネレンチで、すらりと伸びたもう一方の先端が鋭く尖った工具だった。長さは三十センチから五十センチほどもあり、使い込んだ鈍い光を放っている。これまで見たことがない、鳶職の象徴のようにも見える。
 健二が前に出て、仕事の段取りを説明した。何とか専門用語を理解しようと、哲也は現場に目を走らせながら耳を立てた。
「みんな、工具の手入れはしっかりやってるようだけど、一番肝心なランヤードは意外と気にしない。今日は俺が一人一人チェックさせてもらう」
 建二が、各々のランヤードを手にとって、チェックを始めた。
「みんな見てくれ、まっちゃんの命綱。ここまで綻びたら限界だ。命を守ると思って新しいのに交換してくれ。交換する時は、最近出回っているショックアブソーバー付きを勧める。新入りの哲也が着けているタイプだ。哲也、後から松本さんに見せてやってくれ」
 建二が哲也の安全帯を指差した。
「おっ、新入り、安全帯だけは一丁前だな」
 まっちゃんと呼ばれた肉付きのいい鳶が、前歯が欠けた口を大きく開けて笑った。全員がつられて笑った。哲也も、思わず頭をかきながら顔を綻ばせた。
 最後に健二は、「今日から新入りが現場に入る。皆も見習いだったころを思い出し、面倒みるように」と言ってくれた。
 いよいよ作業開始だ。哲也はバンの後部からボルトの箱を砂利の地盤に降ろし始めた。すぐに、朝礼とはまるで違う、健二の腹に響くような声が飛んできた。
「哲也、だめだ! そんなかっこじゃすぐ腰がやられる。脚を開いて膝曲げて、背筋を伸ばすんだ」
 確かに教えられたとおりにやると、腰の負担は軽くなった。代わりに大腿部の筋肉が悲鳴を上げた。これが体を作ることなんだと、社長の顔を思い出した。
 急に現場が騒々しくなった。コバルトブルーの大きなクレーン車が入ってきた。
 運転士が、健二と打ち合わせを終わらせると、現場のわきに陣取った。エンジン音が一段と大きくなる。アウトリガーと呼ばれるゴツイ鉄の腕が車両の四方から張り出していく。それぞれの先端から鉄の脚が垂直に地盤へと降り、大地をつかむ。さらに脚が伸びると、岩のようなタイヤが軽々と浮いた。まるで巨大な鉄の象が、鋼鉄でできた四本の足で大地に踏ん張っているように見える。
 車両がタイヤで支えられていた時よりも、遥かに安定性が増したようだ。全開のエンジン音に押し上げられるように、漆黒のブームが天空に延びていく。見上げるような高さで停止すると、先端からワイヤーにつながれた黄色いフックがするすると降りてきた。その真下では先輩たちが鉄骨に巻きつけたワイヤーをフックにかける作業に専念している。垂直に吊り上げられた鉄骨が空中を移動し、柱の基礎の上でぴたりと止まる。鉄骨の先端には、ベースプレートと呼ばれる八本のボルトの孔がある分厚い鉄板が溶接されている。先輩は運転士に手で下降の合図を送りながら、その孔をすでに基礎から立ち上がっている八本のアンカーボルトに落とし込む。わずかなズレがあっても、ボルトは孔に入らない。親指の三倍ほどの太さがあるアンカーボルトは、鉄骨の倒壊を防ぐ極めて重要な役割を果たす。ベースプレートの孔をすべてのアンカーボルトが貫通すると、朝、目が引きつけられた工具を使い、すばやくナットで締め付ける。それがシノつきメガネレンチと呼ばれることを、その時覚えた。
 10メートルを超える柱がすべて建ち上がると、二階の床となる中間の高さに、クレーンで吊られた梁と呼ばれる横柱が組み込まれる。梁の両端にはスタンションと呼ばれる支柱が取り付けられ、落下防止の親綱が張られる。先輩たちはその親綱に命綱のフックを掛け、梁の上をまるで歩道を歩くように往来する。すでに屋上部分の梁が渡された箇所もあり、鉄骨の上で七分の裾が風でばたついている。哲也は先輩たちを見上げながら、追いかけられるように資材や工具の運搬に走り回っていた。その時だった。
