第八章 女の勝利

文字数 7,338文字

第八章 女の勝利

麗子の下に両親から手紙がやってきた。新しい学校の候補をいくつか調べてきたので、自分に合ったものを選んで決めなさいというものであった。いくつかの支援学校の案内書が同封されていた。懍は、学校を調べてくることはするが、最終決定権は娘の麗子が持ってよいとしているなんて、なんて寛大な両親だろうと感心して、親御さんに感謝しろと言っていた。まあ、感謝という感情はなかなか持てないものではあるが、とりあえず、あのうるさい中村先生からは逃げることができるので、素直にうれしいと思った。

支援学校は富士市内にもいくつかあったが、麗子は富士市内の学校には行く気になれなかった。もしかしたら、通学している道中で中村先生に遭遇してしまうかもしれないからだった。しかし、彼女の両親は通学時間が長すぎるのは、ちょっとまずいのではないかと言って反対した。まあ、それは確かに一理あった。富士駅は一時間に電車が三本程度しかない田舎駅で、一本逃したら授業に大遅刻、ということになってしまい、単位を落とす可能性があるからだ。それに、「痛勤電車」と言われる電車にのって通学するのは、それだけでも大変な疲労をもたらすのだった。

「もしよろしければ、オープンキャンパスに行ってみてはどうですか。」

ある時、夕食を食べながら、懍がそういった。確かに、秋は様々な学校でオープンキャンパスが開かれる季節でもある。

「ちょうど、近くに松田高校が立ってますよ。」

松田高校は、富士市内の最北端にある支援学校の一つであるが、麗子たちにとっては馬鹿にしろと言われてきた高校の一つだった。よく授業中にあそこへ行っている人は皆頭の悪い人たちだから、徹底的に見下してしまえ、人間として見る必要はない、なんて中村先生はよく言っていたことを思い出す。以前、同級生がバスの中などで松田高校の生徒と遭遇して、こっそりすりをするなど嫌がらせなどをしていたという事件もあったらしいが、中村先生はそれを正当な行為として認めている。そして、その被害にあったものに憐れみをもつ必要もないとか、そういう事を勝ち誇った顔で言っていたことも多かった。

なので、自分がそういう被害を被りたくなかったから、あそこは入りたくないなというのが、麗子の正直な気持ちだ。何せ、頭が悪いものが行くところ、貧乏人が行くところ、精神的なレベルの低い人が行くところ、お前たちはそこよりももっといい教育を受けさせてもらっているのだから、感謝して勉強を続けるようにとさんざん言われてしまったら、自動的にそういう人の様に見えてしまう。特に若い女性というものはそうなりやすい。

「行ってみたらどうですか。きっとあそこは価値観が変わるほどすごいと言われていますよ。それに、松田高校を馬鹿な人が行く学校と考えるようなら、麗子さんはまだ洗脳から解き放たれていませんね。」

麗子が返事を渋っていると、懍はさらに付け加えた。

「どこにあるんですか?私、日本の学校ってどうなっているのか見てみたい。」

麗子の代わりに答えたのはカレンだ。この発言に麗子のほうがびっくりした。

「やめたほうがいいよ、カレンちゃんが日本の学校へ行ったら、あまりの粗末な教育にショックを受けて、卒倒するかもよ。」

お茶を運んできた調理係のおばさんが、心配そうに言った。

「それに、カレンさんは義務教育すら卒業していないのですから、高校というところは入らせてもらえないのではないですか。」

水穂もそれに同意した。日本では義務教育なんて当たり前のように受けられるし、卒業も当たり前のようにできるのであるが、中東では義務教育があっても、受けられるのは高嶺の花であることが多いのである。仮に学校へ行けたとしても、授業料が払えなくなって退学してしまうとか、民族的な内容と合致しないで退学してしまうということもよくある。特に女性であればその傾向は強く、学校をやめて、家を養うために売春婦になってしまうというケースは非常に多いのである。そういうわけで中東では識字率がとても低い。事実カレンも、ペルシャ語を読み書きすることは可能であるが、計算などはあまりよくわかっていないようだ。