「伏せろ!」という健二の声が飛んできた。ハッとして前を見る。鉄骨が眼前に迫ってきた。とっさに伏せる。鉄骨の先端が、脳髄に響くような音を残し、ヘルメットをかすっていった。
 一瞬遅れていたら――考えただけでもゾッとした。「挨拶をする時も目を離してはだめだ」と言った頭の言葉の意味が、その時わかった。
 丸一日ほどに感じる半日が終わり、昼食時となった。鉄骨がそびえるだけの現場には、皆が身を寄せる場所はない。鳶は車内で食べるらしく、健二が、皆の分お茶を買ってくると、車に乗り込もうとしていた時だった。組の監督から、「事務所を使ってもいいよ」と声がかかった。
 現場の雑用を請け負う土工のグループも、長靴の泥を払いプレハブの中に入っていった。中は結構広く、隅に監督の仕事机と、その上に立派なパソコンが置いてあった。画面には建築図面が映し出されている。「今はCAD(キャド)といって、コンピューターで図面を描くんだ」と言っていた杉本の言葉を思い出した。
 奥に八畳ほどの畳が敷かれており、座卓テーブルが二つあった。
 土工の中に、生きていれば母親ぐらいの女性が一人いた。年配の土工たちが、にやにやしながら、何か卑猥な言葉を投げかけている。哲也は、母も同じような境遇にいるのだろうかと、やり場のない胸苦しさを覚えた。
 女性が、恥ずかしそうな素振りで鳶の分もお茶を淹れてくれ、皆、弁当を広げた。
 哲也は、腹が減りすぎて震える手で、おにぎりをつかんだ。慌てて唇を噛む痛みも忘れ、夢中でほおばった。ふと、父が休みの日、母が作ったおにぎりを家族四人で食べた昼食を思い出し、突き上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
「どれ、畳の上で飯を食った時ぐらい、横にならせてもらおうか」
 白髪交じりの鳶が、弁当箱を枕に、壁際で体を伸ばした。
「新入り、そのショックなんだかっていうやつ、見せてみな」
 松本さんが、爪楊枝を使いながら哲也に話しかけてきた。哲也は自分の安全帯を持ってきて、それを見せた。
「ほおぉ、ここが衝撃を吸収してくれるわけだ」
 松本さんが、腰ベルトに結合されている、命綱の付け根の部分を興味深そうに手に取った。それは緩衝ベルトと呼ばれ、ベルトが何枚にも折り重なり太い糸で縫い付けられている。どうやら、落下時の衝撃が、この縫い込みが切れることにより吸収されるようだ。
 松本さんが、これは最後のお守りだからなと笑みを見せ、返してくれた。命綱は、神が見放した時の、クモの糸なのかもしれない。
 作業服が重くなるほど流した汗は、陽が落ちるころは塩の結晶となり、腕や大腿部がザラザラとしていた。鳶たちは、オレンジ色の光の中で、ただ無心に働き続けていた。
 手元が暗くなるころ、まばらに設置された現場の投光器に灯が入った。だが、地盤から突き出る鉄筋や足をとられる窪みまで照らし出すことはできない。間もなく、「そろそろ上りだー」と言う健二の声が響き渡った。哲也には、神の声にも聞こえた。屋根の無い職場の終業時刻は、太陽の角度が示すのだと、この時わかった。
 帰りの車内、皆一様に疲れの色を見せているが、精悍な顔に陰りはない。鳶たちの目には、一つの事をやり遂げたという安堵感が漂っている。哲也も、全身がばらばらになるほどのダメージを受けていたが、不思議と徒労感はなかった。ただ、一日をやり遂げたという達成感だけが脳裏を占めていた。
 事務所に戻り、資材庫に工具を運んでいた時だった。頭が、肩にぽんと手を置き、話しかけてきた。
「おお、初日を乗り越えたな。その顔なら明日も大丈夫だ。辞めていく人間は、一日目で顔に書いてあるもんだ。もうやってられねぇーって。そのぐらいにして事務所に上がりな。歓迎会の準備が整っているはずだ」
 頭が、目尻に穏やかなしわを刻んだ。
 すべては初めてのことばかりで、仕事は何一つすんなりいったものはなかった。ボルト一本届けるにも、サイズが飲み込めず、何回も現場を往復した。たった一日で、一か月分の経験をしたような気がした。だが哲也は嬉しかった。杉本もたどったはずの最初の一日を、自分も無事にやり遂げたことが。