「いや、いいんじゃないですか。二人そろって行ってきなさい。彼女のような人が学校に現れたら、在籍している生徒たちもいい刺激になると思いますよ。」

水穂たちの心配をよそに、懍はそういった。

「でも先生、門前払いになったら。」

調理係のおばさんが言うが、

「多分、それはなりません。ああいうところであれば。もし、文句が出たら、掲げている教育方針に反すると僕が言っておきます。」

懍は平気な顔をして、むしろ、彼女たちが学校へ行くのを喜んでいるように言った。水穂も、調理係のおばさんも、心配そうな顔をして、互いにため息をついた。



当日。麗子とカレンは二人そろってバスに乗り、松田高校のオープンキャンパスへ参加することになった。麗子は、前の学校の制服を着るのは嫌だったが、松田高校へ問い合わせると、その必要は全くないという事なので二人とも私服で行く事にした。

学校というより、本当に小さなビルといった感じの場所だった。グラウンドも体育館も何もない。なんとも、教室が三つしかないので、生徒は全員同時に登校することはなく、希望する授業のときだけしか来ないというのが驚きだ。それに来ている生徒の年齢だって、高校生とはありえない年の人ばかり。もしかして子持ちのお母さんではないかと思われる人もいるし、麗子にとっては祖母と同じくらいの高齢者までざらにいた。中年男性の校長先生が麗子たちの相手をしてくれたが、麗子が在籍していた高校にいた先生にある暴力的な表情は少しも見られない。終始穏やかな表情で、学校の説明などをしてくれて、世の中にはこういう校長先生もいるものかと驚く参加者もいる。何よりも、国公立大学を神格化していないのが、麗子にはものすごくありがたかった。教師も高齢の先生ばかりだが、大声を出して怒鳴る教師はおらず、そのほうがより効率的に学べる気がした。

そのまま麗子は、校長先生たちと個別に面談することになった。一方のカレンは、義務教育を修了していなかったために入学資格を有していないことになるが、彼女が日本の学校に興味があると話すと、授業だけでも見学していったらと校長先生が提案してくれたため、廊下から教室内をのぞかせてもらうことが許可された。カレンは、丁重にお礼を言って、廊下へ歩いて行った。

廊下ではほかにも見学者がいた。まあ、こういうところだから、授業を見学しに誰かがやってくることは、珍しいことではない。しかし、そこにいた女性は、入学を希望している生徒でもなければ、その保護者でもなさそうだ。その証拠に、他の参加者に見られるうれしそうな表情でもなく、何かふてぶてしく、嫌そうな顔をしている。

「あら、海外から入学を希望される方もいるの?」

その人は、カレンを見てちょっと軽蔑したように言った。

「私には無理だけど、せめてどんな授業をしているのか、気になっただけよ。」

カレンが、正直に答えると、その人はおかしな人だという顔をする。

「無理、とは?」

「仕方ないでしょ。私、中学校を卒業できなかったの。私より前に、中学校を出て行った人は多かったから、なんとも思わなかったけど。私のところでは、女の子で中学校まで行けたのは、半分もいなかったんじゃないかしら。そもそも、女は学校自体行かなくてもいいと考える人もいるしね。」

「へえ、本当に遅れているところから来るものね。日本も優しすぎて困るところだわ。なんで、そういう人には手厚い保護をして、日本の学生は放置したままなのかしら。そうやって甘やかすから、日本の学生が負けるのよ!」

「何に負けるの?勝ちも負けも関係なく、字が読めるようにしてくれるところなんじゃないの、学校って。ちなみに、私が住んでいた村では、文字が書ける人より書けない人のほうがずっと多いから、学校へ行けるとなれば大喜びだったけど?」

「じゃあきっと、生徒が思うように動かないなんてことはまるでないわよね。みんな、目を輝かせて学んでいるんでしょうね。」

「そうかもしれないわね。もっとも、私はやめたから、そのあとは知らないけど。」

「日本では、みんな勉強する意欲がないから、がっかりしたでしょ。」

「そうかしら、私の周りにはそういう人はいないと思うわ。私から見れば、どこの国でも読み書きを習えることはうれしいと思うわよ。それに勝ち負けを付けたり、カーストにしてしまう事のほうがおかしいと思うけど?」

「日本ではそういう事をしないと、やっていけないわよ。もう、おかしなところで権利を主張するようになっているから。みんな甘やかされて育ってきてるから、そういうところから始めないといけないの。」

「先生が、従わせようとしているから悪いのよ。そうじゃなくて、勉強ができてうれしいという事を感じさせることから始めたら?現に、私が学校へ行って一番よかったと思ったことは、アヴェスターを声に出して読むことができるようになったことかな。」

相手の女性は、面食らった顔をしたが、カレンにしてみれば、学校へ行って一番の収穫はこれであった。

「そうすれば、アヴェスターの内容をいつまでも覚えていられるの。ノートにアヴェスターを書き写すことができたら、いつでもそれをもち歩いて、好きな時に読み返せる。それができるようになったなんて、感激そのものだったわ。私たちは、何をやってもほとんどが中央政権にとられちゃうから。だったら、アヴェスターを守ることだけに集中していればそれでいいわ。」

美子は、この女性が、どこの国の人なのか全くわからなかったが、話している内容から判断すると、相当貧しい国家からやってきたのだということはわかった。

「まあ、途上国においてはそうでしょうね。でも、私たちは、もうそういうことはとっくに過ぎてしまっていて、そういう事は、何も喜ばしいことでも何もないのよね。それをさせても誰も喜びはしないわよ。それよりも、他人よりも上の大学へ行かせて自信をつけさせることが一番の教育だと教えて混んでいかないと、この先を形作る、若い人たちはどうなるの。それを考えているだから、今の日本の教育は、間違ってないと思っていたのに。それが、こんな掃きだめみたいなところを見学に行ってこいなんて、何を考えているのかしらね。校長は。」

「簡単なことよ。そういう事が間違いだと伝えるためでしょ。どれだけ上の学校へ行ったかを指導するなんて、ただ、学校の名をあげたいだけじゃないの。」

途上国の人間にこんな事を言われると、美子は腹が立つ。なんで、そんな馬鹿な話をするんだろう?文化的にも精神的にも劣っているところから来た女性に、説教されるなんて、本当に侮辱された気分である。

「じゃあ、あなたは、これからの若い人は、どうなっていくと思う?」

美子は、確認というか、半分からかいの気持ちで聞いてみる。

「簡単なことよ。ご飯を食べて、掃除して、洗濯をして暮らしていくでしょ。いつでもどこでも誰であっても。」

さらりと返ってきた。そんなことでやっていけるはずはないと、言い返してやろうと思ったその時、

「でも、それだって渡りバッタがやってくれば、あっという間にできなくなるんだから、そのために何とかするのが一番なんじゃないかな。いくら上の大学へ行ったとしても、渡りバッタに食料を食べられたら何もできやしないわ。それをどうやって対処していくかを考えられる人が勝ちよね。少なくとも、上の大学へ行って、渡りバッタを壊滅させる方法を教えてもらえるのなら喜んで進学するでしょうけど、そのようなところはどこにもないでしょ。」

といった。

「くだらない受験勉強している暇があったら、渡りバッタを一匹でも減らす方法を考えたほうが早いわ。」

この一言で、自分の負けだと美子は思った。

一方、麗子は、優しそうな校長先生と面談していた。どうしてもこれだけは聞いておきたいが、これを言うとまた馬鹿にされたらどうしようという不安が先に来てしまい、言いだした苦ても言いだせずにもじもじしていた。

「何か、聞きたいことでもあるのですかな。」

校長先生が優しく聞いてくれた。早くしないとタイムリミットが来てしまうと思った麗子は、しどろもどろではありながら、

「す、すみません!どうしても聞きたいんですけど、ここでは、音楽学校に行く人は、いじめが出るんですか!」

と、聞いてみた。聞いてしばらくは、顔をあげて校長先生を見ることができないほど怖かった。

「しませんよ。」

優しい一言。

「例えば、音楽学校を目指す人は、親殺しなんですか!」

「いいえ、希望する進路を実現してくれたほうが、ご両親も喜ばれるよ。無理して、親を援助するとかそういう態度をとるのではなく、自分の好きな音楽を、思いっきり勉強してくれたほうが、ご両親も安心するものだからね。」

「そうなんですか。あたしたちは、親に感謝して、親が喜ぶ介護とか福祉を勉強するのが、一番正しい生き方ではないのですか?」

「音楽だって、使いみちを考えれば、そうなるよ。例えば、近年では、ピアノを勉強して生きがいを作りたくなるお年寄りも多いでしょう。それをするには指導者が必要で、その指導者だって、永続的に生きるわけではないのだから、若い指導者が必要になると思う。その養成をする音楽学校に行くのは、何も悪いことではないし、犯罪とは思わないけどな。」