 事務所に行くと、寄せ集められたテーブルの真ん中に一升瓶とウーロン茶のボトルが立てられており、裂きイカやサラミの皿が並んでいた。なぜか一人分だけ、ふりかけをまぶした大きなおにぎりが二つ添えられている。

 社長が笑顔で迎えてくれた。

「ああ、ご苦労さん。今日、危なかったんだってな。良かった、初日が無事に終わって。今日はささやかだが、柿崎君の歓迎会だ。おにぎりのところがあんたの席だ」
 哲也は、急に溢れてきた唾をごくりと飲んだ。
 社長が、事務所に集まってきた鳶たちに声をかけた。
「おお、都合のつく人は新入りを歓迎してやってくれ。須藤のグループもそろそろ帰ってくるころだ。ただし、酒を飲んだら運転だけはしないように」
 朝の顔ぶれが、そのまま席に着いた。社長の奥さんが、大きな皿にキツネ色に揚がったトンカツをたくさん載せ、母屋から出てきた。鳶たちからオオッという声が上がり、場は一挙に盛り上がった。
「ご苦労さん! 大変だったっしょ」
 奥さんが、トンカツを二つ小皿に取り分けてくれ、哲也に笑顔を向けた。
「おふくろが言うには、女房が一時間おきに神棚に手を合わせていたようだ」
 哲也は、社長夫婦の優しさに返す言葉も見つからず、ただうなずいていた。
 鳶たちは、最初は哲也に鳶の仕事について色々話してくれたが、皆の顔に赤みが差してくるころになると、それぞれの現場の話や、昔手がけた仕事の思い出に花を咲かせていた。
 哲也は、疲れで棒のようになった手で、こんがりと色づいたトンカツに箸を伸ばした。噛み締めると、肉の甘味が口中に広がり、自然と顔が綻ぶのがわかった。こんなに美味しいものは、思い出したくはないが、あの時母が食べさせてくれたジンギスカン以来だった。大きなおにぎりの中には醤油が染みた鰹節(かつおぶし)が入っており、学園のおばちゃんが作ってくれた朝食を思い出した。
 二つ目を箸にはさみ、今にもかぶりつこうとした時だった。するりと箸を抜けたトンカツが、床に小さな音を立てた。誰も気づく人はいなく、談笑が続いている。哲也は上体を反らしながら、そろそろと手を伸ばし、まだ温かい肉の塊を取り上げた。ちらりと足元に目を落とすと、埃の床が油で光っている。それを靴で隠し、大急ぎでトンカツをほおばった。土埃が混じる違和感も、肉汁の味が消し去った。不思議だった。それが不潔なことだとはまったく感じない。人間、限界ギリギリになると、少しぐらいの汚れは気にならなくなることが分かった。哲也は、たった一日の現場労働で、逞しく生まれ変わったような気がした。
 鳶たちが、「頑張れよ!」と哲也の肩をたたき、一人、二人と帰って行った。
 奥さんが後片付けを始め、社長が腰を上げた。
「コンビニの裏に銭湯がある。九時には閉まる。家の風呂に入ってもいいが、九時過ぎにしてくれるか」
 九時までは、まだ一時間ほどあった。
「俺、銭湯に行ってきます」 
 哲也は、家族のお風呂に入ることには抵抗を感じた。頭のてっぺんから足先まで、汗と埃にまみれていた。ただ、社長のありがたい言葉が、身に染みた。
 銭湯には、日焼けの跡がくっきりと浮かぶ労働者風の男たちも入っていた。彼らは皆、常連のようだった。底のタイルが薄っすらとしか見えない湯に一緒に浸かっていると、自分もやっと大人たちの仲間入りができたような気がした。
 その夜、昨晩はなかなか馴染めなかった真っさらな布団に包まった。寝具だけは給料から分割天引きするということで、新品の敷布団、掛け布団、枕が用意された。社会人となった哲也が、初めて購入した家財道具だった。目を閉じると、辛かった少年のころが、今は懐かしく思い出された。

 
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