校長先生はにこにこしたまま、そう言ってくれた。全く悪びれもなく、当たり前というようにいう。

「じゃあ、あたしたちはどうしたら、」

「いいじゃないですか。そのまま音楽の勉強を続けてください。ただ、音楽の専門的な先生が在籍しているわけではないですので、そういうことは、音大受験の支援組織に頼んだほうがいいのではないかな。そこはちょっとごめんね。」

そんな、ごめんねなんて。もともと音大受験者は、ただでさえ非国民扱いされ、四面楚歌となる確率が高い地域なのに。こんなに優遇してくれるとは、、、。

「もし、練習やレッスンで毎日登校するのは難しいようであれば、週に一回とか、自宅学習をメインとして、月に一度か二度投稿するだけという制度もあるよ。それか、学校自体へいくのではなく、教師が勉強できる時間にお宅へ伺うという制度を利用してもいい。もし、親御さんが来てくれるのなら、そのあたりしっかり話しあいたいね。ちょっと変な高校なのかもしれないが、こういうところもあるんだよという事を頭に入れてほしいな。」

校長先生は謙虚にそう言っている。そのような生活をさせてくれる高校なんて、存在すら知らなかったから、麗子には驚くことばっかりだ。でも、こういうところでなければ、音楽の勉強をすることも難しいだろうなと麗子は思った。あえて敵ばかりの高校では、自分の場所はなくなってしまうというか、余分なことをしすぎて、エネルギーを浪費してしまう。そんな事をしても意味がない。だったら、こういう工夫をしてくれる高校のほうがよほどいいと思う。

よし。ここにしよう。

よろしくお願いします。校長先生。

そう思いながら、麗子は自身も勝利したんだと確信した。

「ありがとうございます。両親にも報告して、そのうえで考えてみます。でも、こんなに優しい人がいるなんて正直驚いてます。私が、前にいた高校とは全然違う。見習ってほしいくらいですよ。」

「そうなんだよね。本当はぜひ、そうなってもらいたいものだけどね。今の日本では、高校を教育機関ではなく、働く場だと思い込んでしまっている先生が多すぎるくらい多いということだねえ。」

校長先生は、笑ってそういった。

「そうならないように、先生も努力をしなければね。それだけは、いつも考えて学校をやっていこうと思っているよ。」

「ありがとうございます。また、考えてみます。」

麗子は立ち上がって、にこやかにしている校長先生に敬礼して、静かに面接室を後にした。

部屋から出ると、カレンが待っていた。

「おかえり。お疲れ様。面接はどうだった?」

「ええ、なんか、こういう先生もいるのかなって、不思議だったけど、安心したわ。ここだったら、先生と戦う必要もなく、音楽学校へ行けるかも。」

「本当は、好きな勉強を飽きるまで何でもやらせてくれるのが、教育というものよね。私たちからしてみたら、それ以上の幸せはないわよ。だってその前にご飯にありつくのにも苦労をするんだもの。でも、一緒に教室を覗いていたおばさんが、他人より上の学校へ行って自信をつけさせるのが本当の幸せだっていうから、私、言ってあげたの。渡りバッタがやってきたら、いくら上の大学へ行っても、何もできないって。」

麗子はそのおばさんがどんな人なのか知りたかったが、カレンは話したくないようだった。

でも、確かに、彼女の言う通り、どんなに偉い大学へ行っても、本当に望まれているものとはかけ離れていたら全く役には立たないなと思った。

「幸い、日本で渡りバッタの被害は何もないようだし、食品は確実に得られるようにできているし、そこはペルシャに比べると、はるかにすごいところなんだから、みんな幸せな顔してていいはずなのに、麗子さんみたいな辛そうな人がいるのはなぜかなあと、私、わからなかった。私たちから見れば、さんざん苦労していることが、みんな簡単にできてしまうところだからこそ、幸せに生活してもらいたいわね。ムスリムであれば、そうなると殺してしまえと考えるようだけど、私はそうは思わないな。」

「ありがとう。」

麗子も素直に彼女の要求を受けとった。

「帰ろうか。」

二人はにこやかに新しい学校を後にした。
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